聖書

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は同じ神様なのか

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ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じ神様を信じている宗教なのでしょうか。

 

答えは、同じ神様を信じている宗教です。

 

ですが、「ただし」という言葉が付きます。

 

なぜなら、聖書は1つであっても、その聖書をどのように解釈するのかで別れますし、それぞれ都合という人間的なものまで含まれてしまうからです。

聖書をきちんと読めば、聖書の神様の解釈は、同じになるのですが、それぞれの都合がそれを妨げているわけですね。

1、ユダヤ教の聖書の神概念

ユダヤ教は、旧約聖書を信じて、新約聖書は認めていない宗教です。

ユダヤ教の神様概念は、唯一の神様であり、この世界そのものに意思があり、世界が神様であるという概念です。

この世界にあるものは、すべて神様の体の一部であるというわけです。

人間も神様の体の一部、現代人に解りやすくいうと細胞の一部だと考えるわけです。

ですから、旧約聖書には、「万軍の主」と神様のことを表して呼んでいる場合もあるのです。旧約聖書には200回以上も使われている神様を表す言葉です。

神道の考え方がある日本人には、この神概念は、理解しやすいのではないでしょうか。

山も川も空も雲もすべて神様であるとして拝んだりします。

ですが、神道もそうですが、ひとりの人間のような神様はいません。神棚にも形あるものを置いたりしません。

特に預言者イザヤは、この「万軍の主」という言葉をよく使いました。

イザヤ書3章1節

見よ、主、万軍の主はエルサレムとユダからささえとなり、頼みとなるもの-すべてささえとなるパン、すべてささえとなる水-を取り去られる。

イザヤ書22章14節

 万軍の主はみずからわたしの耳に示された、「まことに、この不義はあなたがたが死ぬまで、ゆるされることはない」と万軍の神、主は言われる。

またダビデ王も詩篇でこのように神様を語っています。

詩篇19編15節

わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。

この世界そのものが神様だという概念なのです。

ですから、人間の形であるイエスは、神だとは認識されず、まるで神であるかのように慕われるイエスを十字架にかけたことは正当であると考えたのです。

今でも、イエスは、神ではなく、神様はこの世界である唯一の神様であると考えるのですね。

ヤハウェとは、神様の複数形の呼び方であり、単数形の神様の呼び方は、「ヤ」「ヤー」と発音するのですね。

 

ですが、現代のユダヤ教は、聖書をあまり大切にはしません。なぜなら、あまりにも旧約聖書の中にイエスキリストが存在しすぎるので、かわりにタルムードという悪魔宗教的なものを優先にするようになってしまっています。人を利用することを教えるようなタルムードでは、経済的に成功した人たちも多いです。普通の成功とは桁が違う成功者が多いのが、ユダヤ教徒たちなのですね。もちろん、現代は、本当のユダヤ教徒ではなく、似て非なるような宗教になってしまっているのです。

2、イスラム教の聖書の神様概念

イスラム教も旧約聖書の神様を信じています。ですが、イスラム教は、ユダヤ教と神様の概念が違います。ユダヤ教は、この世界そのものが神様であり、すべてのものが、神様の一部であるという考え方なのとは違い、神様とは、この世界の意思がある唯一であり、たった1つの存在であるとしています。

イザヤ書44章6ー7節

主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍の主はこう言われる、「わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない。 7だれかわたしに等しい者があるか。その者はそれを示し、またそれを告げ、わが前に言いつらねよ。だれが、昔から、きたるべき事を聞かせたか。その者はやがて成るべき事をわれわれに告げよ。

「わたしの他に神はいない」とはっきりと旧約聖書には書かれています。万の軍を引き連れている唯一の神、主だというわけです。

イスラム教は、完全なる唯一の神様だと聖書を解釈しているのですね。

ですから、人間の形であるイエスは、神様ではなく、聖書に出てきた多くの預言者と同じ人間だと主張しているのです。

 

この聖書の解釈は、聖書の意味が解らなくなってしまう不完全な解釈ですが、利点もあるのです。

どんな利点かといいますと、絶対神であるアラーはおひとりだということから、ブレないのです。

キリスト教は、イスラム教とは違い三位一体の神様を信じているので、融通は利きますが、ブレやすいのです。キリスト教の教えは、神道に似ているのです。

ブレるとは、悪魔宗教が入りやすくなるということです。

例えば、イスラム教では、偶像は完全に否定されるものです。ですが、キリスト教といわれている宗教の中には、多くの偶像を置いているわけです。

カトリックはマリア像を置いたり、プロテスタントの国であるアメリカは、自由の女神という偶像を置いているわけです。

 

この唯一絶対の神からブレないイスラム教は、聖書の教えを守り、すべての国ではありませんが、金利なども使いません。ですから、人々が焦って人生を歩むような人間社会ではないものを実現しているのが、イスラム教圏の国々なのです。

否定するべきものは、断固として否定するので、悪魔宗教は、イスラム教の中に入り込むことが難しいので、テロリストとして偽イスラム教を立ち上げることぐらいがせいぜいなのですね。

そして、イスラム教は、牧師や神父などのようにメッセージをする人もいません。それぞれたコーランや聖書を読んで、神様に従うことを宗としているのです。

このように、聖書の解釈こそ、間違ってはいても、悪魔宗教からの策略や侵入を一番防いでいる宗教だともいえるのです。

3、キリスト教の聖書の神概念

キリスト教は、唯一の神様を信じていることは、ユダヤ教とイスラム教と変わりません。ですが、さらに深く読み解いている神様の概念があります。

唯一の神様は、3つの性質で存在されていると考えます。

世界である神様・霊の神様である聖霊様・体を持ったイエス様の三位一体の神概念です。

人間も、三位一体であることが解ります。

人間は、体があってひとりの人間ですが、人間だけでは生きてはいけません。空気や土や太陽など、数多くの世界という摂理がなければ、人間だけでは生きてはいけません。また、世界や肉体があっても、霊がなければ、脳に電気パレスを流すこともできません。パソコンは、人間がスイッチを最初に押さなければ、電気が流れて動くことができないのと同じように、人間に霊・魂がなければ、動くための動作ができないわけです。

人間は、世界・肉体。霊という3つで1つで存在しうる存在なのですね。

そして、旧約聖書には、このように書かれています。

創世記1章26節

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

「われわれのかたちに」と神様はご自分のことを複数形で表されています。そして、その複数形の神様にかたどって人間を造られたと書かれているのです。

人間が三位一体で生存できているように、神様のかたちも、三位一体であるという考えなのです。

また、旧約聖書には、このように神様のことが書かれています。

創世記1章27節

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

次は、神様は単数形で書かれています。その神様のかたちに創造し、男と女も神様と同じかたちで造られたと書かれているのです。

ここで書かれている神様は、単数形であり、人間のような形ある存在だというのです。

また、聖書には

創世記3章8節

彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。

歩いて音が鳴る足をもった神様のことが書かれているのですね。

これをキリスト教では、イエス様だと信じているのです。

イエス様は、人間が罪をおかす前までは、一緒にアダムとエバとエデンの園にいてくださっていたのですが、人間が罪を持ったことで、いのちの木として封印され、人間と引き離されたわけです。

ですが、人間に試練だけを与えるのではなく、人間に、希望の預言を神様は与えられたのです。

創世記3章15節

わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

神様は、人間を惑わした蛇であり、悪魔に恨みをおき、悪魔と女とに境を設けられたのです。そして、その女のすえ、彼女は彼を産み、彼は、蛇であり悪魔のかしらを砕き、悪魔は彼のかかとを砕くという預言を与えられたのです。

悪魔を打ち砕く救世主伝説です。

アダムとエバは、また天国であったエデンの園に戻れると思い、自分たちの子孫、それも息子たちに希望を持ったというわけです。

そして、それはイエス様であったとキリスト教は信じるのです。

イエス様は十字架刑で、悪魔の罪を打ち破ぶられました。罪から人間を解放したのです。そして、悪魔はイエス様のかかとに杭を打ち込んで、かかとを砕いたのです。

そして、イエス様の死後、人間を導く存在として、聖霊様が、人間に臨み、人間に知恵と知識、道を示されたのです。

キリスト教は、ユダヤ教やイスラム教の神概念を否定はしません。それは神様の性質の1つであり、全体をみれば、世界が天の父である神様。そして、個でみれば、人間と同じかたちをされたイエス様。三位一体の神様しか本物の神様はおられないとしているのですね。

そして、イエス様は、ぶどうの木と表し、いのちの木でもあるように、木に神の霊が宿っていると考えるのですね。

そう考えると、原始キリスト教は、神道ととても似ているのです。

三位一体の神様であり、偶像は置かない。この世界も神様の一部であると考え、また、その神様と同じかたちをした人間も、神様の一部であると考え、人間を他の動物とは違い、人権を与えて大切にするものだとしたのです。

もちろん、神様の一部である動物も自然も大切にするのです。

その原始キリスト教は、今日では、ほとんど消え去ってしまっていますが、その教えの一旦は、ローマ市民へと伝わり、まだ原始キリスト教のかたちにはなっていませんが、キリスト教と呼ばれているのですね。

また、ダビデ王もこのように神様のことを歌っています。

詩篇95編1-7節

さあ、われらは主にむかって歌い、われらの救の岩にむかって喜ばしい声をあげよう。 2われらは感謝をもって、み前に行き、主にむかい、さんびの歌をもって、喜ばしい声をあげよう。 3主は大いなる神、すべての神にまさって大いなる王だからである。 4地の深い所は主のみ手にあり、山々の頂もまた主のものである。 5海は主のもの、主はこれを造られた。またそのみ手はかわいた地を造られた。 6さあ、われらは拝み、ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう。 7主はわれらの神であり、われらはその牧の民、そのみ手の羊である。どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように。

主は、救いの岩であり、主は御手の羊である。どうか、あなたがたは、その御声を聞くようにと言ったのですが、ユダヤ教徒には、その御声は届かなく、12使徒でさえも、理解できずに、イエス様を十字架刑にかけてしまったのです。

 

三位一体の神様を信じるキリスト教精神は、現代日本人の生活を一変させました。ほとんどの現代人は、キリスト教から生まれた秩序で生活しています。

キリスト教は神道精神と似ているので、正しいものは、正しいと人間的な思考で、受け入れてしまうところがあります。

そのため、悪魔宗教がキリスト教の中に入り込みやすいのです。

もともと、資本主義は、神の基の資本主義からはじまっています。なぜなら、カトリックによって経済は規制されていからです。悪魔宗教はいつの時代も、財産を使って武器や人を手に入れては、反乱を繰り返してきたので、それを防ぐために、カトリックは、経済に規制を設けるしかなかったのです。

江戸幕府も、中国王朝も、そうですが、お金=悪だとして、資本主義を規制していました。

しかし、プロテスタントは、神の基で生きているひとたちは、禁欲主義者で、自分にお金を使わず、人のためにお金を使うことを説いて、資本主義の自由化へと思想がひろがっていきました。

そのため、科学や学問も自由化され、プロテスタントの国ほど資本主義が発展したのです。

もちろん、その中には、悪魔宗教もはいっていたのです。カトリックなどから弾圧されていた悪魔宗教は、プロテスタントの中に入り込んで、自由貿易への大義名分を利用していきました。

プロテスタントは、禁欲主義者なので、地位や名誉を得ようとはしませんでした。しかし、悪魔宗教の本質は、欲望なので、地位や名誉を奪い取っていったのです。そうするとあらゆる機関や会社の社長、牧師などにも、悪魔宗教者が居座り、あたかも、資本主義は、人間の欲望から生み出されているかのように、学校宗教団体で教えはじめ、憲法や民主主義、資本主義や科学や学問から神様を抜き取っては、教え始めたのです。

自分には厳しく、他人には愛を示すプロテスタント精神から発展した資本主義は、神道と一致するものでした。人を疑うよりも信じることをする日本人の国では、経済が回るのです。詐欺商品や詐欺商法さえも売れてしまうほどです。

逆に人を信じない国や地域では、経済は発展しませんでした。それは今でも同じです。

 

戦後70年を超えて、日本人の中に神様はいなくなりはじめた近代では、まるでソドムとゴモラのような国になりつつあります。そのピークがバブルだったでしょう。人の命よりも利益を優先した時代です。多くの詐欺や嘘がはびこりました。しかし、それらはあっけなく崩れ去り、人々は、人を信じることをしなくなり、不景気が長らく続いているのです。

このように、キリスト教の聖書解釈は、一番正しいのですが、だからといって、一番正しくことを起こしているとは、言い難いのが現状です。

資産や科学や学問などの表面的な発展では成功してはいても、紙一重なのです。

唯一絶対の神というイスラム教とは違い、キリスト教国の多くは、金利制策を今でも続けています。

日本人は、キリスト教は唯一信仰だから融通が効かないと思い込んでいるひとがいますが、歴史をみればまったく違います。キリスト教は、人間的な道徳を持った宗教に対しては寛容で、仏教や神道なども認めて許可を出していたのです。

人を食べてもいい、人を儀式で殺してもいいというようなカニバリズム的な宗教には断固反対しましたが、人に人権を与える宗教に対しては、良くも悪くも寛容だったのです。

海外に住んだことがあるひとたちは、分かると思いますが、多くの白人はとても優しいひとたちばかりです。日本人のように顔色をうかがうわけでもなく、個をしっかりと持ちながら優しさを維持しているといっていいでしょう。もちろん、神への信仰があるひとはです。無神論者や無宗教者は、日本人の無神論者よりも恐ろしいものです。人の顔をうかがう日本人は、悪に対しても臆病だからです。

 

聖書の黙示録を読んでもらうと解りますが、このようなブレやすいキリスト教の教会が、世界中に災いをもたらしていきます。教会を建物や権力だとして利用するような悪魔宗教に乗っ取られたような教会が、一番恐ろしい災厄をもらすのです。

聖書は、恐ろしいほど、的確だということです。

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