思考の変化

復讐は正しいのか

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復讐は正しくありません。

ですが、復讐は必要だという意見もあります。

なぜ、復讐は、必要だという意見があるのでしょうか。

それは、悪に対して、懲らしめることが必要だと考えるからです。

ですが、よく考えてみましょう。復讐と懲らしめるは、イコールでしょうか?

復讐と懲らしめるは、違います。

「復讐」は、感情的にストレスを相手にぶつける行為です。

「懲らしめ」は、悪に対して、善を冷静に教える行為です。

復讐と懲らしめを混同して考えるから、復讐は一概に正しくないとは言えないという意見が出るわけです。

①ある親は、子を育てて、育児をしている時、自分の理想と現実のギャップによる普段からの多大なストレスから、感情的になり、弱い立場である子に対して、攻撃的、もしくは、一方的にコントロールしようとします。

②ある親は、子を育てて、育児をしている時、現実を直視し、受け入れて、普段からストレスを解消できて、余裕があることで、子の不正に対しても、冷静に対処して、個を尊重しながらも、注意を促します。

①と②は、同じ育児ですが、まったく違います。

①がストレス発散するための感情爆発であり、復讐なら、②は、ストレスに対処した、善へと導く指標であり、懲らしめです。

①は確かに、その時のストレスを発散できますが、代わりに子がストレスを受けて、また違う不正をしては、子はストレスを発散させようとします。ストレスがストレスを産み、負の連鎖が続くだけです。

②は、すでにストレスに対処し、新たなストレスを受け止める余裕があるので、子が他の世界からストレスを与えられて、家に持ち帰り、家でストレス発散しても、それを受け入れて、0に近づかせることができるわけです。そのストレスは、糧となり、成長をうがす正の連鎖へと移行できていきます。

聖書には、「聖別せよ。」とは書かれていても、「復讐せよ。」とは書かれていません。

悪に対して、懲らしめることを否定することもしません。聖書は奴隷制度を容認しているほどです。

悪を善だと脳にプログラミングされている人は、自分で行っていることを悪だと認識することはできません。むしろ、悪をすることが、背徳感を助長して、脳内麻薬を分泌し、気持ちよくなれるので、そのありのままの快楽を趣味趣向で楽しんでいる、悪に対する純粋さがあるのです。

純粋に悪を認めている人に、言葉だけで脳を綺麗にできるわけもありません。

ですから、善を善だとして、脳内麻薬の過剰な反応、欲望に流されない、冷静な判断によって、悪を善だとする人を奴隷にすることで、環境から脳を綺麗にしていくのです。

いつまでも、奴隷のままというわけではありません。聖書の奴隷制度には期間が設定されていたり、脳が綺麗になり、聖書の人権などを理解した人は、同じ人として、解放されるのです。

聖書の奴隷制度は、現代でいうところの、刑務所制度だというわけですね。

聖書は、感情を物差しにして、語っていません。むしろ、感情を物差しにした人物は、その自分の感情によって苦しめられます。

感情は、善の原則に沿っていれば、良いものですが、悪の原則に沿っていれば、恐ろしいものに変わるのです。

復讐とはまさに感情の炎というわけですから、その行いは、自分や世界を苦しめる、不の連鎖を作り出してしまうのです。

1、目には目を、歯には歯を

目には目を、歯には歯をというものは、復讐のように思えるかもしれませんが、これは2000年以上前の時代のことであり、その時代では、やられたら、2倍、3倍、10倍にしてやり返すというものでした。

例えば、聖書には、悪魔宗教の基になるカイン族、カインの息子たちのことが書かれています。

カインの5世代あとに、レメクという子孫が生まれ、そのレメクは世界ではじめて、妻を複数持つようになった男でした。

そのレメクは、妻たちに言いました。

「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

創世記4章23節

アダムとエバには、息子が二人いました。カインとアベルです。

カインは、弟アベルを襲い殺してしまいます。人間にとってはじめての殺人でした。殺したはずのアベルの血が土地について、殺したカインに叫んでいるのをみると、カインは、恐怖を覚えて、神様に罪の重さを訴え、わたしをみたものは誰でも、わたしを殺すでしょうと言いました。

そこで、神様は

「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」とカインを守られたのです。カインにしるしを与えて、神様のカインへの愛の守りを約束されたのです。

その神様の言葉をカインの子孫であるレメクは、勝手に捏造し、七十七倍として、復讐の価値観を人間の脳にプログラミングしたのです。

神様の言葉と守りを自分の都合のいいように利用しはじめたというわけです。

今のように、憲法もなく、人に人権ももちろんない時代です。警察もありません。何が正しく、何が正しくないのかさえ、固定されていなかった時代が、2000年以上前の時代なのです。

やられたら倍返しだ!というものから、目には目を、歯には歯をという教えは、とても人道的な考え方だったのですね。

この言葉は、聖書だけの言葉ではありません。バビロンの法典でも書かれている言葉で、世界の共通点の1つであり、ノアの教えで広がった考え方だと考えられるのですね。

それから人は、ギロチンや切腹など、処刑方法をいくつか編み出します。

ギロチンや切腹は、残酷なようにみえますが、実は人道的で、苦しませずに処刑を行うためのものです。

片や、十字架刑は、見た目こそ残酷ではありませんが、少しづつ血を流させて、わざと殺さないように、ジワジワと苦しませるものであり、十何時間もかけた非人道的な処刑法なのですね。人間が考え出した一番残酷な処刑法だとさえ言われています。

何が悪で、何が善なのかを固定されていないこの時代では、目には目を、歯には歯をという教えは、復讐ではなく、懲らしめだったということです。

ですが、現代では、人には人権があるという固定された価値観があるので、悪に対する裁きも、寛容になりつつあるのですね。

復讐ではなく、懲らしめによって悪を裁いて、平和を維持しようとした時代からかなり進んでいる時代が、現代というわけです。

この現代の当たり前、人に人権があることを導いたのは、間違いなく、イエスキリストでした。

2、負の連鎖を断ち切ったイエス様

悪に対して、悪でやり返す行為は、悪を止めることはできても、悪を消し去ることはできません。

さらなる悪を増やしていくことにも成りかねません。

ですが、世界の救世主伝説の預言通り、イエス様は、その負の連鎖を止めるだけではなく、善が勝利できる方法を弟子たちに教えたのです。

右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさいと言われたのですね。

もちろん、イエス様の時代には、すでに悪は、悪だという認識が広まり、悪魔宗教をしていたカナン人やフェニキア人たちは、弾圧され、塵じりにされていた時代だからこその教えです。

ローマ帝国も、帝国の維持のために、表向きの法の裁きをしていた時代だからこそ、イエス様は、愛を持って、悪を消し去る方法を教えられたのです。

現代人なら理解できても、まだまだ残酷な時代であったので、その時代では、理解できない人が多かったとは思いますが、イエス様は身をもって十字架刑にかけられたことで、世界が変わったのです。

イエス様が生まれる前の時代とイエス様が生まれた後の時代は、世界規模で徐々に変わっていったのです。

多くの親は、子を愛しているために、子が悪さをしたとしても、それを受け止めます。だからこそ、子は、悪を認識しながらも、悪を止めて、前向きな成長ができるようになるのです。

もし、親が子の悪に対して、悪で対応したら、子は、悪が正しいことだと勘違いして、成長していき、悪をする脳のプログラミングのまま、大人になり、悪の行動を取り続けてしまいます。

悪に対する勝利は、愛によるゆるしであり、善でしか消し去ることはできないのですね。

わたしたち人間は、他人のことを本当に理解することはできません。なぜなら、同じ脳ではないからです。環境も違うまま育ち、遺伝子も違うからです。

こどもの頃から、ひとりひとり、苦しみや悲しみを味わい、努力などを経て、今に至っています。

心の奥底では、「苦しいよー」と叫んでいるのですね。

その苦しみを消すように、欲望に走ったり、結婚に走ったり、仕事に目を向けたりする人も多いでしょう。ですが、何をしても、自分の苦しみは、自分しか解らないのです。

ですが、唯一、わたしやあなた以外に、同じように、苦しみをみて、同じように悲しみを味わって、横にいてくださった方が存在しているのです。

それは「神様」です。

神様は、人を表面ではなく、心までもみてくださっているのです。そして、その苦しみも悲しみも、すべて背負って、2000年前に、人間の体をもった三位一体の神様の形であるイエス様が、十字架刑にかかってくださったのです。

誰よりもバカにされ、殴られ、弟子からも見放され、挙句の果てには、神様からも人間のために見放されたのが、イエス様です。

イエス様は、過去・現在・未来に渡って、すべてのひとたちの悲しみと苦しみを見通しながら、十字架刑にかかってくださりました。ひとりひとりの重荷は、イエス様が持ってくださったのですね。

ですから、人は、悪をする人間に対して、悪で返すことをせず、神様に委ねるのです。悪を裁かれるのは、未来をも見通すことのできる神様が、長い計画をもって行ってくれるからです。

悪人は、一見裕福そうにみえるかもしれませんが、彼らは実は、己の悪のために、自分が苦しんでいるのです。

自分が悪の脳のプログラミングになっていれば、他人を信じることなどできません。他人も悪だと思い、常に懐疑心を持って生きなければいけないからです。

さらなる悪を生み出して、その悪に怯え、いつ誰が自分を裏切るのか?と生きているのです。いつお金がなくなるのかと怯えているのですね。

アベルは、殺されたあと、カインに地から叫びましたが、多くの命を手に架けた、悪魔宗教たち、1%のひとたちには、彼らの叫びが届いているのです。

人を手に架けるとはそういうことなのです。それらに怯えながら、自分の資産をまもるために、さらなる悪で対処しては、苦しんでいるのです。

資産は少なくても、悪に怯えず、命を狙われる確率もすくなく、平然んと外を歩ける人と

資産は多くても、悪に怯えて、命を狙われる確率が高い人は、果たしてどちらが、幸せなのでしょうか。

神様はとても偉大です。

悪魔宗教を残されていることを人間は、理解できませんが、それら悪魔宗教がなければ、王族や貴族に、憲法をつきつけることはできなかったでしょう。

また、王族貴族が、完全に滅ぼされれば、悪魔宗教に対抗することもできなかったでしょう。

もし、カトリックがなければ、今頃、悪魔宗教によって世界中の聖書は燃やされ、隠されていたはずです。

悪を残されているのは、悪が、悪によって滅びるという現代の不思議な均衡を作るためだったとさえ思えるのはわたしだけでしょうか。

正しいひとは、正しい行いの人生を歩み、平安で、幸せな生活のまま、生きることを選択することができます。

悪が勝手に、悪同士で、滅びあってくれるからです。

インターネットが一般人にも公開され、情報革命が起きているのも、また悪を残されていたからです。

神様の計画は、偉大だと思わされる一方です。

救世主が、十字架刑で殺されることが、善の勝利だと誰が予想できたでしょうか。

悪魔宗教を残すことが、憲法への道だと誰が、予想できたでしょうか。

日本人が本物のイスラエル人であることも忘れることが、悪魔宗教である偽ユダヤ人を作り上げ、世界統一を紙幣システムで作り上げることになると、だれが予想できたでしょうか。

彼ら悪魔宗教にとって、聖書は、自分たちの悪を暴く、もっとも邪魔な存在であるにも関わらず、自分たち悪魔宗教を自由という表向きの言葉で、守ってくれているのも、聖書なので、彼らは聖書を表向きにも、利用せざるおえないのです。

今では、表向きだけにしろ、人間には人権があることが当然とされています。

それを中身まで、人権があることにされるのも、時間の問題です。

進化論は、あまりにも非現実的な思想なのにも関わらず、多くのひとたちが信じています。だからこそ、目が開かれた時、自分が正しくなかったことに気づけるのです。だれひとり、正しいひとはいません。本来、人間はみな罪人で、悪を行うひとたちに裁く権利もありません。同じ罪人だからです。

それに気づかせてくれるほど、進化論という宗教のマインドコントロールは凄まじく、またトンデモ論であり、それを世界中に広がることを許可された神様の偉大さが、見え隠れします。

人道的な人や目がある人なら、復讐は正しくないことは、理解できますが、悪を消し去るほどの計画に気づけるひとは少ないでしょう。

殴られても、愛を示し、バカにされても愛を示し、愛するひとに裏切られても愛を示し、損をしてでも愛を選び、命を狙われても愛を示す。

善悪を超えて善を行える、異常なほどの人格をイエス様に見出して、それを目標として、歩むひとこそ、本物の善人なのですね。

愛する人を愛するのなら、悪人でもできます。嫌いな人を愛して理解してこそ、悪を消し去った明るい未来が開けるのですね。

なかなか難しいことですが、それしか悪を消し去る方法がない以上、明るい未来のために目指すしかないでしょう。一歩でも、イエス様に近づけるように、日々精進していきたいですね。

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