思考の変化

資本主義経済と聖書

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現代日本人は、今のほとんどの生活文化が聖書から来ていることをまったく知らないひとが多いです。資本主義にしても、憲法にしても、民主主義にしても、科学発展にしても、聖書によってもたらされていることを知らないのです。

 

知らないというよりも、知らされていないのです。

 

世界的にも、近代歴史は教えられないようにされ、歴史は積み重ねによって成り立っているのに、その積み重ねがないかのように突然、まったく違う理論を教え続けているのが、現代学校宗教団体のシステムです。

 

わたしたちが存在しているということは、わたしたちには親がいて、その親にもまた、親がいるという歴史を観させないようにしているのです。

 

日本が資本主義に乗り出したことにも意味があり、繋がりがあるにも関わらず、目の前にある物欲や拝金主義的(お金)なものだけの理由で生活させられています。

しかし、もともと資本主義の精神は、聖書から生み出され、保証されていたから、現代のように自由な経済がゆるされているのです。

 

資本主義と聖書を観ていきましょう。

1、支配による規制

大人であれば、自分が持っているもの、組織(家族・仲間・政治・会社)に規制というものを掛けたいという想いが理解できるでしょう。

自分に権力(お金や組織)などが増えていけば、それを守りたいという欲が生まれます。それを守ろうとして、ルールを作り、そのルールに従わないものは、排除しようとしたり、威圧的になってしまいます。

母親がこどもに威圧的に接するというのも、こどもを自分のルール通りにコントロールしたいという願いからなのです。

これは誰しもが経験することでしょう。

1個人であれば、規制したいという想いは、少なくてすみます。ですから、家族という組織をとても自由な空間にしている親も多いはずです。

ですが、会社や組織のトップに立てば、その相手が他人であるだけに、規制をしようとする想いが、強まってしまうのですね。

中世時代では、カトリックが、世界を支配し、王族貴族の上に存在していました。現代は政府が学校という機関で、こどもたちに特殊な価値観を植え付けているのですが、当時のヨーロッパでは、カトリックの建物が学校で、読み書きもカトリックによって教えられ、カトリックこそが常識を造り出す機関だったのです。

インドでは、バラモンという宗教があり、バラモンという貴族が常識を作り出していました。

日本も同じで、仏教が価値観を生み出し、作り出していました。

このように組織が大きくなればなるほど、その組織を守ろうとするために、規制をかけて、自由度の範囲を狭めていたのですね。

これに反対するものは、異端児としてみられるのは、いつの時代もあり、現代も同じなのです。

あたかも学問や科学のようにみせて、特殊な価値観を植え付けるトリックは、今でも当然のように行われているのです。

その象徴となるのが、東大やNHK、官僚思想や警察、現代医学、学歴社会などの常識です。これらはいつの時代も行われてきた、ただの思い込みの宗教でしかないのです。

ですが、この規制をして、威圧してでも、組織を守ろうとする行為は、けっして悪いとは言えないのです。

特に中世のカトリックの時代は、心からそれが正義だと思い、相手を傷つけてきたのです。

例えば、原始キリスト教をささえた使徒として有名な人物は、パウロです。

このパウロは、キリスト教徒になる前は、熱心なユダヤ教徒で、ローマ帝国とともに、原始キリスト教とを追い込み、何人も殺めていたのです。

彼は聖書研究に秀でていて、聖書に詳しい学者のような存在でした。ですが、彼は原始キリスト教の解釈を目からウロコが取れて、理解できるようになると、まったく違う価値観で、キリスト教の伝道師となったのです。

キリスト教徒を殺した過去があるひとが、キリスト教にはかかせない人物へと変わったのですが、それは彼が純粋に聖書に忠実で、聖書を信じていた熱心な宗教家だったからです。

ユダヤ教という組織と聖書を心から守ろうとしたからこそ、キリスト教徒に威圧しましたし、またキリスト教を理解するのも早かったのです。

このように純粋に組織を守るために規制しようとすることは、けっして悪いとは言えないのです。

ローマ帝国が、聖書を受け入れるまで、連合国であったローマ帝国は、さまざまな価値観が広がっていました。他の諸国ならなおさら、価値観が違っていたのです。世界には、カニバリズムという人が人を食べるという文化があり、正義がありました。それすらも寛容に文化として受け入れるしか帝国の政治を安定できるものではなかったのですが、嘘や裏切りさえも、正義だという中国や朝鮮のような価値観もあるので、ローマ帝国に反乱は尽きなかったのです。

ローマ帝国は常に戦い、鎮圧しては、疲弊していたのですね。

だからこそ、一神教の固定された価値観をヨーロッパ世界全体に行きわたらせようとしたのです。

人を食べる正義は、悪魔宗教から来ているので、悪魔宗教の価値観を消して、聖書の人に人権があるという教えを広げては、平和を築き上げたのです。

「自由」という言葉は、聞こえは良いですが、犯罪まで誘発するもので、恐ろしいものだということをローマやカトリックは理解していたのですね。

そして、ヨーロッパ全土に、カトリックによって聖書の価値観が広がり、人が人を食べる文化を忘れるほどに時が流れていったのです。

悪魔宗教は、表向き悪の文化をすることをしなくなりました。人を堂々と外で食べると処罰される価値観が広がったからです。裏ではしていても、表ではしないことを学んだのです。そこで悪魔宗教は、富を増やすことで、権力を持つことをしはじめました。

ローマ帝国以前から、組織には反乱がつきもので、その反乱を起こすためには、富が必要でした。ですから、帝国などの組織は、経済や富に規制をかけて、武器や人を雇うことのないようにして、平和を守り続けていたのです。カトリックもまた同じでした。カトリックは、フリーメイソンやグノーシスやイエスズ会などの悪魔宗教を弾圧しては、平和を守ろうとし続けていたのです。悪魔宗教との戦いがカトリックの歴史だとも言えるほどです。

もちろん、反乱を起こすためには、伝えるひとがいなければ、出来ないので、学問にも規制をかけたのです。

科学や学問は、カトリックが認めるものだけが、正当なものだとされたのです。

経済、科学、学問、正義、価値観、教育、さまざまなものの基準となったのが、カトリックで、王や貴族の任命でさえ、カトリックが基準となっていたのです。

現代でいうところの連続殺人犯などがしている趣味趣向の人が人を食べることや人を傷つけることを正義とした価値観の文化から平和と人権を守るために、ユダヤ教だったパウロのように、正義感を持って規制を実行していたのですね。

ですが、その正義は、一般人であり、人権を理解していたひとたちにも牙をむき始めたことで、崩壊したのです。

聖書を信じ、聖書の神様を信じていたひとたちから、行き過ぎたカトリックの常識というプロパガンダの造るトリックに異が唱えられはじめたのです。

2、規制緩和とプロテスタント思想

当時の科学や学問は、聖職者の精通するひとたちが主流でした。なぜなら、カトリック支配を安定させるためには、学問を抑えることが重要だからです。

ローマ帝国以前から国レベルの組織支配には、反乱はつきものでした。その反乱は、一般人に富を与える権利から出ていることが多かったのです。

お金や富を持つと人を雇うことも出来ますし、武器を買うこともできるからです。特に悪魔宗教がその裏にいたので、悪魔宗教を弾圧することは時の政権では当然のようにされていたことです。

ですから、当然カトリックも、経済を規制しては、お金=悪であるという価値観を教え続けていたのです。

その反乱を起こさせるためには、情報がなければできません。情報を広げるものは、学問ですから、学問や科学を規制することで、情報規制をしては、支配を安定させていたのです。

この時代は、聖職者こそが、科学者であり、学者であり、情報が集中する職種だったのですね。

その聖職者の中でも、カトリックの組織正義に染まらないひとたちがいました。

科学や学問に精通していることで、論理的に考える聖職者がいて、聖書を読んでいたからです。

カトリックは、一般人には、聖書を読むことを禁止していました。情報規制してコントロールしやすいようにするためです。

ですが、聖職者は聖書を読めるので、聖書が書かれていることとカトリック組織の許可するものが、違うことに気づくのです。

論理的な聖職者は、聖書を基にして、人々に聖書の内容を教え続けました。

カトリック組織をまもるために、カトリックは一般人にスパイを潜り込ませ、そういったカトリック本部とは違う教えをする聖職者たちを監視していたことで、彼らは明るみに出てしまい、裁判によって裁かれていったのです。

ですが、裁判で一方的に裁かれながらも、聖書に書かれていることや科学や学問から説明するので、多くの人々の目が開かれていったのです。

このような聖職者たちによって、聖書が刷られ、一般人に配られていきました。すると人々は、聖書の情報を得て、カトリックの教えていることと聖書の教えていることが違うことに気づき始めたのです。

これが、プロテスタント(抗議する者)の発端でした。

論理的な聖職者たちは、原理原則、自然の法則に従って、聖書の正しさを証明しつづけました。人の考えや組織正義ではなく、神様が作られた世界の法則である原理原則を基にして、聖書解釈の本当の正しいものを主張したのです。

現代人は、ガリレオやコペルニクスなどの話で、あたかも宗教と科学の対立だと思い込んでいるひとがいますが、違います。これは、宗教と宗教の論争で、聖書を利用するカトリック組織の科学と聖書に従う原理原則の科学との論争だったのです。

現代科学の発展は、神を信じる有神論者の科学者たちによってもたらされていることは明白です。偉大な発見をした9割は神を熱心に信じるひとたちによって解明され発明されてきたからです。偉大な発見をした無神論の科学者は5%満たないのです。

現在、電気があるのも車や飛行機があり、スマホがあるのも、神を信じる科学者によってもたらされているのです。

話を戻しますが、人には、悪がない人がいないように、組織もその人の集合体なだけに、悪がない組織は存在しません。私利私欲に走って、汚されていくのです。

そして、聖職者や聖書を信じるひとたちにまで、手を出して、魔女として、裁きはじめたことで、いっきに火がつき、カトリック批判が広がっていったのです。

論理的に聖書を説明しても、魔女として人々を殺すカトリックに対して、プロテスタントは、逆にカトリックは悪魔宗教であって、原始キリスト教からはずれたものだとして、カトリックを魔女として処刑する地域さえも出てきたのです。

これに目をつけがのは、悪魔宗教でした。プロテスタントによる情報革命を利用して、悪魔宗教は、反乱を次々と起こし始めたのです。

有名なのがフランス革命です。

カトリック支配による多くの弾圧が一気に火をふいたのです。

人々はカトリックに支配されていた王族貴族を襲い、一般人に権利と権力がいくようになったのです。

今までは領主や王族たちの所有物として、戦争をさせられていたのですが、自分たちの土地、自分たちのものという意識が高まり、逃げるひとが圧倒的に少なく、次々とカトリック勢力を制圧していったのです。

裁判をすることもなく、問答無用で虐殺さえもしていたフランス革命に、世界は恐れを抱きました。とんでもない悪魔的な革命が起きたと騒いだのです。

実際、悪魔宗教の富が背後にあり、プロパガンダも、プロテスタントではなく、歪曲されたフリーメイソン系の自由・平等・博愛によってもたらされていまったのです。

ですが、その悪魔的な流れは、連合国によって抑えられ、ナポレオンも幽閉されたのです。

悪魔宗教は、カトリック、王族貴族と手を組み、共生することにしていったのです。

カトリックや王族貴族には、悪魔宗教にさからえば、その国でまた反乱を起こさせると脅したのですね。

そして、世界中のお金発行権利を悪魔宗教が次々と手に入れ、お金システムによって世の中をコントロールしはじめたのです。

プロテスタントは、王族貴族を虐殺することには反対で、カトリックの組織正義にも一理あることを理解して共生するようになっていきました。ですが、カトリックによる規制はすべての機関に及ぶものなので、聖書的に経済の緩和や科学の緩和、学問の緩和が訴えられていったのです。

カトリックに従うことで、平和を維持するカトリック正義に対して、プロテスタントは、聖書を信じるひとたちは、禁欲主義で、自分に富を使わずに、相手に与えることを主張したのです。聖書を信じ、神様を信じているひとは、悪をしない、反乱もしないと主張して、次々と経済を自由にして、科学や学問も自由にしていったのです。

自分には厳しく禁欲主義で、他人には愛を示して与え続ける行為が、次々と自由な発想をもたらし、経済を活性化していったのです。

巨大なカトリックによる規制が、プロテスタントによって緩和されていったのです。

ですが、緩和をして自由にすることは、悪魔宗教さえも自由にすることになったので、多くの悪魔宗教がプロテスタントの中に入り込み、表向きはプロテスタントでも、裏では悪魔宗教の者が入り込み、プロテスタントを汚していくようになっているのです。

神の基の資本主義、神の基の科学や学問、神の基の民主主義が正当化され、カトリック支配の国々とは違って、次々と発展をとげていったのです。

ですが、プロテスタントは、地位や名誉を求めず、相手に与えることを信条とするので、組織のトップになろうとはしませんでした。

逆に、悪魔宗教は、表向きは寛容で温和のようにしますが、地位や名誉を求めて、組織のトップになり、いつの間にか、神の基の資本主義から、神を消して、人間の基の資本主義、人間の基の科学や学問へと情報操作していったのです。

政治、経済、教育が悪魔宗教に乗っ取られ、嘘の人間的な宗教がこどもたちに刷り込まれているのです。

アメリカはプロテスタントの国なのに、悪魔的な偶像である自由の女神があることがそれを証明しているのですね。

 

現代人は、宗教によって現在の多くの恵があることを忘れ、人間の力によってもたらされていると錯覚された教えを心から信じているのです。そのような人間を大量生産させるシステムが構築されているのです。

日本人は、日本語でものごとをどうしても考えてしまうように、小さい頃から学校宗教団体で、嘘やねつ造を教えられても、それが本当のことだと心から信じてしまうのです。

進化論という非科学的な宗教のプロパガンダがマスメディアや学校団体で刷り込まれているので、人は昔よりも現在のほうが物事をよくしっていて成長していると思い込んでいますが、人は成長するどころか、情報規制することで、後退するものなのです。

進化するどころか、後退することもできるのです。

歴史は、近代史を教えることは禁止され、本当のことは見えなくされています。資本主義や科学や学問がこれほど自由に発展できたものが聖書思想から来ていることをまったく知らないで、人間の力だと錯覚しているのですね。

聖書を表面でしか読まず、ましてや読むこともしないので、他の宗教のように思い込んでいるひとがいますが、聖書はとても倫理的な書物です。多くの詐欺的なトリックを打ち破り、論理的で科学的、学問的な思考を教えているものです。

だからこそ、世界の学問や世界の宗教が集中していたローマ帝国が、聖書を国教にしたのです。それは圧倒的な論理が存在していたからなのですね。

カトリックは、完全な悪ではありません。最初は、この聖書の圧倒的な論理を認めて、改修した人々によって導かれてつくられたものだったのですが、ローマの政治によって捻じ曲げられてしまったのです。

聖書の都合のいいところだけをピックアップしては、ご都合主義の宗教になっていったのです。

人間的にみれば、理解できないわけではありませんが、ご都合主義の正義をゆるしてしまえば、世の中はめちゃくちゃになってしまいます。人間が正義や愛を決めるようになってしまうのですね。

愛や正義は、神様にだけあり、人間は、神様の愛と正義に従うしかないのです。経済にしても、神様を無くした経済は、私利私欲になり、利益のためなら嘘や詐欺も正義にしてしまうのです。水俣病や四日市喘息などがいい例で、バブルの悪魔的な人々の浮かれようがその証拠です。

食べ物には、毒をいれられ、医療には毒物を薬として飲まされ、打たれ、政治や経済は腐敗している現在をみれば、どれほど神を無くした資本主義が、恐ろしいものかが分かるのですね。

人間には愛や正義はないからこそ、愛や正義に従わなければ、自分たちが崩壊するのです。

 

 

天皇がなぜ神事を大切にして、アメリカ大統領が聖書に手を置くのか、それは人間の愛や正義では、犯罪者とかわらないことを知っているからなのです。

そして、現在の日本人は、聖書の文化に染まっていないひとは、ほとんどいないのですね。

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