イエスキリスト

イエスキリストの預言

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イエスキリストとは、一体どのような存在なのでしょうか。

いつの時代に、何をして、何を教え、どうして世界中、何十億人ものひとたちがイエスキリストを信じて崇めているのでしょうか。

まず、イエスキリストを説明することは、とても難しいことです。

なぜなら、イエスキリストを説明するには、イエスキリストが生まれる前から存在していた、ユダヤ教という教えが関係しているからです。このユダヤ教のつながりがあって、はじめてイエスキリストが偉大だと分かるからなのです。

わたしひとりの人生だけを語るのであれば、それはなんとか説明できるかもしれませんが、わたしが存在しているということは、親がいて、その親にも親がいて、続いている歴史があるのです。そこには膨大な量の情報があることが想像できます。

ひとりの人間を説明するだけでも大変なのです。そして、イエスキリストがどうして偉大だといわれているのか、それはイエスキリストが生まれる前から存在していた聖書に、イエスキリストがすでに書かれていたからなのです。

旧約聖書の中に、イエスキリストがいるということです。

聖書とは、この世界のはじめから、終わりまで、ほとんど無限といわれるものを有限の本に書き記された不思議な書物です。

そして、その聖書とイエスキリストとはイコールであるともいえるので、イエスキリスを説明することは、無限を説明するようなものなのですね。

一言でいうなら神様です。

全知全能の神様の三位一体のひとつの形であるのが、イエスキリストなのですね。

宇宙をも含め、世界の原理原則、自然の法則の上にいて、それらを創り出し、固定させた存在そのものなのです。

とはいえ、聖書を信じていない人からすれば、一体何のことをいっているのか理解できないのが普通です。なぜなら、学校では教えてくれないことだからです。

ですが、それでもイエスキリストを知りたいという方のために、なるべく解りやすく説明していこうと思いますが、なにしろ無限を説明するわけですから、とてつもなく複雑難解なものです。わたし自身、有限の存在ですから、そもそも無限は説明できないのですが、そこを無理やり説明していくことになるので、あなたの理解力と神様の導きがありますようにと祈るばかりです。

今回のテーマは

イエスキリストの預言

1、イエスキリストが生まれる前から預言されていた。

宗教には、さまざまな宗教があり、誰かがこの呪文を唱えれば、救われるとか、誰かに触れば救われるとか、根拠が解からないものが乱列しています。

しかし、キリスト教は、そのような根拠のない救いを説いてはいないのです。

キリスト教の根拠とは、旧約聖書に由来しているのです。

圧倒的な根拠があったからローマ帝国は、キリスト教を国教にしたのです。

 

みなさんが生きているということは、みなさんの親がいるという根拠になるように、キリスト教が存在しているのは、旧約聖書が存在しているからこそ、根拠になり、旧約聖書と新約聖書は、2つで1つの矛盾のないものになっているのです。

もし、旧約聖書と新約聖書が矛盾していたら、キリスト教は、間違いだと判断できてしまうのです。

旧約聖書が基礎のように、しっかりと存在していたからこそ、キリスト教は、何十億人もが信じているような巨大な宗教になったのです。

そこには、人間を超えた事実がいまでもあるからこそ、信じられ続けているのです。

2、人間の能力を超えている聖書

人間は全知全能ではありません。人間は、過去と今現在、良くても1分後ほどの未来しか、把握することができません。

ある程度、地位や名誉があれば、コントロールもできなくもないですが、何百年もの未来を的確にコントロールすることなどチンギスハーンですら、出来ないのです。

わたしたちは、棒の端をつかむことができても、棒の先になにがついてくるのか、未来はわからないのです。

 

聖書には、たくさんの預言が書かれいます。

しかし、そのほとんどは、その預言が2000年後の現代からみて、どれに的中しているのか、疑問が残るものが多く、確かに的中していると信じているひとは、思えても、信じていない人からすれば、やはり疑問が残ってしまうのです。

ですが、その預言の中でも、もうこれしかない!このことを言っている以外はない!と誰しもが納得してしまうほどの預言。

それがイエスキリストの預言なのです。

イエスキリストが、なぜ世界中から救世主だとされているのか、それはイエスキリストが生まれる何百年も前から救世主伝説が存在し、その内容は、イエスキリストの人生そのものが書かれていたのです。

イエスキリストが、十字架刑にかけられた後も、弟子ですら気づくことができない壮大な計画が、すでに旧約聖書に書かれていたのです。

イエスキリストの預言は、旧約聖書に300箇所以上にも渡って書かれているのです。それらをすべて集めてしまうと福音書がもう1つ出来てしまうほどです。

福音書とは、イエスキリストの人生を死後に、弟子たちがさまざまな人たちの証言をもとに作られた、イエス様の自伝のようなものです。新約聖書には、その福音書が4つあり、4つの目線でイエスキリストの人生が書かれているのです。

4つの違う角度からイエス様の人生が書かれたものが新約聖書の最初に置かれているのです。

預言者といわれたヨハネや医者で学者でもあったルカなどによって書かれたものが、福音書です。

そのイエスキリストの生涯が、旧約聖書にすでに書かれている。これこそ、聖書は未来をもみる能力が隠されている証拠なのですね。

では、その一部を見ていきましょう。

みなさんが、どれほどイエス様のことを知っているのかは、解かりませんが、イエス様が生まれる前から存在していた旧約聖書に書かれていた文章です。読んでみて、あてはまるかを自分なりにみてください。

4、旧約聖書に書かれたイエスキリストの預言

創世記3章15節

「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

イザヤ7章14節

「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

イザヤ9章6節

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその方にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」

ミカ5章2節

「 ベツレヘム、エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、私のために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から永遠の昔からの定めである。」

ゼカリヤ9章9節

「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和でロバに乗られる。それも、雌ロバの子の子ロバに。」

詩篇22篇16-18節

「犬どもが私を取り囲み、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。私は私の骨をみな数えることができます。彼らは私を眺め、私を見ています。彼らは私の着物を互いに分け合い、私のひとつの着物をくじ引きにします。

イザヤ書53章

「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、裁きによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、誰が思ったことだろう。彼が私の民の背きの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもと共に設けられ、彼は富む者と共に葬られた。彼は暴虐を行わず、その口にあざむきはなかったが。

ダニエル書9章25節

「それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六二週あることを知り、かつ悟りなさい」

詩篇34篇20節

「主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない」

ゼカリア書12章10節

「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失ってはげしく泣くように、その者のために激しく泣く」

他300箇所以上の旧約聖書の中にあるイエスキリストの預言―――

5、イスラエル人たちが行ってきた生贄の儀式

旧約聖書に書かれていたイエスキリストの預言の一部を読んでもらいましたが、イエス様が死んで蘇えるまで、だれもそのことに気づくことができませんでした。ユダヤ教徒たちはもちろん、弟子たちでさえ、その預言通りにイエス様が歩まれていたことに、気づけていなかったのです。

このことをこのサイトで知るまでもし、みなさんが知らなかったとしたら、同じように、弟子たちも知らず、イエス様の死によってみな敗北したと悲しんでいたことでしょう。

しかし、イエス様が死ぬことは、アダムとエバの時代から預言され、悪魔による罪からの束縛から解放して、エデンの園の回復へと向かわせる世界の変革だったのです。

 

イスラエル人の始祖ともいわれているアブラム(アブラハム)は、古バビロンの神事の家系でした。アブラハムの父は多神教を信じていました。しかし、アブラハムの時代には、ノアはまだ生きていました。アブラハムは、ノアとは出会ってはいなかったでしょう。ですが、世界中の始祖であるノアの情報は、神様とは唯一の存在であり、三位一体のおひとりだという情報でした。

アブラハムには、神事の情報をこどもの時代から学ぶ環境が揃っていたのです。

バビロンの碑石には、アブラハムのことが書かれています。世界ではじめての王になったニムロデ王は、多神教を拝まず、王であるニムロデに従わないアブラハムや弟に、火の中に飛び込むことを命じるのですが、弟は恐怖を感じて、父の前で死んでしまいました。アブラハムは信仰を持って、火の中にはいったのですが、無事だったと書かれています。

その一部の内容は、聖書にも書かれているものです。

そのようなアブラハムの信仰は、ゆるぐことなく、バビロンを出たあとも、唯一の神様を信じて、旅を続けました。

アブラハムは、古来より動物を生贄にして、己の罪、家族の罪を贖う儀式を行っていました。

世界中に、生贄の儀式があることは、誰にでも知っていることですね。

アブラハムの子孫は、けっして人間を生贄にはしませんでしたが、他の宗教は生贄の儀式を汚すがごとく人間にも行っていました。

このように、古来から世界中の人間やイスラエル人たちは、動物を生贄にしては、自分たちの罪を贖おうとしていたのです。

時が経つに従って、どうしてこの行為が、人間の罪を贖うのか解からなくなっていった民族が多いでしょう。

しかし、イスラエル人たちは、血は命であることを聖書から学び知っていました。

 

現代人なら、血を止めれば、その箇所が腐敗していくことを理解できます。寒い場所にいれば、体の先から凍傷にかかり、細胞は死んでいきます。血液が循環すること=生きていることを知っています。

ですから、血は命なのです。

人間は、悪を知ることで、罪を肉体的にも、霊的にも内にいれてしまってから、死ななければいけない存在へと変わってしまったのです。

罪をすれば死ぬことを神様は、人間への愛のために、かわりに、動物の皮をはいで、アダムとエバに着せて、罪を多いかぶせてくださったのです。

その時から人間は、自分たちの罪の代わりに、動物を身代わりにし続けました。

現代人のわたしたちからすれば、なんてひどいことをするのだろうと、理解できないでしょう。ですが、イエスキリストが十字架刑で処刑され、血を流された時、弟子たちに死後、蘇えったあと、奥義を語られたことで、その意味が理解できたのです。

何千年にも渡って、動物が人間のナイフによって生贄にされていたものは、実はその動物たちは、神様だったのです。

神様は、ご自身を人間の身代わりにして、人間にナイフを持たせ、自分の体をささせていたのです。

 

親は子のために、自分の身を省みず、助けようとします。助けようとしない人もいますが、多くの親は子のために、働きながら命を消費し続けます。

神様からすれば、神様と同じように、自由意志を持ち、自分の意志を持った人間は、子なのですね。

子の罪、子の苦しみや理不尽な想いをも、すべて背負って、神様は、何千年にもわたって、自らの体を犠牲にしてくださっていたのです。

そして、それが理解できたのは、イエス様の預言通りの十字架刑だったのです。

6、世界中の情報をローマ帝国は、保持していた。

ローマ帝国がキリスト教を国教として、受けれたことは、有名です。

ですが、そのローマ帝国は、多神教だったことを知っているでしょうか。

ローマ帝国やそれ以前の帝国は、多神教をベースとして、他国の宗教の自由を認めていました。

その土地や民族によって宗教の理解は違い、それらの信仰を認めることで寛容さを表していたのです。

 

ですから、ローマ帝国は、世界中の宗教や学問を調べつくしては、政治の維持に利用してきたのです。

ローマの提督ピラトが、どうしてイエス様を十字架刑にかけなければいけなかったのか、それはユダヤ教を尊重するというローマ帝国の方針があったからなのですね。

イエス様を助けることで、普段から革命をほのめかす、ユダヤ教徒に暴動を起こさせてしまえば、ピラトの失態として評価されてしまうからだったのです。

このように、ローマは世界中の宗教を知っていたのです。そして、多神教にすることは、政治的にとても論理的な方法だったのです。

 

にも関わらず、どうして、ローマは、一神教であるキリスト教を国教にしたのでしょうか?

 

そこには、キリスト教が圧倒的な論理を有していたからなのですね。

現代人であるひとたちも、世界中の宗教は、それぞれ違うものだと勘違いしているひとたちが多いですが、多くの宗教を調べれば調べるほど、それらバラバラのように思える宗教には、実は共通点が存在しているのです。

 

世界中の離れた場所に、神様は認知されている不思議をよく言われます。

世界中のひとたちは、神様を形は違えど、認識して崇めている不思議です。もし、進化論という宗教のいうように、世界中のひとたちが、バラバラに進化していたのなら、さまざまな文化があり、共通点があるのは、おかしいことです。

神様を認知していることは、100歩ゆずって偶然だったとしましょう。ですが、偶然とはいえないほど、共通点が実は存在しているのです。

  • 神様の形は、三位一体という共通点
  • 処女(女神)が救世主を生むという共通点
  • 神様が降りてこられ、人間に言葉と知識を与えたという共通点
  • 多神教であっても絶対神は1つだという共通点
  • 太陽や月を暦に利用するという共通点
  • 巨人伝説の共通点
  • 洪水の共通点
  • 蛇・竜・ドラゴン(蛇模様の土器、タトゥなど)という共通点

など、あげればきりがないほど、まだある共通点が、世界中の宗教にはあるのです。

仏教や神道、宗教とはいえない儒教も例外ではありません。

 

世界中の宗教を網羅して、把握していたローマ帝国は、哲学も進み、とても学問的に、論理的な文化を広げていました。

その中でも、世界中の現象を説明できていたのは、旧約聖書であり、旧約聖書とつながる新約聖書も含めた聖書だったのです。

 

聖書にもさまざまな聖書があり、イエス様が生まれる前から、ギリシャ神話と融合してしまった聖書さえ存在していたほどです。

ですが、ギリシャ神話と切り離された聖書のほうが、世界を驚異的な論理で説明できてしまっていたことを哲学的なローマ市民は、認めたのです。

 

ローマ帝国は、原始キリスト教徒を弾圧しては、処刑を続けました。

なぜなら、同盟国であるユダヤにはむかう、新興宗教だったからです。ユダヤと和平を結ぶには、原始キリスト教は邪魔な存在でした。

ですが、さまざまな文化と知識が集まるローマでは、キリスト教の教えも伝わり、あまりにも論理的な聖書の内容のため、急速にキリスト教の信者が増え始めたのです。

 

古事記や日本書紀など、世界中の神話といわれる書物は、とても象徴的です。聖書の黙示録のように、何を表しているのか、解からない内容ばかりです。人間が知識を得て、作り出す神話の限界は、そこなのです。

ですが、聖書は違います。現代人が読んでも、ひとつひとつ論理的で、まったく理解できないほどではないのです。

エデンの園も物語も、とても論理的で、象徴的なものは、預言ぐらいであり、歴史書としても読めてしまうのものが聖書なのです。

 

そのような聖書を論理的なローマ市民は、受け入れたのですね。

 

当時、ローマ帝国は、多神教で、自由な宗教や価値観を認めていたのですが、それらの文化や価値観には、犯罪的な宗教もまざり、ローマに対して、反乱を繰り返しては、それへの労力に、ローマは疲弊していたました。

人間には、愛や正義がないので、一定の価値観の固定がなければ、犯罪であっても正義になってしまうのです。

 

そこで、ローマ帝国は、キリスト教という一定の価値観を世界中に統一することで、善悪を固定して、ローマを安定させようと考えたのです。

 

ローマの政治とキリスト教が、一致した時、ローマはキリスト教を国教としたのです。

それは、弾圧すればするほど、論理的に増え広がっていく驚異的な聖書とキリスト教によるものを世界中の価値観の統一というものへと気づかせたのです。

日本は、海という壁があり、民族さえ一緒なので、自由でも平和が保たれていますが、世界には壁はなく、国さえありませんでした。言葉も民族も色も違うのが当たり前なのです。

違うのが当たり前の世界では、同じことを共通にしなければ、滅びることを理解しているのです。

ですから、世界は、日本とは違いハッキリとした価値観を持っている人が多いのですね。

 

そうでなければ、生きていけなかったのです。島国の日本だからこそ、平和な多神教が成立できただけだったのです。

 

このように、さまざまな政治や歴史や哲学や論理学を持った多神教であったローマが、属国の宗教を国教にしたのは、そこに圧倒的な論理が存在したからに他ならないのですね。

この驚きの出来事は、日本が韓国の宗教に変わるよりも大きなことだと解かるでしょうか。ありえないことが、起こったのです。

キリスト教には、根拠があるからこそ、今でも増え広がっているのです。

 

世界中の宗教には、女神が救世主を生むという伝説が、広がっていました。イエスキリストの人生は、それをも共通していたのです。

世界中の現象を唯一的確に説明できているのは、聖書だけです。

 

聖書は、1つの家族から世界が広がったと教えています。ノアの家族です。

ノアの家族からはじまったのですから、世界中の文化に共通点があることは、聖書と一致しているのです。

 

聖書よりも古い文献は存在します。ですが、聖書ほど、的確に世の中を説明し、一致しているものは、存在しません。

その他文化の古い文献の内容さえ、聖書と一致しているのです。

 

ローマ帝国よりも1000年も前から、世界中の文化をそれ以上の規模で把握していなければ、3500年たった現在でも、通用するなど不可能なのです。

歴史は、その時の支配者によって都合よく捏造され続けました。ですから、事実だと人間が思っても、それが真実かどうかは、人間には、把握できないのです。

それでも、3500年も通用してしまっている聖書は、人間には書けません。

聖書をバカにしたり、歪曲させた理解で否定することはできます。なぜなら、その人の裏には、固定されたものがなく、自由にものごとを把握しては、批判できるからです。

しかし、聖書を肯定する人たちには、すくなくとも2000年前から固定された聖書という書物が存在している以上、固定されたものの中でしか、反論できないのです。

固定されているもので、自由がないのに、自由奔放に否定するひとたち以上に、論理的に説明できている時点で、ありえないことなのですね。

 

イエスキリストは、旧約聖書の預言や内容によって救世主だと証明され、旧約聖書は、イエスキリストの存在によって正しいと証明され続けているのです。

そのイエス様は実在したもので、預言と同じ人生を送ったことが、どのような人間をも超えた存在であり、根拠のない救いとは、一線を隔しているものなのですね。

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