世界の法則

原罪

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聖書は罪を2つの性質について言及しています。

ひとつは複数形の罪。そして、もうひとつはそれら罪の大本にあたる原罪という罪です。

聖書の特徴のひとつとして、人間の罪に関して、他の宗教よりも深い教えがされていることです。

 

聖書は罪についてどのように語っているのでしょうか。

原罪

1、世界の共通点。罪の意識。

世界には、善のプログラミングの共通点。そして、悪のプログラミングの共通点が存在しています。

聖書は、それらのプログラミングのことをそれぞれ「子孫」と表されています。

子孫というと親子の血のつながりのようにも思えますが、人は血のつながりだけではありません。

知識や知恵、教えなどによって人間性が育てられていきます。

そして、蛇である悪魔が最初に人間に悪というプログライングを打ち込んだのです。

人間は、悪を理解したことで、半分は、悪魔の子孫のようになってしまったのです。

悪魔のことを神のように扱う思想がありますが、世界中の宗教にそれは伝えられているのです。

例えば、善である神をゼウスとして、悪である神をハーデスとしたり、バールを悪の神だとして崇めたりするのです。

人間に悪の意識を植え付けた存在。それを悪の神とするのです。

今でこそ世界は聖書の価値観が広がり、善は善であるという認識がありますが、200年も前の時代では、悪を正義とする認識が当たり前のように存在していました。現在でも、中国では他人のアイディアなどを盗んでは、自分のオリジナルとして儲ける思想があります。これを日本人や白人からすると悪いことという認識があっても、中国からすれば、悪いことではないという認識があるのです。

嘘や騙しによって必要なものを手に入れることができれば、それは正義になるという価値観です。

騙されて、奪われるほうが悪く、気づかずに取られた人間は、頭の悪いとして楽しむのです。

そういった悪の価値観に染まる現代日本人も存在します。経済や会社の利益のため、地位や名誉のためなら嘘や騙しは正しいとするのです。

このようなひとたちの中には、善と悪は存在しないと思い込むようになります。

人間次第で善悪が反転するのだから、善悪など実際は、ないようなものだという主張です。

ですが、それらが間違いだということは明白です。

「善悪がない。」と善悪という言葉を使っている矛盾に気づいていないのです。

善悪という言葉があるということは、善と悪という区別が存在している証拠なのです。

もし、善や悪が人間によって作り出されたただの空想であるのなら、はじめからそのようなものは、存在しないのです。

ですが、現代では、犯罪行為は、悪で、嘘も騙すことも悪だという認識がある以上、善悪の存在は、証明されているのですね。

そして、それらは、一部の国や地域だけではなく、世界中に共通して存在しているのです。

それを明確に伝えているものが「聖書」なのです。

他の宗教は、何をいおうとしているのか、首をかしげてしまうような曖昧な表現ばかりですが、聖書の言葉はとても的確です。

未来を預言している黙示録などのようなものは、何のことを表しているのかは、明確にはわかりませんが、預言ではない他の出来事については、聖書は、どんな宗教よりも明確に書かれているのです。

人によって解らなくなる呪文なども聖書は使いません。そのような聖書もまた、善悪の区別があり、そして悪を人間に与えたのは、蛇である悪魔で、その悪の行為が罪として認識されているのですね。

2、複数形の罪

ひとは、盗み、嘘、偽り、犯罪など複数の罪を重ねる存在です。

ですが、どうしてそれらの罪を人間は選ぶことが出来てしまうのでしょうか。

自然の法則に照らし合わせれば、それらの悪をすることは、傷つけることにつながるので、非現実的です。

経済にしても政治にしても、悪を利用するとその悪によって反発が起こり、結局滅びるからです。それは自然界でも同じです。

にもかかわらず、人間は悪をしてしまいます。

小さいような罪から大きな罪まで、多くの悪といわれる罪を犯してしまいます。

罪のないような人や悪をしてそうもないひとでも、心の中で人を裁いたり、心の中で悪を行ってしまうひともいます。

それも罪のひとつです。

これらの複数の罪をしてしまうということは、人間には、もともと大本になる罪があるという証拠です。

3、大本の罪。原罪。

わたしたち人間は、どこの生まれ、どのような姿で生まれるのかを選ぶことができません。

その姿は親の遺伝子によって伝わるものです。

日本人同士の親から生まれた子は、黒髪で、黒目の子が生まれるように、アダムが蛇から悪のプログラミングを受け継いだとき、アダムから生まれたその後の人間たちもまた、みな髪の毛の色のように罪を受け継いでしまったのです。

それを聖書では、原罪と教えています。

この原罪が受け継がれたことによって、その他の複数形の罪もしてしまうのです。

わたしたちは、心からこれはしたくないと考えていても、どうしてその悪をしてしまうというものがあります。

もう食べてはだめだと思っていても止められず、どうしても悪をしてしまう場合があります。

これはもはやそのひとが悪いといよりも、そのひとに受け継がれた悪によって意識とは別の問題。原罪の証明でもあるのです。

犯罪者は悪をすることで喜びを感じるのですが、そうではなく、悪をしたくなくて、嫌なのにも関わらず、悪をしてしまっている状態のです。

善悪の区別が出来ているにもかかわらず、悪をしてしまうのは原罪があるからなのです。

4、罪はどのようにすれば許されるのか

私たち人間には、この罪の解決には無力です。

ある宗教では、厳しい戒律や厳しい修行によって罪をしないように制限しようとするものがありますが、それはこれからする罪には有効ですが、過去におかした罪や未来でも罪を0にするなどは人間には不可能です。

どれだけ努力をしても罪はゆるされるものではありません。

仏教では、解らないことは考えないようにしようという回答しかありません。

しかし、聖書は、人間の悪が入り込んだ瞬間とその悪によっておかしたすべての罪への解決をどんな宗教よりも明確に解決してしまっているのです。

アダムとエバが悪を取り入れた時から神様は、人に動物の血によって購う行為を示しました。

世界中に罪のゆるしのために、生贄を捧げる共通点がありますが、そのはじめのことを聖書は書かれているのです。

人間はその行いや善行から罪がゆるされるのではなく、自分の罪を他のものの命によって購うことを続けてきたのです。

そして、世界中が待ち望んでいた救世主が、イエスキリストです。

イエス様は、その生贄の儀式を完成されたのです。

人の選択や行いではなく、神様からの一方的な贖い、身代わりによってすべてのひとのすべての罪がゆるされたのです。

ユダヤ教という文化が先に存在して、生贄の儀式を続けていたからこそ、イエスキリストの十字架刑に正当性が証明されたのです。

どこかの誰かが、突然、この呪文を唱えれば救われるというものではありません。

そして、これをしなければ救われないという難しいものでもありません。

ただ、イエスキリストが自分の罪をすべて背負ってくださったことを信じることでゆるされるのです。

人間には手に負えない罪による解決は、人間を超えた神様によって解決されたのですね。

5、律法のリスク

聖書の神様は、アダムとエバに律法を与えませんでした。

唯一与えたのは、園の中央にある善悪の木の実を食べてはいけないということで、それ以外は何をしてもいいとしました。

なぜ、神様は人間に、それだけの忠告だけしかされなかったのでしょうか。

未来を見通すことができる神様は、アダムとエバが悪を取り入れることも、その後の人間の苦しみも知っていたのです。

アダムとエバにその未来をみせていれば、アダムとエバは、善悪の木の実に手を出すことはなかったのではないでしょうか。

しかし、よく考えてみれば、それはできないのです。

例えば、善悪の木の実を食べたその後の世界を神様がアダムにみせたとしたら、善のプログラミングしかないアダムに、神様が悪のプログラミングに気づかせてしまうからです。

神様はモーセの時代まで、律法らしい律法は耐えられませんでした。それは、罪や悪を制限する律法をはじめから人間に与えてしまうということは、悪を教えているようなものなのです。

だからこそ、律法は、大洪水の後、人間がさらに悪を選択した時代に、与えたのです。

それでも、この律法にはリスクがあり、律法を知っているということは、何が正しくて何が正しくないのかが解る以上、自分のことを責めてしまうというリスクがあるのです。

ユダヤ教は律法を中心とした行いの宗教なので、厳しい戒律がありました。ですが、どれほど頑張っても罪をおかしてしまうのが人間です。その人間の嵯峨はユダヤ教だけでは解決できなかったのです。

しかし、イエス様は「赦し」というものを与えました。

これは他人を赦すだけではなく、自分自身も赦すことも含めている恵です。

律法によって自らを苦しめてしまうリスクさえも、イエス様は、解決され、悪に対して、悪をするのではなく、悪をみても、善を行うことで、悪の連鎖からの解放を世界にもたらしたのです。

このように、良い行いは、原罪がある人間には、リスクも含まれてしまうものなのです。

そして、ユダヤ教が信じている旧約聖書を完成させたのは、イエス様なのです。

ひとりのひとアダムによってすべての人が罪人となったのであれば、ひとりの人の十字架刑によってすべてのひとの罪が許されるのです。

イエスキリストという救世主によって原罪の苦しみは解決され、世界は変わったのですね。

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