聖書

毎週、教会に通う重要性

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教会に行くと毎週教会に通うことを教えられます。

その根拠によく挙げられるのは、安息日を守るように聖書が教えていることです。

創世記2章1-3節

1こうして天と地と、その万象とが完成した。 2神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。 3神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。 

ですが、安息日の第七日とは、土曜日のことで、金曜日の夕方から土曜日の夕方までだとされています。

キリスト教では、主日というイエス様が死んで蘇った三日後の日曜日に教会に通うようになっているので、安息日に教会に行っているわけではありません。

安息日の土曜日にいっているキリスト教もあります。

また、安息日とは休む行為であって、ユダヤ教では100M以上歩いてはいけないとか、火を焚いてはいけないとか、徹底的に休む行為だとされることもあります。

そうであれば、教会に行くまでに車を使ったり歩いたりするのは、どうなるのかとさえ思えてきてしまいます。

レビ記23章30-32節

 30またすべてその日にどのような仕事をしても、その人をわたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。 31あなたがたはどのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく守るべき定めである。 32これはあなたがたの全き休みの安息日である。あなたがたは身を悩まさなければならない。またその月の九日の夕には、その夕から次の夕まで安息を守らなければならない」。

1、安息日に教会にいくべきなのか

安息日に教会にいくことをわたしは否定しません。車でいくことも、その人にとって負担でないのなら、教会にいって聖書の世界を味わうことは良いことです。

ですが、教会に通う日は、日曜日だったことを使徒パウロは、聖書に書いています。

第一コリント人への手紙16章1・2節

1聖徒たちへの献金については、わたしはガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもそのとおりにしなさい。 2一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい。

教会に行って、献金を集めるのは、週の初めの日だったわけです。教会に行くということは、教会を作り上げることであり、その最初のはじめの日であり、働くことだと考えるわけです。

ですから、安息日ではない日曜日に教会に行き、神様の世界の創造と同じ経緯を辿って週を過ごすことは、正しいと言えるでしょう。

安息日は、静かに祈ったり、家で聖書を読んだり、体を休ませることが望ましいのかもしれません。

安息日が終わった土曜日の夕方から日曜日にかけて、教会に行き、集会で神様を讃えることが、聖書では正しいと読み解けるとも考えられるのです。

ですから、教会に通うことと安息日を守ることは、関係がないというわけです。

では、教会に通うことは、意味がないことでしょうか。

そうではありません。神様がこの世界を創造され、6日目に休まれるまで、働かれたように、人々も教会に通って、神様の世界に近づけるようにすることは、意味がない行為ではないのです。

また、安息日を大切にしないというわけではありません。安息日は大切で、のちの世にも、安息日を伝え続ける必要はあります。今回は、教会に通うことが議題ですので、安息日については、また違う記事で書かせてもらうことにします。

2、教会とは、イエスキリストのこと

一般のひとたちは、教会とは、建物のことだと思うかもしれませんが、聖書の教える神の家、教会とは、ひとりひとりの内にあり、その共同体のことです。家がなくても、野原で集まり、聖書を語り合うことが、教会なのですね。

そんなことは、ひとりでもいいのでは?

と思うかもしれませんが、それでは、現実を無視している行為なだけです。

聖書とは、現実と一致してこそ正しいのです。

この世界は、共生のシステムによって成り立っています。神様は天地創造の6日間で、ありとあらゆる摂理のシステムを作り上げてくださいました。それは、世界である神様の体を作り上げるとも言えます。その体を作り上げたことによって、神様が直接、世界に手を加えることは、少なくなり、造り終えた世界のシステムの上に万物は存在して、それに逆らえば、万物は崩壊し、それに従えば万物は、平安を保つようになるわけです。

残念ながら、現代は、その神様のシステムに逆らう側、悪魔宗教が、人間社会を支配してコントロールされています。悪魔宗教は、世界中の紙幣発行権利を使っては、ほとんどの人間社会の機関をコントロールし続けています。もちろん、学校という教育機関もコントロールされ、あたかも聖書なしの教えが、当たり前かのように教えているのです。

現代の資本主義がこれほど発展したのも、科学が発展したのも、憲法があり、人権があることも、聖書がなければ、実現しないものでした。聖書ありきの世界なのに、まるで聖書がなくても成り立つような教えばかりがされているのです。

それは、現代だけではなく、2000年前も同じでした。聖書とは違う文化や教えや思想、政治や国の継体があり、それらが広がっていました。その中にあって、キリスト教徒たちは、いのちをかけて、教会を続けたのです。

集会などで集まる共同体を続けることで、本当の平和や本当の正義、本当の愛を形にして、世に表したのです。

本来、教会に集まり、牧師などが説教やメッセージをすることは、悲しいことです。

なぜなら、教えなければいけないということは、脳がすでに汚染されていることを証明しているからです。

すべての人々が、この世界を造られた神様に従い、正しい脳であれば、教える行為など必要ありません。

聖書を読めば解りますが、神様は、聖書を与えたのは、モーセの時代です。それまで、神様は人間に、聖書を与えませんでした。

なぜなら、この世界そのものが神様からはじまり、すでに神の世界そのものであって、アダムとエバは、悪さえ知らない存在だったので、教えや忠告、律法などは、不必要だったのです。

もし、アダムとエバに、律法を与えてしまっていたら、ひとは逆に、悪を発見してしまいます。

「殺してはいけない」という言葉をもし、アダムに教えてしまったら、「殺せる」ということを教えるようなものだからです。

なぜ神様はモーセの時代まで聖書を与えられなかったのか>>

このように、人に聖書のことを教えたり、体現することは、悲しいことなのです。

本来の人間のありかたから離れてしまっている現実があるからこそ、また脳を綺麗に洗い流す行動を求められているからなのですね。

洗脳の真実>>

ですから、教会に通うことは、とても重要な行為であり、世界を平和にする行為なのです。何も考えず、教会に通っている方もいるかもしれませんが、その行為が、実は世界平和につながっているのです。

それが世界中に広がり、ひとりひとりが、聖書に沿った脳になれば、牧師やメッセージなどは、不必要なものになり、それこそが、キリスト教徒が目指す、神の国なのですね。

嘘や詐欺もなく、犯罪もなく、戦争もなければ、人を殺めることもない世界、それを現実にするためには、現実的に世の中に、体現する必要があるのです。

それら共同体が、イエスキリストなのです。

エペソ人への手紙1章20-23節

 20神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、 21彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。22そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。 23この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

また、イエス様は、聖書に沿っていなかった人々に厳しい行為で示され、またご自分が教会の体であることを表されました。

ヨハネの福音書2章13-22節

 13さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。 14そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、 15なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、 16はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。 17弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。 18そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。 19イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。 20そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。 21イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。 22それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。

これをキリスト教徒が、主張しても、納得しませんが、ユダヤ教の大切にしていた旧約聖書にも、ダビデ王によって歌われていたのです。

詩篇118編20-26節

 20これは主の門である。正しい者はその内にはいるであろう。 21わたしはあなたに感謝します。あなたがわたしに答えて、わが救となられたことを。 22家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。 23これは主のなされた事でわれらの目には驚くべき事である。 24これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。 25主よ、どうぞわれらをお救いください。主よ、どうぞわれらを栄えさせてください。 26主のみ名によってはいる者はさいわいである。われらは主の家からあなたをたたえます。 

このように、ダビデも、キリスト教の使徒たちも、イエスキリストこそが、教会であり、そのイエスキリストを信じるひとたちの共同体が、教会だと考えたのですね。まさに、人からみれば、驚くべきことなのです。

エデンの園の天国のような世界を取り戻すために、教会に通うことは重要なのです。それを回復してくださるのは、罪から勝利されたイエスキリストであり、そのイエス様を信じるひとたちの集まりや環境づくりなのですね。

イエスキリストの創世記>>

3、人は環境に反応する

人だけではなく、生き物や万物は、それぞれ、共生していて、連鎖的に作用されています。

目で見えることに影響され、耳で聞こえることに影響され、口でいうことに対して、世界を造ることもできるのです。

強化防弾ガラスが、目の前にあることを知っていても、顔にめがけて物を投げられたら、体が嫌でも反応してしまいます。反応しないとすることも、その事実を肯定していることです。

嫌でもひとは、環境に作用されるのですね。

教会にいくことに慣れていないひとたちは、教会にいくと、そわそわしてしまうものです。

慣れていないところに、はじめから慣れているひとなど、存在しません。

教会を転々として、自分のあう教会を探すひとは、なかなか良い教会を見つけることはできません。すぐに場所を変える行為は、好き嫌いであって、自分中心の考え方です。ですが、世界は、自分を中心にはまわっていません。この世界は、神様中心にまわっているのであって、わたしたち人間は、その一部でしかないのです。

ですから、慣れるまで、忍耐とゆるしが必要なのですね。人が嫌いであっても、メッセージに納得できないところがあっても、教会に通い、少しでも聖書の世界になるように行動していくことが大切なのです。

学校宗教団体に、現代人は、当たり前のように通うことをしています。義務教育の小中学校は地域ごとに分けられ、好き嫌いで決めることは、基本的にはできません。それでも、大勢の子たちは、自分で決定していない選択に対しても、文句をいわずに、その学校で、ともだちをつくり、自分のエリアスペースを確保していきます。

そして、非科学的な進化論などを教えられたり、どうでもいい役にも立たないことを教えられても、それが当たり前だと思い込んでは、その生活に疑問をもつこともなく、暮らします。

悪魔宗教によって情報規制されている学校宗教団体であっても、このように人々は、当たり前のようにそれらを受け入れてしまうのです。

では、教会がその神様の作られた人間の法則を利用しないわけにはいきません。

学校宗教団体であっても、影響力があるのなら、聖書を基にしょうとしている人々によって、教会という共同体を設立し、聖書を現実的に体現することは、神様を肯定していることなのですね。

ですから、教会に通うことは、重要なのです。

第1テモテの手紙3章15節

 15万一わたしが遅れる場合には、神の家でいかに生活すべきかを、あなたに知ってもらいたいからである。神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである

 

聖書で学ぶことも大切ですが、この世界そのものに、神の教会で影響しあうことも大切なのです。教会に行けることは、神様のお店に買い物に行くようなものです。買い物にいくことの喜びはみなさんも解ると思いますが、教会にいくことは、自分の脳や体、霊を聖書的に洗い流す行為なのですね。

 

もちろん、教会もさまざまな教会があり、完璧な教会などは存在しません。買い物をする時にも、完璧な企業など存在しないのと同じです。だからといって、通うことをしないという理由にはなりません。もし、教会に不満があるのなら、なおさら教会に通って、少しでも聖書的になるように促すことが大切なのです。企業にも正当なクレームは、企業のためになるのです。

 

教会に通うとは、買い物をするような祝福なのですね。

4、すべての人が教会に通うべきなのか

教会の目指すところは、神道です。

神道は、国の後押しされながら、日本人の生活や文化に根付いて存在しています。教えすらありません。

教えではなく、文化の中に、神様の価値観を自然に教え続けているのです。

すべての人が、キリスト者であれば、人間社会自体が、教会になります。仕事も、学校も、国も、世界も、教会になり、教えることなく、生活そのものが、教会になり、毎日、教会に通うことになるわけです。

ですが、残念ながら、現代は、そうはなっていません。教会とは、一部の場所に限られてしまっていて、教会に毎週通うことが、出来る人と、それをゆるされていない環境の中で生きている人もいるのです。

例えば、教会に興味がありながらも、親に宗教を禁止されて、教会に通うことができない人もいます。

わたしの親は、仏教徒の祖母に、教会に行くことを禁止され、柱に縄で縛られて、教会にいけなかった日があったそうです。

このように、限られた教会の段階でしかない現代では、ありとあらゆる弊害が、それぞれに存在しています。理想は、毎週教会に通うことですが、それができない試練を与えられているひともいるのです。

そういう場合は、神様に祈りながら、まわりの人々に理解してもらうように努力しなければいけません。

わたしの祖母は、わたしからすれば、とても優しい人でした。常に笑顔で、頭のいい人で、色々なことを優しく教えてくれました。仏教徒だから教会に行こうとした母を縛ったということではなく、母を守るために、祖母は、柱に縛り付けたのです。

このように、親が子に対して危機感をもって助言することは、愛から来ているものです。それが教会に通うことと一致しない場合が存在しているのです。

それを一致させるには、理解してもらうことが必要になります。反発して、親をせめることをしても、それは、溝を埋めることにはなりません。落ち着いて冷静になって、少しずつ、理解してもらうように話し合ったり、情報を与えたりして、苦難の末にやっと教会に毎週通える環境を手に入れなければいけない場合もあるのですね。

仕事が忙しすぎて、教会に通うことが出来ない人もいれば、それぞれに教会に通うことが難しいことがあります。

それらひとつひとつを責めることはしません。

大切なのは、ひとりひとりが、毎週教会に通うことを理想としているのか、ないがしろにしているのかです。ないがしろにしているひとは、教会を作り上げることをせず、世界を悪の手を渡す生き方をしますが、教会に通うことを理想としているひとは、いつかは、教会に通うことを望み、世界を平和にする共同体を作り上げようとするのです。

その意識が大切だということです。

はじめから、理想どおりに生きれるひとは恵まれていますが、現実は、そうではなかったりするのです。

現実と理想を一致させるように、日々試練を乗り越えて、忍耐しながら、歩むことこそが、大切なのですね。

ですから、もうすでに、毎週教会に通えているひとは、恵に感謝し、何かしらの弊害から教会に行けないひとであっても、自分を責める必要はありません。将来、教会に通えるように日々祈り、安息日には、静かに聖書を読んで、神様に近づいて過ごせばいいのです。

友達とふたりで、聖書を語ることも教会の小さな形です。それも小さくて、世の中に何の影響も与えていないように思えるかもしれませんが、実は影響を与え、それも教会なのですね。

マタイの福音書18章20節

 20ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

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