歴史

アダムとエバからはじまった世界の家族

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1、性善説なのか、性悪説なのか。

エバに近づいた蛇は、中央の木の実を食べるようにエバに話しかけたのです。そして、その木の実を食べると神様のようになると誘惑しながら、触っても死なないと言ったのです。

エバは、その木の実を触ったのですが、たしかに死ななかったのです。

そして、エバはその木の実を食べてしまいました。するとエバは大丈夫だと気づいてアダムにも同じように食べるように促したのです。

アダムも木の実を食べてふたりは、目が開かれました。

今まで、ふたりは、善の知識。善のプログラミングしかなかったのに、神様の教えを破るという悪のプログラミングが入り込み、以前の善の存在ではないものへと死んでしまったのです。

そこから人は、善だけではなく、悪が存在する世界を作り出し始めてしまったのです。

ですからその後のわたしたち人間は、性善説でもなければ、性悪説でもないのです。
その両方を兼ね備えた存在であり、そして元々は、悪をまったく知らない存在だったのですね。
パソコンに何もプログラミングしなければパソコンは動かないようにです。

神様は、ふたりが悪のプログラミングを自由意志によって選び取ってしまったことを知って、エデンから追放しました。そのまま天国のような世界で暮らしては、人間は滅んでしまうからです。

そして、体の命にも寿命を与え、永遠の命が手に入る命の木も人間の手に触れられない場所へと移動させられたのです。

2、エデンの園の話は、無限のループ。

このエデンの園の話は、聖書を知らないひとでも知っている有名な話ですが、その中身は、果てしない宇宙を語るような壮大な内容で、考えれば考えるほど、無限のループが未来・過去・現在と折り重なり、頭が混乱してしまうように感じられます。

これを単純な話のように思う人もいるかもしれませんが、ものすごく奥が深い話なのですね。

わたしたちが今なぜ生きて、世界に悪がなぜ存在し、なぜそれら悪があることを神様は許可されているのか、さまざまな難題を解き明かすために必要な話なのです。

そして、悪を取り入れた人間に、救いがあるのか。それともそのまま滅んで、悪が満ちてしまうのか。それが問われている箇所でもあるのです。

この話は、無限だとわたしは思うほどです。

ですから、この話を本当に理解してしまえば、有限であるわたしたちの脳は、破裂してしまうのではないでしょうか。

たった3章だけの短い話なのに、その奥義は、計り知れないのです。
これは、人間が書けるものではありません。

なぜなら、人間は未来をみることができないからです。

3、何千年も変わらない聖書なのに、現実と一致している。

聖書は少なくとも2000年前から変わっていません。

2000年前から変わらない書物が、今でも通用する内容だということは、聖書を書いた人物は、未来がみえていたという証拠です。

教義や原理原則を語るだけなら2000年前から続いていても、それは残るものですが、原理原則ではない細かい現実を2000年前から変わらず書かれている聖書は、驚異的すぎるのです。

現代ならインターネットなどによって世界中と情報をやり取りできますが、3500年前に、人間が世界中の情報を手に入れられるはずもありません。

聖書だけではありません。世界中の伝説の内容と聖書はまたリンクしているのです。

それは聖書の正しさを証明する1つですね。

聖書は、アダムとエバから家族が広がったと書かれているので、その家族からの情報が世界中に広がっていなければ、聖書が間違いだということになるからです。

前回でも書いたように、人間は、親からもらった情報や関わった人たちや周囲の環境の情報を得て、はじめて考えることができるようになるのですから、世界中に共通点がなければ、聖書は間違いだということになるのです。

4、世界は、共通点で広がっている。

そして、世界中には、共通点がありすぎるほど、あるのです。

神様が人間に言葉を教えるという話は、聖書だけではなく、世界中の伝説に書かれていることです。

太陽にしても、創世記では太陽が月日や歳月の記しになると書かれています。世界中の文化は、太陽暦や月暦を目安にしています。



蛇にしても、世界中の民族や文化が共通している認識です。

例えば、タトゥーなどに、ドラゴンや蛇などのようなうろこが描かれたようなものがあり、土器なども蛇柄のものを採用していたりします。

数えればきりがないほど、数多くの共通点があり、それを明確に3500年も前から書かれている聖書が驚異的だということは誰にでも理解できる事実ですね。

 

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