思考の変化

クリスチャンは偽善者なのか

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人間の歴史をみると史実は歪曲され、時の支配者の都合のいい教えが広められています。

それは現代でも変わらず、まだ続いている悪しきプログラミングの継承です。

この国レベルの宗教の脳への汚染は、大昔からされてきたものです。

カトリックしかり、仏教しかり、バラモンしかり、多くの国教とされる宗教が自分たちの都合のいい解釈で宗教を利用しては、脳を汚染させてきたのは、歴史を知るひとなら言うまでもないことです。

現代では、学校宗教や警察宗教など、国を背景にして、正義を執行しているようにみえているものが、正しいと信じ込まされていますが、現代警察などはヤクザよりも闇が深いものなのです。

人間の歴史は、国家規模の騙しあいだけではなく、私利私欲による騙し騙されるなども繰り返し

「勝利者が正義。」という言葉さえも当たり前のように出てくるのが人間の歴史です。

「騙される方が悪い」という言葉もそれに近いものです。

 

ですが、言っておきます。

「騙す方が悪いのです。」

そして、これも言っておきます。

「いくら騙して目先の利益を得ても、いずれそれは己自信を呪う行為になって自分の精神を腐らせ、平安からは程遠くなり、嘘は暴かれていくのです。」

 

 

勝った者が悪であっても、勝った者は、勝利者として事実とは違うことを口にして、まるで正義のようにされてきたのです。

 

日本という国は、世界に比べるとまだ歪曲させることをあまりしない方なのですが、それでも日本の歴史も昔から捻じ曲げられ続けられているのです。

 

このように、人間社会をみると、善悪を固定することのむなしさに心を折られて、善の生き方を貫くクリスチャンを

「偽善者だ」と勘違いするひとが生まれてくるのです。

 

そして、そのように偽善者だと勘違いするのは、無神論という宗教を心から信じているひとが多いのです。

 

  1. ”神が存在している”と心から信じているひと
  2. ”神が本当にいない”と心から信じているひと

 

この2種類の人間は、観ている世界がまったく違うのです。

 

 

 

1、有神論者と無神論者の観ている世界はまったく違う

この絵をみてください。

これは2つの見方がある有名な目の錯覚ですね。

解らないひとのために、一応説明しておきますが、この絵は2つの見方ができるものです。

この絵をみせて、説明させると

ひとりは

「黒いコップの絵です。」と答えます。

ですが、他のひとは

「いえいえ、違いますよ。これはふたりの向かい合った人間の横顔の絵です。」と答えるのです。

1つの絵ですが、2つの絵が隠されているのですね。

これは人間の脳の錯覚を解りやすく説明する例ですが

このように、人間は、同じ物をみているように思えるかもしれませんが、実はまったく違う世界をみているのです。

次は、この写真をみてください。

 

これは写真ですから、同じ目線で、車がみえているはずです。

ですが、写真でこそ、同じ位置から同じ車をみているのですが、実際に車をみたとしても、同じ場所で同時に、この車をみることはできませんね。

あるひとは、後ろから

あるひとは、右側から

あるひとは、正面から、別々の場所や違う高さで、車をみることになるのです。

同じ物をみているかのように勘違いしてしまいますが、実は違う世界で人間は、それぞれ世界を観ているのですね。

あるひとは、これを車だとみるでしょうけれど、あるひとはこれをCGによる加工された写真だと気づくひともいるのですね。

 

同じ写真であっても、あるひとは、色を識別することができない脳のひともいます。

あなたがみている色は、本当に正しい色なのでしょうか。

これは青色の空ですね。

これは青色です。

ですが、あなたのみている色をわたしがみたら、青色じゃないと言うかもしれません。

逆に、わたしのみているこの空の色をあなたがみたら、青色じゃないと言うかもしれません。

なぜかというと

「この色が青色だよ。」と小さい頃に教えられて、あなたはこの色を青色だと認識しているのですが、それがほかのひとと同じ色でみているとは言えないのです。

大げさにいうと

わたしからみたら、あなたのこの色は、赤色なのに、小さい頃からその色を青色だと認識して教えられているので、それが青色だと思っているかもしれなのかもしれないのです。

この青色という色は、お互いに違う色で認識はしているかもしれないのですが、世界中にある色をみれば、共通してこの色になるので、お互いに同じ一致している色として思い込んでいる可能性もあるのです。

わたしは赤色でみているのに、あなたは青色でみていて、ふたりともその色を「青色」だといっているかもしれないのですね。

もちろん、芸術の世界では、色を強調して好き嫌いを表現しているのですから、多くのひとは、同じ色で認識しているかもしれませんが、ある人は、まったく違う色で、この空の青色をみているひとも、いるかもしれないのです。

そのひとの青色は、赤色であったら、その色は好きじゃないという人もいるかもしれません。

このように、同じ物をみているようにみえて、実は違うものをみているのが、人間なのです。

そして、有神論者と無神論者は、まったく違う世界をみているのです。

まず、無神論という考え方は、サタニズムから来ています。

悪魔宗教の思想ですね。

サタニズムというと、悪魔を教えるように思うひとがいるかもしれませんが、「むしろ神や悪魔というものは存在しない。」と教えるものなのです。

無神論者は、本当に心から神がいないと信じ込んでいるのです。

人間はテレビや車も作れるほど成長しているのに、生き物を作ることはできません。

それほどわたしたちのみている生き物は、信じられないほど高性能なのです。

このような高性能なものが神様の存在を表しているのですが、彼らには目があってもみえないのです。

神がいないと本気で信じているので、無神論者は、自己中心的な考え方をします。

自分の損得勘定が、正しい基準なのです。

もっというと自分が神様なのです。

自分が大事なのです。

片や有神論者は、神道であろうと仏教であろうと様々な宗教を信じていようと自分よりも上の存在を常に持っているのです。

もっというと自分はただの人間で、もっと大きな自分よりも大切なものを常に持っているのです。

無神論者は、常に1つの思考だけで世界を観ているのですが

有神論者は、常に2つの複雑な思考で世界を観ているのです。

あなたの財布が盗まれたとしましょう。

無神論者は、それを「やっぱりこの世界は信じられない。」と呪うようになります。

有神論者は、「盗まれた、悪い人間もいる。信じられない。」と観ながら「神様はこれで何を教えようとされているのだろうか。」

とふたつの複雑な思考を常にみてしまうのです。

なぜなら、心から神様を信じているからです。

有神論者にも様々なレベルのひとたちがいます。

ただ単純に、信じているだけのひともいれば、学問的に否定できないと認めているひともいるのです。

本来、後者を聖書は教えるものですが、どうしても、前者のひともいるのです。

とはいえ、前者だろうと後者であろうと、複雑なふたつの世界をみているのは、同じです。

無神論者にも、とくに日本人は、さまざまなひとがいます。

固定された神様は信じてはいないのですが、昔から祖父母などの神様を信じて、世の中に感謝をする気持ち、教えを継承している日本教を信じているひとが多いのが、日本人です。これは無神論と有神論のハーフのようなひとですね。

このようなハーフのようなひとは、あまり悲観的に世界をみないので、穏やかなひともいます。

今回、言っている無神論者は、100%無神論信者をベースにしているひとのことですね。

本当に心から神様がいないと思い込んでるひとです。

損得勘定という自己中心的な考え方の100%無神論という宗教を心から信じ込んでいる信者さんからみると、有神論者は、楽観的にみえるのです。

有神論者は、嫌な出来事も、試練であると考えられ、自分の精神の向上に役立てるので、辛いことも喜びになります。

しかし、無神論者は、嫌なできごとは、嫌なものとしての結果でしかないので、不幸のままなのです。

そこに意味はなく、ただ嫌な出来事なのです。損をしただけの結果なのですね。

自分たちが生まれてきたことにも、意味がなく、ただ存在しているだけなのに対して、有神論者は、生まれてきたことに意味があり、感謝するものだと考えます。

無神論というサタニズムには、余裕がありません。常に世を呪っている思考をしているので、自分で自分の精神を腐らせているのです。

不平不満や他人を批判する言葉が、口からよく出ます。

ゆるせないという呪いが、常につきまとうのです。

多くの日本人は、優しいといいますか、表面的な優しさから、不平不満をいうひとや我が物顔で意見をいうひとに、ちゃんと指摘しません。

サタニズムを信じている相手なので、その雰囲気から指摘するとそのひとの気分次第で、関係が崩れかねないからです。

何も指摘されないので、それで正しいと思い込むので、タチが悪いですね。

指摘しないのではなく、言ってもムダだと思われているのですが、本人は気づきませんね。

人間は自由意志を持っているので、世の中を悪く思うこともできれば、世の中を良いと思うこともできるのです。

例えば、聖書をまったく理解していないひとは、信仰心なしで読むので、自分勝手に自分の目線で聖書を解釈して、聖書を批判するのです。

良いものも、悪くみえることもできるのが人間なのです。

逆に、進化論などの悪魔宗教を良いものだとみることもできるのが人間なのです。

国によっては無神論という宗教を信じているひとは、何をするのか解らない恐ろしいひとなので、入国禁止される場所もあるのです。

ですから世界に出た時は、無神論であっても神道や仏教を信じているといったほうが無難な場合もあるのですね。

無神論というとは、「道徳心はありません。」といっているようなものだからですね。

道徳観念を結局は否定し、善悪を否定しているので、クリスチャンの行動や生き方は、彼らからすれば、お人好しにみえるのですね。

2、クリスチャンは、悪をみていないのでしょうか

 

はじめに言っておきます。

悪をみずに生きれる人間なんて、ほとんど存在しません。

それがもし出来ていれば、そのひとは聖人と呼ばれるようなひとでしょう。

喜ぶことも、悲しむことも、怒ることもあるのが人間です。

脳がふつうの状態ぐらいであれば、悪をみて生きていないひとなんていません。

 

当たり前のことです。

 

クリスチャンは、悪をみても、悪に流されず、善を選べる強いひとなので、いつも喜び、絶えず感謝しているように生きるのです。

 

悲しみを抱えても、神様を基準にして生きるのがクリスチャンなのです。

 

無神論者は、悪を恐れて恐怖して、悪を拒んでいるかのように思えるかもしれませんが、結果的に、悪にいつの間にか汚染されているのです。

 

人間の脳は、すぐに錯覚をおかしてしまうものです。

人間には、愛もなければ、正義もないので、正しくない行動も取れるのです。

ですから、正しいことを言っているようにみえて、その生き方が悪になっていたら矛盾している主張になるのですね。

エバをそそのかした蛇はひとつも嘘をつかずに、悪の道へと人間を歪曲させて導きました。いつの間にか悪になっているのです。

 

悲観的なひとは、死にそうになったり、過酷な環境になると「神様なんていない。」とすぐに口にしそうになりますが、これに矛盾があることに気づくでしょうか。

 

死にそうになったり、嫌なことを感じられるということは、死んでいないという証拠です。

死んだひとは、文句さえも言えないのです。

そして、人間は、常に奇跡的な環境で生かされ続けています。

 

宇宙では空気がないことのほうが当たり前です。空気が何千年も固定されて存在している時点で奇跡です。

空気だけではありません。水や食べ物があることも奇跡のひとつです。

人間はそれらに恵まれていなければ、文句さえもいえないのに、文句をいっているひとがいるのです。

言っていることと実際に起こっている現象が、矛盾しているのです。

このように、正しいことを言っているかのように思えて、実は歪曲させて悪の行動として、神様や他人を呪う言葉を口から出すのですね。

 

それ自体が、いつの間にか悪に歪曲されているのです。

 

悪口ではなく、指摘することは正しいことです。

悪口は感情から来ているもので、指摘する叱るという行為は、相手を想ってのことです。

イエス様も指摘や叱ることもしました。

 

私が言っているのは、悪になっている行動なのかどうかです。

犯罪者と同じサタニズムを信じているひとは、悪が正義になっているように、嘘やねつ造なども正当化しようとしますが、それらは悪のプログラミングから来ているものです。

悪です。

悪魔宗教は、善悪を複雑に逆転させては、善悪がないという思想を広げて、悪の行動を植え付けようとするのですね。

それと真逆なのがクリスチャンです。

悪をみたとしても、試練として受け止め、何が起こっても喜びと感謝にしては、悪から受けた被害をも善にしてしまうのです。

悪をみているからこそ、善を選ぶのがクリスチャンで、悪をみて、悪に誘導されるのが無神論者なのですね。

 

 

3、善悪は単純ではない

この世界はとてもシンプルで解りやすく創られています。

ですが、そのシンプルな世界を複雑に汚染するものがいます。

それは人間です。

人間以外のものは、神様が創られた法則に逆らうことなく、シンプルな動きをみせるのです。

ですが、人間は、神様の法則を無視して逆らうことができるのです。

そこに人間社会を複雑にしている問題があるのです。

人間は、なぜ神様の法則さえもさからうことができるのでしょうか。

聖書は、教えています。

人間は、エデンの園の時代に、イエスキリストという神様から言葉というプログラミングによって、善のプログラムを打ち込まれました。

善のプログラミングしかされていない人間は、善しか知らないので、善でしか動かない、動物や植物と同じような存在でした。

ですが、蛇(悪魔・暁けの明星・ドラゴン)によって悪というプログラミングが打ち込まれたのです。

悪を知った人間は、神様のように目が開かれたのです。

善悪を知ることは悪いことではありません。

善悪を知っても善に止まればいいのですが、悪に偏ろうとする人間が現れたことが問題なのです。

それが人間社会を複雑にした原因なのですね。

悪側の子孫。悪のプログラミングを受け入れた人間たちは、嘘やねつ造などを発明して、善だけで生きていたひとたちを簡単に騙しては、目の前の利益を得ていったのです。

善だけを信じているひとたちを騙すのは簡単です。

単純な嘘でも信じてくれるからですね。

ですが、悪のプログラミングを生み出すには、善のプログラミングから盗まなければいけません。

もともと、人間は善のプログラミングだけを教えられて動いていたので、その神様の教えは自然の法則に沿っているからです。

善のプログラミングの教えを盗んでは、悪に変換していったのです。

善であっても、悪にして、悪であっても善にするという発明までひろげていきました。

悪魔の子孫(悪のプログラミングを受け入れた人間)がシンプルだった人間社会を複雑にして、争いをもたらしているのです。

世界中の文化には、驚くほど共通点があります。

それらはひとつの家族から人間は増え広がっていったことを証明しています。

悪であっても善の教えから盗まなければ、知恵や知識は手に入らないのです。

善(ノアの教え)から盗んでは、悪に180度変えるのです。

この悪の行動が、善をも複雑にしたのです。

みなさんは、善をしたら、善になると思うでしょうか。

逆に、悪をしたら、悪になると思うでしょうか。

あなたが正しいことをしても、他人はそれを悪だと勝手に判断するようにもなっています。それは悪に精神が汚染されたひとは、善さえも疑い善意さえも悪に考えてしまうようになっているからです。

正しいことをしても、他の人間は、それを悪にする汚れた精神の人間がいることで、善意が悪になるようにもなっているのです。

善をすれば善になるという単純な人間社会には、現代はなっていないのです。

逆に、悪だと心から思ってしたことが、未来では善になっていることも数多く存在しています。

神様は偉大で、悪を持って悪が滅びることを良しとされています。

そのようにすることで、善人が手を汚す必要を無くされているのですね。

悪は、悪であって、悪同士で、疑い憎しみ合い、信じることができずに、滅んでいくのです。

例えば、悪によって殺し屋が育成されたとしましょう。

次の瞬間、殺し屋が自分の脅威になるのです。

このように、悪であっても、未来では善になっているものなのです。

その証拠に、わたしたち奴隷国民にも、人権を与える”憲法”が存在しています。

憲法は、権力者を縛る法律です。

奴隷国民を守る法律なのですね。

これを手に入れた経緯は、さまざまありますが、大きな要因は、悪魔宗教でした。

悪と善のハーフであったカトリックは、自分たちが正義の味方であることを示すために、悪魔宗教を退治していました。

そうすることで、解りやすい正義が広められているのです。

現代でいうと警察ですね。

警察は、国を背負っているという宗教で、自分たちが正しいと思い込んでいるひとが多い組織です。

ですが、警察組織は、ヤクザ以上に闇を背負った恐ろしい組織なのです。

法律や取り締まることができるので、やりたい放題できるからです。

このようにカトリックも同じように、やりたい放題してきました。

悪魔宗教だけを弾圧していたのなら、追い込まれることはなかったはずですが、一般人のプロテスタントまで、魔女だとして処刑していったことが、彼らを追い込ませていったのです。

プロテスタントは、カトリックが悪魔の手先であることを見破り、プロテスト、抗議しはじめたのです。

その流れを悪魔宗教は、見逃しませんでした。

悪魔宗教は、その悪の力で、多くの富を持っていたので、その資材とプロテスタントの流れを利用して、革命を起こしたのです。

王族貴族は、マリーアントワネットのように、無残に殺されていきました。

裁判さえかけずに、カトリックは殺されていったのです。

悪魔的な暴動が起こったのですね。

今までのカトリックへの恨みを晴らすかのような動きをみせはじめました。

フランス革命です。

この革命を当時の支配者、王族貴族たちが危機だと感じて、多くの国々が集まり、制圧したのです。

そしてナポレオンを捕らえて、幽閉したのですね。

ナポレオンがあそこまで強かったのは、裏に悪魔宗教の富があったからです。

関ケ原の戦いは、たった6時間で終わりました。

徳川家康の裏には、イギリスのエリザベス女王がいたのです。

イギリスから大筒を手に入れた家康軍は、圧倒的な戦いで勝利したのです。

これと同じように、裏で支援するものがいるからこそ、強かったのですね。

西郷隆盛にしても、リンカーンにしても、ヒトラーにしても、裏で支援していた存在がいたから、強かったのです。

日本が日露戦争などで活躍できたのも、裏で支援していた存在がいたからです。

ですが、彼らは悪魔宗教の駒でしかありませんでした。

悪魔宗教は、王族貴族と手を組んで、王族貴族の上に立ち、コントロールしはじめたのです。

彼らは王族貴族ではなく、わたしたち一般国民と同じ位置でありながら、上でコントロールするので、憲法を利用するのです。

現在は、お金が人間社会を支配しています。

お金発行権利を悪魔宗教が手に入れているのです。

彼らは王族貴族が自分たちを成敗しないように、憲法で押さえつけようとしているのですね。

そして、一般国民をも自由にすることで、自分たちの価値を刷り込んでいるのです。

悪魔宗教は、プロテスタントのように振る舞いながら聖書を利用しては、騙し続けているのです。

人間社会は、大きくわけて、3つの勢力が均等にあるからこそ、バランスが取れているのです。

  1. 王族貴族
  2. 悪魔宗教(財閥・多国籍企業)
  3. 奴隷国民

1と2が、3の奴隷国民を取り合いにしているのが、現代社会なのですね。

何も知らないのは、3の奴隷国民です。

カトリックだけではなく、プロテスタントの中にも、悪魔宗教は入り込んでいます。

神道や仏教、さまざまな宗教にも、もちろん入り込んでいます。

アメリカは、プロテスタントの国でありながら、どうして自由の女神という偶像が置かれているのでしょうか。

あれは裏でアメリカは、悪魔宗教の支配下にあるという象徴なのです。

悪魔による自由の国になってしまったのです。

お金発行権利は、世界中の国々195か国、ほとんど悪魔宗教の手に渡っています。

悪魔宗教が、現代社会を支配しているのですね。

宗教も支配し、マスメディアも支配し、もちろん政治も支配しています。

政治家などは、彼らのシナリオ通りの操り人形として、演技をしているだけで、何党など関係ありません。

争って討論している演技をみせることで、奴隷国民を安心させているだけなのです。

悪魔宗教は、憲法で、王族貴族を縛り、法律で、奴隷国民を縛っているのです。

そして、自分たちは、そのどちらでもない、企業のボス、財閥として、世界をコントロールしているのですね。

わたしたちが、憲法で守られていながら、法律で縛られていて、ある程度の自由と権利が与えられているのも、神様の絶妙なゆるしから来ているのです。

そうでなければ、このような微妙な世界にはなっていません。

悪は、ほとんど世界を支配してしまい、次はお互いの悪を食べるしかない状態になった時点で、悪が悪を狙うようになっているのです。

このように、神様のされることは、偉大で、悪魔のそれを確実に凌駕しています。

悪を残している理由は、人間の自由意志という尊厳を常に守るためでもありますが、毒は毒によって制する、悪は悪によって滅んでいく様を知っておられたからでしょう。

イエスキリストは、十字架刑で、殺されたひとです。弟子でさえも、イエスキリストは失敗したと悲しんだのです。

なのに2000年後には、何十億人ものひとたちが、処刑されたイエスキリストを信じているのです。

この未来を誰が想像できたことでしょうか。

クリスチャンの生き方は、善だけをみている単純なものではありません。

悪や悲劇を何度も何度も味わって、大きな支配者にも命をかけて、抗議してきた歴史があるのです。

プロテスタント(抗議する者)は、学問から聖書の解釈を導き出しては、カトリックのトリックを見破ってきたのです。

その手法をまた悪魔宗教は、盗み、偽科学や偽学問で、自分たちは正しいと思い込ませて、プロテスタントの中に入り込み、革命へと誘導していったのです。

もともと自由貿易が広がったのも、プロテスタントによる禁欲主義からはじまったものを悪魔宗教は、欲を増大させるものとして、いつの間にか変貌させたのです。盗んだあとは、歪曲させて奴隷国民の脳を汚染させるのです。

カトリックは、良くも悪くも、自由を束縛して、悪魔宗教を押しさえつけて、世界の安定を維持していました。

ですから貿易は広がりませんでした。貿易は欲であり、悪いことだという考え方があったのです。

ですが、プロテスタントは、神様を信じるひとたち、天国に行けるひとたちは、善の行動をしてしまうから天国にいけるのだから、そういうひとたちは、自分のためには、お金を使わず、他人に分け与えるという禁欲主義でありながら、与えることをしはじめたプロテスタントによって、自由貿易が広がっていたのです。

それを悪魔宗教はまた利用して、ベンジャミン・フラクンリンなどが人間的で、欲望的な思想にシフトしていったのです。

プロテスタントは、神様を中心にした考え方で生きる禁欲主義者なので、地位や名誉をほしがりませんでした。

ですが、悪魔宗教は、地位や名誉を目指し、上へ上へと駆け上ろうとしました。

いつの間にか、乗っ取られてしまったのです。

ですからアメリカは、善悪が複雑に入り乱れた悪魔と天使のハーフのような不可思議な国になっているのですね。

悪魔宗教にも、ヨーロッパ、アメリカ、日本、中国と分かれているので、それぞれの悪魔宗教が、自分たちの縄張りを守ろうと必死になっているのです。

悪魔宗教も一枚岩ではないのですね。

ヨーロッパは、ロスチャイルド。アメリカはロックフェラー。日本は、フジテレビなどの藤原家、太平洋戦争をわざと起こさせようとした近衛文麿元総理などです。

これらの悪魔宗教が、それぞれの国を支配していることで、均等がある程度守れているのですね。

天皇などは、1400年前から藤原家に人質として利用され続けてきました。

だからこそ、幕府を開いて、天皇を守りながらも、奴隷国民のための政治をしようとしてきたのです。

朝廷は悪魔宗教によって支配され続けたのが日本なのですね。

彼ら悪魔宗教のやり方は、共通点があります。

それについては、世界の共通点カナン人カインの一族で説明しています。

狡猾で悪を極めた手法です。

人間の脳の錯覚をマスターしては利用しているものですね。

単純であった世界を複雑にしているのは、人間です。

その人間は、悪のプログラミングを受け入れたことで、複雑な社会を造り出してきました。

悪が複雑になっただけではなく、善であっても複雑になったことで、未来がみえない人間や悪魔は、神様の偉大な計画を読めないのです。

ですから、悪をしたところで、それは未来では、善になっているという不可思議な状態になっているのですね

そして、その世界を綺麗にしてきたのが、抗議する者たちです。

この世界がシンプルであることを再度、呼び戻してきたのです。

イエスキリストもそうです。釈迦もそうです。

多くの悪のトリックを見破り、それらが惑わしていると教えたのですね。

歴代の預言者たち、モーセやイザヤなども、常にひとびとの目を覚まさせようと努力していました。

人間ではなく、神様であり、神様が創られた原理原則を大切にすることを教えたのです。

ベンジャミン・フラクンリンなどは、それを神様を無くして、原理原則だけに目を曇らせていった者なのです。

神様なしでは、人間に意味はありません。愛もなければ正義もないからです。

わたしたち人間は、人間の中に答えは存在しないのです。

人間の中に愛はありません。人間の上に愛があるのです。

4、聖書は、偽善的な教えなのか

聖書をまったく読んでいないひとは、聖書は偽善的な書物だと思い込んでいますが、聖書を読めばわかります。

聖書の7割は、人間の失敗が書かれているのです。

オブラートな言葉に包み込まれてはいますが、人間の残酷さが書かれているものが、聖書なのです。

聖書を読んで偽善的ではないことは、ひねくれてないかぎり、解りますね。

聖書を多少、読んだひとは、聖書が残酷なことをアピールするひとがいますが、悪魔宗教の残酷さを解っていない、または解っていてわざと歪曲させているのです。

現代人の価値観で3000年前のひとたちの状況をみてはいけないのです。

歴史をみるうえで、それは常識です。

このように、聖書は偽善的ではまったくありません。

むしろ悪のやり口を暴露し続けているのです。

多くのまやかしやトリックを聖書は見破ってきたのです。

その聖書を信じるひとたちに、宗教に騙されているというひとは、釈迦に説法しているような、面白い話なのですね。

宗教だと知らずに、学校宗教や進化論宗教など多くの宗教に騙されているのに、その騙しを暴く元祖である聖書を信じているひとたちに、騙されているというのは、滑稽ですね。

奴隷国民には、それらの手法は明かされていないので、当然といえば当然ですが、善悪が逆転してしまっている面白い話でもありますね。

ラジオの時間という邦画があるのですが、あのようなものでしょうか。

5、悲しみを抱えるのが、クリスチャン

教会にいけば解ると思いますが、多くのクリスチャンが、涙を流しながら賛美や祈りを捧げています。

人の悪や自分の悪、それらのために、命をかけてくださったイエス様に、申し訳ないと涙するひともいます。

悪を知らなければ、涙を流すことなど、誰ができるでしょうか。

善だけをみているのなら笑顔だけになるでしょう。

クリスチャンは、自分たちが罪人だということを知っています。

常に悔い改めを求めて生きているのが、クリスチャンなのです。

それでもなお、喜び感謝を続けるのです。

悲しみや悪を目の当たりにしても、ゆるがない愛や正義に従うのです。

人間の中に、愛や正義を求めてはいません。

人間の上にある愛や正義に従うのが、クリスチャンなのです。

WWJD

イエス様ならどうするだろうか。

これを心に留めながら、シンプルを貫くのです。

まとめ

クリスチャンは、偽善的ではないことが解ってもらえたでしょうか。

悪をみても、悪に誘導されない強さを保ってしまうのが、クリスチャンなのですね。

 

神様を信じていないひとは、人間に惑わされ、組織や地位や名誉を求めて、悪に誘導されてしまいますが、神様を信じているひとは、組織や地位や名誉だけでは生きてはいなく、悪をすると心が痛くなるので、できない体質になっているのです。

 

昔の日本人はこのようなひとたちばかりでした。

 

ですが現代の日本人は、大切な神様を忘れてしまい、偽学問や偽科学に騙されて、人間に目を向けすぎているのです。

 

人間を否定しながら、人間に固執しすぎている矛盾ある行動を続けているのです。

 

世の中が闇になっても、本物のクリスチャンは、光かがやけるのは、神様を感じ、信じているからなのです。

 

さらに上のクリスチャンは、信じるのではなく、本物の科学的な目で、神様の存在を認めざるおえない者のことです。

 

信じる時代ではなく、認める時代に入ってきました。

 

進化論という宗教などに目を曇らせているのではなく、学問的な目で世の中をみれば、恐ろしいほど洗練されたこの世界に驚愕せざるおえません。

これが偶然できたなんて、大嘘はどう考えても不可能です。

 

もし、偶然にこの地球が存在しているのなら、次の瞬間、わたしたち人間は生きていけない環境になるほうが、至って普通のことなのです。

 

空気がないことのほうが、宇宙では当たり前なのです。

 

喜び、感謝を続ける生き方をしている人を悪くいうひとのほうが、脳が汚染されているだけです。

悪に注意することは大切です。ですが悪に汚染されれば、意味はありません。

本物は、悪をみても、世界が闇になっても、善を選ぶひとのことです。

 

善行が悪になっても、善を貫き、正しいことをし続ける強さが、求められるのですね。

 

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