歴史

キリスト教の宗派

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キリスト教の宗派の数は、100以上存在していると言われています。仏教は400以上あると言われているので、その数は仏教に比べれば、少ないとも言えますが、なぜこのように宗派に別れているのでしょうか。

1、固定された正典。聖書。

キリスト教は、正典として旧約聖書と新約聖書をあわせた聖書を共通して信じています。聖書は書物なので、人間の言葉とは違い歪曲させることなく、固定されてしまうものです。

仏教の始祖ともいわれる釈迦は、教えを文字にして残すことをしませんでした。ですから釈迦の死後、釈迦が否定したようなものまで、弟子たちは取り入れて、まったく釈迦の教えとは真逆の仏教まであるので、400以上もの宗派が存在してしまっています。

そもそも、仏教は釈迦の死後に生まれた宗教で、釈迦は宗教を広めようとしたのではなく、人間の脳に学問的に、また論理的に思考できる考え方を正常に戻そうとしただけだったので、文字にわざと残さなかったのではないかと思われます。

まやかしの宗教によって世の中が乱されていたものを論理的に考える思考を人々に教えようとしたのです。

ですから釈迦は、偶像も否定しましたし、前世も否定し、何をいっているのか分からない呪文も否定したのですが、歪曲されて現在に至っているのです。

その点、キリスト教は、それほど大きな違いはなく、ある程度固定されているので、世界中に20億人も信じているのにも関わらず、宗教の数も少ないのです。

どんな宗教であっても、その伝統は重みを増すものです。

ましてや熱心さで有名なユダヤ人は、伝統をさらに大切にしてきました。そのユダヤ人の熱心さから旧約聖書は、改変されることなく、守られ続けてきたのです。

キリスト教も同じで、信じているからこそ、聖書には手を出せません。無神論者であってもその点は理解できることでしょう。

聖書を利用し、聖書の箇所の多くを改ざんしてきたカトリックであっても、すべて変えることはできませんでした。だからこそ、聖書を読むようになった人々によってカトリックのしていることと聖書の教えている内容の違いに気づいて、革命が起こされたのです。

カトリックは聖書を一般人には読ませませんでした。与える情報を少なくすることで、世を支配して良くも悪くもコントロールしていたのです。

ですが、固定されている聖書の正義によって、カトリックは崩壊したのです。

2、教師がいる

宗教には、キリスト教や仏教のように、教えを特定の人物が教え広めるものと、イスラームや神道のように、特定の人物ではなく、正典や文化だけで広める宗教があります。

これはどちらにも、良し悪しがあるのですが、特定の人間が介入することによって、もともとの教えが歪曲されるリスクが、キリスト教や仏教にはあるのです。

カトリックは神父。プロテスタントは牧師と、特定の人間が多くのひとたちに聖書の内容を教えるシステムがあります。

当時のカトリック信者のように、聖書を読むことなく、その説法を聞いていたら、神父のいういことは、聖書に書かれていると信じ込んでしまいます。

現代でも、進化論という宗教を人間が教師として学校で教えるので、何も疑わず信じ込んでいる無神論者が多いように、キリスト教も同じような間違い、同じような策略によって歪曲させられてきたのです。

ですからまともな教会ほど、聖書を読んで、ちゃんと牧師の言っていることが、聖書に書かれていて、論理的に成り立っているのかを「”答え合わせ”するように」と薦めるのです。他のところにも書いていますが、このサイトを読むだけではなく、聖書を読んで答え合わせをしなければ、危険なのですね。ちゃんとこのサイトの書いていることが正しいのかをチェックしなければいけないのです。

キリスト系の学校に通う無神論者は、ここが危険なのですね。学校で教えている先生のいうことが正しいと思い込んでしまい、聖書を読まないので、何が正しいのか解らなくなるのです。

この世界は、とてもシンプルで、善に満ちた神様のシステムが支配しているのですが、悪のプログラミングを取り入れた人間が、そのシンプルな世界を複雑にしては、ぐちゃぐちゃにしているように、人間が入り込むことで、聖書も歪曲した教えが広がってしまうのです。

その点、イスラームは、牧師や神父のようなひとは存在せず、それぞれがコーランという固定された正典を読んでは、それぞれが勉強していくので、宗派が圧倒的に少ないのです。

テロリストのような偽イスラームのようなものには指導者という特定の人間の思想が植え付けられているので、悪魔化されているだけで、本物のイスラームは、あのような思想にはなりません。

神道も大東亜戦争時代に、日本政府の正義を広めるために、神道を利用して、靖国神社のような新興宗教を造り出しては、人々を惑わし続けました。それは特定の人間の思想を神道で歪曲させたからです。

本来、神道は、文化を通して伝えていくものなので、あのような悪魔化したような教えにはならないのです。

だからこそ靖国神社は、神道とは認められていないのです。

なぜ、ひとが介入すると固定された正典があっても、歪曲した考えが広まってしまうのかには、理由があります。

それは、人間の正義には、組織正義というものが存在しているからです。

釈迦やイエスキリストは、人間的な依存するものを否定するような人生を送りました。

ひとは大切なものを持つとそれに依存して、それを守るためには、原理原則の正義さえも裏切る行動を取ってしまうのです。

みなさんも学校や会社・家族という組織に入れば、その組織のために原理原則の正義を捨てなければいけない場面が出てくることを知っていると思います。

愛するひとのためなら嘘もやもなし、製品を売るためには嘘もやもなし、悪もしょうがないと受け入れてしまうのです。

特にカトリックは、もともとローマ帝国という組織と融合してはじまったものなので、ガチガチの組織正義によってはじめから聖書を利用する目的だったので、固定された聖書さえも改ざんしては、利用してきたのです。

ですから、聖書に書かれていることと真逆の主張までして、人々に教えているのです。

例えば、聖書は一貫して、偶像を否定しています。ですが、カトリックは偶像ばかりが教会にあります。

人間の脳がどのようにすれば、騙されトリックによってコントロールできるのかをカトリックは追及しつづけたからです。

政治を維持するために、人々をコントロールして支配するのは、組織正義によっては正義なのです。

精密に作りこんだ像や壮大な威圧感に襲われる神秘的な建物によって人々の脳に錯覚を及ぼして、コントロールするのです。

中世時代は、悪魔宗教も世界中に乱列していたので、それらによって無理やりにでも、コントロールすることは、決して悪いことではなかったと言えますが、現代のように、人に人権があるという思想が広まってしまった時代では、歪曲させて、組織正義を選ぶのは悪だと解ります。

きちんと歴史を知っていて、人間的な目でみれば、カトリックという組織の正義は、解らなくもないですが、悪なのですね。

今はカトリックは政治と切り離されているので、宗教の面を強調でき、聖書をさらに改ざんすることもできなくなっているのですが、それでも多くの反聖書的な教えを続けているのは、組織正義のなごりなのですね。

このように、人は組織に入ると、原理原則の正義や愛をないがしろにしてしまう傾向があるのです。

イエス様は、ユダヤ教徒でしたが、ユダヤ教の組織には属さず、ご自分でも組織を作ろうはしませんでした。教える場所は、建物ではなく、主に外であって何も飾ることもありませんでした。

教会は建物のことではなく、ひとりひとりの中にあるのです。

というイエス様の教えは、正しいのですね。

3、聖書の明確な文章

多くの宗教は、何を言っているのか解らないような呪文のような惑わす教えから、何を言っているのか解らない抽象的な文章ばかりが乱列しています。

ですが、聖書を読めば分かりますが、聖書は読めば理解できる文章で、解らないのは未来を預言している黙示録やイザヤ書などであって、それ以外は、とても明確に書かれている書物です。

ですから、聖書解釈には、深い討論ができるのです。

はじめから何を言っているのか解らない古事記や神話などに、答えなどはありませんが、聖書のように明確に書かれているものには、答えが導き出されやすいからです。

ですがそのような書物を書けるのは、人間には不可能です。

聖書は、神の霊によって書かれたと聖書に書かれているように、この書物は、人間の能力を超えています。

これほど明確に書かれているにも関わらず、2000年後の今でも通用するなど、人間にはできないからです。

だからこそ、多くの宗教は、誤魔化すように、わざと呪文のような難解なものにしたり、何を言っているのか解らないような話や文章にしているのです。

原理原則だけを教えるのなら固定した書物に残すことも儒教やコーランなどでもできますが、聖書は教義だけではありません。歴史や学問、科学や法則なども含め数多くのことを明確に書いているのです。

このような書物は他に存在しません。だからこそ、20億人もいる信徒数にも関わらず、宗派がこれほど少ないのですね。

4、宗派の違い

カトリックのように組織正義のために、原理原則の正義をないがしろにする行為は、論外にしろ、それ以外にも、聖書の解釈には、さまざまな考えが存在します。

釈迦は、天国や地獄、輪廻転生など人間には解らないことは、考える必要もない。畑仕事をしろ。と教えました。

まったくその通りで、人間の限界を釈迦は理解していたのです。正典として教えを残さなかった理由もそこにあったかもしれません。

イエスキリストは、神様であったので、天国のことや未来のことも説明されました。人間以上の存在だったのです。

人間には絶対に解らないことや出来ないことも教え、行ったのです。

人間には、未来のことは解りません。また、天国のことも地獄のことも解りません。

それ以上をいうのは、人間にはできないことです。

ですから、聖書という固定された書物であっても、人間の能力を超えたものには、解釈はさまざまで、色々な考えが生まれてしまいます。

ですが、キリスト教では、聖書の教えに大きく外れていなければ、認められるのですね。

カトリックが原始キリスト教からはずれ、認められないのは、聖書の教えをないがしろにして、改ざんしては、人々を騙し続けているからです。偶像があるのがその証拠です。

カトリックはまだ半分は、善なのでまだいいですが、多くの悪を含んだキリスト教の仮面をかぶった悪魔宗教も存在します。

それらに関しては、認められることはありませんから外されているのですね。

ですから、聖書から大きく外れた宗派や組織正義を大切にしていた時代のカトリックなどは、キリスト教だとされていますが、まったく違う宗教なのですね。

そう考えれば、キリスト教の宗派は、100も存在することなく、ほとんど一致しているのが現状なのですね。

多くの宗派が存在しているようにみえるのですが、それらは人間が介入しては、歪曲させてきたものがほとんどなので、実はかなり宗派は少ないと言えるのです。

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