思考の変化

天国とはどういうところなのか

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天国とはどのようなところなのでしょうか。

今回は、それを探っていこうと思います。

ですが、天国というものは、今生きているわたしたちからすれば、未来の出来事になります。その未来を完全には、予測することは出来ません。

聖書には、未来に存在する天国をこのように書かれています。

コリント人への手紙2章9節

しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。

人の心にすら思い浮かびもしなかったことです。

聖書には、数えきれないほどの預言が書かれていて、それはイエス様が生まれる前から存在していました。すでに、イエス様が十字架刑にかけられて死ぬことは、預言されていたのにも関わらず、人々は、その預言通りに十字架刑にイエス様を架けてしまったのです。

なぜ、そのようなことが起こったのかというと、預言で書かれていた救世主伝説は、ダビデ王のように強い王が現れて、イスラエル人の国を作り、その国が世界を支配し、平和にするものだという未来の形が、主流だったからです。イスラエルの国を解放し、強い国を打ち立てるのだと人間は、思い込んでいたのですが、実際は、イエス様は、そのような小さな帝国のためではなく、すべての人間、過去・現在・未来を含めた、すべての罪からの次元を超えた救いのために来られたのです。

いつの時代も、人間が予想していたものを超えた未来を与えられてきたのです。

ですから、わたしたちが、天国は、このようなものだろうと思っていたとしても、それは予想でしかなく、実際の天国の意味は、まったく違う可能性もあることを理解してみていきましょう。

1、天国は、1つではない。実は複数ある

突然ですが、わたしは、五木寛之という作家先生が大好きで、よく五木先生の著書などを読ませてもらっています。五木さんは、仏教徒の方で、暗闇の中からでも、希望の光を見出すという究極のマイナス思考なる心温まる思想が多く含まれた作品を書かれています。

悲しみの底を味わうからこそ、この世が素晴らしいことが理解できるようになるという思想です。

その五木先生が、天国というところは、面白くないのではないのかという意見を書かれていました。

なぜなら、すべてのひとたちが善人で、良い事しか起こらないとしたら、奥行きが無くなってしまう気がするといったような意見をされたのですね。

わたしは、五木先生のファンですから、マイナスのことがあるからこそ、心温まる深さの光が理解できることを知りましたから、その意見を聞いて「なるほど」と思いました。

確かに、この世界だけでも、かなり面白いと納得させられましたし、今でもそう思います。

そして、聖書や事実から色々調べていくと、天国とは、もしかして、この世界のことなのでは?とさえ、思えてくるほどです。

どうしてそんなことになるんだ?と思うかもしれませんが、あとで説明していきます。

また、話は変わりますが、天国というものをみなさんが、イメージすると、死んで、体が無くなり、霊的な存在、魂などになった善人ばかりの霊の状態の人々が、住むような場所をイメージするのではないでしょうか?

まったく、この世界とは違うようなところをイメージしてはいないでしょうか。

また、天国とは1つだと思ったりもしていないでしょうか?

聖書には、天国とは、複数あるかのように、実は書かれているのです。クリスチャンでさえ、天国は1つだというイメージをする人が多いので、一般人なら尚更、そう思うことでしょう。

しかし、聖書には、使徒パウロが、このように書き残しているのです。

第2コリント人への手紙12章2-4節 

わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた-それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。 この人が-それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである- パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。

このように、使徒パウロは、天国とは、少なくとも第三まであることを示しているのです。3つ以上あるかもしれませんが、3つはあるというわけです。

そして、みなさんや五木先生が、イメージされた天国とは、この第三の体があるのか、体がないのか解らない状態の天国だということです。

また、天国などを想像していると、少し疑問に思ったりすることがあるのです。

2、イエス様の救いによって呪いは消され、第二の天国の道が開かれる

この世界には、全知全能の神様がいることは、誰にも否定できない事実です。

それが解っていない方は、下の記事をお読みください。

全知全能の神様が確実に存在しているという証拠>>

全知全能の神様とは、どんなことでも可能にしてしまう、ものすごい能力をお持ちの存在だというイメージですし、実際に、この物凄く美しすぎる世界を維持されコントロールされていることからでも、それは窺い知れるところです。

では、その全知全能の神様なら、幸せになれるのは、天国だけであるという発想は、どうなのだろうか?と思うわけです。

どういうことかというと、この世は、悲しみや苦しみという試練が、悪のため存在しています。

なぜこの世界には、苦しみや悲しみという試練が存在しているのか>>

この悲しみや苦しみがあるので、納得できないと思っている人たちが、今の状態以上の世界をイメージして、天国を語るわけですが、それはある意味、この世界には、天国のようになることは、不可能だと諦めている思想なのではないのか?ということです。

全知全能の神様なら、この世であっても、天国のような世界にすることが出来るのではないのか?と想ったりしませんか?

この世では、肉体があって、肉は切り離せないので、不可能のように思えますが、果たして本当に肉があるこの世に、天国のような世界を作り出すことは、不可能なのでしょうか?

それは人間が自分の思い通りにならない世界を自分勝手に、解釈して、そういうイメージにしているだけなのかもしれないのです。

この世への諦め?のような発想から来ているかもしれないのですね。

以前に、サーカスのゾウの話をしました。サーカスのゾウは、なぜステージから飛び出さないのか?というものです。それは、小さい頃に、ステージの中央の杭から鎖で首につながれて、ステージ以上は行けないと思い込ませているからなのですね。

人間も同じで、ここまでしかできないという思い込みが、イエスキリストを十字架に架け、諦めを選択させて、まるで希望のないような世界を見せているのかもしれないのですね。

聖書には、第一の天国は、エデンの園だったことが解ります。アダムとエバは、食の心配さえすることもなく、悪という概念すら無かったので、善しかできない存在でした。彼らは神様と共にエデンで暮らし、とても幸せだったのです。

動物や植物も、呪われたものは存在していませんでした。

現在のように、毒キノコや生き物を食べるような存在は、いなかったのですね。

なぜこの世界には、残酷な現実が存在しているのか>>

その天国から人間は、追放されました。いのちも死ぬものとなり、その人間から生み出される悪によって、次第にこの世の動植物の中にも、呪われたものへと変化していったのです。

創世記3章14節ー
神であるある主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

変化といっても、進化論とは違います。海にいけば、肌が黒くなってしまうといった環境から来る変化のことです。悪がなかったころの環境と悪が存在するようになった世界の環境が変わることによって、生き物も影響されるようになったという変化です。

そして、現在の世界は、まさに悪が存在している環境なので、この環境では、天国だとは思えなくなるひとも出てくるというわけです。

ですが、五木先生なら、「まんざらこの世も捨てたもんじゃないよ?」というようなことをもっとスマートな言葉で言われると思います。苦もあり悲しみがあるからこそ、深みがあるのだと教えてくれると思います。

人間に悪があるからこそ、この世界は人間に影響され、環境変化で呪われたのなら、逆に、人間の悪が限りなく少なくなれば、この世界には悪が限りなく少なくなるので、その環境変化によって呪われていた生き物たちが、元通りの清い生き物へと環境変化していくのではないのか?ということです。

弟子たちは、イエス様に正しい祈り方を教えてもらいました。イエス様は、有名な主の祈りで、このように言われたのです。

「天にあるごとく、この地にも御国が来ますように。」

第三の天、第三の天国、御国が、この地にも、来ますように。というイエス様の祈りは、実は預言なのではないのでしょうか?

アダムとエバによって悪が入り込み、この世は、呪われた存在が多発しました。ですが、その罪を根底から取り除いたイエス様の十字架刑によって、すべての人々が、罪による救いの道を見出したのです。

多くの人々は、死後に、イエス様のように天国にいけることをイメージしたとは思いますが、実は、神様であられるイエス様は、その第三の天国だけではなく、第二の天国の到来も、知っておられたのかもしれないのですね。

イエス様によって、まずは弟子たちが、イエス様の奥義を見出しました。彼らは、現実を無視するかのように、正しいことを行いつづけ、多くの人々は、殺されていきました。ですが、その信仰が、世界を変え、多神教であったローマ帝国を変えて、キリスト教の帝国へと変わり、現在では、10億人を超える人々が、イエス様を信じては、善い行いをしようと生きているのです。

もちろん、その中には、偽クリスチャンも存在しますが、本物のクリスチャンもいることは間違いありません。だからこそ、キリスト教が存在しているのです。

そのキリスト教によって多くの科学が生み出されていきました。現在の科学による恩恵は、神様を信じる科学者たちから発見され、その発見から発展させて、神様の法則を使っては、車や飛行機、スマホなどに応用しているのです。

これらの科学は、200年前の人々からすれば、まるで奇跡であり、ちょっと呪われた言葉になるかもしれませんが、「魔法」をみているかのような現実なのですね。

今の状態では、無理だと思うことも、イエス様の十字架刑から徐々に、闇から光へと変わっていることが解るのです。

全知全能の神様は、第三の体の無いような天国だけではなく、実は体が存在しているこの世界であっても、まるで天国のような世界さえも作り出し、エデンの園のような未来の世界を導き、ハッピーエンドにさえ、出来ることを教えられているのかもしれないのですね。

イエス様の十字架刑による救いは、現実の世界であっても時間をかけて、エデンの復活へと導く出来事だったのかもしれないのです。

男は、糧を得るために、一生働かなければいけない環境にされましたが、未来では、AIなどのロボットが人間の代わりに働いて、人間の奴隷のようになり、食もロボットや発展した技術によって得られる時代が来るかもしれないのです。

創世記3章17・18節

また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」

女性は、男に支配されるようになると神様から追放された時に預言されましたが、今では女性にも権利があり、男性よりも強い女性が現れているほどです。

創世記3章16節

女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」

このように、悪による試練は、徐々にイエス様の救いによって徐々に回復しているようにもみえるのですね。

また、このように聖書には、書かれています。

黙示録22章1-5節

御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。 5夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

のろわるべきものは、もはや何ひとつない。と書かれているのです。この世界は、エデンの園のような世界へと回復するのかもしれないのですね。

では、第二の天国とは、具体的に、どのようなものなのか、聖書からみていきましょう。

3、第二の天国

前に書いた記事で、アブラハムのイサクの生贄の話は、イエスキリストの人生と対になっているという話をしました。

なぜアブラハムは、愛する息子を生贄にする選択をしたのか>>

①簡単にまた話すと、不妊の90歳の女性サラと100歳のアブラハムという不可能ともいえるふたりからの出産を天の御使いがやってきて、ふたりの前で、預言しました。

また、まだ結婚をしていないマリアとヨセフは、生殖行為をしていないのに、不可能ともいえる出産を天の御使いによって預言されました。

②神様は、アブラハムの愛する息子イサクを生贄にするように告げ、アブラハムは、それを本当に実行しようとしました。

イエス様は、すべての人間のために、十字架刑によって身代わりの生贄になられました。

このように、アブラハムのイサクによる生贄の出来事は、イエス様と対になっていて、まるで預言のようになっているのです。

そして、今回のテーマで興味深いのは、その生贄の儀式が終わったあと、アブラハムとイサクは、祝福され、その子孫は、増え広がったというところです。

聖書には、このように書かれています。

創世記22章15-18節

主の使は再び天からアブラハムを呼んで、 16言った、「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、 17わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、 18また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」。

神様が、「わたしは自分をさして誓う。」とまで言われたあと、天の星のように、砂べの砂のように、子孫を増やしていくと預言されたのです。

対になっているイエス様の生贄の救いからも、同じように、全世界に神の子孫(神のプログラミング)が広がり、世界宗教になっているのです。

そして、天の星のようにというところが、興味深いのです。

第二の天とは、果たして地球のことなのだろうか?と思われるのです。

みなさんは、神様がいるのなら、なぜ神様は、あまりにも広い広大な宇宙を作られたのだろう?と思ったりしたことがないでしょうか。

地球だけで、すべてが終わり、ハルマゲドンなどで、滅んで終わるのなら、なぜ神様は、このように広い宇宙を御造りになったのでしょうか。

太陽系だけでも良かったのではないのだろうかと思わされるのです。

進化論に根付いた学者などが、面白い仮説を建てました。もし、この宇宙に、人間以外に、宇宙人という地的生命体が存在しているのなら、もうすでに、この宇宙は、彼らで一杯になっているはずで、地球も支配されているだと言うのです。

なぜかというと、何億年もかけて存在している中に、人間が偶然、生まれたとあり得ないですが、過程したとしたら、人間のように知的生命体がどこか遥か彼方の宇宙ですでに何億年もかけて、増え広がっているので、ある時点で、その最初の惑星を一杯にしてしまうというのです。

1つの惑星を一杯にしたら、2つ目に、向かうはずです。そして、その増え方は加速度的に増していきます。2つが4つ、4つが8つ、8つが16といった具合です。

このように、惑星に広がっていく生き物の数を想定したとしたら、この宇宙の広さは、ものすごく適切な広さなのではないのか?ということです。

宇宙人は存在しませんが、人間は確実に存在しています。その人間は、滅びず、平和が続けば、いつかは、この地球に満ちていくことになります。

地球外知的生命体は、存在するのか>>

人間も地球を一杯にしたら、次の惑星、例えば火星などをテラフォーミング(地球環境へとシフト)するように、作り変えては、住める土地を増やしていきます。2つが4つとなり、時間とともに加速していき、何億年もかけて、宇宙に広がるのなら、この宇宙の広さは、ちょうどいいのです。

神様がアブラハムに告げた預言は、宇宙に子孫が広がっていく未来のことだったのかもしれないのです。かなり、SFっぽいですけどね。

いまでは不可能でしかないことですが、200年前の人が飛行機で200人もの人を一気に飛ばせるなど、だれが予想できたでしょうか。

違う惑星をテラフォーミングするなんてことは、ドラえもんの発想さえも超えていますが、人間は宇宙にも行けているのです。

実際に、衛星も存在し、カーナビも機能していることで、宇宙にいけることは、すでに実証されてもいます。

そう考えると物凄い未来の形は、変わっているはずです。今はこの地に天国が訪れるのは、不可能に思えるかもしれませんが、聖書の神様を唯一の神様だとみなが理解し、ひとつになって争いをせず、悪魔宗教を追い出せたら、1000年後には、実現しているかもしれません。

多神教と一神教は、どちらが正しいのか>>

地球の環境も科学も、かなり変わっていることでしょう。

聖書には、また、このように書かれています。

イザヤ書65章21-23節

彼らは家を建てて、それに住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。 彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、彼らが植えるものは、ほかの人が食べない。わが民の命は、木の命のようになり、わが選んだ者は、その手のわざをながく楽しむからである。 彼らの勤労はむだでなく、その生むところの子らは災にかからない。彼らは主に祝福された者のすえであって、その子らも彼らと共におるからである。 

イザヤ書35章4-6節

心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。 その時、目しいの目(盲人)は開かれ、耳しいの耳はあけられる。 その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。

ヨハネの福音書14章2-3節

わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。

イザヤ書 65章17-25節

見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。 18しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。 19わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。 20わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる。 21彼らは家を建てて、それに住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。 22彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、彼らが植えるものは、ほかの人が食べない。わが民の命は、木の命のようになり、わが選んだ者は、その手のわざをながく楽しむからである。 23彼らの勤労はむだでなく、その生むところの子らは災にかからない。彼らは主に祝福された者のすえであって、その子らも彼らと共におるからである。 24彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。 25おおかみと小羊とは共に食らい、ししは牛のようにわらを食らい、へびはちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはない」と主は言われる。

土地も場所も、ほとんど無限のように存在し、それぞれがそれぞれの食べ物を生成しては、その食べ物は、他のひとに盗られることもない。

現代人は、お金という紙切れ(偶像)によって、脳が汚染されています。仕事では、このお金の管理や計算などの無意味な仕事が数多く存在しています。

偶像とは何なのか>>

そのお金によって、無駄な労力や犯罪や差別、戦争や争いや妬みが、繰り返し繰り返し、巻き起こっています。

そのような世界ではないのが、第二の天国なのかもしれません。この紙幣発行権利システムを利用して、悪魔宗教は現在の世界を支配しています。

その悪魔宗教も当然、いなくなっているはずです。

聖書には、このように書かれています。

黙示録20章2-3節

彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、 3そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。

1000年の間、悪魔は封印されるというのです。

第二の天国とは、この時代の神の1000年王国のことであり、1000年の間、天国のような世界が広がるというわけです。

また、第二の天国であるかもしれない神の1000年王国では、病気の者も癒され、100歳で死ぬ人は、のろわれているとさえ言われるほどです。大洪水前の地球環境のようにされているのかもしれません。

創世記の時代のひとたちはなぜ長寿なのか>>

動物たちも、殺しあうこともなく、牛のように草を食べて生きられる体を洪水前のようにまた、手に入れ、仲良く暮らしていけるわけです。動物たちが環境を整え、違う惑星を地球環境のようにするのなら、動物をないがしろにしていては、その未来もなくなります。

人間だけがのさばっているような、現代のような価値観では、その未来は来るはずもありません。虫や動物などの排泄物が循環して、自然に栄養を与え、また自然が生き物にエネルギーを与えるからです。

たった1000年だけかと思うかもしれませんが、この1000年は、1000年だとはいいきれません。1日は1000年のようで、1000年は1日のようであると聖書には書かれています。

そう考えれば、1000年王国とは、3億年以上もの長い時間のことかもしれません。

また、3億年も天国であり、エデンの園のような環境であり、戦争も悪も極限まで、少なくなっている時代が来るのなら、闇の6000年間は、まるで一瞬の時代です。

「未来では、戦争というものを繰り返していた時代があったんだよ。」とこどもたちが噂話をしているかもしれません。

神様は6日間で世界を造られ、最後の7日目は、休まれました。

最後の1日が1000年であったら、わたしたちのこの時代は、6500年ほどなので、もしかすると、1000年王国の入り口あたりまで、来ている可能性があるのですね。

その1000年王国になるまで、数多くの黙示録の災害などが起こるかもしれませんが、過去よりは、近づいているはずです。

宇宙に広がりつづける3億年の平和は、闇の6000年間の人々の苦役の歴史のおかげとも言われるかもしれませんね。

4、神の子孫は生き返る?

第二の天国が、この肉の世であっても実現したとしても、現代を生きているわたしたちは、味わえないでしょ?と言われるかもしれませんが、そうとも言い切れません。

わたしたちは、死を終わりだと思っていますが、死は終わりではなく、霊によって保たれていることが、聖書には書かれているのです。

黙示録20章13-14節

海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。 14それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。

死は、2つあり、悪魔の子孫(悪魔のプログラミング)を脳にされている人間は、ハデスの火によって燃やされて、第二の死で死んでしまいますが、神の子孫(神様のプログラミング)イエス様の救いのうちにある人々は、霊によって死なないのです。

霊とは、その人のデーターのようなものなのかもしれません。

パソコンには、データーが蓄積されていきます。扱う人がどのようなプログラミングをパソコンの中にいれるかで、そのパソコンの性能は変わるのです。そのパソコンという肉であり、形が古くなっても、データーであるプログラミングさえ無事なら、新しいパソコンにそのデーターを入れなおすことで、前とは体は違いますが、生き返ることができるのですね。

聖書では、アダムは、土から造られたことが書かれています。ですから、土さえ未来でも存在していれば、もしかすると、霊が無事であれば、肉体は、霊のデーターと共に復活する未来の形があるのかもしれません。

そう考えると、現在、たった120年の間だけ、地球を悪魔宗教によって支配し、お金を捨てるほど保持して、多くの人々をコントロールできているひとたちは、ものすごく可哀想に思えてきます。

彼らは120年の闇の世界で、悪の組織で怯えながら、お金や地位や名誉を必死で守りながら、安心することなく、生き地獄を味わい、さらに第二の天国は、味わえないというわけです。

聖書の神様を信じるわたしからいうと、彼らは自分の首を自分の手で、しめあげて「苦しいよー」ともがいているこどものようです。わたしも、「その手は、あなたの手だから首から放せばいいんだよ。」と教えてあげたいのですが、彼らにはそれができないのです。悪魔の子孫、脳が汚染されすぎて、私利私欲、目の前の偶像に支配されすぎているからです。

ですから、聖書は、このように書かれています。

黙示録22章11節

不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。

不義なものはさらに不義な行いのままさせよというのです。

とても可哀想なことです。

第一テサロニケの手紙4章13-17節

兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。 14わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。 15わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。 16すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、 17それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。

5、第三の天国

黙示録21章1-4節

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

これは、さきほどのイザヤ書の預言と似ていますが、違うところがあります。

イザヤ書 65章17-25節

見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。 18しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。 19わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。 20わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる。 21彼らは家を建てて、それに住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。 22彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、彼らが植えるものは、ほかの人が食べない。わが民の命は、木の命のようになり、わが選んだ者は、その手のわざをながく楽しむからである。 23彼らの勤労はむだでなく、その生むところの子らは災にかからない。彼らは主に祝福された者のすえであって、その子らも彼らと共におるからである。 24彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。 25おおかみと小羊とは共に食らい、ししは牛のようにわらを食らい、へびはちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはない」と主は言われる。

黙示録では、死はありませんが、イザヤ書では、長くは生きても、死が存在しているところです。

この地に御国の1000年王国が来たあと、悪魔の封印は解け、この世の本当の終わりが、来ます。その後、肉である体は消え去り、みなさんや五木先生がイメージするような天国が来ると思われるのです。

その天国では、体はなくなっていることが、こう書かれています。

第1コロンと人への手紙15章35-54節

しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。 36おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。 37また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。 38ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。 39すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。 40天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。 41日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。 42死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、 43卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、 44肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。 45聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。 46最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。 47第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。 48この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。 49すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。 50兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 51ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 52というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 53なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 54この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。

第三の天では、終わりがなく、もちろん、のろいもなければ、悪もない世界でしょう。

わたしたちの現在の肉のある状態では、限界がありますが、この第三の天国は、多次元のような状態だと予想されます。

限界のある体では、感じることができなかったものでも、この世界では、どのように感じているのか、予想もつけません。すべてが善であっても、そこには、予想もつかないほど、深みのある世界が繰り広げられていても、おかしくないわけです。

良いものは、良いとして、永遠に続いていく深みが、存在しえるのかもしれません。

音は振動ですが、天国では、音は色で見えるのかもしれません。音で絵を描くことも、文字で世界を具現化することもできるのかもしれません。想像はつきることはありません。

また、この第三の天国には、悪魔の子孫は、入ることは出来ません。

どうすれば救われると聖書には説かれているのか>>

1000年王国では、封印され、永遠の天国にもいけず、第二の死を味わう悪魔の子孫たちは、本当に可哀想だと思わされます。何億、何兆円持っていても、神の子孫たちの幸せには、手が届かないわけです。

わたしたち、奴隷国民は、愛することと短い時間だけを味わい、そのまま老死して、死んでしまう場合もあります。生まれてすぐに、死んでしまった子もいるでしょう。ですが、悪魔の子孫よりは、この子のほうがましだと聖書には書かれているのです。

神の子を売り渡したユダは、生まれてこないほうがましだったとさえ、イエス様から言われているのです。

彼はイエス様と旅を長く続けたのですから、選択する機会は、わたしたちよりもかなり多かったはずです。

悪魔宗教の人間も、また同じです。彼らは、世の中の発見の情報を独占しています。ですから、明らかに聖書の神様が存在していることを知りながら、それでも、悪魔を選んでいるのです。

神の子孫であれば、第二・第三の天国では、また愛する人と長い時間を楽しめます。お金なんて縛りもなければ、食による縛りもありません。アダムとエバのように、愛するひとと共に時間を楽しめるのです。

死んでしまったお母さんの手料理もまた生き返った母に作ってもらえるかもしれません。

わたしたちの苦難は、完全に報われるのは、その時なのでしょう。

そして、悪魔の子孫たちは、その権利を自分たちの意思によって放棄してしまっているのですね。

まとめ

はじめに伝えたように、人間には、未来を確実に言い当てることはできません。ですから、今回の内容も、憶測でしかありません。

多くの世の終わり、黙示録のようなことが起こって、世界は崩壊するという解釈が、間違っているとも言えないのです。

わたしの場合は、第二の天国、神の1000年王国が来る前に、黙示録のような悲惨なできごとが来ると思っています。3・11のような出来事だけではなく、さまざまな困難が用意され、神様はそれらを許可されていることでしょう。

人々は、非現実的な悪魔の教え、お金や進化論などの偶像を信じるのか、それとも現実的な聖書を信じるのか、選択する時が来るでしょう。災害が来れば来るほど、神様を呪うひとも出てくると聖書には書かれています。

果たしてみなさんは、どちらを選択するのでしょうか。

天国や地獄はあるのか>>

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