イエスキリスト

聖書では、どうすれば救われると説いているのか

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聖書は、創世記から黙示録まで、一貫して登場する方がいます。

それは、イエスキリストという主とも呼ばれる、神様です。

そして、聖書の教える救いは、そのイエスキリストにしか存在しません。

多くの宗派があるキリスト教ですが、キリスト教には、聖書という固定されたものが存在しています。

仏教の釈迦は、自分がただの人間だということを含め、学問を望む傾向から書物を残しませんでした。ですから、釈迦の死後、弟子たちが釈迦が否定したものを多く取り入れてしまい、釈迦の教えとは真逆のことばかりのような仏教もあるのです。

ですが、キリスト教やユダヤ教、イスラームは、固定された書物が存在しているので、大きく歪曲することはしずらく、仏教よりも宗派が少ないのです。ですから、かなり共通しているのです。

救いはイエスキリストにしか存在しない

というものも、共通しています。

イエスキリスト以外にも、救いがあると説く宗教は、キリスト教ではないと言えるのですね。

では、その聖書は、どのようにすれば、救われると教えているのでしょうか。

聖書では、どうすれば救われると説いているのか

1、聖書の救いは、聖書が正しい。

聖書の救いは、聖書に書かれていることが正しいというのは、当たり前のように思えますが、歴史を振り返ってみると、同じ聖書を読んでいるのに、聖書の解釈を歪曲させて教えてきたのが、人間です。

宗教を立ち上げ、次第に人が増えていくと、人の集まりは、組織となっていきます。

ノンクリスチャンであれば、会社を立ち上げ、人が増えていくと、組織化していくのと同じです。

ここで、正義が2つに分かれてしまう場合があります。

原理原則による正義と組織の正義です。

原理原則は、組織には属さず、正しいという脳のプログラム、遺伝子や五感や六感などから自然に湧き出てくるものです。

片や組織の正義は、その組織を存続させようとする自我のような正義があり、原理原則の正義ではない、人間的な偏った正義になっていきます。

多くのキリスト教の教会は、当たり障りのない、良いことだけを教える組織宗教が多く、本当の世の中に存在している悪や人間の恐ろしさを教えません。

教会の悪いところも指摘せず、組織正義を優先しがちになるのです。

あなたが、人間ならその気持ちもわかると思います。

あなたは、結婚して、家族を持つようになると、その家族が組織になり、あなたにとって大切な依存する存在となるので、その家族のためになら、嘘などの悪もしょうがないと思うのと似てますね。

釈迦は、そのような関係を縁で例えました。大切なものが、実は原理原則を狂わせる足かせになってしまうことを教えたのです。

聖書も同じです。

イエスキリストは、生涯独身でした。ユダヤ教徒ではありましたが、ユダヤ教の組織には属していませんでした。イエスキリストご自身、人間的な大切なものは、まったくなかったような生涯を送られています。

人間的な母親であったマリアにも、一線を引いていました。

ヨハネの福音書2章2節ー4節

イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。すると、イエスは、母に言われた。「あなたは、わたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」

このように、イエス様は、人間的であり、組織正義という依依存性があるものは、家族であっても線を引いていたのです。原理原則を創られた神様のご計画を大切にされたのです。

釈迦も同じでした。釈迦は、28歳までに、家族を持ち、奥さんだけではなく、子までいました。

ですが、釈迦は、その家族を捨てて、修行に出たのです。

大切だと思っているものが、実は自分を束縛しているしてしまっていると理解したのです。

イエス様は、マリアの人間的な愛の葛藤と苦しみを理解していました。息子である自分が、処刑される寸前に、マリアに言いました。

ヨハネの福音書19章26節・27節

イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

イエス様は、間違いなく人間的な母親であったマリアと自分は、一線を引いて、まったく関係がないことを示されたのです。

カトリックという悪と善の融合した宗教は、組織正義が優先でしたし、今でも原理原則の正義を無視して、組織正義を優先にしがちです。

ですから、この箇所をカトリックの聖書では、消されているという恐ろしいことまでしているのです。

このように、人間や組織は、固定された聖書が存在していても、自分たちの都合のいいように解釈して、歪曲させていくので

聖書にちゃんと書かれているのかを自分で聖書を読んで確かめ、理解する必要があるのです。

わたしのサイトで書かれていることをそのまま信じてはいけません。鳩のように素直でありながらも、蛇のように賢く考えることもしなければ、騙されてしまうのです。

ですが、原理原則、本当の科学や学問によって立証されるのか、自分で確かめなければいけないのです。

そして、聖書の教える救いも、聖書に書かれていることが正しいのです。

聖書がなぜ正しいのかは、また別のところで話しますが、人間が人間的なもので歪曲させることを理解してください。

そうでなければ、お金を払いお札を買えば、救われるなどのとんでもないような救いまで、信じてしまい兼ねないのですね。

救いにお金が関係するわけがないのに、ひとの脳は、すぐにトリックに騙されるのです。

2、救いの解釈は、大きく分けて2つある

聖書の解釈は、大きく分けて2つありますが、どちらもイエスキリストによる救いです。このどちらが本当に正しいのかは、正直いって分かりません。

ですが、どちらを教えたほうがいいのかは、分かります。

意味が解らないと思いますので、説明していきます。

  1. 十字架刑に架けられたイエスキリストが、わたしたちの罪を背負い死んで蘇ってくださったことを信じたひとが救われる
  2. イエスキリストがすべての人の罪を背負って死なれたことで、信じる信じない関係なく、すべてのひとは、救われる。

どちらも、イエスキリストによる救いですが、信じて救われるのか、、信じなくても救われるのかで、解釈が違ってくるのです。

かなり大雑把に、ストレートに分けているので、それぞれ反論や意見が分かれてしまいますので、申し訳ありません。

例えば、1だと固定したとしましょう。イエスキリストを信じなければ救われないのであれば、イエスキリストが生まれる前の人たちは、救われないのか?と反論されます。

ユダヤ教ならまだ分かりますが、200年前まで、多くの宗教をそれぞれの国や民族で信じていて、言葉さえも通じないようなひとたちが、どうしてイエスキリストの存在を知り得るのでしょうか。

森の奥で生活してきた民族に、福音というイエスキリストの救いは、すべてのひとに届いていたのでしょか。

わたしたちは日本人で聖書を普通に読めますが、聖書を禁止されている中国人は、とても不利ではないでしょうか。

次に2のすべての人がすでに救われている を固定した場合の反論は、どうなのでしょうか。

イエス様が死んで蘇られた瞬間、すべてのひとたちは、宗教や言葉や時間の壁を越えて救われるようになるのはいいですが、悪人であっても、救われるのでしょうか。

だったら、死ぬ寸前まで、やりたい放題して、最後の最後に、ゆるしてくださいと言えばいいじゃないかと考えれば、世の中はまた破滅してしまいます。

ちなみに、わたしは、1と2は、どちらも正しく、どちらも正しくなく、1と2が両方組み合しているものが、正解ではないのかと信じています。

ですが、教える時に強調するべきは、1だと思っています。

多くの教会が1を強調して教えていることは正しいということですね。

1のイエスキリストだけに救いがある解釈が正しい根拠

1が正しいという根拠になる聖書の箇所は、イスラエル人の祖ともいえるアブラハムの出来事です。創世記などを書いたとされるモーセよりもさらに400年以上も前の人物が、アブラハムです。

アブラハムとその妻サラには、こどもがいませんでした。サラが不妊の女性だったからです。ですが、神様は100歳になったアブラハムと90歳になったサラに声をかけられ、あなたたちにこどもが出来、その子孫は砂のように増えると教えたのです。

そして、100歳のアブラハムは、喉から手が出るほどの息子イサクが与えられたのです。

ですが、神様は、その大切なイサクを祭壇で、全焼の生贄にしなさいと命じられました。

次の日、アブラハムは、何の疑いもせず、イサクを山まで連れていき、祭壇に寝かせて、そのイサクめがけて、ナイフを振り下ろそうとした瞬間、神様は止めたのです。

そして、アブラハムの信仰が深いことを証明され、その信仰が義とされました。

創世記22章10節ー13節

アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」アブラハムが目を上げて見ると、見よ。角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。


※ちなみに、この出来事の伝承は、イスラエル人である日本人にも伝承され続けました。諏訪神社には御頭祭といわれる儀式があり、このアブラハムの話そのままを明治時代まで、際限しつづけてきたのです。神道は多神教にみえて一神教なのです。明治時代から特に歪曲させられはじめたのです。聖書では神様を八百万の神ではないですが、「万軍の主」とも呼ぶのです。


人間は、罪のゆえに死ななければいけない存在になりました。本当ならイサクのようにわたしたちが死ななければいけないのです。ですが、アブラハムの話により、神様への信仰心によって、神様はその人間に身代わりになる雄羊を用意され、身代わりになってくださることが解ります。

このことにより、イエスキリストに信仰を持つひとは、義とされ認められ、イエス様の身代わりは、適応されるのが、旧約聖書によって根拠にされているのです。

神様への信仰心があるからこそ、ひとは組織や人間的な大切なものを捨ててでも、正しい行いができるようになるのです。神様への信仰心がないひとは、自分が神様なので、ひとにバレなければ、何をしてもいいと思ってしまうのです。

また、死ぬ寸前にイエス様を信じるという考え方は、そのひとによるエゴであり、策略です。神様は人間の姿形ではなく、心を読まれるので、彼らのそのような浅はかな策略はお見通しなのですね。未来さえもみることができる方には、すべてお見通しなのです。

その他にも、聖書は一貫して、イエスキリストによる救いをイエス様が生まれる前から預言され続けてきました。救世主伝説は、まことしやかに色々な形に言い表されて、噂され続けてきたのです。

ですが、イエス様への心からの信仰によって、わたしたち罪人は、義とされ認められ、救われる許可が与えられるのです。

よこしまな策略は神様には通用しませんから、そのような考えの人間は許可されないと考えるのです。

ローマ4章3節

聖書は何と言っていますか。「それで、アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。

ローマ3章10節

「義人はいない。一人もいない」

※義と認められたということは、アブラハムでさえ、義ではないとされていたということです。

ヨハネの福音書14章6節

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

使徒の働き4章12節

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。

このように聖書には、とても沢山、イエスキリストによってのみでしか、救いはないと書かれているのです。

 2のすべてのひとが救われているという解釈が正しいという根拠

わたしたちが、日本人であることは、わたしたちには選ぶことができません。生まれる前に、日本人のこの姿形がいいと選ぶことができないのです。

アダムにはイエスキリストによってエデンの園の時代に、善のプログラミングだけがされました。その後、蛇によって悪のプログラミングが打ち込まれたのですが、そのプログラミングは、その後の子孫、わたしたちにまで、入り込んできました。

プログラミングだけではありません。遺伝的にも、わたしたちには罪が継承され、その原罪という罪の大本まで、継承してしまっているのです。

ひとりのアダムによってすべてのひとたちは、罪人になってしまったのです。黒髪で黒い目をしているものが嫌でも受け継がれるように、人間は親の遺伝子を良くも悪くも、受け継ぐのです。

わたしたちが苦しむのは、その時からの悪が入り込んだためなのです。

わたしたちの選択権がないまま、原罪という罪の大本は、生まれた時からすでに組み込まれているのです。

ローマ5章17節ー19節

もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵と義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエスキリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すならわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

アダムひとりによってすべての人間が罪人になったのなら、イエスキリストという大昔から預言されていた神様の身代わりという行為が、すべての人の罪を捨て去り、永遠のいのちを与えるのです。

エデンの園の時代に、永遠のいのちを与えるという、いのちの木とはイエスキリストだったからですね。

また、次のように聖書は書かれています。

使徒の働き16章30・31節

そして、ふたりを外に連れ出して、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

家族とは、あなたの生活を一緒にしている家族のことでしょうか。アダムからみれば、すべてのひとは、自分の子孫であって家族です。であるのなら、あなたがイエスキリストを心から信じたのであれば、その信仰心によって義と認められ、すべてのひとも救われるとも解釈できるのです。あなたが心から信じた瞬間、森の奥の民族も救われているかもしれないのです。

イエスキリストが十字架刑に架けられ、死んだ瞬間、イエス様は「完了した。」言いました。

ヨハネの福音書19章30節

イエスは、酸いぶどう酒受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。

この世が創られ、エデンの園の時代から多くの預言が継承されてきましたが、それらすべて成し遂げられたのです。

それは過去の話だけではなりません。これからするわたしたちの罪をもすべてイエス様は背負われたのです。

イエス様が死ぬ瞬間、まだ生まれていない、わたしやあなたの顔を思い浮かべ死なれたと表現するひともいます。

国や時代、言葉を超えて、救いは、もたらされたかもしれないのです。イエス様の十字架刑とは、世界を支配して平和にするよりも上の過去・現在・未来という時間さえも支配する壮大な計画のことなのです。

わたしたちは、アダムから継承された罪を背負って生まれていますが、それらは選べません。それと同じように、あなたの才能も選ぶこともなく、あなたには、あなたの才能・賜物が与えられています。これらも、選ぶことなく与えられるものです。

神様からの祝福は、人間の意思に関係なく与えられるものなのですね。

善人にも、悪人にも等しく、雨を降らされる方が、神様なのです。

だからといって、悪人が得なわけではありません。神様が創られたこの世界は、神様の方程式によって形成されているので、悪をするとそれは滅びるようにシステム化されているのです。

一見、悪人が得をしているようにみえますが、彼らは自分たちの悪のゆえに、他人を信じることなく、人を恐れ、悪を恐れます。お金があってもまったく平安がない人もいるのです。お金に依存すれば、そのお金がなくなる恐怖がつきまとうのです。いつ支援して作った殺し屋に襲われるのかもわかりません。他人を疑い、疑心暗鬼になって今の状態を必死で、守ろうとする光景は、決して幸せとはいえません。自分の心からの価値観が悪なので、他人も悪にみえるです。悪の無限のループへと引きずり込まれていくのです。

必死とは、必ず死ぬと書いて、必死なのです。

善人は、悪人からすぐに騙されるかもしれませんが、幸せです。悪をしないので、悪に怯えて暮らす必要も、多くはありません。家族を事故死で亡くす確率はあっても、殺し屋という高確率で死んでしまうようなものに、狙われることもありません。自分の心からの価値観が善なので、他人のよいところもみえるのです。人を信じて、広げていき、平安が伝染していくのですね。

このように、悪人にも雨を降らされる神様は、悪人であっても救われるかもしれませんが、この世において悪人は、神様の法則と反しているので、悪魔に引きずり込まれるような生き方になって物はあっても平安はなくなるのです。

あなたの家族にはお金や物がないかもしれません。ですが平安があることは、とてもすごいことなのですね。

また悪人であっても救われることは、十字架刑にイエス様と一緒に掛けられたひとの場合で分かります。

ルカによる福音書23章39節ー42節

十字架刑にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いをうけているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

3、どちらが正しいのか

わたしは、どちらも正しいと思います。どちらも、一致する事柄だからです。例えば、アブラハムは、イエスキリストの存在を知るすべのない時代です。ですが、彼は、神様による信仰によって義人とされました。

他のところでも書いていますが、この世界には、共通点があります。神概念が世界中にある不思議があるだけではなく、その神概念もかなり一致しているのです。多くの宗教は、実は最初のアダム、またはノアの神様からはじまり、悪魔宗教が、歪曲させて、ノアの教えから悪魔へとシフトしようとするもので、汚染されていっているだけなのです。

結局、みなは同じ神様から来ているので、その信仰心は、1つの神様に絞られるのです。

神様を心から信じているひとは、心に神様がいて、一緒に生活しているので、悪いことをすると心が痛むのです。

このように、どんな宗教であっても、神様に忠実である人間は、心が清らかなのですね。

すべての人が救われるといっても、それはイエス様という存在から来ているのは、変わらないのです。

世界中に広がっていた救世主伝説を成就したのが、イエス様だからです。

ローマ帝国は、多神教であったにも関わらず、聖書に一致するところを見出し、信じられないほどの論理的な聖書とイエスキリストの生涯に認めざるおえなくなったのです。哲学などの勉強家であったローマ市民は、とても論理的だったのですね。

世界中に、多くの神話がありますが、聖書ほど明確に書かれている書物は、存在しません。はっきりと明確に書いているだけに、逃げ道がないにも関わらず、説明出来てしまうこと自体が人間の能力を超えた書物なのですね。

ギリシャ神話やエジプト神話、古事記などを読むと解りますが、何を言いたいのか、まったく解らず、結局ひとによって解釈はどうにでも判断できるようなものになっているのです。それが人間の作り出したものの限界なのですね。あやふやにするか、のちに残すことでしか、未来のみえない人間には、作れないのです。

このように世界中の伝承の一致、それを明確に書かれている聖書は、ただ唱えれば救われるというのではなく、大昔から、この世界が創られてからの根拠があるからこそ、そこに救いに至るのです。

行いでもなく、誰でもなく、それでいて人間の自由意志を尊重しながら、世界は動いているのです。

これこそ、全知全能の神様しか見通すことも、それを可能にすることもできないことなのです。

そして、強調するべきは、1のイエスキリストが死んで蘇ったことを信じたひとだけが救われるという解釈です。

なぜ、2より1を強調するべきなのでしょうか。

例えば、3・11大震災で、放射能が広がりました。

ある学者は、1年100ミリシーベルトでも、健康に害はないと言います。ある学者は、1年1ミリシーベルトでも、危険だといいます。

どちらを信じればいいのでしょうか。

まだ、どちらが正しいのかは、解らないのです。

であるのなら、1ミリシーベルトを優先にするべきなのですね。

なぜなら、1ミリーシベルトをクリアしていれば、100ミリシーベルトも自然とクリアしているからです。

未来では、やっぱり100ミリシーベルトだったことが解ったとしても、何の問題もなく、1ミリシーベルトだと主張していた学者があやまるだけで済むのです。

これと同じで、イエス様を信じなければ救われないということを優先することで、2もクリアしているのです。であるのなら、1を強調すればいいのです。

そして、悪人もイエス様を信じなければ救われないと思えば、悪いことには、簡単には手を出せなくなるのです。

結果、悪人であっても、救われるのかもしれませんが、それを信じるには、一種の賭けみたいなものです。

フタを開けてみれば、悪人は、天国にいけませんでした。あなたはゲヘナ行きですと言われたら取り返しがつきません。悪は悪の解釈には楽観的すぎるのです。なぜ、そこだけ楽観的なんだ?と何度も思うことが多いのです。

すべてのひとが救われることが有力であっても、厳しい道を示すべきなのですね。

イエス様は、天国にいけることの難しさを例えで言い表しました。

ロバが針の穴を抜けるほど、難しいと言われたのです。

針の穴とは、あの小さい針の穴ではなく、石で形成された穴のことで、こどもなら入れるぐらいの穴のことですね。

奈良の大仏にある通り抜ける穴のようなものです。

ロバがあれを抜けるのは、難しいですね。

わざわざロバが穴に入ろうとすることもないのです。未信者も自分から救われようとはしませんから、例えがとても上手なイエス様ですね。

4、極悪人でも、救われるのか

わたしたちからみて、悪人だと分かるひとは、極悪人ではありません。彼らは解りやすい悪人で、ある意味、純粋な人です。悪をすることで気持ちよくなれるのを純粋に楽しんで滅ぶような低レベルな悪でしかありません。

上のオモチャの写真は、一見、犯罪者と警察のようにみえますが、どちらが本当の悪人なのでしょうか。

表面的な知識しかないひとは、警察が悪いわけがないと思い込みますが、日本の警察はヤクザ以上に恐ろしい犯罪組織です。何も知らず正義感を持って警察にはいった女性に幹部が堂々と手をだして、組織ぐるみで、連日のように襲われた女性のほうが誘ったのだと脅迫され、取り調べを受けるのです。

訴えるべき場所で堂々と犯罪をするところに、訴えるわけにもいきません。法を背景に、やりたい放題しているので、ヤクザ以上に危険です。

本当に悪人は悪人で、善人は善人なのかを見定めないといけないのですね。いつもいつも、警察や医療関係のドラマが流されているのは、どうしてなのかを考える必要があるのですね。それらは脳を汚染するために、偽物の正義を植え付けているのです。

もちろん、本物の医者もいれば、本物の正義感のある警察官もいて、彼らに期待するばかりです。特にクリスチャンの警察感は、闇の中の光として頑張ってほしいですね。そういった正義感のある警察が、警察組織の闇を暴いているのです。

日本の警察は、戦争の負けてから悪の組織になるように、はじめからシステムが組み上げられているのです。そのシステムは、警察だけではなく、ほとんどすべての機関に及んでいるのが、現代社会なのです。すべての警官に知らないうちに、賄賂がポケットに入るようにして、もし警察組織を裏切れば、汚職警官として逆に犯罪者扱いされると脅される材料にされるのですね。ですから、これから警官になろうとするひとは、警察組織からお金が給料以外で入るような甘い話には、署名などをしないようにするべきです。その書類に署名しないと警察内でイジメられ、要注意人物として指定されてしまいますが、それでも原理原則の正義を貫けるひとが求められることでしょう。要注意人物としてあげられると、同じ警察官が罠をしかけて、あなたの弱みを握ろうと指紋や生活をスパイするかもしれませんが、負けないでほしいところです。

 

そのような社会の裏のことを表面的に暴露して脳を汚染していったのが、オウムという2重洗脳、悪魔宗教なのですね。

本来、社会の裏の闇を暴露してきたのは、プロテスタントという抗議する者たちでした。ですが、現代では、社会の裏を暴露している多くは、悪魔宗教の集団なのです。プロテスタントの成功プロセスを盗んで、悪へと利用しているのです。ですから、もし何か宗教に興味をもって信じたいひとがいれば、新興宗教には近づかないことです。昔から存続しているような神道や仏教、キリスト教やイスラームなどの伝統宗教のほうが安全です。もちろん、その中にも偽物があることはいうまでもありません。プロテスタントの中にも、悪魔宗教の人物が入り込んでいるように、神道や仏教にも、イスラームにも入り込んでいるのです。

 

本当の極悪人とは、そのような人間を計画的に増やそうとする人です。

もし、あなたがノンクリスチャンで、聖書のことを何も知らずに、オウム真理教の麻原彰晃の話を聞いたとして、あなたが理解力があるひとで、頭のいいひとなら、あなたはオウム真理教が正しいと思うこでしょう。多くの高学歴というひとたちが、熱烈にオウム真理教に陶酔していったのは、バカだからではありません。頭がよくて柔軟だったから2重洗脳、2重の脳の汚染に騙されたのです。

過激派共産党員も同じです。なぜ、あれほど陶酔して犯罪をおかすのか、一般人は理解できませんが、何も知らないひとがその事実を知れば、騙されてしまうのです。

それほど、悪魔宗教は、善悪を超えていて、悪に誘導する知識や知恵があるのです。

そして、その麻原彰晃やそれを操った幹部でさえも、小物であって本当の極悪人はそれ以上で、普段はわたしたちから先生と呼ばれて、まるで聖人のように扱われているようなひとたちなのです。

表では、絶対に悪をせず、表では善行を常にみせつけて、裏では、とんでもない恐ろしいことをしては、麻原彰晃のような人物を育て上げて支援しているのです。

わたしたちの想像できないような映画や小説以上のことをやっているのです。

とんでもないことをわざとすることで、一般人がそんなことするわけないと気づかないように思い込ませるのです。

このような計画的な極悪人は、人間には判別するのは難しいですが、神様はすべて知っておられます。表向きは善行をすることを計画とする彼ら悪魔宗教を未来のかたちのために、許可されていますが、それは神様の計画だからであって、彼らはそのために、自分で追い込まれていきます。

神様のご計画が偉大であることは、歴史や憲法、人権があることで証明されているのですね。まだまだ、表面的な憲法や人権で、不十分ですが、それらが存在している時点で、素晴らしいことなのです。

極悪人はそれらを巧みに利用して、存続しているのです。彼らにとって善悪とは利用するために存在しているのですね。

そして、罪の中でも、解っていてする罪と解らないでする罪があります。

例えば、イエス様を十字架刑に架けた時、イエス様は、

「彼らを御赦しください。彼らは何をしているのか分かっていないのです。」と言われました。

逆に言えば、解っている人の罪はゆるされないとも解釈できる言葉です。

これは、何をしているのか分かっている罪と何をしているのか分からないでしてしまっている罪には、差があるということですね。

モニタリングという人を騙すことで喜ぶ番組がありますが、それと同じです。大衆の熱気やまわりに流されて、悪いことをあたかも正義のように行ってしまうひとは、多く存在するのです。

ですが、観ているひとも、彼らは何をしているのか、自分たちで解っていないのです。ただ十字架刑にかけられるイエス様をバカにするように楽しんでいるだけなのです。

わたしたちからみて、悪人だと分かるひとは、極悪人ではありません。それらのひとたちは、解りやすい単純な存在です。ある意味純粋に悪を正義だと思って行っているのです。

ですが、世の中には、極悪人という存在がいます。神様の存在や善悪のタガをすべて理解した上で、悪を行う人間です。

このような人間は、救われるかは分かりません。

オウム真理教に騙されたひとたちは、心が純粋で神様に忠実に生きようとしたことで、騙されただけです。このようなひとたちは、弁解の余地はありますが、すべてわかっていてしている幹部やその上の人間たちには、弁解の余地があるとは思えません。

策略をしかけて、悪を広げ、すべて理解した上で、悪を選んでいる悪魔側の人間には、自分たちの意思で救いを捨て去っているとみなされても、しょうがありません。彼らの筋書きと未来は、すべて全知全能の神様は見抜かれているのです。

悪人は神様に対して楽観的ですが、クリスチャンは、神様に対して畏(おそ)れを忘れません。クリスチャンは、そこは物や地位や名誉のような表面的な利益には楽観的にみえるかもしれませんが、この世界を創られた最大の存在に対して、楽観的ではないのです。

悪魔でさえも、イエス様の十字架刑を阻止できませんでした。イエス様を処刑できることが悪によって正しいと思い込んだのでしょう。神様は悪魔でさえも常に上回っているのですね。愛によって悪人にも雨を降らされる優しい神様をなめて、悪を実行して、賢いかのように錯覚するかもしれませんが、すべて神様は、お見通しなのですね。

悪をしていても、それを許可されているということは、未来ではそれが善になっていることをご存知なのです。

イエスキリストは、十字架刑で悪人として処刑されたのに、2000年後の現在では、世界最大の何十億人ものひとたちが信じているほど広がっていると、当時のだれが予想できたでしょうか。弟子でさえも、イエス様が死なれたことで気力を失ったのに、未来ではこのようになっているのです。

カトリックによってプロテスタントは、魔女だとされて、1200年間で、6000万人殺されたというひともいます。カトリックという世界を人間的な組織正義で支配しているものに立てつくようなものは、正しい人間で、科学的・論理的に主張しても、魔女にされたのです。

邪悪な悪魔宗教もカトリックによって卑下され弾圧されていましたが、その悪魔宗教がプロテスタントの勢力を利用して、フランス革命を起こし、憲法でカトリックような王族貴族を抑え込み、わたしたち奴隷国民にも、これほどの自由が与えられるようになると、誰が予想できたでしょうか。

悪魔宗教は、自分たちが自由にできるために、奴隷国民にもある程度の自由を与えるのです。

悪魔宗教、王族・貴族は、数が少なく、一番多い奴隷国民をそれぞれ奪い合っているので、奴隷国民をないがしろにできないのです。

ある程度の自由と寛容さを見せることで、支援する奴隷国民を奪いあっているのです。

このなんとも言えないような微妙なバランスを一体だれが予想できたでしょうか。

悪魔宗教を残すことを選択した人間の選択さえも、未来をみて許可されたのですね。

オウム真理教の麻原彰晃はどこまで知っていて利用されていたのかは、解りませんが、かなり理解しながら人々を騙し続けていたことでしょう。彼にとって本当の恐怖はそこにあるのかもしれませんね。悪魔がいることを理解している人間は、おのずと神様の存在を認めざる負えないのです。

あとは先生と呼ばれるようなひとたちも、救いには気を付けたほうがいいでしょう。

イエスキリストの救いは、行いではありませんが、心からの信仰が、自然と善行をしてしまうところにあるからです。頑張って行いをするのではなく、自然と行いをしてしまうのですから、悪に染まったひとたちが、心から悔い改めることは難しいでしょう。特に先生と呼ばれている組織化している立場のひとは尚更ですね。注意しなければいけませんね。

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