思考の変化

この世界は偶然に何の意味もなく存在しているのか、それとも意思あるものによって創られているのか。

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1、自分の考えや思いでなく、確率に目を向けて論理的に考える。

テレビや車は、法則によって作られています。
適当にこどもが、鉄や回路を組み立てれば、テレビや車ができると考える人はいませんね。
テレビや車でさえ、そうなら、どうしてこの世界が偶然にできていると信じるのでしょうか。

ジグソーパズルが、偶然勝手に、作られると考える人はいませんね。

その確率よりも、何倍も何十倍も、何百倍も、ありえない偶然によって地球ができていると、どうして信じることができるのでしょうか。

わたしは、テレビや車は、人間の手によって計算されたうえで、作られていると信じています。

そして、そのテレビや車よりも複雑なこの世界は、当然、全知全能の神の意思によって限りない計算の元で創られていると信じているのですね。

人間は、ロボットを造ろうとしています。そのロボットの題材として、虫や人間や動物があげられます。一番単純な行動をする虫をまずは人間は造ろうとしたのですが、ことのほか、虫という小さな生き物は、高性能だということが解ってきたのです。

人間には、虫は造れないほど、虫という小さな生き物は、優れているのです。

車が偶然、勝手に存在していると考える人はいないと思いますが、その車は人間は造れます。
ですが、虫は人間は造れないのです。

では、どうして、車よりも複雑な虫や動物や人間が、偶然存在していると信じることができるのでしょうか。

2、自分の宗教(今まで教えられた常識)を疑う。

全知全能の神様がこの世界を創ったと考えるほうが信じられないと思っているその脳の情報は、どこから来ているのか考えて、自分を疑わなければいけないのですね。

自分の考えだけが正しいと考えているひとは、どれだけ正しい現実を話しても、それを受け止めようとはしません。

自分の考えや自分の思いをかたくなに守ろうと必死になるのです。

目の前に崖があるよ!と教えても、絶対に信じないと目の前が崖でも歩いていく人のようです。

3、人間からみたら神様のすることは不思議に映ります。では、小さな世界のものが人間をみたらどう思うのでしょうか。

わたしたち人間が、泥団子をつくり砂の上にその泥団子を置いたとしましょう。

それは人間からみれば、不思議なことではありませんが、ミクロの世界の生き物からみたら、急に目の前に月が現れたようにみえるのです。

蟻などが泥団子を造ろうと思えば、とても大変なのに、それをほとんど一瞬で作る人間は、まるで全知全能の神のようなにみえます。

その泥団子を人間が、すこし移動させたとしましょう。

ミクロの世界の生き物からみれば、人間の数十センチの距離は、とほうもない距離なのです。その途方もない距離を巨大な泥団子が移動したようにみえるのですね。

このように、人間のやっていることは、蟻などからみれば、ありえないことなのです。

であるのなら、神様のやっていることは、人間にとってありえないように見えてしまうのですが、この世界そのものの全知全能の神様からすれば、とても当たり前であって、人間は小さいからありえない出来事だと錯覚しているだけにすぎないのですね。

4、人間と神様との距離と人間と蟻の距離は、どっちが差がある?

人間と蟻の乖離した距離と人間と神様の乖離した距離は、どちらが違うと思うでしょうか。

普通に考えれば、神様と人間との乖離した能力のほうが離れていると思いませんか。

神様が人間を土から作られ、はじめの人アダムを造りました。

人間は、筋肉マン消しゴムをゴムという土で作りました。その事実があって、神様が人間を作ったことは信じられないと思うのは、早計なのですね。

神様を信じない人の神様のイメージは、小さすぎるのです。人間のような神様をイメージして、人間の不平不満を基準にして、神様を測っているのですが、神様を信じている人たちの神様のイメージは、人間のそれを超えているのです。

そして、現実の世界に起こっている現象を目の当たりにして、見ているからこそ、人間の力を超えていることを”信じるのではなく、認めざるおえないのです。”

無神論のひとたちの論理的な考えは、まったく論理的ではなく、目がみえているのに、目の前の現象をみることができないようになっているのですね。

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