世界の法則

聖書は神の基の民主主義

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神の基の民主主義


1、イスラエルの民は神の基の民主主義だった

もともと、イスラエル人の信じる聖書は、神の基の平等を説いているので、人間には、上も下もありません。

ですから、王様もいなければ、支配する人もいなかったのです。

 

イスラエル人の集団をまとめていたのは、部族長たちで、その部族長たちも、聖書の教えを基礎にして、預言者の意見を聞きながら、その時代を乗り越えてきていたのです。

そして、中心的な役目の預言者は、サムエルの時代でした。

サムエルは、幼い頃から預言者として、神様から祝福されていました。その能力を見込まれて、預言者の立場に立っていたのです。

 

聖書の教えは、あくまで、自然体です。この世界そのものが、神様であり、人間の営みも、自然的に発生するもので、だれかがルールを作るというよりも、基本的な律法を学んでは、それを自然に守る、目に見えない空気で、民族、国を治めるというものです。

日本人だと神道を想像するとわかりやすいです。

神道は、仏教のように、説法もありません。ただ、文化や自然の営みによって正しさを示すだけです。

 

聖書もまた、同じだったのですね。

 

これが正しいというものを設定したら、それを基準として自由に、生活ができるようにする。自然に平和を味わえる生活。それが聖書のいう人間の生き方であり、政治なのですね。

ですが、世界を支配し、権力をもちはじめた周りの国々には、必ずといっていいほど、王様を立てていました。

王様を立てて、人間的な考えで、民をコントロールして、武力を強め、貿易を効率よく行えるようにしようという意見が広がっていったのです。

 

そのことに、預言者サムエルは、とても反対しました。

 

自然体の営み、神様を中心として、人間に上下がない政治のなにが不満なのかと説いたのですが、部族長たちは、さらなる発展という人間的な目を無くすことができずに、王様を立てるようにと迫ってきたのです。

 

サムエルからすれば、まわりの貿易こそ発展はしていなくても、まわりの国々から守られ続け、不自由のない生活を神様から与えられていたからです。

それ以上を望むことは、人間の欲であり、傲慢ではないかと映ったことでしょう。

 

預言者サムエルは、神様に祈りました。彼らの意見を聞いて王様を立てるべきなのかを聞いたのです。

すると、神様は、王様を立てることに賛成してくれました。ですが、それがイスラエルの苦しみになることも預言されて、サムエルを送り出したのです。

 

そして、選ばれたのは、最初の王様サウルでした。

2、初代イスラエル王サウル

サウル王は、預言者サムエルから選ばれて、はじめての王様に任命されました。

サウルは、とても神様に忠実で、自分を選んでくれたサムエルにも、耳を傾けながら、神事も行ったのです。

 

そのおかげか、サウル王を得た、イスラエルは、連戦連勝していきました。サウルには、敵がないといわれるほど、強く、イスラエルも固く団結しはじめたようにみえたのです。

 

ですが、サウル王は、徐々に傲慢になっていき、神事を間違った方法でしてしまったのです。

そのことに、サムエルはとても怒りました。

 

サウル王は、神様の基で選ばれ、神様から守られていたから戦えたのであって、サウルの能力ではないのに、それを傲慢にも、神様を軽んじてしまったのです。

 

人間には、善があることを否定することもできなければ、人間に悪があることもだれにも否定できません。

ですから、どんなに能力が高い王様であろうと、必ず失敗してしまいます。そのような人間を上に置く”リスク”をあまり考えないひとが多いです。

この世界を曇りのない目でみてもらえば、ものすごく綺麗ですばらしい世界が広がっていることが解ります。空も自然も動物も人間の体も、ものすごく精密に作られています。100人いれば、ほとんど100人が足や手があります。奇形という存在は、それほど少ないのです。

これほど綺麗に作られているものが偶然、勝手に作られると考えるほうが、どうかしています。

この大自然をみれば、神様がどれほど完璧であるのかが理解できます。

神様だからこそ、人間の枠を超えて、人間を導くことができるのです。

人間には、それができません。なのに、その人間に人間を導く権力を与えることは、危険な賭けをしているようなものなのです。

 

権力者は、神様の教えに縛られているから、間違いを修正できるようになるのです。

神様の教えに縛られていない人間は、人間中心主義で、ものごとを考えて、自分が自由に行動できるものを欲してしまいます。

ですから、民をないがしろにする行動を取るようになるのです。

モーセや他の預言者もそうですが、彼らには人権はありません。彼らは神様に仕える存在で、誰よりも自由を無くし、民から正しいのかを監視し続けられる存在でした。

権力者ほど、民から監視され、人権はなくなると考えたのです。

 

ですが、イスラエルは、人間に王様という権威を与え、王様に力を与えたことで、その王様たちは、人権を求めて、神様から束縛されることを嫌っていったのです。

初代イスラエル王のサウルは、はじめは謙虚でした。預言者に選ばれ、預言者から徹底した神事を叩き込まれたことでしょう。

王様を立てることは、リスクがありますが、その王様が徹底した神様中心主義者であれば、祝福されます。

サウルもそうでした。ですが、神様はサウル王に、あまり試練を与えられませんでした。そのため、サウルは道からそれていってしまったのです。

 

聖書はとてもシンプルです。

人間には、悪が入っているのだから、人間に愛や正義がないことを示しています。

ですから人間は、信頼されるべき存在ではないことを伝え続けているのです。

なのに、神様を信じないひとたちは、そんな人間を信じ続けているのです。

 

神様を信じない人間は、人間を信じすぎているのですね。

 

 

人間には悪があるという誰も否定できない事実があるのですから、そんな人間にもし、権力を与えるのなら、その人間は監視されるべきなのです。支配者ほど、人権はなくすべきなのですね。

いい例としては、日本の天皇です。天皇には、人権はありません。憲法によって、天皇は民に人権を与えなければいけないのであって、天皇には人権は適応されません。ですから、神事を行い神様に祈り、神中心主義で、民を見守るのですね。

そして、国民からちゃんと神中心主義のままなのかを監視つづけられるべきで、今上天皇(今の天皇)はそれを理解されているのですね。

神中心主義だからこそ、民は天皇を敬うのです。

3、人間中心主義では、民主主義はありえない

人間を中心にした民主主義などは、ありえませんね。

100人いれば100通りの人間がいるからです。一体その100人の中のだれの考えを中心にするというのでしょうか。

それ自体、民主主義ではありません。

人によっては人を殺める犯罪者のような正義を持っているひともいるのです。そのひとからみれば、それが趣味なのです。

ひとを傷つけることが趣味でやっているのです。

 

そのひとたちをないがしろにするということは、民主主義ではありませんね。本当に民主主義だというのなら、彼らの趣味も認めなければいけなくなります。

神様を信じないひとたちには、このようなことに答えは存在しません。

 

ひとを傷つけないことがわたしの趣味だといって彼らを傷つけていくのです。

 

結局、神様を信じていないひとの正義は、彼らの正義と変わらないのですね。

同じような趣味を主張しあっているようなものなのです。助ける趣味と傷つける趣味の言い合いです。

人間中心主義であれば、答えなんて出るはずもありません。なぜなら、同じ人間だからです。

 

ですが、神様を信じているひとたちは、違います。この世界は、神様が作られ、わたしたち人間も神様が作られたのだから、その神様が人間を傷つけてはいけないと教えられたのです。

だから、人間が自分の趣味をいくら主張しても、人間の上にいる神様の主張とは、比べられるわけもないのです。

自然界は、共生のシステムで成り立っています。無意味に趣味として、傷つけるものは、排除されるようにつくられています。神様がそのようにこの世界に自然の法則をつくられたのです。

動物の9割は、草食動物です。肉食動物は、ほとんど絶滅状態です。

その1割程度の例をあげて、世の中は闇のようにプロパガンダを広げるひとがいますが、事実は違うのですね。

 

発掘された恐竜の95%は、草食です。たった5%程度しか肉食はいなかったのです。

恐竜はゾウのような優しい存在だったのですね。ゾウも巨大だから危険ですけどね。

このように進化論という宗教を信じすぎ、事実をみえない脳に汚染されていると、本質がわからなくなってしまうのです。

 

自分たちのやっていることが、犯罪者と変わらないことを知らず、自分たちが正しいと思い込んでいるので、そんな人間を信じては、民主主義を正当化しようとしていますが、人間には、悪が必ずあるので、信じられる対象ではないのです。

政治家や王族、貴族、企業の社長など、権力を持った人間は、人権は本来はありません。

 

家族でもみてみればわかります。親は、子のために人権はありません。親ほど不自由に生きて子を自由にしようと行動しています。

だから子は親を尊敬するべきなのですね。

感謝するべきなのです。

 

政治の理想は、家族政治です。

天皇は、家族政治を大切にしてきました。そのような天皇に権力を持たせないから戦争は起こされたのです。第二次世界大戦は、天皇に力がなかったから起こされたのです。天皇の権威を利用されたのです。

民は人権がない天皇をみているからこそ、天皇を尊敬し、感謝するべきなのですね。

そして、天皇は、神中心主義で、神事を大切にして、民を導くからこそ、民は自由に平和に暮らしていけるようになれるのです。

神様を信じることは、不自由になることだと信じ込んでいるひともいますが、違います。

神様を信じることは、人間の支配から解放されることなのです。

神様は、人間に”殺してはならない”と教えました。

 

教えるということは、人間はそれができる自由があるということです。

 

聖書の教えは、無意味なことは教えません。盗んではならないということは、人間は盗む自由もあるから、盗んではならないと言っているのです。

どっちを選ぶかもわからない人間に権力をもたせて、不自由に生きるのか

それとも、神様の教えたルールを権力者に、徹底させて、人間からの束縛を抑止して、わたしたち民が神様の基で自由に平和に生きて解放されるのか、なのです。

 

現代では、お金があれば自由になれると思っているかもしれませんが、それが人間を束縛しているのです。

 

お金がある人間は、自由になれる のであれば、お金がない人間は不自由だということになるのです。

 

現在、お金は、紙切れになっています。1970年までは、金本位制で、ゴールドが基準になっていましたが、今は無制限に紙切れを擦り続けられるのです。

その紙切れの流れにはシステムがあり、そのシステムの人脈がない人間は、簡単にはお金は手に入りません。

しかし、システム側の人間は、裏技を使っては簡単に、遊びのように紙切れを手に入れらるようになっています。

 

聖書は、神の基で、人間には、上も下もないと教えています。ですから、神様から与えられたほとんど無限ともいえるエネルギーをみなさんが一緒に享受して、豊かに平和に暮らせるのです。

食べ物も腐るほど捨てられています。なのに飢えで亡くなるひともいるのは、おかしいのです。

それらの自由を束縛しているのは、人間なのです。

 

神様の束縛は、人間のための試練であり、人間の考える小さな枠ではありません。人間が平和に自由にいきるために、置かれたルールなのです。

ですから神の基ではないものは、すでにすべて崩壊しているのです。

民主主義であろうと憲法であろうとビジネスであろうと、そこに神の基で作られていないのであれば、それは不完全な人間の考えだからこそ、崩壊しているのですね。

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