思考の変化

悪魔とは、どのような存在なのか

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悪魔という言葉を良くキリスト教では使いますが、聖書には悪魔と書かれているところは少ないです。

善悪を両分するような解りやすいものは、バビロンのゾロアスター教などから来ている考え方なのです。

聖書にも、悪側の存在は書かれていますが、天使や悪魔というような善悪をハッキリ分けたようには表されていないのですね。

 

そもそも、聖書は、人間的な善悪を表してはいません。本質的な善悪を基準にして、人間に教えているので、人間的な善悪を望んで聖書を読もうとすると「???」と理解できない箇所もあるのです。

聖書の教える悪側の存在をみていきましょう。

1、エデンに出てくる悪側の存在

創世記には、蛇の中に入り込んだ悪側の存在が書かれています。キリスト教徒ではなくても、この蛇がアダムとエバをそそのかした話は有名で知っているひとは多いでしょう。

ですが、この時の蛇の行動は、嘘をひとつもつきませんでした。

本質からいつの間にかずれた価値観に誘導して、悪の道へと人間を誘い出したのです。嘘を付くのではなく、本当の事実を違う目線から歪曲させて誘導するのです。

神様は、人間に

「あなたは、園のどの木からでも思いまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

とおっしゃられました。

蛇は、エバにこう言いました。

「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない。と神は、本当に言われたのですか。」

疑問文にして、間違った知識を口にしてエバに訴えかけました。

エバは

「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、「あなたがたは、それを食べてはならない。あなたがたが死ぬといけないからだ。」と仰せになりました。」

蛇は言いました。

「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

神のように目が開かれるというその実はエバにとって素晴らしいものにみえて、エバとアダムはその実を食べてしまいました。

その瞬間、人は自分たちが裸であるということを理解して、いちじくの葉で体を覆い被せたのです。

これだけをみると、蛇の言ったように、人は死なず、実を触っても死なず、神様と同じように、善悪を理解できる存在へと目が開かれたのです。

ですが、神様のいう死ぬとは、体だけのことを言ったのではありません。人は善であったものから悪というものを入れてそれを実行した瞬間、以前の存在の善のものは、死んで新たに、悪さえもできるものへと変わってしまったのです。

現在でも、ある出来事をきっかけにして、以前とはまったく違う人間に変貌してしまう人がいます。以前は優しく正しいひとだったのに、まったく人格が変わったようになってしまうのです。それはその人にとって大きな辛い出来事などから違う人間へと変わってしまい、以前のその人は、死んでいなくなったとも言えるのです。

善のプログラミングしかなかったアダムとエバにとって、悪を理解して悪を行動してしまった出来事は、それよりも深い取り消すことのできない、取り返しのつかないものでした。ですから、以前の善しかなかったアダムとエバは、死んでしまったのです。

神様は言いました。

「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

そして、神様は、いのちの木であるイエス様をエデンと共に封印して、人の選んだ選択から守るために、試練を与えられたのです。

蛇は、嘘を付きませんでしたが、本質から人の脳を惑わしたのです。

本質とは、「善悪の木の実を食べてはいけない。触ってもいけない。」というものでした。

ですが、蛇は、徐々に神様のように目が開かれると違う価値観を植え付けていったのです。

ひとつも嘘をつかずに、悪の道へと誘導できる悪側の存在は、善を理解しているということです。

何が善で、何が悪なのかを理解した上で、人に正しいことだと錯覚させて、悪へと誘導しているのです。

これが出来るということは、善を理解しているから出来ることなのです。

悪魔と聞くと邪悪な存在で、悪しかないと思い込んでしまうかもしれませんが、むしろ、人間的な善と似ていて、人の善悪を利用しては、いつの間にか悪の道へと誘導する単純ではない「狡猾な存在」だということです。

悪の道へと人間を誘導させられるのなら、善も利用するのです。

2、ヨブ記の悪魔側の存在

ヨブ記1章6節ー

ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。」

このように、サタンという言い方で、表されてはいますが、そのサタンは、善を理解しながら、神を恐れるということも理解している存在です。

この後神様からも潔白な人間であると証明されたヨブに対して、サタンは、数々の攻撃をしかけます。その攻撃する度に、神様に許可をもらいながら、ヨブに攻撃をするのです。サタンにとっては攻撃ですが、未来をもみることのできる神様にとって、サタンによるヨブへの攻撃は、試練として与えられるのです。

このヨブ記は、人間的な目線でみると、理解に苦しむものです。ひとは物や大切だと思っているものを生きる価値観として、善悪を錯覚して捕らえて生きているので、本物の善悪の価値観は理解しずらないのですね。

サタンは、常に、この人間的な善悪を利用して、人に攻撃し続けるのです。

そうすることで、歪曲させながら悪の道へと人間を誘導するのですね。

3、マタイの福音書の悪魔

マタイ4章1節ー

さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による。」と書いてある。

すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。「神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。」と書いてありますから。」イエスは言われた。「あなたの神である主を試みてはならない。」とも書いてある。

今度は、悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華をみせて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。」と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

トーラー(モーセ五書)や旧約聖書には、救世主のことが預言されていました。その内容から当時のイスラエル人たちは、ダビデ王のようにさまざまな国からイスラエル人を解放して、世界を支配する存在として考えられていました。ですが実際は、イエス様は人間の考える王や帝国や国や支配という救いではなく、過去から未来に渡るまで、すべての人間の罪から人を救うという、時さえも超えた救いであって、世界を支配するという小さなものではなかったのです。

サタンも同じようにイエス様をそのように認識していたと思われます。悪魔はイエス様を「神の子」として認識はしていても、神ご自身であったとは思わず、人間に対するような誘惑の攻撃を続けたのです。

イスラム教など他の宗教では、イエスは神ではない預言者のひとりであると主張する考えがあります。こういう考えに縛られてしまうのは理解できることです。なぜなら、悪魔でさえ気づけなかったからです。

三位一体とは

イエス様は、旧約聖書の預言通りに、十字架刑にかけられなければいけませんでした。十字架刑ではなく、歩いている時にナイフで刺されてしまったり、ユダヤ教徒に大石で殺されてしまっては、預言を成就することができません。

神様は、世を創られてから人間の「自由意志」を尊重されてきました。神様といえども、人間の自由意志を自由に変えることはしないのです。ですから、イエス様は、はっきりと自分が神であるとは言いませんでした。悪魔にも十字架刑による救いを気づかせないために、神の子としてでしか表されなかったのです。

このことから、悪魔は人間よりも頭がいいのですが、人間に毛が生えたほどであって、神様のように未来が見通せるわけではないということが解ります。

悪魔は、神の子を十字架刑で殺すことで、神様の心を傷つけ、少しでも勝とうとしたのですが、実はそれこそが神様の計画だったことは見破れなかったのです。

この神様による悪魔の勘違いをイスラームは今でもしてしまっているのです。

多くの歴史家などもこの勘違いにはまってしまっているのです。

聖書には、預言が書かれていますが、その預言がいつどのことを指しているのかは、終わってみて解ることが多いのです。解るように書かれていれば、人間でも、その預言通りにならないようにすることが出来る以上、曖昧な表現を残していながら、その出来事が起これば解るほどの明確さで聖書の預言は書かれているのですね。

4、真実の正義とは

多くのひとは、人間を基準にして、物事を考えるように、マインドコントロールされているのが、現代です。

ですが、それが非論理的なことだということには、気づけないのです。

人間を基準にした愛や正義の価値観では、100個の正義があれば、100人100通りの正義が生まれ、都合によって変わり果てるものだと思い込むのです。

これは、義であるかもしれませんが、正義ではありません。

義とは、我の上に主イエスキリスト、我の上に王、我の上に羊と書いてある我の上に三位一体の「義」です。

日本の漢字と聖書物語

正義とは、「一・止・義」一つに止まる義とかいて、正義です。本当の正義とは、三位一体である神であるイエスキリストの義のことを指しているのですね。

現代人の多くは、三位一体の神を我の下に置いて、人間が神を作ったり、考え出したと思い込んでいるのです。多くの歴史学もこのように歪曲させた考え方で作られて、人間を基準にしているのです。

ですが、現実はそのような世界ではありません。

まず、全知全能の神がこの世界を創られたから、わたしたち人間は存在しているのです。

なぜなら、これを読んでいるあなたは、人間です。あなた以外の人間を見てください。あなたと血のつながりもないのに、あなたと同じ形をしています。髪の毛が頭から生え、目は2つで、足は2つ、手は2つで、鼻は1つです。

なぜ、血のつながりもないのに、同じ形ばかりなのが、人間なのでしょうか。

進化論という空想思想のありえない宗教は、この世は偶然の積み重ねで、現在があると説明しますが、偶然つくられているのに、どうして、人間はほとんど100%同じ形で生まれてくるのでしょうか。

人間だけではありません。犬も猿も、花や木や牛も、ほとんどその種類に従い、ほとんど100%同じ形で生まれてくるということは、その種類に従った設計図が存在しているという確固たる証拠なのです。

あなたは、ひまわりの種を蒔いたら、たんぽぽが育つと思うでしょうか。

ほとんどのひとは、ひまわりの種を蒔いたら、ひまわりが育つことを知っています。

これは世界、有機物や無機物であっても、設計図があり、恐ろしく美しい世界が目の前にあるという現実なのです。

これをどうして、偶然だと信じられるでしょうか。

人間が、鉄くずを適当に投げたら、ほとんど100%テレビが作られました。といっているのが、進化論という宗教の思想なのです。

進化論の正体

このような非科学的なことであっても、人は神がいないと非論理的なことを信じ込めるのです。非論理的なことを国レベルでコントロールする手法は、大昔から支配者層が行ってきたことで、歴史を知っているひとはよく解ることです。

そして、その圧倒的な美しい設計図をすべての生き物にも残せるほどの圧倒的な力を有する神のことを人は「全知全能の神」と言い表すのです。

人の命は、この全知全能の神様が創られた、自然の法則に沿っていなければ、存続できません。空気がなければ人間は生きていられないのです。

人の命や家族への愛や恋人への愛の前に、この世界がなければ、それらは存在さえできないのです。

これこそが、真実の正義であり、事実です。

全知全能の神様が、真実の正義なのです。

この神様の基準からはずれて、非論理的なことを実行したり、教えたりするものが、絶対的な悪なのです。

人を傷つけたり、殺したりすることが絶対的な悪ではなく、この世界そのものを否定することこそが、悪なのです。

人の感情や想いではありません。事実を無視して、全知全能の神様から離れようとさせる存在、それがサタンなのです。

サタンは、人の感情や想いを利用して、人間的なものを利用して、神様から人を離しては、自然の法則からいつの間にかずれた思想を植え付け、人を滅ぼし、神様を否定しようとしているのです。

「愛があるから憎しみが生まれる」という人がいますが、それは愛ではありません。人の愛という錯覚なのです。

神を愛するとはどういうことなのか

現代は、悪魔宗教に支配され、お金システムによって構築されています。ですから学校宗教団体は、悪魔的な思想である人間を基準にした教えばかりされているのです。歴史にしても、人間を基準にして教えているのです。

これを何年、何十年、毎日テレビや学校で唱え続ければ、ひとは嘘であっても本当だと脳が錯覚してしまうのです。

人間を基準になどする意味不明なことをしても、人は世界がなければ存続できないのです。この世界では、人は基準ではないのです。

現に、地球だけが人間が住める場所なのが、その証拠です。あなたが、100個の星々を適当に決めたとしても、それらはひとつとして、人間が住める環境ではないのです。1%でさえないという現実が証拠なのですね。

世界の法則を無視して、人間は生きれないのに、その法則を創られた神様を無視することは、愚かなことなのです。

神道であっても仏教であっても神様を優先にするのは、人間を基準にはできないことを知っているからなのですね。

そして、悪魔は、世界そのものである神様から神様が愛する人間を引き離そうとすることぐらいしか出来ないのです。

イザヤ書14章12節ー

暁の子、明の明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。

人間は、エデンの時代に、イエス様によって言葉による善のプログラミングをされました。この世界に善とは、全知全能の神様のことであり、自然の法則であり、この世界そのものです。

そこに、その現実からはみ出そうとした存在が、蛇に入り込んだ者です。

蛇に入り込んだ者は、もともと天使として神様に作られたのですが、その神様に戦いを挑み、地に落とされたのです。

善の存在であった天使は、自分から悪を生み出して、人間よりも先に、悪のプログラミングを理解して、蛇に入り込んで、この世界に、はじめて「悪のプログラミング」を生み出し、広げたのです。

だからこそ、明けの明星といわれたり、最初の悪を生み出した存在として、悪の神とさえ言われ拝まれたりするのです。

善のプログラミングが全知全能の神様であったら、悪のプログラミングは、悪魔なのです。

この悪魔は、この世界である神様を否定するのですから、人間の愛や正義や命などといった価値観ではないのです。非論理的なことを生み出すものが悪魔なのですね。非論理的なことを人間に信じ込ませられるのなら、人間の愛や正義や命を利用して、神様から人間を離そうとする絶対的な悪を実行するのです。

サタニズムという思想は、悪魔を拝むのではなく、むしろ、神や悪魔はいないという思想を植え付けることなのです。悪魔の存在も、神様の存在もなくして、人間という空に固執させることで、本質から人間を遠ざけようとするのです。

結婚式では、神様の前で、男女は愛を誓いまいます。神様が最初であり、神様があってこそ、命があり、その命があるからこそ、男女の愛が成立しているからこそ、結婚式では、神様に近いをたてるのです。

もし、そこに神様がなければ、すでにそれは崩壊していて、連続殺人犯の正義となんら変わらない趣味趣向の愛でしかないのですね。民主主義や科学や、学問、政治にしても、すべてのことに神様がなければ、それは空想でしかないのです。

神様などいないと文句を言えているということは、空気を吸って生きているという証拠です。文句を言えている時点で、その人の語る文句は、言っていることとやっていること、現実からずれているのですね。

死んでいる人の心を傷つけられる人はいません。ある出来事で傷ついたということは、あなたは行かされているという証拠なのです。ナイフで傷つけられたということは、生きているという証拠なのです。

自分の思考の上をいく出来事によって傷つけられたからといって、神様に文句をいうことは、親の都合を無視して、おもちゃを買ってもらえないからと泣いているこどもと変わらないのです。

悪魔の誘惑や計画に騙されないように、神様を基準にして、自然と共存した生き方をすることが大切なのです。

世界そのものである神様は、この世界すべてが神様であるのですから、悪をする必要がないのです。悪を神様がするということは、世界を壊すことであり、自分をわざわざ壊す必要などないのです。人間もそうですが、悪魔は上へ上へと上ろうとして、神様という正義を壊そうとするのです。

自由意志を持った愛すべき人間がいなければ、悪魔を残しておく必要もないのですが、人が悪のプログラミングを受け入れた時から人には試練が必要になったのです。神様にとってテレビゲームでひとがリセットを押すように人間や悪魔を消すことは簡単です。自分の美しい設計図をぐちゃぐちゃにすればいいだけだからです。ですが、神様は、過去・現在・未来にまで続く、永遠の設計図を人間と共に完成させることこそのほが、難しく困難なことなのです。

自分のいうことを聞かないという選択もできる人間を再度、神様の善のプログライングだけにして、エデンの園のような天国を作ることのほうが、意味があり、愛すべき存在として、ご自分の命さえも身代わりになってくださったのです。

聖書を読み、本当の科学的な思考があれば分かるように、神様が基準あり、その基準が、真実の正義なのです。

悪魔は、ありのままの世界を否定して、多くの偶像思想を生み出しては人を騙し続ける、人間の善悪を超えた存在なのですね。

偶像とは

 

また、悪魔はもともと天使であった時は、星々を自由に移動できるほどの力があり、人間とは比べられないほどの知識や能力があったと思われますが、地に落とされてからはその力は制限され、神様の許可なしでは悪をすることができないようにされているのです。

人が神様の自然の法則の範囲内でしか行動できないように、悪魔もかなりの制限が地に落とされた時に決められたのでしょう。

悪魔側からすれば悪としてイエスキリストを十字架刑で殺したのですが、それはすでに預言されていた神様のご計画の内だったように、神様の計画に気づくことができないぐらいの知識だということです。

歴史をみれば分かるように、悪魔が悪だとして行ったことによって、実はそれが未来ではよいことに変換されてしまい裏目裏目に出ているのです。

 

悪魔は、真実から歪曲させた価値観で誘導して、善を悪に、悪を善にと180度回転させることを大昔からしてきました。そのため世の中は、複雑になり、善が悪になるようにしたものの、実は数百年、数千年後の未来では、善になってしまっているのです。

その時は悪が勝ったように思えても、未来では、善が勝っているのです。

悪魔宗教は、なんとか聖書を自分たちの書物にして、一般人には読ませないように、世の中から聖書を排除しようと何度も試みるのですが、カトリックという巨大組織によって聖書を否定することやキリスト教を否定することができないので、聖書も守られているのです。

カトリックからすれば、人間的な組織正義を守ろうとする邪心からの行為ですが、悪が悪を押さえつけるという不思議な世界になっているのです。

世界をお金システムによって支配している巨大な家族がいますが、その家族ですら一枚岩ではありません。ましてや各国の支配者たちの都合と世界を支配している者たちの都合がいつも一致しているわけでもありません。

王族・貴族という勢力もあれば、わたしたち奴隷国民という人数的には99%を占める勢力もあります。悪がお金によって多くを支配していても、このバランスの中の支配をしなければ、世界帝国を維持できないので、この複雑で何とも言えない絶妙なバランスが、わたしたち奴隷国民にも人権を与え、ある程度の自由がゆるされるほどの時代まで来ているのです。

聖書がいまだに守られていることこそ、神様が悪魔を凌駕している証拠なのです。

まとめ

1、全知全能の神の存在が、この世の真実の善であり、それに逆らうことは、この世の中に存在しているものにはできない。人間はこの世界がなければ、生存できず、空気がなければ生きていない。なのに、悪魔はその事実を歪曲させて、ありえない思想を人間に植え付けて、全知全能の神様から人を離そうとする。人間的なうつりゆく善悪ではなく、人間が手出しできないこの世の善悪という自然の法則との戦いに挑みつづけているのが悪魔という存在。

2、悪魔は、全知全能の神という真実の正義を否定するためなら、人間的な愛や正義や命や感情、愛国心などを利用する。人間的な愛や正義を人間以上に理解している。非論理的なものをまるで論理的なことのように魅せることができるほど、狡猾。

3、悪魔は、善を悪に、悪を善に180度考え方を回転させる。本質からいつの間にかずれさせる。

4、悪魔は、未来をよむことができないので、悪魔側からすれば悪だと思ってしたことは、未来では裏目になり、善になっている。悪魔は世の中に180度考え方を回転させることを広めたことで、それが裏目に出ている不思議。

5、これらのことから、悪魔は人間よりも狡猾で頭はいいですが、人間に毛が生えたほどの能力に地に落とされた時に制限されていると思われる。人間のように肉体がないのもそのひとつ。肉体がある動物や人間などに入り込むことはできても、肉体がないので、できることが限られているからこそ、人間を悪魔側にひきいれようと騙そうとする。人間的な目でみれば、ある意味、肉体を持っている人間は、悪魔以上に危険な存在。

6、悪魔側からすれば、悪であっても、未来を見通すことができる神様からすれば、人間の苦労は、人間を愛しているからこその試練。

7、現代は、完璧に近い善の組織はすくないが、完璧に近い悪の組織もなく、なんともいえない複雑な関係によって、バランスが取られている。悪は悪によって滅ぼされ、警戒され、騙し騙されの闇の世界で苦しみ、一般人は、その中にはいらなくてもいいような世界で灰色のような環境で、住めるようになっている不思議。

 

 

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