世界の闇

カインの子孫。カイン族

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カインの子孫。カイン族

カインは、姉または、妹と共に子孫を残していきました。
(この時代は、現代とは地球環境がまったく異なるので、家族でも子孫を残せたのです。)

創世記の時代の人はなぜ長寿なのか

カインは、神様から守られ、その命を取ろうとするものがいませんでした。自分のした罪を悔い改め、その後の人生は大きな罪はおかさなかったので、聖書には書かれていないのではないでしょうか。
カインは、町を建てて、その町の名を自分の子の名前エノクとつけたのです。

しかし、カインの子孫は、悪を含んで、増え広がっていきました。

人間最初の殺人をした親を持つ子として、その※しるしは受け継がれ、だれの目にもあきからかだったからか、世の中に対して、悪を広げていったのです。
そのしるしは、カインの望みを叶えるための神様からの愛であり、守りだったのですが人は神様からもらった守りさえも悪いものとして勘違いしてしまうように、悪のプログラミングのせいで歪曲させてしまえるようになっているのです。

※カインへのしるしは、肌の色というしるしだったと思われます。人間の白・黒・茶色・中間色という三種類の肌の色。カインとアベルの物語

もし、そのしるしがなければ、カインは自分でも言っていたように、悪の存在としていのちを取られ、その子もこの世には存在することすらできなかったのですが、それよりも、自分が産まれてきたことにも納得できず、カインの子孫は、世を闇として自分勝手にみてしまったのでしょう。

その自分本位の目線は、カイン譲りだったのかもしれませんね。

現代人でも、何をするにしても懐疑的で、世の中を闇のようにみえてしまうひとがいます。
親にも、ともだちにも、まわりのひとたちを懐疑的にみては、楽観的に考えられず、笑顔や愛情をないがしろにしていまうひとです。素直な心になれないのです。

それは悪が入り込んだ現代ではひとつの才能でもありますが、呪いでもあります。

日々、自分の心に呪いの暗示を自分自身でかけていくので、心が闇へと引きずり込まれていくのです。

そういうひとが、世の中に不平不満をよく口に出しますが、よく考えてみれば、その言っていることには矛盾があるのです。

なぜなら、そうやって不平不満を言えている時点で、そのひとは、生かされていることに気づいていないのです。

空気は、この宇宙では奇跡ともいえるものです。宇宙には空気があることのほうがおかしいのです。その空気を吸って生きているのに、いのちを狙われたからといって文句を言えている時点で、そのひとは守られていることに気づいていないのです。

空気だけではありません。水や食料、多くのものを他人や世界が守ってくれているのです。そして、そのありえないほどの祝福のシステムをこの世に作り出してくれた神様に守られている奥義に気づけず、自分勝手な目線だけで世の中に不平不満を形にしていくのです。

悪に対して、注意深く思考することは大切です。ですが、自分自身が悪にはいったら本末転倒なのですね。その悪は、必ずそのひとにはねかえっていきます。
悪の心の種を蒔けば、悪の実を手に入れるだけなのですね。
世の中を闇ばかりでみるひとは、自殺願望があるような人のような矛盾したものなのですね。

カインは、はじめての殺人をしたのですが、その罪は神様からみれば、守るに値するものでした。
このカインの子孫とその性質は、現代でも生き残っているのです。

1、カインの子孫、レメク。

カインの息子、エノクには、イラデ→メフヤエル→メトシェエル→レメクと次々とこどもが、産まれ続いていきました。

そして、レメクは、人間ではじめての妻をふたり持つようになりました。

アダとツィラという女性です。

エデンの園の時代、足で歩かれる神であるイエス様は、アダムに、エバひとりだけを与えました。

アダムに何人も女性を与えたのではありません。ひとりの男性には、ひとりの女性を与えて、そのふたりを祝福したのです。

この形は、三位一体の形になっています。

頂点に神様であるイエス様がいて、そのプログラミングを言葉などによって行われたアダムがいて、そのアダムがエバにプログラミングを継承し、エバは、アダムを支える存在として、与えられたのです。

ふたりの夫婦の関係は、上にイエス様がいることで成立するのです。

ですから結婚する時、男女の関係のシステムを与えられた神様に対して、ふたりは誓い合うのですね。

神道なども神様が一番上で、そこに夫婦がいる三位一体の関係になっています。

子孫を残すために、一夫多妻制にするという考え方は、とても人間的な考え方で、神様のよって与えられるという人間からみれば奇跡のようにみえることでも、全知全能の神様にとっては簡単なことなのです。

人間は簡単に、砂の団子を作ることができますが、蟻からみれば、巨大な存在が、突然、月のように大きなものを作ったようにみえるのです。
蟻からみれば、人間のすることは、まるで神様のようなにみえるのです。

人間と蟻との距離がそれほどなら、人間と神様の距離はさらに離れているのは、至極当然な考えではないでしょうか。
神様のされることは、人間にとっては奇跡のように不思議みえても、神様からすれば、人間がノートに日記を書くようなものなのです。

人間の力だけに目をとらわれては、狭い視野になっていき、束縛の世の中になっていくのです。
神様が定めた、男女の関係をカイン族であるレメクは、自分の解釈で捻じ曲げていったのです。
自分勝手な目線のカインの性質をここでも受け継いでいたのでしょう。

レメクが恐ろしいのは、そこだけではありませんでした。
傷を与えた若者を殺したのです。

そして、何よりも恐ろしいのは、そのあと、彼は神様から与えられた言葉を自分本位に、ねつ造していったのです。

創世記4章23節-24節
さて、レメクはその妻たちに言った。
「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十倍。」

紀元前の世界では、罪による罰は、均等に行われるものという法律が世界中に広がっていました。
聖書でも、バビロンでもそうですが
目には目を、歯には歯を。
という言葉は、そのひとがした罪を同じ等価で与えて罰するのです。

これをひどいことのように思うかもしれませんが、実はそれらの常識が広まるまでは、このレメクの思想。
傷を与えられたら、それよりも七十倍の復讐として、死を与えるというものです。

復讐は、復讐を呼び、加速させていってしまうのです。七十倍などという考え方は、世の中を闇にする何者でもないのです。

現代では、死刑というものがありますが、その死刑執行は、等価ではなく、人道的な処刑がされています。
ギロチンや切腹なども、見た目こそ残酷ですが、すぐに終わるという点では苦しみを与えない人道的なものなのです。

逆に、十字架刑は、見た目こそ残酷にはみえないかもしれませんが、何十時間もかけて、死なせずに、じわじわと味合わせるものでなのです。人間の考えだした最大の苦しませる処刑だといわれています。

わたしは、死刑は反対です。
ですが、それは現代だから反対なのであって、200年も前の時代なら死刑は肯定したことでしょう。

現代と昔の世界を同じようにみてはいけないのです。
旧約聖書の目には目をという考え方は、その時代では、人道的だったのです。

ですが、レメクは、全体的な目線ではなく、あくまで自分本位の考え方で、神様の言葉を歪曲させて、利用しはじめたのです。
世界のすべての中心であり、平和であり、愛であるものは、神様です。

人間は、神様のプログラミングによって幸せになれるのであって、それ以外では、この世界では通用しないのです。

なのに、レメクは、その世界のシステムを無視して、自分勝手な世界を作り始めたのです。

このことから、世界に悪が増え広がり、世界に闇が存在しつづけてしまっている原因なのですね。

カインは悔い改めましたが、レメクは悔いることがなく、ふたりの女性を苦しめていったことでしょう。
レメクという恐ろしい存在に支配され、恐怖した人生だったのかもしれません。
殺人を肯定するほどの存在で、神様を利用したほど、ありえない価値観の誕生したのです。

2、カインの子孫たちと発明と思想

その後、アダは、ヤバルを産み、ヤバルは天幕に住むものであり、家畜を飼うものの先祖になりました。

ヤバルの弟、ユバルは、立琴と笛の奏でるすべての者の先祖になりました。

ツィラもまた、トバル・カインを産んで、彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋になりました。

このように、カイン族の子孫は、新たに何かを生み出す、科学者のような才能があり、音楽などの立琴や笛まで発明し、ツィラの子は、鍛冶屋になっていったのです。

 

悪を取り入れるということは、当時では、力だったことが理解できます。

というのは、アダムとエバは、善のプログラミングだけをされていた存在で、その子孫たちも、同じように善のプログラミングが広がり、それが当たり前だったことでしょう。

ですから、嘘をつくとか、物を盗むという価値観すら存在せず、お互いに、支えあいながら、家族として形成していっていた世界だったのです。

そこに、悪を当然として、嘘を使える人間がいたとしたらどうでしょうか。

嘘を当然のようにつく価値観を知らないひとは、嘘を見破ることはできません。嘘という価値観自体知らないので、簡単に騙されるのです。

嘘をつき、仲良くなっては、そのひとのアイディアを盗んでは自分たちの情報として活用していったことでしょう。

そうすることで、できるものが増えていき、その中に、多くの発明が生み出されていったのではないでしょうか。

アイディアを盗むこと、多くの情報を得ることは、知識であり、嘘を当然のように使いながら、ケースを増やすことで、新たな発明を生み出していったのでしょう。

彼らから生まれた発明は、動物を家畜として扱うこと。

たて琴と笛の発明などですね。

聖書には、情報、プログラミングをひとつの家系として書かれています。

例えば、創世記に”蛇の子孫と女の子孫”と書かれていますが、蛇という悪魔には体がないのに、その子孫は残せません。この言葉で表されているのは、蛇の悪というプログラミングに染まった人間たちのことをいっているのですね。

聖書には、ユバルは笛のすべての先祖になったと書かれていますが、現在には、白人にも黄色人種にも黒人にも、笛を扱うひとがいます。そのすべての先祖になったというのは、おかしいことになります。ここでいう先祖とは、笛というアイディア、プログラミング、情報を受け継いだひとたちの先祖、始祖になったといえるのですね。

蛇の子孫ではなく、蛇が与えた悪を受け継いだ人間たちということです。

鍛冶屋であったツィラの子、トバル・カインは、先祖とは書かれていません。ですから、ほかの部族から鍛冶屋などの知識を得て、それを広げたと考えられます。

ひとからなにかを盗むなど、悪を知らないひとたちから奪うことは、簡単だったことでしょう。

善しか知らないひとは、善しか行動できないので、その範囲は、狭まります。

悪を知り、悪を取り入れ、それを実行できるものは、善も悪も実行でき、それを利用できるようになるので、利益を得やすいのです。

ですが、それらは目先の利益であって、長い目でみれば、悪の存在は排除されていきます。悪が悪を呼んで、はねかえってくるからです。

善の人間は、損をしているかのようにみえるかもしれませんが、実は長い目でみれば、平安と安定を得ているのです。

悪を受け入れ、悪を正義としているひとは、心からそれを信じ込んでいるので、他人を信じることができません。だからこそ批判的な態度を取るのです。

また、それは自分で自分自身にかけた呪いのようになり、不幸せな人生のまま生きていくようになります。

善人は、騙されはしても、恨まれることはなく、被害者にはなっても加害者にはなりにくく、また悪から遠ざかって生きることができ、子孫にそれが受け継がれていくからです。

悪は、騙しては、相手から騙されたと思わせないようにして、繁栄させて、利益を得ていきますが、その中身は、悪なので、そのストレスから本音が口からでます。それを聞いたひとは、その人の悪をかいまみることで、そのひとを心から信用できなくなります。

自分のいないところで、そのひとはなにをいうのか、解らないからですね。

騙されたとバレた時、ひとはその人を恨みます。傷つけられたとわかれば、闇が付き従うのです。どれほど権力を持ったとしても、自分たちが生み出した悪におびえ続けなればいけなくなるのです。

目先の利益だけで行動して、悪を利用するからそういうことになるのですね。

巨大な権力や地位を持っていても、奪われるのは歴史をみれば、一目瞭然なのです。

そう考えれば、地位や名誉ではなく、日々のなんでもない平安の生活で、おびえることなく生きていくことの大切さが、どれほど大きなことなのかが、解るのですね。

3、音楽や科学の危うさ

音楽や科学という宗教は、一歩間違えれば、危険なものです。

科学は、数字や確定したものだけのように思えるかもしれませんが、現代では、そういった確定したものではなく、空想から生み出された思想を科学だと錯覚して広まっているものばかりが、乱列しています。

音楽や科学だけではなく、世界のすべてのものは、悪の心で使えばそれは狂気になるのです。

とくにそれら、想像から生まれるものには、注意しなければいけなせん。

ひとを惑わし、他人だけではなく、自分自身も惑わしていしまうものになり兼ねないのです。

神様の作られた、天使は、すべて善でした。

天使の中で、音楽をつかさどる天使であったルシファエルもまた、神様のために音楽を奏でる存在だったのです。

天使には、自由意志があり、彼らは人間以上の知識と能力を持って、神様に仕えていました。

しかし、ルシファエル(暁の御子)は、その自由意志によって、神様の枠を超えて、自分がこの世界の頂点になろうとしたのです。

さらなる音楽を求めた、想像力が、仇となったのでしょう。

ルシファエルは、自分自身で悪を作り出した、悪の始祖です。

アダムとエバは、自分たちで悪を作り出しませんでした。その前に、蛇によって誘導されたのです。

ですから、わたしたち人間と悪との間には、神様は敵意をもって、別ものとされたのです。

悪そのものではない人間には、救いの道があるのですね。

ですが、人間にも、自由意志と想像力があります。それらは、良いものなのですが、それらが悪を芽生えさせるものにもなりえるのです。

上に行こうと必死になっているということは、そのひとは、今を納得していない証拠です。

今現在を受け入れて、感謝することがなかなかできないのですね。

マラソン選手などをみると、わたしなどは、大変なようにみえてしまいますが、彼らはマラソンをすることが気持ちいいのです。

前に進むこと、何か上にいくことへの欲望ともいえる脳の作用を求めて走っているのです。

適度なマラソンは健康にいいですが、マラソンをしすぎると寿命が縮まるのです。

これはもう、矛盾したものへと変わっている証拠ですね。

日本人はとくに頑張ることを美徳として、やりすぎてしまう傾向があります。仕事のしすぎでいのちが亡くなるひともいますが、そうであるのなら、なんのための仕事なのでしょうか。

生きるために仕事をするのであって、死ぬために仕事をするのなら本末転倒なのですね。

ですから、発明するにしても、何をするにしても、まるで植物を育てるように、自然に従って歩むべきだとわたしは思います。

「頑張る」と思っている時点でそれは間違いだとわたしは思います。

他人からみれば、頑張っているようにみえても、本人からすれば頑張っているわけではないというものが、自然ではないでしょうか。

違和感を覚えたら立ち止まって、考え、休息を取ってから、また自然に動きだせばいいのですね。

なにかを必死で頑張っても、それが悪の先祖からの知識であったら、あなたとあなたの子孫は、破滅へと向かうことになるかもしれないからです。

体と心と霊の関係を大切にしながら、自分のペースで鳩のようにむくな心で、蛇のように賢く騙されないように生きなければいけないのですね。

この世界には、善もあることも、悪があることも、否定できないからです。

カイン族の過ちから学べることは、シンプルな真実を悪によって歪曲させて自分勝手に解釈しないことです。

利益があるからといって悪を選ぶと心が悪によって呪われていくのですね。

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