思考の変化

イエス様はなぜ「わたしをお見捨てになったのですか。」と言われたのか

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キリスト教は、イエスキリストは、神様であり、三位一体の神の形であることを信じるものです。

そして、神様とは全知全能の神であるので、すべての現象について、知っておられると考えます。

ですが、キリスト教徒ではない人たちは、イエスの存在は否定はしなくても、そのイエスは、人間であったり、預言者であったという見方が出てきます。

イエス様が、十字架刑に架けられた時代は、ユダヤ人は、ローマ帝国に支配されていました。ですから、ローマ帝国に対して、常に反乱を起こしては、独立しようとするレジスタンスがいました。革命家ですね。

裏切り者のユダも革命家のひとりだったのではないかと言われています。

そのような革命家からするとイエス様は、力強い王でユダヤ人を率いて、ローマの支配から解放してくれると望んでいたわけですが、イエス様は、十字架刑で磔にされ、そのまま死んでしまいました。

革命家たちは、「革命は失敗した。」と口ずさんだと言います。

このように、イエス様は、人間であったとする人たちがキリスト教以外では、よく議題にあがるのです。

その根拠にされるのは、マタイの福音書27章46節です。

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

と書かれているのです。

十字架刑に架けられたイエス様は、あきらかに自分とは違う神に向かって、疑問を投げかけています。

ということは、イエス様は、神ではなく、人間。または、預言者だったのではないのか?というわけです。

自分とは違う神に叫ばれ、見放された理由も解っていないことで、全知全能の神ではないという主張です。

果たして、イエス様は、神ではなく、人間なのでしょうか。

1、三位一体の神のひとつイエス様

世界中の宗教には、共通点があります。

世界中に神概念があるというだけではありません。仏教も神道もギリシャ神話やエジプト神話など、数多くの宗教には、共通点があるのです。

神道やギリシャ神話などは多神教のように一見みえますが、本当の神である頂点に立つ神は、全知全能の神のように力強いのですが、その他の神々は、まるで人間のように失敗したり、間違ったり、悪をしてしまうように書かれています。

そして、一番上の神は、三位一体の神であると教えているのです。

紛い物の神ではなく、本当の神は、三位一体の神の形をしているというものが、世界中の宗教の共通点の1つなのです。

もちろん、聖書の神も、三位一体であることが書かれています。三位一体とは書かれてはいませんが、3つの要素があることが書かれているのです。

まず、「はじめに神は、天と地を創造した。」と創世記1章1節に書かれています。

これが、三位一体の神のひとつである、世界そのものである神様。全知全能の神様であり、「ヤァ」と言われる神様です。

「やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」と創世記1章1節にまた書かれています。

神様には、霊があると書かれているのですね。三位一体の神様のひとつである。聖霊様である神様です。

そして、「彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。」と創世記3章8節に書かれています。

歩くためには、足が必要です。園を歩くための足がある神様、それが人間の形をした三位一体のひとつの神様なのですね。

また、聖書には、このように書かれています。

「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」と創世記1章27節に書かれているのです。

人間は、足があり、口がある神様に似せられて、造られたと書かれているのですね。

イエス様は、エデンの園の時代にすでに存在し、イエス様のかたちに似せて、アダムは創造されたのですね。

ですが、人間は罪を犯し、エデンの追放と共に、身近にいた神様であるイエス様も封印されたのです。イエス様はいのちであり、いのちの木だったのですが、人間が永遠のいのちを罪を持ったまま得ないように封印されたのです。

このように、聖書には、天地創造の神様・聖霊様・イエス様の三位一体の神様であり、3つでひとつであることを口を持ったイエス様がアダムに言葉と共に教えたのですね。

聖書にはまた、このように書かれています。

創世記1章26節

そして神は「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と書かれています。

ひとりであるのに、われわれとは、どういうことなのか?と思う方がいると思います。聖書の神って複数いるの?と解釈してしまうかもしれませんが、聖書の神は、3つでひとつの形なのですね。その3つの要素をわれわれと表し、それぞれの役目を果たされているというわけです。

その3つの要素の神様と人間は同じように造られているのですから、人間も三位一体だというわけです。

この記事を読んでいるひとは、世界が無くても、生きていられるという人がいるでしょうか?

地球がなくても、生きていけるでしょうか?人間は、地球が無くては生きていけません。人間は、世界と一体なのですね。

また、人間の脳は、電気信号で動いていることが解っていますが、では、その電気を流す基、スイッチは何なのでしょうか?

パソコンでも、はじめに人間がスイッチを押さなければ、電気を流して動かすことはできません。人間も、何かがなければ、電気が脳に流れないのです。実際に、死んでしまったひとの脳は、電気信号が流れないのです。

そうです。人間には霊があってはじめて、脳に電気信号が流れるのですね。スイッチの役目が霊というわけです。

そして、体がなければ、もちろん生きてはいけません。

人間も神様と同じように、世界・霊・体という三位一体のかたち、われわれと表した三位一体の神様と同じ要素を持って造られているのですね。

わたしたち人間は、世界と一体であるのですが、世界を動かせるのはごく一部であり、世界全体を動かすことは無理です。

世界が親であれば、人間は子のような存在なのですね。

また、イエス様も同じで、世界が親の神であれば、その大地に足を使って歩かれるイエス様は、子である神様というわけです。

三位一体の神様であっても、その役目はそれぞれにあり、別々であって、別々ではなく、共存の関係にあるわけです。

ですから、「わが神。わが神。どうして、わたしをお見捨てになったのですか。」とイエス様が、世界の神様であり、親の役目の神様に声をかけていることは、イエス様が神ではないとは言えないということです。むしろ、旧約聖書に忠実に、また、正確に本物の神様のかたちを言い表しているのですね。

わが神。わが神とイエス様がご自身と違う神様に声をかけられたから神ではないとは言えないということです。むしろ、旧約聖書をきちんと読めば、イエス様は、神様であると証明されているとも言えるのですね。

2、イエス様は全知ではないのか

イエス様は、人間と同じ体を持たれた、存在なので、全能ではありませんね。もちろん、世界の神様と聖霊様を組み合わせれば、全知全能の神様ですが、ひとつの要素だけに区切れば、人間と同じように、制限された能力なのが、イエス様です。

だからといって、全知、すべてのことを理解されていないとは言えません。

エデンの園の頃にいた、イエス様は、すでに成人をむかえられた形で、アダムを造り、アダムに情報を言葉などで教えたとは思いますが、封印をとかれ、また人間の前に現れたイエス様は、人間と同じように、小さい赤子として、生まれました。

その赤子の状態は、人間と同じように、能力が制限され、成長していかれました。ですから、赤ちゃんの時から、ベラベラとしゃべったとは、思えません。

人間同様に、その過程を経て、大きく成長するとともに、全知全能の神様と聖霊様とつながることで、自分が神であることを認識し、罪のないまま自覚され、旧約聖書の預言通りに、人生を歩まれたと思われます。

その一体となられた瞬間が、バプテスマのヨハネによる洗礼式だと考えられます。

洗礼を受けられたイエス様の肩に、聖霊のハトが止まられたのです。

全知全能の神様と聖霊様と体であるイエス様の一致がもたらされた時、全知にイエス様は戻られたのではないでしょうか。エデンの園のイエス様に赤子時代を経て、成長とともに、戻られたわけです。

全能ではないにしても、体のあるイエス様は、全知だったとわたしは思います。

もちろん、世界の神様・聖霊様を含めれば、全知全能の神様です。ひとつの要素に止まればということです。

とはいえ、マタイの福音書では

「どうして、わたしをお見捨てになられたのですか。」と疑問を叫ばれたのでしょうか。

全知であり、すべての知識があるのなら、疑問を叫ばれるのは、解っていない、全知ではない、神ではないことの証明なのでは?と解釈してしまいそうです。

単純にそのまま読めば、解っていないと解釈しそうですが、実は、さらに深く解釈すれば、解っていたからこそ、叫び、嘆かれたと考えられるのです。

どういうことでしょうか。

3、解っていたからこそ、嘆かれたイエス様

キリスト教は、もともとローマ帝国の属国であるイスラエル人のものであり、白人の宗教ではありませんでした。日本人と同じ、有色人種がイスラエル人だったのです。その白人ではないイスラエル人の宗教が、なぜ白人が主体のローマ市民に受け入れられたのでしょうか?

ローマは、その時代では、世界の中心であり、世界中の情報が集められる場所でした。哲学にしろ、歴史にしろ、宗教にしろ、世界中のありとあらゆる情報が、集まり、議論される場所だったので、ローマ市民は、論理的なことが好きだったのです。

肌の色や人種に左右されれば、ローマ帝国であり、連合国は成り立ちません。様々な文化を理解して、その上をいかなければ、納得されないのです。

ですから、ローマは、多神教が国教とされていました。他文化を理解することで、寛容さを表して、納得させるため、政治的に、宗教を利用していたのですね。

その中でも、キリスト教は、圧倒的な論理に裏打ちされていたことで、論理好きなローマ市民に受け入れられていったのです。

世界中の宗教には、共通点があることをローマ市民は知っていました。世界中の宗教を研究していたからです。女神崇拝にしても、救世主伝説にしても、数々の共通点が存在しています。

世界はイエスキリストによって集約され、繋がっている>>

世界の情報を持っていたからこそ、その世界を論理的に、的確に説明してしまっている宗教は、キリスト教しか存在していませんでした。ギリシャ神話にしても、神道にしても、とても抽象的な表現で、何を言っているのか解らない、聖書でいうと黙示録のような理解に苦しむ内容バなりなのに対して、聖書は、解りやすく理解できるように書かれているにも関わらず、論理的で、筋が通っているのです。

この圧倒的な論理が、ローマ市民に受け入れられたのですね。

ですが、いくら論理的だからといって、人は、論理だけで納得できるものでしょうか?

もし、論理的だけで人が納得できるのであれば、今頃、世界はキリスト教だけになっているはずです。

人間は、論理的だというだけでは、納得できないのですね。

圧倒的な論理があるからといって、上から目線で、「ほら!これも説明できる!これも説明できる!これはこうなんだ!」と言われれば言われるほど、意地になり、反発したくなったりするものです。

人間には、妬みや嫉妬が存在し、多くのひとたちは、「自分のみたいものを見る」のですね。

ですから、簡単に戦争の苦しみや迫害の悲しさを論理で納得できるものではないのです。

「論理とかそんなものではなく、わたしたちは日本人で、日本の文化は素晴らしいのよ!」と主張したくもなるのです。

自分のみてきた物や味わったことに、愛着がわくように、人間はできているのですね。

論理的だからといって、その身近な愛着を捨てるような心には、なかなか成れないのです。

オリンピックでも、日本人は、日本選手を応援したくなります。日本選手が頑張っているとくぎ付けになります。

高校野球でも、地元を応援したくなります。自分よりも離れたところの学校よりも、身近にあるというだけで、親しみがわくのですね。

論理的であったり、優勝したからといって、すぐに地元を捨てて、優勝した学校のファンになるわけではありませんね。

むしろ、優勝しなくても、頑張っているところをみては、さらに身近な学校が好きになるほどです。

上に立てば立つほど、人は納得したくなくなる性質があるわけですね。

では、イエス様は、どうでしょうか。

イエス様は、これといって大きなことをしていません。ダビデ王の正当な血筋であるにも関わらず、質素な人生を送り、正当ではない王に命を狙われたほどです。

バブテスマのヨハネのように、ユダヤ教を激しく非難するわけでもありませんでした。ローマの批判もすることもありませんでした。

奇跡などはみせても、これといって、大きな成果をあげたわけでもなく、また、処刑されるほどの大きな罪も、なかったのにも関わらず、犯罪者だと言われ、みなから殴られ、つばをはきかけられ、バカにされ、弟子からも見放され、人間が考え出した最大の苦しみを味あわせる十字架刑に、十何時間もかけて、殺さないように、苦しめられたのです。

イエス様は、これといったことをしていないにも関わらず、誰よりも悲惨な人生を歩まれたのですね。

ここに、人々は、心を打たれるのです。

わたしたちの人生を振り返ってみると、すべて納得できる出来事ばかりだという人がいるでしょうか?

むしろ、なぜ神様は、このような試練を与えられるのだろうか?という出来事のほうが多いとさえ思えます。

それは、若い時ほど、自分が主人公であり、幸せになるべくして、存在していて、世界は、自分中心に動いていると思い込むからです。

ですが、実際は、世界は、自分中心には動いていません。自分の思い通りには、動かないのが、現実なのです。

ですから、みな、自分の想いとは別の挫折を繰り返していて、心に傷を持って生活しているのです。

強い人は、それを受け入れますが、弱い人ほど、強がったり、上から目線になったり、地位や名誉で、思い通りの世界にしようと必死になります。

ですが、現実は、当たり前ですが、我を通すほど、厳しくなるのですね。

だから、挫折しているように感じて、自分で心に傷をつくるのです。

ですから、王様とか、偉いからとか、論理的だからといったところで、人の心を打つことはありません。

恵まれていることは、表面的には、納得できても、心の奥底では、納得できないのですね。

イエス様は、逆でした。誰の目からみても、イエス様は十字架刑で、犯罪者として、負けた人間にみえたのです。

弟子さえも、イエス様は死んで、負けたと考えたのですね。

ですが、その2000年後の現在では、どうでしょうか?

日本の人口の10倍以上、10億人以上もの人々が、そのイエス様を神様だとして、信じているのです。

当時のだれが、このような未来を想像できたでしょうか。

未来をも見通し、理解されていたからこそ、叫んで、嘆かれたとも考えられるのですね。

神様だったから、痛くなかったとか、苦しまなかったわけではなく、人間と同じように痛覚を持ち、人間同様に、十字架の苦しみを味わってくださったということです。

多くのひとは、自分が心の底で思っていることを言葉に出しません。

例えば、親は、子に食べ物を与えるために、努力して、汗水たらして、苦しみながら、仕事をしますが、家族の前では、平静を装います。

心の底では、「苦しいよー。悲しいよー。バカにされたよー。こんなはずじゃなかった。」と思っていても、口には出さずに、人生を歩んでいます。

本当に理解しようと思えば、単純に、家族の前で口にする言葉を解釈するだけでは、実は足りないのですね。

あなたが、友のために、拷問されたとしましょう。友のために、痛いことも、耐えるのですが、どうしても、痛みのために、悶絶して、「ああー!」と叫んでしまうのです。

イエス様も、わたしたちのために、苦しんで、苦しんで、悶絶するほど苦しんだことを表しているのが

「わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という言葉だったのですね。

無神論者の方には、理解は難しいかもしれませんが、有神論者にとって、神様から見放されることは、なによりも恐怖です。車はブレーキに守られているから安心なのであって、守りがなければ、恐ろしいのです。神様から見放されるということは、絶対的な絶望感なのですね。

例え友のためとはいえ、その友のために、神様から見放されることは、十字架刑の苦しみよりも、辛かったことでしょう。

イエス様が、ダビデ王のように強い国を造り、力で、世界を平和にしたところで、人々は納得したとは思えません。

イエス様は、まったく力に頼らず、平和に語られ、上から目線ではなかったから、人の心を打つのですね。

すべての人の嘆きと悲しみ、苦しみを解っていたからこそ、それ以上の天の神様からさえ見放される苦しみを持って、嘆いてくださった言葉だったというわけです。

クリスチャンは、イエス様のその言葉を聞いて、自分以上の苦しみを持って十字架刑に望んでくださったことを受け入れ、涙するのです。

また、イエス様が生まれる前から存在した旧約聖書には、このような預言が書かれていたのです。

イザヤ書24章14-20節

彼らは、声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ。それゆえ、東の国々で主をあがめ、西の島々で、イスラエルの神、主の御名をあがめよ。わたしたちは、「正しい者に誉あれ。」という地の果てからのほめ歌を聞く。しかし、私は言った。「私はだめだ。私はだめだ。なんと私は不幸なことか。裏切る者は裏切り、裏切り者は、裏切り、裏切った。」その恐れの叫びから逃げる者は、そのわなに捕らえられる。天の窓が開かれ、地の基が震えるからだ。地は裂けに裂け、地はゆるぎにゆるぎ、地はよろめきによろめく。地は酔いどれのように、ふらふら、ふらつき、仮小屋のように揺り動かされる。そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。

「私はだめだ。私はだめだ。なんと私は不幸なことか。裏切る者は裏切り、裏切り者は、裏切り、裏切った。」と嘆くことは、すでに預言されていたことで、イエス様はその預言の成就を果たされたのですね。

イエスキリストの預言>>

4、文化と歴史により証明された救い

突然、わたしが、「雲に手を合わせて、祈れば、すべての罪がゆるされる。」と言ったところで、何の根拠があるでしょうか。

突然、「〇〇」と呪文を唱えれば、救われると言い出したとして、何の根拠があるのでしょうか。

「〇〇」の行いをすれば、救われると突然言い出したとして、根拠はありません。

小説や映画、アニメや漫画の救いの定義とそれらは変わりません。

イエスキリストが、なぜ、キリスト救い主だと信じられているのかは、根拠に裏打ちされているからなのです。

イエス様は、イエス様の行いや人生に歩んだことが、救いに至ったのではなく、イエス様が生まれる前から存在していた旧約聖書の中に、すでに、イエス様の人生で歩まれる出来事が「預言」されていたからです。イエス様の預言は、300カ所以上にもわたって、すでに旧約聖書に書かれていたことが、神である証明なのですね。

イエスキリストの預言>>

また、イスラエル人たちが、行ってきた行事が、イエス様と一致していたからこそ、救いに根拠があるのです。

アダムとエバが、罪を犯した時、神様は、動物の皮で、服をつくり、人間に着せてくださいました。

それからひとは、罪を犯した分だけ、動物の命で贖い続けてきたのです。

神道もそうですが、世界中の宗教には、神様に生贄をささげている共通点があるのです。

イスラエル人は、罪を贖うために、子羊を捧げ続けてきました。なぜ、子羊を捧げ続けてきたのか、イスラエル人でさえも、理解していなかったのです。

ですが、イエス様が、まるで子羊のように、何も語らず、言われるがまま、十字架刑に架けれことで、イスラエル人たちが行ってきた文化が、解明されたのですね。

世界であられる神様にとって、動物は、体の一部です。

その一部である動物を人間の罪を贖うために、血を流させたのです。

現代人は、血が命であることをほとんどの人は理解していると思います。例えば、指が切断され、血が通わなくなると、その指の細胞は死んでいき、腐敗していきます。死体も心臓が動かなくなり、血が通わなくなると、体の細胞が腐敗していきます。

血は、命なのですね。

人は罪を犯すことで、完璧であった世界を壊す存在になりました。世界という体を切断できるようになったのです。ですから、悪によって罪をすればするほど、それは人間に返り、死ななければいけない存在になったのですが、神様は、人間を死ぬようにはされず、代わりに、動物の血を持って贖うことを教えたのです。

人間は、その動物が、神様ご自身であることを知らずに、何度も何度も、動物にナイフを突き立てたのです。

神様は、人間のために、何度も何度も、自分の体をナイフで刺すように言われ、何度も「あ!あ!」と声をあげて苦しみ続けてくださっていたのですね。

もちろん、その動物の血で、すべての罪が贖えるわけではなかったのです。

人間の罪を贖えるのは、その罪を犯した人間の血でしか贖えない、命でしか贖えないのですが、神様はそれを超えて、ご計画を建てられたのです。

すべての人間は、アダムからはじまっています。ですが、そのアダムは、何からはじまっているでしょうか?

そうです。人間と同じ体、イエス様から似せて造られたのが、アダムなのです。

アダムは、神様の雛形であって、イエス様は、人間を超えた、聖なる体であるがために、その体と血といのちを身代わりにすることで、人間の罪を贖えるのですね。

イエス様という神様、三位一体のひとつの形である、人間と同じ形で存在した理由は、人間を救うため、人間を罪から解放するために、わざと苦しめる体を持って、人間の体と同じように存在してくださっていたということです。

体がなければ、十字架刑にかかることも、苦しむこともできないからです。

子が、犯罪をおかすと、その親はなにをしていたんだ?と責任を追及されます。

子と親は別々の人格であり、別々の個体なのですが、親には責任が伴うのですね。

親は子の罪に対して、選択権はないので、本来は、責任はありませんが、神様は、人間を造られたという責任を受け止められ、またその子の罪をその子の血ではなく、自分の血を流すことで、守られたのです。

何度も何度も、人間のために、ナイフを突きつけられ、「あ!」と悶絶してきた声は

「わが神。わが神。どうして、わたしをお見捨てになったのですか。」という苦しみの声だったのですね。

イスラエル人が、1000年以上も前から行ってきた、文化が、実はイエスキリストにつながっていたことで、救世主であり、救いの根拠になっているのです。

突然、イエス様が、救いを言い出したのではなく、すでに預言されて、文化があったことが、イエス様が救世主伝説の人物だという証明になっているのです。

「どうして」という言葉を単純にそのまま読めば、解っていない発言になりますが、深く文化や預言や旧約聖書、また未来や人間の嵯峨に照らし合わせれば、とてつもなく、世界と人間を理解した発言だったと解釈できるのですね。

イエス様は、苦しんで死んでくださったのであって、人間的な勝利ではなく、本質的な、世界の悪に勝利し、死をも打ち破られ、時代が変わっても、その救いに目覚めるひとたちは、あとを絶たないのです。

論理だけで納得できるものではなく、誰よりも悲惨な人生と誰よりも罪のない人生を歩まれたからこそ、苦しみに生きている人間たちの心を打つのです。

 

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