聖書

なぜアブラハムは、愛する息子イサクを生贄にする選択をしたのか

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
Pocket

聖書には、いくつかキーパーソンとなる人物がいます。

その中でも、モーセなどに続いて有名で、未信者でも若干しているのは、アブラハムでしょう。

アブラハムは、神の民といわれるイスラエル人の最初の祖先とでも言われる人物で、イスラームを信じるアラブ人も、このアブラハムの息子イシュマエルから出ているとされています。

ユダヤ教・キリスト教・イスラームの三大宗教の始祖とでもいわれるほどです。

本当の始祖は、ノアですが、ノアの教えの後、さまざまな宗教が乱列しはじめ、一神教を復古させたのが、アブラハムというわけです。

そのアブラハムの嫁は、腹違いの妹サラでしたが、サラはとても綺麗な女性でしたが、不妊の女性で、こどもには恵まれていませんでした。

サラは、アブラハムの子孫を絶やさないように、召使いのハガルから子を授かろうと考え、アブラハムを説得して、後にイシュマエルが生まれるのです。

その後、アブラハムが100歳になった時、天の使いがアブラハムとサラの目の前に、イエス様を産んだマリアやヨセフの時のように現れて、アブラハムと90歳のサラに、子が授かるという預言を与えたのです。

ふたりは、その預言をすこし疑ってしまうほどの不思議なことだったのです。

そして、その預言どおり、サラは、子を授かり、イサクを産むのです。

このイサクからヤコブという息子が生まれ、ヤコブは途中で神様と相撲をとることで、名前をイスラエルと改名するのです。

神の民といわれるイスラエル人の祖先のひとり、イサクだったのです。

ですが、神様は、そのイサクを生贄にするようにとアブラハムに言い渡すのです。

アブラハムは、次の日、生贄の動物以外の生贄の儀式の準備をしてイサクと共に出かけました。

創世記22章1ー13節

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたを示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしに捧げなさい。」

翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。アブラハムは、全焼のいけにえのためのたきぎを取り、ふたりはいっしょに進んで行った。

イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だイサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び。「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにあります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子にくだしてはならない。その子に何もしてはいけない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

これらの話を未信者が聞くと、理解に苦しみます。どうして神様は、こどもをいけにえにしろと言われたのか、解らないからです。あるひとは、児童虐待じゃないのか?などと考えてしまう人もいます。聖書を知らないとそのように考えてしまうのは、しょうがないことでしょう。

ですが、これらの出来事は、一体何だったのでしょうか。

もちろん、これらには意味があり、意味どころか、聖書がめざす必ず起こらなければいけないゴールへとつづく通過点だったことが解るのです。

1、聖書の教える愛や正義は、人間の愛や正義とは違う

アブラハムが息子を生贄にしようとした行動を人間の愛や正義に照らし合わせると、理解に苦しみます。

家族を大切にすることは、当然だと考えるからです。

人の愛は、依存に関係があります。住めば都という言葉があるように、人は多くの情報を持っている者や人、場所や国、友達などに対して、知っていると思うことで、その人や物に愛着が湧くからです。

これを仏教では、縁といい、聖書では、肉の想いと表します。

一見これらは良い事のように思いますが、これらは依存を伴うことになるのです。それらの依存は、縛りになり、正しいことができなくなる人もいれば、悪さえも容認してしまうようにもなるのです。国のために、他の国の人と殺し合いをする戦争も、大義名分という感情的なものを使ったコントロールなのです。

家族のために、嘘をついてでも、製品を売ろうとしたり、会社のためという大義名分、組織のためにという大義名分のために、騙してでも、利益をあげるというコントロールで動かされてしまうのです。

聖書の教える愛や正義は、このような人間の選択によって左右されるものではなく、人間には手出しできない「事実」による愛や正義を教えているのです。

釈迦は、家族を遠ざけました。この縁を一度離れてみることが大切だと説いたのです。イエス様は、はじめから家族も、友達も、何にも縛られることなく、世界に忠実である人生を送られました。母マリアに対しても「女」と呼んで、自分との関係に区切りをつけているのです。

ユダヤ人のため、日本人のため、という言葉は、聞こえは良いですが、肉の想いでしかないのです。

長く信じている宗教だけをみて、他の宗教の正しいところさえも否定するのは、肉の想いでしかないのです。

正しいところは、正しい。正しくないところは、正しくないときちんと調べ、理解していこうとすることが、聖書の教える愛や正義なのです。

組織正義は、良いものの一部ですが、それよりも大切にしなければいけない正義が存在しているのです。

組織正義である家族のため、会社のため、宗教のため、地域のためというものは、人間に左右されない愛や正義を優るものではないのです。

神様の愛や正義とは、この世界そのものである「事実」のことです。

感情的に誰かを愛するというものではなく、空気を与え続け、重力を与え続け、地球環境を与え続けている事実です。それらの事実という愛や正義が、存在しているからこそ、人間は生きていけるのです。生きているからこそ、その口で愛する人に愛の言葉を言えるのです。

はじめに、神の愛がなければ、二次的な人間の愛は、存在しえないのです。神の愛や正義という事実がなければ、当たり前ですが、組織を作ることさえもできないのです。

アブラハムは、息子イサクを愛していました。なんといっても100歳で生まれた、愛するサラとのはじめての子だからです。

90年も寄り添い大切にしてきたサラとの悲願の息子です。その息子のためなら自分のいのちを身代わりにするほうがどれほど彼にとっては楽だったことでしょうか。

それでも、アブラハムは理解していたのです。

イサクが生まれることができたことは、神様が地球環境という愛を与えてくださっていたからであり、アブラハムやサラさえ、その神の愛、神の正義がなければ、生まれ出ることもできなかったことを理解していたのです。

一次的な神の愛や正義がなければ、二次的な人間の愛や正義は、存続しえないのです。

その神様が二次的な人間の愛の形である息子イサクを生贄にささげなさいと言われたことに、アブラハムは迷うことなく、従ったのです。

100歳と90歳に子が生まれるという奇跡を目の当たりにし、多くの美しすぎる地球環境のもとで生きてきた事実が、神様の言葉に従う行動にでたのですね。

神を愛するとはどういうことなのか>>

2、イサクの生贄は、イエスキリストの人生の雛形だった

共通点①

神様は、アブラハムとサラの前に御使いを遣わして、不可能ともいえる環境の中で、子を授けました。

神様は、ヨセフとマリアの前に御使いを遣わして、不可能とも思える聖霊による子イエスをふたりに授けました。

共通点②

神様は、愛するアブラハムの息子をいけにえに捧げることを告げられました。

神様は、愛する神の子イエスに十字架刑にかかるようにと告げられました。

共通点③

神様は、アブラハムの迷うことのない信仰によって、彼を義と認められました。

神様は、イエスキリストへの信仰心によって、人々を義と認められたのです。

共通点④

神様は、アブラハムの義によって彼の子孫を祝福し、星の数ほど増やされました。

神様は、イエスキリストを信じることが義になるという福音を延べ伝えられ、キリスト教は世界中に広がりました。

このように、アブラハムが息子イサクをささげようとした出来事は、未来の預言になっていて、しかも、それは救世主伝説の雛形だったのですね。

3、生贄の動物は、神様ご自身だった

未信者で聖書を理解できないひとつとして、動物による犠牲が必要だと聖書に書かれていることでしょう。

これらを動物虐待だと認識するのは、現代人としては当然のことです。

ですが、これらは、人間の選択した罪のゆえに、生まれた儀式であって、神様は人間を守るために、人間にこの儀式を与えたのです。

神様は、6日間で、完璧な世界を御造りになりました。そこには、悪はなく、生き物は、死とは無縁に存在していました。生き物は、植物、果物などからエネルギーをもらって循環できていたからです。

ですが、無限に広がるほどの祝福の中で、たったひとつのルールを人間は、破る選択をしてしまったのです。

善悪の木の実を食べて、悪を理解し、恐怖のあまり、隠れてしまったのですね。

以前の人は死に、新しい善悪の両面を持つ人間へと変えられたのです。

悪を持ってしまった人間は、そのいのちで償わなければいけません。悪を持ったことで、世界が死へと近づいたからです。

ですから、人間は、人間の罪を贖うには、自分のいのちである血を流さなければいけなくなったのですね。

血は、いのちです。指や足、腕などに、血が通わなくなれば、その場所の細胞は死滅していきます。血が体中を流れることで、ひとの細胞は生きることができるように設計されているのです。

悪を持った人間は、神様の愛や正義とは違う、非現実的な存在をも持つことになり、神様の造られた世界という事実を無視して、神様の体である世界を壊し始めるのです。血を通わなくさせる行為をしはじめるということです。

それゆえ、人は死ななければいけない存在になりました。

死という試練があるからこそ、神様の愛や正義である事実という世界に従う心構えが生まれるからです。

神様はすぐに人の血を流させるのではなく、アダムとエバに、動物のいのちを取り、その動物の毛から服を作って、ふたりに着せてあげたのです。

人間の代わりに、動物が身代わりとなり、犠牲となる儀式の由縁です。

ユダヤ教やキリスト教の犠牲の儀式は、決して、その2つの宗教の価値観だけではありません。世界中にある宗教に、動物を犠牲にする風習が存在しているのです。これらは、聖書が正しいことを証明しているのですね。宗教には共通点があるということは、1つの家族から知識が増え広がったということだからです。

悪魔宗教は、その神様の愛をさらに汚すために、動物ではなく、人間のこどもを本当に全焼のいけにえしたり、ナイフをつきつけたりするのです。

インディオンも、人の心臓を取り出しては、生贄にしたりしていたのです。

ですが、本当の神様は、人間のかわりとして、動物のいけにえを人間のために、与えたのです。

そして、神様はこの世界そのものであり、動物は神様の一部なのですね。

その神様の一部を人間のために、捧げるように言われたのです。

イスラエル人たちは、なぜ自分たちの罪が、動物の血によって購われるのか、本当には理解できていませんでした。人間と動物は、違っているからです。

ですが、それはイエスキリストの十字架刑によってやっと理解できるようになったのです。

過去、子羊たちの血は、イエスキリストの雛形であり、預言のような未来を据えた伝承だったことに気づいたのです。

なぜなら、最初に罪をおかしたアダムによって、すべての人には罪・原罪が入り込み、すべてのひとに罪と悪が存在するようになったのですが、そのアダムは、誰に似せられて、造られたでしょうか。

それは、エデンの園から存在していたイエス様の似姿に似せて、造られたのです。

人間を超えた神様であるイエス様が、人間のために血を流しってくださったことが、罪からの解放になり、過去の動物たちの生贄は、その証拠となったのです。

ひとりのひとアダムからすべての人が罪人になったのなら、アダムよりも前に存在し、アダムの雛形であるイエス様ひとりの血によって、すべてのひとは、義とされるようになったのです。

神様は、人間たちにナイフを持つように言い、そのナイフで、動物の体を刺すようにされてきましたが、実はその動物たちは、神様ご自身であり、人間は、神様にナイフを刺しているとも知らないで、いけにえの儀式を捧げていたのです。もちろん、神様の一部としての認識はあったのですが、神ご自身だったことは、気づいていなかったのですね。

神様は、人間のために、自分の体を何度も何度も刺さしていたのです。

親は、子のために、いのちを削るように働き子を守り続けますが、神様も子である人間のためにそのいのちを持って守り続けてくださっていたのですね。

深い神様の愛が、そこにはみえるのです。その愛のプレゼントを受け取るのか、それとも捨て去るのかは、その人次第になるのです。

 
 
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す

*

CAPTCHA