日本とユダヤの共通点

漢字の中に隠された聖書物語

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みなさんは、漢字は中国人、シナ地域の人が考え出したもののように思うかもしれませんが、漢字はヘブライ人が作り出したものかもしれません。

いわゆる、わたしたち日本人の祖先であるイスラエル人が作り出した可能性があるのです。

中国に漢字を統一させたのは、秦の始皇帝だと言われています。

現在でも、中国にはさまざまな言葉や発音がありますが、漢字を使ってそれらを統一しています。

日本の中に、方言があり、大阪弁も日本文字で言い表せるように、漢字で表されているわけです。

 

秦の始皇帝が、漢字で統一させるまでは、さまざな言葉が乱列していたと思われます。

この秦という国は、中国では一番、西にあり、イスラエル(カナンの地)に一番近い場所です。

 

イスラエル人は、バビロンの進行によって激しい迫害にあい、多神教に堕落していたイスラエル人は、聖書に書かれた唯一の神の預言通り、苦難を味わうことによって、ユダヤ教が復古しました。迫害や神様の預言から逃げるように、多くのイスラエル人が、聖書の信仰を再度持ちながらカナンの地を出て世界中に広がっていきました。

 

聖書の預言が的確であったため信仰心がよみがえり、多神教から一神教へと信仰心を高めて、また戻ったのです。

ですが、聖書の信仰が深まるということは、聖書の預言を恐れるということでもあるのです。

ですから、イスラエル人は、自分たちがイスラエル人であることを隠すように、自分たちの言葉を変え、文字も変えながら、東へ東へと向かっていったのです。

 

なぜなら、聖書に、イスラエル人は、東の果ての島々に暮らすことが、トーラー(モーセ五書)に書かれていたからです。

 

イエスキリストが生まれた時、3人の博士が出産を立ち合いました。

 

この博士たちは、東から西のイスラエルに来たと聖書には、書かれています。

 

日ユ同祖論を信じるひとは、日本から来た博士だったという人もいます。

 

だからこそ、他国の博士が古い文献から預言を研究して星に導かれながらやってきたというのです。

 

他国といえども、彼らの祖先からすれば、祖国ですから気づけたのかもしれません。

 

このように、2600年ほど前から迫害され、国が無くなった多くの本物のイスラエル人たちは、聖書を信じているからこそ、聖書の預言から逃げるように、東へ東へと移動していったのです。

偽物の白人系ユダヤ人が、本物だと主張して、本物のアジア系ユダヤ人が、自分たちはイスラエル人ではないと主張している理由も、解りますね。

 

本物だからこそ、聖書の預言を信じ恐れ、自分たちがイスラエル人ではないような文化に変えながらも、聖書の教えを守り続けたのです。

その最終形態が、神道だというわけです。

 

神道が聖書そのままの教えでありながら、聖書とは違うように見せている理由は、そこにあるわけですね。

 

その形跡のひとつが、漢字なのです。

 

秦の始皇帝の父は、商人の出であった呂不韋だった説があります。

この呂不韋という人物は、秦の始皇帝を最後まで、育てようとまるで父親のように、秦の始皇帝に教育を授けました。

ですが、秦の始皇帝は、イスラエル人である呂不韋と他民族であるハーフであったことから、その狭間で、もがき苦しんでいたかもしれません。

聖書の教えも知りながら、乱れていた中国大陸をみていた可能性があるのですね。

秦の始皇帝が中国全土を統一できたのは、この呂不韋の功績が大きかったのは言うまでもありません。

ですが、彼を遠ざけ、亡くなると、秦の始皇帝は、急激に破滅へと向かっていくのです。

そもそも、漢字は、倉頡(そうけつ)という伝説上の聖人から生まれたと言われています。3500年ほど前。考古学的には、殷という王朝の時代です。

聖書のトーラーが書かれた時代でもあります。

それをよみがえらせたのが、呂不韋や秦の始皇帝だったわけですね。

倉頡がイスラエル人だったかはわかりませんが、中国の伝説は、また世界の宗教と一致したものです。三位一体の神や蛇などの邪のような存在の神も表されています。イスラエル人だったのかは、解りませんが、一神教の思想ではなかったと思われます。

秦の始皇帝の時代に、漢字を改良して、聖書の漢字を作り出したのか、それとも、もともと漢字字体が、聖書にそって作られていたのかは、難しいですが、現在、わたしたちの使っている漢字の中には、聖書物語が隠されているのです。

 

聖書の教え、イスラエル人の秘密、漢字はそのひとつの証拠にあがるのです。

 

漢字の中に隠された聖書物語

1、”園”という漢字の中の聖書物語

聖書の話は、エデンの園からはじまっています。

この””という漢字の中に、聖書の話が隠されているのです。

”という漢字を分解すると

枠である”□” ”土” 枠の中にある”口” そして、”人”と”人”が2つ書かれています。

”□、土、口、人、人”です。

聖書には、神様は、はじめの人間アダムを土から造られたと書かれています。

口(クチ)は、人間に1つしかありません。口を表すのは、人間です。

”人口”と日本では、人の数を表すのに、人と口で、使われているようにです。

園はヘブライ語では、גן (ガン)という塀や壁、フェンスなどのような意味です。

四角く囲まれたフェンスの中に、エデン(パラダイス・最初の天国)は存在していたのです。

その四角いフェンスの中に、土で造られた人間であるアダムとその骨で造られたエバのふたりが、住んでいたのです。

それを表している漢字が、””なわけですね。

そう考えれば、「公園」や「動物園」は、フェンスに囲まれています。

そして、そこに自然の空間があるのは、まるで小さなエデンを模しているかのようにも思えますね。

2、”造”という漢字の中の聖書物語

”つくる”という漢字は、いくつかあります

「造る」「作る」「創る」

聖書は、これらを使い分けて訳されています。

この「創る」という意味合いは、何もないところから、無から有が作り出されることを表されています。

この「造る」は、物質や物、すでにあるもの、有から有が作り出されていることを表されています。

この「作る」は、”イ”から人が作り出したものを表されているわけです。

ですから、偶像は ”偶” ”像” どちらにも、”イ”が使われているように、「作る」や「造る」で表すことが正しいのでしょう。

偽物の神を人間の手で作るからですね。

この””の中にも、聖書の話が入り込んでいるのです。

”を分解していきましょう。

”ノ” ”土” ”口” ”之”ですね。

聖書には、人が造られた時、神様は、ご自分の霊を息にして、「フっ」と吹きかけられたことが書かれています。

この魂を吹きかけたものを表しているのが、”ノ”で漢字は、表されています。

例えば、”生きる”にも、”ノ”が使われています。

神様の霊が吹き込まれた時、人は生きるものとなったことが表されているわけですね。

”土”は、アダムは土で造られたことが、聖書に書かれています。

”口”は人を表すものです。「口論」という漢字がありますが、論を語り合えるのは、人間だけです。動物や植物は論を語り合えません。もちろん、宇宙人や原人というUMA(未確認生物)などどこにも存在していません。

”之”は、歩き出す、前に進むという意味があります。

「進む、追いかける、道を進む、迷う」などがそれに当たります。

ですから、””という漢字の中には、神様がはじめの人アダムを土で造られ、そのアダムの鼻に、神の霊である息を吹きかけられ、生きるものとなったという聖書の話が隠されているのですね。

3、”義”の中に隠された聖書の教え

神様を信じていない人には、義は存在していません。

その人が語る義は、人によって変わる義だからです。

現代人の中に”正義”というものは、存在しないと考えるひとが稀にいます。

その人は、人間がすべてを作っている世界を中心にみているので、正義がないと”信じ込んでいる”わけです。

ですが、聖書や漢字は、それを否定しています。

義というものは、人間が、どう考え、どう想うのかに左右されないものだと教えているのです。

”義”という漢字は、我の上に「羊」、我の上に「王」、我の上に「主」と書いて義です。

主という漢字は、三位一体を表されている漢字です。三つの横棒が1つの縦棒で組み合わされ、天(点)によって神様は統一されているのです。

そして、義は、この三位一体の神様、聖書でいう「イエスキリスト」であり、神道でいう「天照大神」が我の上にあることこそが、義だと教えているのです。

決して、人間が考えり、歪曲させたり、自分勝手にいう義は、義ではないのです。

そして、”正義”とは、「一つに止まる義」と書いて、正義です。

多く存在している義とは違い、正しい義こそが、正義なのですね。

それを現代人や過去の一部の人間は、歪曲させて使ってきたから、人間に絶望して闇に飲み込まれ始めると、この世には義はないと”信じ込んで”しまう人が生まれるわけですね。

これこそ、悪魔の思う壺というものですね。

ミイラ取りがミイラになるようなものです。

もともと、人間には、愛や正義は存在していません。人間は、高性能なコンピューターのようなものです。そのコンピューターに、言語で悪のプログラミングをされれば、その悪が正義だと信じ込んで、行動するのです。

ですから、人間には、愛もなければ、正義もないので、間違いや失敗を繰り返すのです。

ひとりとして、罪をおかさないひとはいません。

だからこそ、最初に人間そのものを造られた神様(イエスキリストであり、天照大神)が教えた言語と善のプログラミングによって、固定しなければ、人間が支配するこの世界は、滅んでしまうのですね。

人間が、変わり、どれだけ歪曲させても、正義は変わらないのです。

神様は、人間の手で作られるものではないように、愛や正義も人間に左右されるものではないのです。

もし、そうであるのなら、なぜ権力者の権力を押し付ける「憲法」が存在しているのでしょうか。

人間は言葉によってプログラミングされるのですから、権力があれば、自分勝手なプログラミングができるようになるのです。それは歴史が証明しています。

人間の闇を否定するかのように、正義は固く人間の上に存在し、わたしたち奴隷国民であっても、それなりの自由が現在ではあるのは、人間の力を超えた奇跡といわざる負えないのです。

なぜ神様は蛇(悪魔)の存在をいまだに容認し、それに傾く悪魔宗教家たちをそのまま滅ぼさずにいるのか、それは絶妙なバランスによって、闇の時代であっても平和を維持させるためなのです。

善悪は、人間が考える単純なものではありません。人間が善だと思ってしたことが、悪になる場合もあり、逆に人間が悪だと思ってしたことが、未来では善になることもあるのです。

聖書には預言が書かれているように、本物の神様は未来をも知っておられる方なのです。

その神様にこそ正義が存在し、天使や悪魔さえも、人間のための道具でしかないのです。

人間が、自分の体をガン細胞だらけにしないように、この世界は、神様の体です。神様は必要なだけのガン細胞を許可し、未来のための必要なものとして、容認されているのですね。

4、”船”の中にある聖書物語

聖書の話で一般人にも、有名なのがノアの方舟です。

このノアの家族は、ノアとノアの嫁から生まれた息子三人です。

そして、その三人の息子たちのそれぞれの嫁三人が大きな方舟の中に入ったのです。

合計、8人の人間が、船の中に入ったのですね。

”船”という漢字を分解すると

”舟” ”八” ”口”です。

口は、人を表すことは、上で話した通りです。

そして、その人が八人、舟に乗り込んだものを漢字の船は表しているわけです。

5、”田”から見える聖書物語

聖書には、エデンの園から水があふれ出て、4つの川がその地をうるおしていたことが書かれています。

四角く囲まれた場所から4つの川を表している漢字が、”田”なのですね。

果物の”果”という漢字にも、田が使われています。

これは、四つの川が流れたエデンの園の中心に、木が存在し、その実を食べてはいけないとされいた話に繋がるのです。

この実は、決してりんごでは無かったでしょうけれど、果物であった可能性はあります。

その果物自体に、漫画のワンピースに出てくる悪魔の実のような特別な能力があったわけでもなく、ただ神様の教えを守るのか、守らないのかの自由意志という選択があったのですね。

裸であったことも、アダムとエバは気づきませんでした。

それほどに、善のプログラミングしかないロボットのような存在だったのです。

そこに、悪のプログラミングが入り込むことで、ひとは善悪を知るようになったのですね。

その頃から蛇(悪魔)は、人間の悪のプログラミング父、悪魔の神として、存在し、その意思を継承した者たちを悪の子孫として、聖書は表されています。

遺伝子だけではなく、プログラミング(情報)によっても悪や善は、継承されていくわけですね。

悪魔の”魔”は、2本の木が使われています。

「木、木」です。

聖書には、エデンの園の中央には、2本の木が存在していたことが書かれています。

「善悪を知る木」と「いのちの木」です。

その中央に、鬼が存在し、エバをそそのかしたのです。

そして、悪のプログラミングがひとに入り込んだことによって、衣をはおった「裸」の概念が生まれたのですね。

6、”神”という漢字に宿った本物の神様

神という漢字は

”示”しめす と”申”もうすの組み合わせで作られています。

偶像という偽物の神は、話すことも、示すこともできません。

人間が石や木で作ったものだからです。

 

それらはしゃべることはないですし、示すこともありません。

 

ですが、聖書の神様は、その姿こそ、この世界そのものであり、霊であられ、今は天へと昇られたイエスキリストですから、現在では体はありませんが、人間に「ものを申して、示してくださる存在」として説明されています。

 

神道では、神様の臨在を感じるために、神様の住まわれる場所として、神殿、幕屋を用意しますが、神様ご自身の形は置きません。

上で話した”義”という漢字がありますが、”儀”という漢字もあります。この漢字は、「儀式」などでも使われますが、儀式は、神様のためにあるのではなく、むしろ、人間が神様の臨在を味わい、感じるために人間のためにあるものなのですね。

ですから、義をないがしろにする儀式中心の考え方のひとは、本末転倒なのです。

聖書は、神様の愛や正義を大切にするものです。儀式は、人間がそれを思い出すための道具でしかないのです。ですが、神様の愛や正義を押しのけて、儀式や儀礼に走るひとは、そもそも、そこに意味がなくなるのですね。

悪魔宗教ほど、そのように、地位や名誉のために、儀礼を重んじて、見た目を気にするように、誘導していくのです。ですが、本物の宗教ほど、地位や名誉ではなく、神様の作られた世界を自然に大切にするように、導くのですね。

 

釈迦の死後、歪曲された仏教と神道が習合することで、一部の神社には、偶像が置かれていますが、基本、神様の形は表しません。

自然そのもの、世界そのものが神様だからです。

この考え方は、聖書と一致するものです。

 

ですから、神という漢字は、とても意味深いものなのですね。

現在は、多くの神という漢字を歪曲させて、多神教の要素があるかのように思われますが、そうではないのですね。

 

7、”架”に隠された聖書と日本文化

十字架刑は、日本中にもありますが、この日本でも古来から存在している処刑方法です。

張り付けの刑ですね。

戦国時代頃から日本には、イエスズ会という悪魔宗教が、入り込んできました。

偶像や儀礼を重んじて、世界中に宗教とともに、入り込もうとしてきたのです。カトリックでさえも、イエスズ会は悪魔宗教だとして弾圧したことがあるほどです。

その宗教を「バテレン」といっては当時の日本は成敗していたのです。

 

ですが、彼らを張り付けにしている時点で、おかしいわけですね。

 

日本の貼り付け刑は、足を広げさせて、固定させるものです。木という漢字ような形にして、人を張り付けるのです。

 

そして、十字架の”架”という漢字は、

”力(ちから)” ”口(ひと)” ”木”の組み合わせで作られた漢字です。

 

チカラあるひとが、木に張り付けられた様を表しているのです。

 

日本文化は、新約聖書を含めた聖書のオンパレードです。

 

戦国時代なんて最近の話ではなく、2000年以上前から聖書による文化が広がっていたのが、この日本なのです。

 

聖書自体が、隠され、大化の改新によって書物が処分されてから、日本は、聖書の文化こそ残りはしましたが、聖書を失った民になりました。

 

逆に、西洋文化は、聖書こそ存在していますが、聖書の民であるイスラエル人の文化は、ほとんど失っているのです。

 

ですから、聖書の教えでありながら、多宗教の文化が存在しているのです。

 

その聖書が、日本人であり、イスラエル人に、再輸入されたという不可思議な話なのですね。

 

聖書通りの生活をしている優しい日本人に、西洋人が、聖書とは違う文化で、聖書を教えようとしたのが、戦国後の偽キリスト教と日本の関係だったのですね。

 

聖書をよく読み、未知なる国、日本を愛する人物の中には、日本という文化が素晴らしいもので、西洋文化が入り込むことで悪くなるのではないかと危惧していたひともいたのです。

現代でこそ、日本の文化はすたれ、多くの大切なものを無くしていますが、本来の神道による日本文化は、素晴らしいのです。

 

8、”男”という漢字から聖書の解釈を問う

聖書のエデンの話では、男女とも罪を持ち、善悪の木の実を食べました。

悪をはじめて理解した男女は、それぞれ罪による守りとして制約を神様からもらいました。

女性は、子孫を産む時、苦しむようになり、男性から支配されるようになるという制約です。

そして、男性は、人生をかけて働くことをよぎなくされる制約が与えられました。

農業の力仕事をすることが、男だとされているわけです。

日本では、仕事は、良いものですが、海外では、仕事をする人間は、罪人というイメージが昔から存在していました。

特に罪人は、限られた仕事、奴隷などの仕事をさせられる傾向があったのですね。

ですが、聖書をよく読んでみれば、人間が善悪の木の実を食べる前から、農業はされていました。神様からその方法を教えられていたのです。

仕事は、聖書では、喜びであり、生き甲斐となる良いものなのです。

ですが、人間に悪というプログラミングが入り込むことで、仕事は汚されるものにもなったのです。

例えば、Aさんが心から善行をしたとしましょう。ですが、Bさんにとっては、その善行は、悪行にみえてしまうのです。

これは、みている人間の悪が善行さえも、悪に変えてしまうのです。

もし、人間に悪というプログラミングがなければ、それを悪だと解釈することもできないのです。

犯罪者は、犯罪者の正義を持っています。正義を捻じ曲げていても、人間はそれを正義だと錯覚できるのです。

ストーカーは、相手からすれば、驚異ですが、ストーカー本人からみれば、愛だと本気で思っているわけです。

このように、人間は、悪のプログラミングが入り込んだ、その時点で、善でさえも悪にし、悪でさえも善だと錯覚できてしまうのです。

そのような人間に、もし神様が制約をかさずに、自然の法則を無視しても、成り立つようにしてしまえば、人間は破滅します。

論理的に考えれば、聖書に書かれていることは正しくても、それを歪曲させて正しくないように、解釈もできてしまうのが、人間なのですね。

人間はとても残酷です。

現代人が想像できないほど、残酷です。

聖書は、そんな人間が作り出した現実を隠しません。ですから、現代人が聖書を読むと理解できない場合があります。ですが、聖書をちゃんと読むと理解できるようになります。聖書は、単純な善悪では書かれていないのです。

なのに、聖書は、単純な善悪だと勘違いしているひとがいるのですね。

特に聖書に慣れ親しんでいない日本人は、そう勘違いしている場合があります。

この世界は、シンプルで一本道のように創られています。ですが、人間に悪のプログラミングが入った瞬間から世界をねじ曲がってみえるようにもなったのです。

聖書は、エデンの園の後の話も当然書かれているのですから、善悪を捻じ曲げる人間のために、善悪が善であっても、ねじれているのです。

だからこそ、イエス様は、救世主であるのに、犯罪者として十字架刑にかけられ、しかも、2000年後のこの時代では、何十億人も、そのイエス様は信じられているという不可思議な現実が存在しているのです。

史実は、小説よりも奇なり

この言葉通り、わたしたちが小さい頃から教えられていることは、すでに捻じ曲げられているのです。

情報規制で人々の意識をコントロールするのは、歴史をみれば、当たり前のようにされてきたものです。

現代だけ違うと思うほうが、単純すぎます。

そんな人間の世界の中で、聖書は変わらず、大切に伝えられてきたのです。

それこそ奇跡です。

聖書を利用してきた人間が作り出した宗教も、固定された聖書によって滅びかけました。

聖書は、人間の正義ではなく、神様の変わらない正義を教えるので、組織正義のように腐敗しないので、人々が目を覚ましてしまうからです。

日本だけが、聖書の知識で革命、明治維新を起こしたのではありません。

日本人が恐れた世界でさえも、聖書は革命、復古思想を取り戻したのです。

だから、現代は、憲法が存在しているのです。

これからも、人間は、多くを歪曲させて利用しようとしていきますが、利用しようとすればするほど、固定された聖書の真理は、それを見破るのです。

善悪の入り込んだ人間の複雑な世界で生きていくためには、基礎がなければ、太刀打ちできません。

エバのように、蛇にすぐに誘導されてしまうのですね。

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