イエスキリスト

イエスキリストの人生

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イエスキリストとは、一体どのような存在なのでしょうか。

いつの時代に、何をして、何を教え、どうして世界中、何十億人ものひとたちがイエスキリストを信じて崇めているのでしょうか。

まず、イエスキリストを説明することは、とても難しいことです。

なぜなら、イエスキリストを説明するには、イエスキリストが生まれる前から存在していた、ユダヤ教という教えが関係しているからです。このユダヤ教のつながりがあって、はじめてイエスキリストが偉大だと分かるからなのです。

わたしひとりの人生だけを語るのであれば、それはなんとか説明できるかもしれませんが、わたしが存在しているということは、親がいて、その親にも親がいて、続いている歴史があるのです。そこには膨大な量の情報があることが想像できます。

ひとりの人間を説明するだけでも大変なのです。そして、イエスキリストがどうして偉大だといわれているのか、それはイエスキリストが生まれる前から存在していた聖書に、イエスキリストがすでに書かれていたからなのです。

旧約聖書の中に、イエスキリストがいるということです。

聖書とは、この世界のはじめから、終わりまで、ほとんど無限といわれるものを有限の本に書き記された不思議な書物です。

そして、その聖書とイエスキリストとはイコールであるともいえるので、イエスキリスを説明することは、無限を説明するようなものなのですね。

一言でいうなら神様です。

全知全能の神様の三位一体のひとつの形であるのが、イエスキリストなのですね。

宇宙をも含め、世界の原理原則、自然の法則の上にいて、それらを創り出し、固定させた存在そのものなのです。

とはいえ、聖書を信じていない人からすれば、一体何のことをいっているのか理解できないのが普通です。なぜなら、学校では教えてくれないことだからです。

ですが、それでもイエスキリストを知りたいという方のために、なるべく解りやすく説明していこうと思いますが、なにしろ無限を説明するわけですから、とてつもなく複雑難解なものです。わたし自身、有限の存在ですから、そもそも無限は説明できないのですが、そこを無理やり説明していくことになるので、あなたの理解力と神様の導きがありますようにと祈るばかりです。

今回のテーマは

イエスキリストの人生

 

1、イエスキリストは人知れず、馬宿で生まれた。

イエスキリストが生まれたのは、2000年前の12月25日だろうと思うかもしれませんが、実際にイエスキリストが生まれたのは、9月頃だといわれています。イエスキリストの誕生に立ち会ったのは、羊飼いでした。天の使いが羊飼いの前に現れて、放牧していた羊飼いに生まれることを伝えたのです。12月といえばイスラエルでは、寒すぎて放牧などしないので9月、遅くても10月頃ではないかと考えられているのです。

ヨセフとマリアは、ダビデ王の血筋の末裔で、2つのダビデの家系の夫婦から生まれました。王族であるユダの種族の中でも小さい家系からイエス様は生まれたのです。

ですから、末裔というだけで、この夫婦には召使などもいません。宿も馬宿で泊まっていたぐらいです。12月の寒い中、馬宿という寒い場所で生んだとは思えません。

そのような夫婦の出産は、人知れず訪れたのですね。

ですが、天の使いは、羊飼いの前にも現れ、東の国の学者3人は、天に光る星をみつけて、預言されていた王の誕生のために、この馬宿に導かれてきたのです。

 

 

2、赤子の時から命を狙われた。

3人の学者は、当時のユダヤ人の王に、こどもが生まれたのだろうと思ったので、ユダヤ王に預言の子が生まれたのかを聞いたのですが、王のこどもは、生まれていませんでした。

そのことから、ユダヤ王は、預言されている偉大な王の誕生を聞いて、赤子の命を狙いました。

3人の学者は、赤子をみつけたら王に伝えるように言われていたのですが、危険を考えて、何も報告せずに、イエスに高価品をわたして、東の国へと帰っていったのです。

ヨセフとマリアは、イエスの命を狙うユダヤ王から逃れるようにエジプトへと向かったのです。

3、イエスは預言通りの人生を歩まれた。

救世主の預言は、イエス様が生まれる何百年も前から世界中に広がっていました。とくに聖書には、事細かく救世主の預言が書かれていて、イエス様はその預言通りの人生を歩まれたのです。

ユダヤ教による救世主伝説は、偉大だといわれていたダビデ王のように、世界の勢力に打ち勝ち、世界を平和に支配するようなイメージが専攻していたのです。

ですが、当時のユダヤ王は、ローマに忠実でした。ローマとの平和交渉を望み、穏健派としてユダヤ王の地位を確保していたのです。

ローマは、帝国支配を安定させるために、多神教を信じていました。ですから他国の宗教を尊重していたのです。宗教の自由を与えることで寛容さを持って支配していたのです。

ローマもユダヤ王も安定を望んでいたのです。

しかし、信仰心が強い人やユダヤ人の尊厳を望むひとたちは、ローマ支配をよくは思っていませんでした。多くの革命家といわれるひとたちも存在し、ローマに対してひとびとは疑心を募らせていたのです。

イエス様を裏切ったユダでも革命家だったといわれています。ユダからすれば、イエス様は偉大な預言された王で、ダビデのようにユダヤ人たちをひきいて、ローマ支配から解放してくれると信じたのですが、イエスはまったく革命などに目を向けず、平和を説き続けたため、ユダは自己の想いから策略をめぐらせて、イエス様を騙すように、お金で売ったのです。

彼は、お金ではなく、革命を望んだのでしょう。

イエス様が死んだ時、多くのひとたちは、革命は失敗した。イエスは世界を救えなかったと考えました。

ですが、神様のいわれる世界の解放とは、人間のそれを超えていたのです。ダビデ王を超えていたのですね。

イエス様は、最後の晩餐で、弟子の中に裏切り者がいると語りました。そして、ユダに対して、あなたのすべきことをしなさいと言うとユダは、自分の想いのまま実行したのです。

このユダの行為は、聖書にすでに預言されていたものだったのです。

ユダは、熱心な革命家だったために、預言通り悪を行い、イエス様が処刑されると、自らの命を絶ったのです。

4、ユダヤ教徒のイエス様は、ユダヤ教徒に十字架刑にされた。

イエス様は、旧約聖書を信じるユダヤ教徒でした。

ですが、イエス様は、ユダヤ教の組織には属しませんでした。人間の組織にはいると、組織の都合が生まれます。特にユダヤ教は、その熱心さからローマからも目の上のこぶのように、注目されて、その発言は仕方なく許可されていたのです。

完璧な人間はいません。完璧な人間がいないということは、その集団である組織も、完璧なものはないのです。

組織は、良いものですが、人間に悪があることで、悪いものへと変わってしまうのです。

ですから、イエス様は、ユダヤ教とは一定の距離を持たれながら、旅を続けました。

正しいことを正しいと旧約聖書どおりに話すイエス様を組織正義のユダヤ教徒たちは、邪魔になっていったのです。

イエス様の前に、救世主の預言を力づよく語っていたヨハネという預言者がいました。彼がイエス様にバプテスマを行ったのですが、彼はユダヤ教の腐敗を暴露し続けたことにより、命を取られてしまったのです。

その点、イエス様は、穏健で、平和を常に語られ、不思議な行いを立て続けに起こしました。ユダヤ教徒たちは、なんとか、イエス様を貶める方法を考えるのですが、なかなかそのような好機が訪れなかったのです。

しかし、イエス様は、預言の成就を続けるたびに、ユダヤ教の腐敗や間違いを口にしはじめました。また、真理である自分が聖書に書かれた神であるということをほのめかしはじめたことで、ユダヤ教徒たちは、そこを突いて、聖書への冒涜だとして、イエス様をユダの裏切りとともに、捕らえたのです。

ユダヤ人たちは、ローマの提督であったピラトに、イエス様を処刑するように叫びました。

イエス様を処刑しなければ、暴動を起こすとまで、脅してきたのです。

提督は、イエスに十字架刑までする罪がないことを語り、それを避けようとしたのですが、ユダヤ教徒たちはそれを許しませんでした。

イエス様の3年に渡る旅は、奇跡を起こし、死人さえも生き返らせ、時にはロバに乗り、時には、何千人にも食料を与えました。そのようなイエス様の不思議な行いをユダヤを監視していたローマの提督ピラトはもちろん知っていたでしょうから、イエス様を処刑することを恐れました。なんとか処刑を許可しないように工夫をしたのですが、効果がなかったのです。

イエス様自身、まるで首輪をつけられた子羊のように、何も語らず、口を閉ざして、なすべきことをするように、提督を促すので、仕方なく、十字架刑を許可したのです。

その罪は、わたしにはないと言いながら、ユダヤ人たちにイエスを引き渡し、処刑を実行させました。

ユダヤ人たちは、自分たちにも罪がおよばないように、ローマの方法で処刑をさせたのです。

 

イエス様は、物事の正しさを語り、ユダヤ教徒の間違いを口にしましたが、それは正しい発言でした。罪を1つも起こさなかったのです。ユダヤ人たちがイエス様を処刑する理由としては

  • 己を神のごとく語る
  • ユダヤ人の王のように語る

などの罪しかあげられなかったのです。

現代でもそうですが、誰かを貶めるために、そういった勢力は、とことん調べつくして、その人の罪を大きくして、貶めようとします。しかし、イエス様はそのようなユダヤ教徒でさえも、罪をみつけることができないほどの人物だったことがここで解かるのですね。

本来、嫌っている敵に対して、でっちあげや捏造などを利用しては、邪魔者を排除するのですが、ユダヤ教徒は、聖書によって正しいことを基礎にしている以上、捏造などをして、それが明るみになることはできなかったのです。

ですが、なんとかイエスの罪をみつけようと、常にスパイを送り出していたことでしょう。それでも、処刑する理由は、そのようなものしかあげられなかったのですね。

イエス様の処刑は、娯楽としてユダヤ人に流れ、多くのひとたちは、イエス様に手をあげ、つばを吐き、イエス様の服を破り、それらを遊ぶように取り合い、暴言を口にしたのです。

 

罪をあげられないのに、人類最大の処刑だとさえいわれる、十字架刑という苦しみをイエス様は、味わったのです。

誰よりも、さげすまれ、悪く言われ、最大の苦しみを受けたのです。

十何時間も死なせない十字架刑は、最大の苦しみだといわれているのです。

ギロチンや切腹などは、残酷にみえますが、短時間で終わる処刑として人道的なものなのですね。

5、イエス様は、ゆるしを請うた

イエス様は、ゆっくりと血を出されていき、十何時間も苦しみを絶え続けた後、神様に祈られました。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか、自分でわからないのです。」

と請うられたのです。

イエス様がここで、彼らの罪を請うたということは、父である神は、そういった人間をゆるさない可能性もあることを示唆しています。

わたしたちは、プロパガンダに流され、多くのひとたちのいうことを信じてしまいます。

他人から聞いた言葉を真に受けて、罪人だと安易に考えてしまうのですね。

目にみえることだけが、正しいと思い込むのですが、神様は中身をみられます。正しい人も中身や真実をみようとするものです。

ですが、イエス様は、そのような何をしているのか、わかっていない人に対しても、愛を示されました。

多くのひとは、善悪の狭間で、誘導されながら、行動をコントロールされています。

ですが、世の中には、善悪を超えて、善をする人が存在します。

逆に、善悪を超えて、悪をする人も存在するのです。

どちらも、世の中から解放された思考を持っているので、普通とは違う行動を取るのです。

善悪の中にはいっている人間からみると、イエス様の行動は、理解できません。自分を限りなく否定するものにも、愛を示すからです。攻撃してくる敵にさえも、愛を示し、正しい行動を取るからです。

この行動は、常軌を脱しています。

多くの人は、愛は、自分の心や感情によるものだと錯覚していますが、違います。

愛とは、感情や心からくるものではありません。愛は、人間の中にあるのではなく、人間の上にあるものなのです。

人間には、善もあれば、悪もあるので、愛や正義を固定することができないのです。ですから、人間中心に考えては愛など存在しないのです。

ですから、人間は、愛や正義に従うようにしなければいけないのですね。

相手が悪をしてきても、愛に従い、相手が悪口をいってきても、愛に従い、長期的な勝利に目を向けるのです。

 

イエスが死んだのかをローマ兵は確認するために、脇腹に槍をさしました。さしても反応がないことを確かめて、処刑は終わったのです。イエス様の骨は、1つも砕かれることはなく、じわじわと血をださせられ、死へと至ったのです。

 

 

6、イエス様の人生は、多くの人は、失敗したと判断された。

悪は、目の前の勝利や利益を基準にして行動するので、勝っているようにみえます。ですが、それらは負けているのです。

 

 

イエス様は、口を閉ざして、悪に対して反論しようとはされませんでした。その行為は、一見負けたようにみえたのです。

実際、イエス様は、処刑され息をひきとり、革命も失敗したと判断されました。

イエス様が息を引き取った時、地震が起こり、みな同様しましたが、時が過ぎ去るに連れて、やはり、イエス様は負けたのだと考えたのです。

それは、弟子でさえそうでした。

イエス様は、負けたのだと悲しんだのです。

ですが、2000年後に生きるわたしたちは、知っています。

イエスキリストを信じるひとたちは、世界中に何十億人も存在していることをです。

ユダヤ教のそれとは違っていることを知っているのです。

勝ったのは、イエス様なのを知っているのですね。

 

日本人でさえ、イエスキリストの名前を知っています。クリスマスをイエス様の誕生日だとして楽しんだりもしている人も多いでしょう。

攻撃するものに、愛を示したことは、2000年という時を越えて、世界中に平和の思想を与え続けているのです。

悪は、目の前の利益や勝利を基準にして行動しますが、第三者がそれをみれば、悪で勝利した人は、恐れられ、恐怖され、信頼されません。好んで近づこうとは思えないのです。

自分を犠牲にしてでも、愛を示したイエス様は、受け入れられ、尊敬され、指標として、心に残り続けたのです。

 

大きな利益を得ようとするのなら、愛や正義に従うこと、人格を育てること、神様の作られた原理原則に従うことが大切なのです。

そして、聖書の神様は、旧約においても愛なのです。

 

悪に対して、悪をすれば、悪が増大しますが、悪に対して、愛をすれば、消えていくのです。

悪を悪だと単純にみてはいけません。イエス様に対して、悪をしたことが、2000年後には、平和をもたらしたのです。多くの聖書を信じるひとたちが、迫害され、命を取られましたが、弾圧されればされるほど、想いはつながり、平和は勝利を続け、憲法や人権が尊重されるほどまで、発展しているのです。

 

善悪を人間の基準で、単純にみるから、悪が勝利していると錯覚してしまうのですね。

神様は、すべての出来事に許可を出されています。その出来事は、未来では光になっているからです。1つとして、神様の許可されないことは起こらないのです。あなたの受けた苦しみや悲しみやむなしさを神様は一緒になって味わってくださってもなお、あなたに試練を与えてくださっているのです。

すべての悲しみや苦しみ、罪を背負って、イエス様は十字架刑にかかられました。

神様の予定通りに、イエス様は、それを成就されたのです。イエス様の人生は、この世界を変えるための十字架刑へとむかわれていたのです。

エデンの園から悪が広がり、闇であったものに、今ではエデンの園へと近づいていっています。すべての人にも人権を与えられ、まだ完璧ではないにしても、奴隷国民にもそれなりの自由が与えられている奇跡は、イエス様の十字架刑から解放されはじめている結果なのですね。

”この地にも御国が来ますように”

 

 

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