聖書

救いとは

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救いと言えば、聖書だけではなく、様々な宗教・様々な思想が語り、救いという定義だけでも多くあります。

宗教だけではなく、映画やドラマ、小説やアニメなどでも多くの救いの思想が生み出されています。

 

ある宗教では、唱えるだけで救われるとするものから、激しい修行や厳しい行いによって救われると説く宗教もあります。

 

それらの救いと聖書の説く救いは同じなのでしょうか。

 

 

救いとは

1、聖書の救いには、歴史という根拠がある。

ある日突然、誰かも分からないひとが

「わたしを信じれば救われる。」「呪文を唱えれば救われる。」というような宗教を考え出し、広げ始めたとして、そこに何の根拠があるというのでしょうか。

アニメや小説で、不意に考え出したような救いの思想には根拠がなく、そこには、人間の想像力によって生み出された思い付きでしかありません。

しかし、聖書は、この世界の最初が書かれ、そして終わりまで書かれているのです。

アダムからはじまり、なぜ人間に人権を主張できるのか、人を傷つけてはいけないのか、それらの根拠になるものが聖書にはあるのです。

あなたがあなたの人生だけを語り、自分を説明するのなら説明は不十分です。なぜなら、あなたという人間が存在しているということは、あなたの親がいるからです。

聖書には、家系図がアダムの時代から的確に書かれています。実際の世界の流れと聖書の家系図の伝承には一致があり、人間の作り出してきた多くのものと一致しているのです。

ひとは、新しいものを発明したり、発見したように学校宗教などでは語られますが、何かを発明したり、何か小説などを書くには、言葉を理解し、文化を理解していないと考えることさえもできないのが人間です。

フランス語の環境がまったくないのに、フランス語でものごとを考えることができないのが、その証拠です。

わたしたちが生まれる前から、わたしたちを形成する環境があったからこそ、発見することも、発明したようにも思えているだけです。

聖書にはこのように書かれています。

伝道者の書1章9節ー11節

昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。この日の下には新しいものは一つもない。「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。

例えば、原子という、この世のものを形成させているものを発見したという時代がありますが、発見したということは、すでにそれはあり、ものすごい精密な法則がすでに造られていたということです。

パソコンや携帯にしても、神様が造られた法則が存在しているから使えているのです。

神様という存在がなく、偶然、すべてのものが規則正しく造られているなどと本当に考えられるでしょうか。

あなたはサイコロ2つを1万回振って、すべて1が出たという話を信じられるでしょうか。

人間が、2つのサイコロの1を1万回自分の手で置いたという話なら、変なひとだなーとは思ってもありえる話だと理解できます。

このように、新しいものを発明したと思っているものもすでにこの世界に存在していたから、それらが発明できたのです。

ですが、すべての人が、自分の子孫に細部まで説明しないので、自分の先祖などのことを忘れていってしまうように、昔の出来事も忘れ、新しいものだと思わされているのです。

そのような人間の不完全さの中、聖書は固定した書物としてイスラエル人の文化に残っていたものを編成してみると、1つの話になっていたという驚きの書物なのです。

聖書は、短編小説が66個組み合わさったような書物です。

その作者は、違いますし、時代も違えば場所も違うのにも関わらず、その話は一致してしまっているのです。

ただ一致しているだけではありません。2000年前から聖書は継ぎ足されることなく、その形を変えていないにも関わらず、現代でも一致する奇跡の書物が聖書なのです。

もうこれは人間の能力を超えている書物なのですね。

例えば、新約聖書は、イエスキリストが生まれた後の話が書かれています。

もし、イエスキリストが、ユダヤ教も関係なく、民族もなにも関係もなく、「わたしを信じれば救われる。」と言ったのなら、そこに何の根拠があるのでしょうか。

イエスキリストを十字架刑で手にかけるほど熱心なユダヤ教、旧約聖書と一致しているからこそ、イエスキリストは、正当化されて信じ続けられているのです。

コーランは、旧約聖書や新約聖書と一致しないところがあるので、そういう場合は、コーランを優先しろと教えられます。

であるのなら、そこに根拠はありません。

現代のユダヤ教には、タルムードという新約聖書よりも新しい書物がありますが、旧約聖書と一致しないものがあります。そういう場合は、タルムードを優先しろというのです。

旧約聖書を無視して新しく優先するものを作ったとして、そこに何の根拠があるというのでしょうか。

新約聖書も根拠がないというひとが、たまにいます。

それは、キリスト教とは、イエスキリストが作り上げたものではなく、パウロやその他の使徒たちが、勝手に作り上げ、広げたものだというのです。

では、なぜ新約聖書と旧約聖書は、一致してしまっているのでしょうか。

一致しているから1つの聖書として、世界に出回っているのです。

コーランは、コーラン。タルムードは、タルムードと別々として存在しているということは、一致できないのが人間の能力の限界だということです。

イエスキリストに、根拠を与えたのは、ユダヤ教が熱烈に大切にしていた旧約聖書に、すでにイエスキリストが書かれ存在していることが解るからなのです。

アダムから人間がはじまり、そのアダムを育て、言葉をさずけた足のある神様。それがイエスキリストなのです。

人間は、神様と同じ形で造られたと書かれいます。

人間と同じ形である神様は、イエスキリストなのですね。

このように、多くの論理が一致して旧約聖書を裏付けにしているからこそ、そこに根拠があり、それだけではなく、実際の世界の形・流れ・文化が聖書を証明し続けているからこそ、根拠が認められるのです。

イエスキリストは、突然現れたわけではないのです。

ユダヤ教の中でも、救世主伝説は存在し、世界中でも救世主伝説はあったのです。

釈迦の死後、弟子たちが、釈迦の生まれた時のことを神格化して語られる仏教があります。

釈迦が生まれた瞬間、赤子の釈迦が立ち上がり、「天上天下唯我独尊」と右手を上に、左手を下にかざして、語ったというのです。

天上天下唯我独尊とは、はじめからおわりまで、釈迦という存在はなく、釈迦こそ新しく同じものがないという意味です。

ではなぜ、新しいものが語った言葉を産婆たちは、理解できたのでしょうか。

産婆たちが理解できた言葉は、釈迦よりも前から存在しているのに、理解できたということは、その時点で、唯我独尊ではないのです。

イエスキリストは、唯我独尊とは言いませんでした。イエスキリストは常に、旧約聖書を大切にして、旧約聖書と一致した人生を送られたのです。

旧約聖書という根拠がなければ、イエスキリストにも根拠はないのです。

突然現れて、救いを説いたとしても、何の権限があって救いを語れるというのでしょうか。

2、生贄の法則

アダムとエバが、悪を理解して、悪のプログラミングを蛇(悪魔)から教わった時、アダムとエバは、隠れ罪を犯しました。

神様が造られたこの世界は、ものすごい秩序だった法則が存在し、悪を行うとそれは滅びるように設計されています。

善だけでひとは生きることは可能ですが、悪だけでひとは生きることは、絶対にできません。

どんな悪の組織でも、善を利用しなければ、存続できないのが、この世界なのです。

ヤクザにしても親子という盃を交わして、家族は絶対に裏切らないという契約を交わすことで、成り立っているのです。

他の組織でも同じです。

一番利益を得てきたものは、悪と善のハーフのような帝国でした。

これら帝国は、悪と善を取り入れることで、多くの財産と数百年単位の繁栄をものにしてきたのですが、悪があることで、ひと時の利益があっても、長くは存続できず結局滅んでいきました。

悪があるということは、負ける人間が生まれ、その人間によって不平不満が広まり、蓄積されて、結局崩壊するのです。

そのことを知っているからこそ、悪魔宗教は、表ではまるで天使のように振る舞い、先生と呼ばれるような振る舞いと態度と行動を取るのです。

それら善を利用することで、繁栄が長くなることを理解しているのです。

人間や生き物には、痛覚という痛みという法則が適応されているので、痛みにたいして不快感や反応を示すように設計されています。

それら痛みが、生き物や物を大切にする流れが世界中に広がって伝承されているのです。

脳へのプログラミングとは、言葉だけではありません。人間がすでに備わっている体によってもプログラミングが打ち込まれ、それらが善悪を判別する手段として役立つのです。

悪を取り入れることは、痛みを伴い、罪は神様の造られたそれらの法則の秩序を無視して切断することです。良い流れが切断されるということは、その場所は、法則から取り外されてしまうので、腐っていくのです。

人間の右手を切って、体というものを無視して、違う場所に切り離せば、その右手は腐っていきます。

それは、血の循環によって細胞は栄養を得て、生きている証拠です。

血液がまわらなくなった場所は、凍傷にしても、その箇所の細胞は死んでしまうのです。

ですから、血とは、命なのです。

わたしの60キロの車に、バイクが突然、反対車線のわたしの車のほうへ飛び出してきました。

咄嗟に横によけて、そのひとは車の横に当たり、倒れました。

いのちには別状はありませんでしたが、彼の小指は、車とバイクの間にあり、ちぎれそうになっていました。

彼はわたしに、紐か何かで、小指を止血してほしいと言われて、わたしは震える手で血がドバドバ出ている小指を縛ったのですが、救急隊員がきて、わたしに言いました。

「血液を止めてはいけません。小指程度の出血ならいのちに関わることがないのですから、血液をそのまま小指に送り続けないと小指が死んでしまうんです。」と言われました。

彼は小指の他には、大したケガがなく済んだのですが、小指はなくなってしまいました。

このように、血とは細胞による命であり、生き物にとって栄養を行きわたらせるために、必要不可欠な法則なのです。

※ちなみに、その事故は、10:0でした・・・。わたしは安全運転な臆病者なので・・・。

アダムが罪を背負ったことで、ひとは脳にも、体にも切断されてしまうものになってしまったのです。その罪による遺伝は、わたしたち子孫にも残り、それらは原罪になっているのです。

植物や果物によって人間は栄養を得て、排出され、また自然となり、また人間へと戻るサイクルがあれば、人は死なない体を持つことができたかもしれません。ですが、罪を背負っていることで、次々と細胞は壊され、老化していくようになったのです。

悪のプログラミングを取り入れることで、人は死ななければいけませんでしたが、神様は人間に、動物のいのちを持って、人間を守りました。

動物は身代わりとなり、その皮は人間の衣服になったのです。

創世記3章21節

神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

このことから人は神様に生贄を捧げては、自分たちの罪を贖っていったのです。

これは昔のユダヤ教だけのことではありません。生贄の儀式は、世界中の宗教に存在し、悪魔宗教はそれらを歪曲させて、動物ではなく、人間を悪魔に捧げたりもしているのです。

アダムとエバの最初の息子は、カイン。そして、次にアベルが生まれました。

この時も、植物を持って来たカインではなく、子羊を持って来たアベルを神様は選ばれました。

それはイエスキリストの身代わりの象徴であり、人間への救いの道だったのです。

人間は、罪を動物になすりつけて、ナイフを刺しては、全焼の生贄としてきたのですが、実は、それら動物は、神様だったのです。

神様はご自分の体を何度も何度も、人間にナイフをささせて、人間の罪を贖い続けられてきたのですね。

ユダヤ人たちもなぜこれが罪を贖う行為になるのか、理解していませんでした。

しかし、イエスキリストの十字架刑による行為が、旧約聖書の謎を解き明かしたのです。

イエスキリストが生まれ、人間の基に再臨してくださる前からのひとたちも、神様を身代わりにして、罪を贖っていたことに気づいたのです。

アダムというわたしたちのひとりの親からすべての人間に罪が入り込み、死ぬようになってから体も霊も曇りが入ってしまったのです。

ですが、アダムは、イエスキリストという人間の形をされた神様に似せて作られたものです。

アダムよりも前に、人間とは神様の形をしているからこそ、傷つけてはいけないのです。

人間を傷つけるということは、神様を傷つける行為にあたるからこそ、人権が主張できるのです。

無神論者には、何の根拠もないので、人権は主張できません。ただの好き嫌いの主張でしかないので、犯罪者の趣味趣向と変わらないのです。

このように、人間は、アダムよりも前のイエスキリストというものに立ち戻ることができる存在で、その大本になるイエスキリストがわたしたちのために、十字架刑で身代わりになって死んで下さったことで、過去・現在・未来の罪を消し去られたのです。

多くの人間は、救世主とは、世界中を支配するような王様のような存在だと思っていましたが、神様のいう救世主とは、さらに上の時間さえも超えた救いだったのです。

ひとりのひとアダムからすべてのひとに罪が入り込んだのなら、人間の型であるイエスキリストの身代わりという行為によってすべてのひとが救われるのです。

それらは、ユダヤ教や多くの国々の伝承と一致していたからこそ、イエスキリストは人間を超えた存在であり、根拠になり、アダムの時代からはじまった人間の善悪の葛藤の唯一の解決策なのですね。

孔子も釈迦も、旧約聖書の教えを基にそれぞれ教えを広げてきた人物です。

彼らは西に救世主が生まれるという預言めいた言葉を残したという学者もいます。

世界中が待ち望んでいた救世主伝説の集大成が、イエスキリストだったのですね。

西暦は、イエスキリストの生まれる前の世界とイエスキリストの生まれる後の世界とを区別しています。

BCとは、ビフォアー・クライストであり、救い主前の世界。

ACとは、アフター・クライストであり、救い主後の世界のことなのですね。

日本人は、聖書をしっかり読むと、自分たちがやってきた文化が、聖書の中にあることに驚くことでしょう。鏡餅や正月、神社や言葉など言えばキリがないほど、日本文化と聖書は一致しているのです。

ですから、日本は、大東亜戦争時に、満州にイスラエル人の国を作ろうと河豚作戦を計画していたのです。

イエスキリストの生まれた時に祝った東の国の三人の博士たちは、日本列島からきたイスラエル人、日本人だったという人もいます。

このように、世界中がイエスキリストを待ち望んでいたのです。

旧約聖書を根拠にしなければ、イエスキリストであっても救いにはならないのです。イエスキリストが生まれる前から行われてきた行いが、イエスキリストを救世主だと証明づけたのです。

決して、降って湧いたように、突然イエスキリストが独断的に救いを説いたのではないのです。

小説や多くの宗教とまったく根拠の論理性が違うのですね。

3、救いとは、行いなのか、それとも恵なのか。

例えば、正しい行いをすることで、罪を贖うことができると教えたとしましょう。

では、正しい行いをする前の罪は、どうなるのでしょうか。

その行いの知識を知る前は、もちろん知らないのですから、行うこともできなかったはずです。

また、どうして違う行為が、罪を贖えると言えるのでしょうか。その根拠はどこにあるのでしょうか。何の権限があってそのように教えるのでしょうか。

誰かが突然、そのようなことを言っても根拠にはならないのです。

激しい修行によって天国へいけると教えたとしても、どうして激しい修行が天国にいける切符だと言えるのでしょうか。

行いが大切ではない とか 修行が大切ではない と言っているのではなく、その行為によって救いがあるとは言えないということです。

過去犯した罪を現在の行為で消えるというのなら、その根拠がなければ、空想小説となんら変わらない主張なのですね。

救いがもし、行いであるのなら、それが出来ないひとは、どうなるのでしょうか。

ユダヤ教は、行いを大切にする宗教です。その行いによって救われると信じました。動物を生贄にする行いが、自分たちを救ってくれると解釈していたのです。

しかし、実際は、救いは、一方的な神様による恵なのですね。

人間を造り出し、人間に自由意志を与えられた神様ご自身が、自分のいのちを持って、十字架刑に架かることで、一方的な救いが、用意されたのです。

もちろん、それを受け取る人間と拒否する人間がいて、極まれに悪魔宗教などはそれらを拒否した生き方を選びとっていくのです。

たまに、救いを強調するために、恐怖心を利用して、救いを語るひとがいます。

例えば

「わたしでさえも、救われいるかは、その時が来てみないと解らない。」という牧師などもいるのです。

確かに、その時が来てみないと人間には、本当に天国にいけるラインをクリアーしているかは解りません。

だからといって、恐怖心をあおって牧師でさえも救われてないかもしれないという不安定な解釈は、正しいとも間違っているともいえないことだと思います。

行いは確かに大切ですが、行いによって争いを生み出したり、行いをさせるために、人々に恐怖心でコントロールすることは、自由意志を尊重しない行為になりかねないのですね。

その点、神道などは、文化として聖書の教えを伝えているだけなので、人間の策略によらず、自然な行いへの移行をうながしているので、素晴らしい宗教だと思わされます。

わたしは、頑張るという言葉はあまり好きではありません。結果的に、他人からみて頑張っているようにみえても、人間的な頑張るというものには、違和感を覚えます。

頑張るとは不自然なことです。

頑張らないと生きていけないのであれば、そのシステムは崩壊します。

人間は必ず寝なければ生きていけないのに、寝ないで頑張ろうとするようなものです。ひとは好きなものにたいしては、頑張るというのではなく、勝手に行動して成長していくようになっています。それが他人からみたら頑張っているようにみえても、本人は、ただ望んでいることをしているだけにすぎません。

ですから、他人を裁くこともしません。ですが、頑張っているひとは、他人を裁きます。頑張るということは、今を満足せず、足りないという欠乏マインドで生きているからですね。

このように、足りないとか、まだまだしなければいけないという想いは、実は今を認められない心の弱さ、恐怖心がつきまとい、自分で自分の心や霊に呪いをかけているようなものなのです。

その行為は、救いからいつの間にか遠くへ行っているかもしれないのですね。

善行をすることは大切です。ですが拘りすぎて、いつの間にか歪曲した考えになり、他人を裁いたら、本末転倒なのです。

悪を正義だとする人間には、断固として否定することは大切ですが、行いによって他人を裁いては意味がなくなるのですね。

イエスキリストの救いは、ただ認めることです。

イエスキリストを神様だと認め、その神様が十字架刑で過去・現在・未来の自分の罪を背負って、自分のために死んでくださったことを認めることです。

イエス様への感謝の気持ちが、自然と善行を無理なくさせることにつながるのです。

人を裁くことも感謝している人間にはできません。不十分だと思ったり、間違っているという思っているひとが、人を裁くのです。

頑張れば、夢がかなうというひとがたまにいますが、世界を支配し続けた悪たちは、自分たちはなるべく安全な場所で、楽してコントロールするようなひとたちでした。そのようなひとたちが、富を独占しているのです。

決して人間の努力や熱い想いだけで切り抜けられるというわけではないのです。

それも一種の思い込みであり、マインドコントロールなのですね。

特に日本人は、努力することが好きで、プライドが高く、すぐにその熱で騙されます。間違っていることでも、努力でなんとかなるとそのまま間違った道を走り続けるのです。人の目を気にする民族であり、空気を読む力があるので、一旦組織に入ってしまうとそれに逆らうことが出来にくい民族が、日本人なのです。大東亜戦争などでも死ねと言われたら死んだのです。

素晴らしい民族性ではありますが、その利益を勝手にイスラエルなどに使われて、同じイスラエル人であるパレスチナ人たちが、そのお金で造られたミサイルで殺されていたら意味がわからなくなります。日本人が努力すればするほど、アメリカに吸い取られ、悪いことに使われ続けるのは、人間的にみると悲しいですよね。

努力や行いは大切ですが、努力や行いだけが大切ではありません。寝ることも大切ですし、のどかに時間を過ごすことも大切です。平安の時間を認めて過ごすことが大切なのですね。

そして、行いには限界があります。行いによる救いには、限界があり、それらを基準に救いはないのですね。

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