聖書

聖書の教える隣人愛

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この隣人愛の考え方は、実はとても難しいものです。
現代人は、隣人愛の精神はとても解りやすく、理解できるのですが、200年も前の時代だと隣人愛は、理解されにくいものでした。
現代人であっても、世の中の闇を本当に理解している人にとっては、隣人愛は偽善者的で、非論理的な教えだと思えるひともいるはずです。
注目したいのは、聖書は、すべての人間を愛しなさいとは教えていません。神様は、すべての人を愛されていますが、それは神様だからできることで、人間にはできるものではないからです。
ですが、神様は隣人をあなた自身のように愛しなさいと教えられました。
①すべての人間→②隣人 と枠が小さくなっているということです。
では、隣人とは、どういった人間の枠なのでしょうか。

1、人間には、愛や正義は存在しない

人間を中心にすれば、人間には、愛や正義は、存在しません。
例えば、連続殺人犯などは、人を食べたり、人を傷つけることがとても興奮する趣味であって、恋をしてドキドキするように、それが愛であり、彼らの正義なのです。

一般人でも、愛する人を傷つけて愛だと思い込んで実行しているひともいます。SMという愛する人を傷つけ、傷つけられて、脳が興奮することで、気持ちくなるそのことが、愛だと思い込むのですね。そして、彼らにとってはそれが愛であり、趣味趣向なのです。

不倫というものもありますが、愛する人を裏切って、違う人と交わることをすると興奮する犯罪的な愛もあります。

ロミオとジュリエットのように、家族から反対されれば、されるほど盛り上がって、思い込める愛もあります。

同性愛はいけないという価値観に逆らって、気持ち悪いなどを言われれば言われるほど、盛り上がる愛もあります。

このように、人間は、恋や犯罪、人を傷つけることでも興奮しては、それを愛だと錯覚でき、気持ちよくなれるのです。

人には確実に、愛や正義がない証拠です。

では、このように、犯罪的な愛や正義を持っているひとは、隣人だとして、愛すべきでしょうか?

2、世界の掟、世界の歴史では、隣人愛は常識

世界の掟、世界の歴史では、隣人愛は常識です。

なぜなら、自分たちと同じ民族だけが、人間で、他の民族は動物であると教えることが、自分たちを守ることだったからです。

自分たちと同じ民族、仲間、家族は、絶対に裏切ってはいけない。嘘やまやかしをしてはいけないというのは、外に対する敵に対して、防衛的に有効だからです。

ヤクザでも、親子の盃などをかわすのも、このためです。

他民族や集団は、自分たちの民族を滅ぼすために、嘘や策略をしかけてくるのは、当然ありえる行為だったからです。

現代でも、地位や名誉を得るために、相手をけり落してでも、上ろうとする人もいます。

ですから、飲み会などを開いて、誰が仲間で、誰が敵なのかを把握しては、仲間という隣人を集めて、自分の安全を確保しようとするのは、当然のことだともいえるわけです。

3、聖書の教える隣人とは

では、聖書の教える隣人とは、どういうものでしょうか。

聖書の教える隣人とは、聖書の神の愛と正義の「基準」を受け継いでいる者のことです。

聖書では、多くのところに「子孫」と書かれています。

子孫と聞くと、普通の人は、「血のつながり」のことだと思うかもしれませんが、聖書の子孫とは、「教え・プログラミング」のことです。

人を傷つけ、裏切り、嘘を付き、詐欺をして、興奮する愛の子孫は、「悪魔の子孫」と呼ばれるものです。

そして、人を助け、人を守り、嘘をつかず、詐欺を悪と判断できるものを「神の子孫」と表しているのです。

この善悪は、当たり前だと現代人は、思うかもしれませんが、それは現代ではすでに、「聖書の基準」が世界の基準になったあとに、わたしたちが生まれ育っているからです。

聖書の基準が大航海時代から世界に広まるまで、聖書の基準を持っていた白人と神道の基準を持っていた日本人以外は、人を食べるカニバリズムという文化が広がっていたのです。

人には人権はなかったのです。家族であっても食べるという文化が、世界中に広がっていたので、白人は、彼らを殺さずに、奴隷にして、聖書の愛と正義、人間には、人権があることを教えて、「悪魔の子孫」から「神の子孫」の脳のプログラミングを伝えたのです。

わたしたちが、スーパーで牛や鶏の肉などを平気で買っては、家で食べることをしていますが、200年前までは、人の肉を食べることは当たり前だという文化が、世界中に広がっていたのです。

中国では、人の肉は、露店で売り買いされ、戦争でも兵量を持っていくことはありませんでした。食べ物は、敵だったからです。

ですから、今は違いますがほんの70年前まで、中国では、嘘や詐欺は正義だったのです。

このような人たち、「悪魔の子孫・悪魔のプログラミング」を愛や正義だと思っているひとを間違えて、隣人だとすることは、とても危険なのです。

キリスト教は、世界を聖書の基準で、裁き、プログラミングさせました。ですが、世界にはさまざまな宗教があり、聖書の教えと似て、人権を教えていた宗教は、認められたのです。

仏教などは認められた宗教でした。

ですから、聖書の隣人とは、人には人権があることを理解している人、犯罪的な愛や正義を否定できる人のことを指すのです。

これらを理解していれば、神道であろうと仏教徒であろうと隣人なのです。

4、隣人愛の危険性

ですが、無神論や無宗教というひとは、基準がなく、人間中心にした愛や正義を信じているので、このような人たちは隣人とするのは危険です。お金や会社のためなら嘘や詐欺をしては、利益優先にする人を信じたら危険だからです。水俣病などにされてしまうこともあります。

人間には、愛や正義がないのに、人間を基準として生きているひとは、犯罪者と変わらない、自分勝手で、興奮したり、好き嫌いであり、趣味趣向の基準だけなので、信じてはいけないわけです。

神道の教えや仏教の教え、聖書の教えをちゃんとプログラミングされ、それを守ろうとするひとたち、そういうひとたちを聖書では、隣人としているのです。

ヤクザや悪の組織などは、さらに狭い隣人愛ですが、聖書の教える隣人愛は、狭くもなく、広すぎもしないものなのですね。

現代では、「憲法」という聖書の基準がある律法を基準にしているので、人権を理解しているので、無神論とはいえ、隣人に近い存在だとしますが

オウムなどのカルトは、そのような人たちを動物であり、悪魔だと断定して、「ポア」しろと過激な教えをプログラミングするのです。

聖書が教えるのは、そこまで狭い隣人愛ではありません。例えば、「悪魔の子孫」であっても、聖書の教えは、そういった人たちからは離れなさいとは教えますが、攻撃などをするものではありません。

あからさまに、連続殺人犯のように「あきらかな悪の子孫」に対しては、刑務所にいれたり、処刑を容認しますが、それ以外のひとたち、憲法を基準にされている現代人を攻撃するなどは、カルト思想でしかありません。

むしろ、右の頬を殴られたら、誇りをもって、左の頬を出して、愛を示しなさいと教えます

ただ、隣人愛が難しいのは、表向きはキリスト教と宣言している人であっても、実は裏で悪魔宗教をしているスパイのような人もいることです

神道や仏教徒であっても、それは表向きの顔であって、裏の顔は「悪魔の子孫」かもしれないということです

ですから、一概に、クリスチャンだからとか、神道の方だからといって、隣人だと思い込むのは、危険なので、隣人愛の基準は、難しいのです

単純な隣人愛に励むと考えていると痛い目にあいます

聖書は「蛇のように悟りなさい」と教えています

蛇とは悪魔のことで、悪魔の悪の策略や罠を理解していれば、詐欺などに騙されにくくなるからです

現代は、まだかならず「悪」が存在している以上、簡単に信頼してはいけません

未来では、ほとんど悪が無くなっている時代が来たのなら、それでもいいですが、あきらかに、現代は悪が存在し、あちらこちらに、悪が紛れ込んでいます

ですから、まだまだ、油断せず、悪を見抜きながら、生きることが大切です

生きていれば、かならず騙され、傷つけられます

5、本当の善人と本当の悪人

ですが、聖書は、それでも喜びなさい、愛しなさいと教えています

本当の悪人は、善悪を超えて、悪を行います。まるで天使のように笑顔で悪を実行していくのです

ですが、本当の善人は、善悪を超えて、善を行うものです。何度傷つけられても、何度裏切られても、それでも愛を示し、強い精神を育てて、恐れず、行動するものです

好きだと思っていた人に裏切られても、家族から裏切られても、それでも愛に従い、正義に従う強い精神を兼ね備えるひとが、本物の善人です

どれだけ悪を見せつけられても、善を選べる強いひと、そういうひとは、高い割合で隣人と言えるでしょう

イエス様は、バカにされ、殴られ、弟子さえも見放し、犯罪者として冤罪処刑される中でも、「彼らを御赦し下さい」と祈られました

弁解するでもなく、無言で愛を示し、神様に委ねられたのです

憲法の人権を基準に生きてきたからといって、他人からバカにされるのが怖くて、裏切ったり、傷つけるような人は、本物ではありません

地位や名誉のために、悪さえも正義だと宣言するひとは、本物ではありません

釈迦のように地位や名誉、家族などを捨ててでも、確かな愛や正義を基準にして、生きていけるひと、世の中に流されず、固く建てるひとが、本物です

隣人愛とは複雑で難解な教えなので、簡単には教えられませんが、聖書の教える隣人愛とは、「神の子孫・神を基準としたプログラミング」だということです

6、隣人割合を見定めましょう

神の子孫20%なのか、50%なのか、70%なのかの判断は、みなさん、ひとりひとりが判断するべきことです

確実に言えることは、人は100%神の子孫というひとも、100%悪魔の子孫というひともいないということです

人は不完全だからです

ですから、どれだけ家族であっても100%隣人だと思って信用してはいけません

100%信用すべきだと心から思えば、その家族や仲間が間違った時、それをゆるせないと思ってしまうからです

人には愛や正義がない以上、完全に信用して、完璧な隣人だと思うことはしないことですね

だからといって、オウムなどのカルトなどのように完全に隣人ではないと考えるのもいけません

現代は、大詐欺時代です。

個人だけではなく、国や教育、司法、警察、医療など常識では、正しいとされているものであっても、システム自体が、すでに悪に根付いています。

だからこそ、まだまだ悪があるので、すぐに隣人だと思って、信頼してはいけません。

100%、信頼はもちろん、しないにしても、それでも、あなたは聖書の愛や正義を実行し、生きるべきです。

クリスチャンは、人を信頼しません。人やものを偶像崇拝するのではなく、本物の神様を信頼する人のことです。

ですから、人やものやシステムや組織、世のものに対しては、割合をチェックする知恵と知識を身につけましょう。

わたしのサイトであっても、チェックするべきです。わたしもたかが人間のひとりですから、間違いもあれば、悪をしてしまうかもしれません。

したくないと思っていても、している可能性もあるからです。

何をするにしても、全知全能の神以外は、信頼するに値しないということです。

自分を100%信頼している人もいないとは思いますが、神の子孫の割合が高いのであれば、自分と同じように愛するべきです。そして、割合が少なくても、愛や正義を持って歩むべきです。愛をもって叱ることもあるでしょう。自分を奮い立たせるように、隣人に対して奮い立たせようとすることもあると思います。

何をするにしても、そこに愛がなければ、むなしいものになるので、神の基準の愛なくして、悪から相手を傷つたり、恨んだりはしてはいけません。

神様は悪人にも、雨を降らされる方です。人間にはその愛を示すのはなかなかできませんが、自分が傷つけられても、悪の子孫を神の子孫へと導くための生き方をしていきたいものですね。

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