思考の変化

多神教と一神教は、どちらが正しいのか

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日本は、明治時代から神道でさえも多神教がメインにされていて、現代の日本人は、日本は多神教の国だと思っている人が多いです。

1400年ほど前から朝廷は藤原家によって支配され、天皇は利用されてきました。それまでは一神教がメインであった日本文化で、偶像も禁止されていたのですが、朝鮮半島の同盟国であった百済の国から多神教が広まり、神道勢力であった物部氏も負け、偶像をメインにした大乗仏教が日本に定着していきました。

朝廷は、神道よりも仏教を中心になっていき、神仏習合までさせられていったのです。

神社の形をしながらも、仏教に入り込まれているものも数多くあるのはそのためです。

もともと、神道は、三位一体の神を崇める宗教で、唯一神信仰です。特に、伊勢系はそうです。ですが、出雲系は、ヨセフ派の末裔なので、多神教です。

 

神道の中にも、多神教と一神教の派閥があり、1400年以上前は、一神教の派閥が強く、藤原家の時代からは多神教の要素が強くなっていたのですね。

 

ですが、表では八百万の神として神道を広めてはいても、真意は、一神教の精神を保持していました。

 

明治時代からは数多くの外国の文化の影響もあり、神道は、お札やお守りなどの世俗事が増えていき、多神教の要素をさらに深めていったのですね。

 

その後の子孫であるわたしたち日本人は、多神教だと思い込んで神道をみているので、多神教の言い分が正しいと見がちです。

 

ですが、本当に多神教の考え方は、正しいのでしょうか。

1、多神教は、多くの違いを受け入れるという考えは、正しいのか

たまに、多神教を信じる人の意見で、傲慢なこというのを耳にしたりします。

「多神教は、多くの考え方を受け入れて、人と争いごとをしないからいい。」という傲慢な言葉です。

これのどこが傲慢なんだ?と思うでしょうか。

このような言葉は、一見寛容で、平和的に聞こえますが、よくよく考えてみると、とても傲慢なのです。

この言葉を言い換えれば

「人間が争わないように、神様を人間の都合のいいように利用しましょう。」と言っているのです。

もっと解りやすく言えば、この言葉を言っているひとは、神様よりも人間を上にして、神様を人間の下にして、都合よく利用しているということです。

一神教を信じる人の意見で、たまに聞くへりくだった言葉があります。

「神様は唯一であるから、しょうがない。」という意見です。

これのどこが、へりくだっているんだ?と思うでしょうか。

この言葉は、一見傲慢な言葉のように思えるかもしれませんが、よくよく考えてみると、とてもへりくだった考え方なのですね。

解りやすく言い換えれば

「本物の神様は、人間の都合で変わることがないので、人間は神様の下でそれに従うしかない。」ということです。

わたしたちの太陽系では、太陽は1つしかありません。その太陽のまわりをまわるしか、出来ないのです。

多神教の考え方を無理やり当てはめると

「太陽は多くあったほうが、みんなに都合がいいので、いくつもあることにしょう。」というわけです。

一神教の考え方を無理やりあてはめると

「太陽は、1つしかないので、人間はそれに従うしかない。」というわけです。

どちらが、傲慢でしょうか?

多神教のベースは、神様を上にしているかのようにみえて、実は人間ベースなのです。

一神教のベースは、人間的な違いを言い合っているかのようにみえて、実は神様ベースなのです。

男と女は、違います。多神教では、男と女は、融合してもいいと考え方もあるのですが、実際の世界では、男と女は融合できません。それぞれが違うから子孫が残せるのです。

太陽も1つなのです。

どれだけ、人間が嫌がろうと、それでも地球は人間の意思とは無関係に、回っているのですね。

事実を認めて、それに従う一神教のほうが、実はへりくだっているのですね。

事実を歪曲させて、都合よく解釈する多神教は、実は傲慢なのです。

人間の作り出した神という偽物の宗教を信じているのなら、多神教の考え方も、傲慢で、犯罪的ですが、それが人間だからしょうがありません。

ですが、本当の宗教を信じて、神の存在を信じているのなら、多神教の考え方は、突き詰めると矛盾が広がっていくのです。

2、一神教は、寛容さがないのか?

一神教は、他宗教や他の文化を認めないと多神教を信じる人は、勘違いしているひとがたまにいます。

 

本当に一神教は、他のひとたちを認めたり、受け止めたりしないのでしょうか。

 

多神教は、多くの神々を信仰しているから、争いごとがなくなると主張します。

 

ですが、一神教は、争いごとを生み出そうとする思想ではありません。むしろ、結果的には、争いを喰いとめてしまっているのです。

 

一神教は主に聖書をベースにしています。

もともと、唯一の神様が、人間を造り、人間は唯一しか存在しない神様を拝んでいました。みなが、同じ思想なので、神様という概念で、争う必要さえなかったのです。

ですが、そこに自分中心に世界を動かそうと考えた支配者たちが、自分たちの都合のいい神々をつくり、1つしかなかった神様を空想の神々を造ることで、争いを増やしていったのです。

一神教は、人類みな兄弟と言っているのに、多神教は、わざわざ人類に種類をつけて、争いごとを増やしていったわけです。

 

ローマ帝国は、多神教でした。多神教は、都合よく利用しやすいので、さまざまな国や民族の文化や思想を受け入れやすかったのです。

その文化を認めることで、寛容さを表に出して、帝国の維持を図ったのですね。

 

ですが、世界の文化や価値観は、帝国のように人権的なものではなく、非人権的な思想さえも存在していました。

人を食べることさえも愛だと考えていた文化もあり、嘘や裏切りも、すればするほど、認められる文化さえも存在していたのです。

 

当時の世界は、国境もないので、国もありません。言葉も民族も、肌の色も、文化も、価値観も、大量に存在しすぎたのです。

 

ですから、帝国への裏切りや反乱は、絶えず、多神教であればあるほど、都合のいい解釈をしては、世界に争いごとが蔓延していったのです。

 

そこで、一神教であったキリスト教をローマ帝国は、国境として、同盟国に義務付けていったのです。

 

すると、すべてがバラバラであった大陸世界の価値観に、聖書という統一した価値観、人間には人権があるという考え方や、嘘や裏切りは悪であるという価値観が統一されることで、世界の争いは急激に減っていったのです。

ですから、ローマ帝国という政治よりも、ローマカトリックという宗教が、支配するようになっていったのですね。

 

日本は、海という壁、国境があり、ほとんど1つの民族で文化を広げていけたので、共通点や価値観が一致していましたが、世界は、そのような生易しい環境ではなかったのです。大陸である世界は、もっと過酷な世界で生きてきたからこそ、一神教でなければ、平和が築けなかったのですね。

 

そして、他宗教の考え方を受け入れないということでもありませんでした。大航海時代で、多くの土地を一神教は、自分たちの土地にしてきましたが、そこにあった文化は、認めるものは、認めていったのです。

インドでは、仏教は認められる宗教として認可されていたのです。

ですが、人を傷つけるような宗教は、認められず消されていったのです。例えば、カニバリズムを容認するような宗教です。人を食べることを容認するものです。

 

なぜ、そのように一神教は、柔軟に他宗教を認めていけたのでしょうか。

それは、はじまりが1つであり、ノアの家族から広がったと考えていたので、そこから広がった宗教や人や文化も、良いものなら認めると考えたのです。

もともと1つの家族であり、神様から出ているのだから、認めるというわけですね。

 

人間の体は、胃や脳や右手や左足とさまざまな器官がありますが、それらが良いもので、正常に機能しているから、ひとりの人間でまとまることが出来ると考えたのです。

 

一神教が寛容ではないという考え方は、一神教を知らないか、悪く言いたいから言っている発言なのですね。

一神教だと、世界に争いが生まれるという考え方も、一神教や人間の歴史を知らないから、勘違いして、言っていたり、悪いようにみせたいから発言しているだけなのですね。

 

しかも、日本という文化は、言葉では寛容だと言いながら、実際に行動したり、決断することは、とても多文化を受けれないことをしているのです。

例えば、多神教は受け入れるからいいと言いながら、一神教の考え方を受け入れていないという、言っていることと、やっていることが、違っているのです。

 

そして、世界は、日本のように平和な環境ではないので、もともと、とんでもなく違いが目の前に存在しているので、違いを受け入れざるおえないのです。

ですから、個々をしっかりしながら、違いを受け入れているのです。

日本が主張していることと実際は、真逆なのですね。

 

一神教を信じている国や人々のほうが、柔軟に受け入れ、認めているのです。

 

受け入れる受け入れないという、価値観は、どちらもどちらです。これに答えはありません。

神様は唯一であることは、この世界の法則をみれば、明らかですが、何を受け入れ、何を受け入れないのかの基準は、どちらも、どちらなのですね。

 

ですから、日本の受けれないというものも、正しいですが、海外の受け入れるという考えも正しいのです。

 

日本は、言葉では、受け入れているといいながら、実際、受け入れていないことは、海外からの悪いものも、入らない、守りになることになるので、それはそれでいいのです。

 

ですが、多神教だからとか、一神教だからとかを理由に、実際のやっていることを無視して、文句をいうのは、いけないのですね。

日本は、良くも悪くも、とても閉鎖的であることは、間違いないのですからね。

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