聖書

献金とはどういうものなのか

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教会に行くと疑問のひとつに挙げられるのは、献金です。

助け合いのために献金が必要だということは、未信者であっても理解できますが、聖書の教える献金の意味や意義とは、どのようなものなのか知りたくなるものです。

ですが、教会ではあまり献金の教えはされません。教会が求めているようにみえてしまうからです。

聖書は、どのように献金のことを教えているのでしょうか。

1、献金とは準備すること

宗教は合理的ではないと昔から悪魔宗教によって惑わされていますが、そうではありません。

多くの宗教は、合理的なことがらからの教えがされているからこそ、信じられてきたのです。

ましてや聖書は、哲学や学問を愛するローマ人たちに多く広まったもので、人間の能力を超えているほどの合理的であり、論理的な教えがされていたからこそ、受け入れられたのです。

聖書の教えるものは、意味のないものはありません。意味がないことを信じる偶像思想などの人々がいることなどは教えますが、聖書そのものは、合理的です。

もちろん、すべてが合理的だと言えるものではありません。人間はすべてのことを理解しているからではないからです。現代でもまだ、不思議だと思わされている奇跡というものも、現代人が解明できないのだから、合理的ではないと思い込んでしまっているからです。

ですが、教えでは、意味のないものは教えないのです。

「殺してはならない」という教えは、この世界では「殺す」選択も可能だからされているのであって、殺せない世界であれば、そのような教えはされないのです。

人間のこどもに、「背中の羽で空を飛んではいけません!」などと言う人はいないのです。

聖書によって現代では、多くの科学や学問が発展し、自由な研究をゆるされるようになりました。自然界の真実は、どのような権力者であっても否定できないので、権力者にとっては不都合な真実になり、それらを規制しようとするものですが、それを聖書は、くつがえしてきたのです。

憲法を人間が手にいっることができるようになったのも、聖書のおかげです。

人権や民主主義、資本主義も、聖書による恩恵です。

このように合理的なものを追求してきたものが、キリスト教の教えなのです。

人間を基準にした合理的なものだけではありません。人間の手出しできない自然界の事実に対しての合理的、そして、それさえも超えた神様を基準にした合理的な教えが、されてきました。

現実と一致しているからこそ、聖書なのです。

その聖書では、準備することの大切さを教えています。料理をするにしても、家を建てるにしても、準備は大切です。人が生きることには、人間だけでは不足です。神様が天地創造の時に造られた自然界の法則が存在してこそ、人間は守られているのです。

このように準備をすること、そのひとつが献金なのです。

第2コリント人への手紙 9章1-4節

1聖徒たちに対する援助については、いまさら、あなたがたに書きおくる必要はない。 2わたしは、あなたがたの好意を知っており、そのために、あなたがたのことをマケドニヤの人々に誇って、アカヤでは昨年以来、すでに準備をしているのだと言った。そして、あなたがたの熱心は、多くの人を奮起させたのである。 3わたしが兄弟たちを送ることにしたのは、あなたがたについてわたしたちの誇ったことが、この場合むなしくならないで、わたしが言ったとおり準備していてもらいたいからである。 4そうでないと、万一マケドニヤ人がわたしと一緒に行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、かように信じきっていただけに、恥をかくことになろう。

2、共生しあう

わたしたちは、神様に依存することでしか、生きていくことはできません。一瞬たりとも、神様なしでは、存続できません。

その神様は、あらゆる理をもって、この天国のような世界を造られました。生きるために必要なのが、ほとんど食だけという恐ろしいほど、天国のような環境でいきているわたしたちは、この恵に感謝することを忘れがちですが、これほどの奇跡はありません。

とはいえ、人間の中には、悪魔の子孫が存在し、天国のような環境であるにも関わらず、その世に、悪を持ち込んで、神様の理を壊そうとしては、不幸を呼び込むのです。

善悪が必ず存在している現代社会では、神の子孫たちは、それぞれ助け合わなければ、神様から与えられた力の権利を失います。

悪であっても結束し、組織を作り出すのですから、神の子孫であれば、なおさら結束し、健全な組織や共同体をつくって、助け合うべきです。

献金は、そのひとつの方法です。現代ではお金を献金として払うことが多いですが、お金だけではなく、品物や持っているものを持ち寄って助け合うのです。

第2コリント人への手紙 9章5-14節

 5だから、わたしは兄弟たちを促して、あなたがたの所へ先に行かせ、以前あなたがたが約束していた贈り物の準備をさせておくことが必要だと思った。それをしぶりながらではなく、心をこめて用意していてほしい。 6わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。 7各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。 8神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。 9「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」と書いてあるとおりである。 10種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。 11こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。 12なぜなら、この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。 13すなわち、この援助を行った結果として、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であることや、彼らにも、すべての人にも、惜しみなく施しをしていることがわかってきて、彼らは神に栄光を帰し、 14そして、あなたがたに賜わったきわめて豊かな神の恵みのゆえに、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのである。 15言いつくせない賜物のゆえに、神に感謝する。

3、人間は、神様から盗んでいる

神様は、お金などほしいとは思いません。例えわたしたちが、すべてのものを捧げても、神様にとってはそれらはほしいものではないのです。

神様にとってほしいのは、人間が自由意志をもって健全に幸せに生きるために必要なものを必要だと選択する意思です。

愛する我が子が、幸せになってくれることが、神様にとっては幸せなのです。

そして、子である人間は、神様の体である世界に生きています。食物も水も空気も、エネルギーも神様から盗むようにいただしているのですね。

神様は、その事実を人間が把握して、感謝して生きていくことこそが、人間全体の平和になることを教えられています。

それをただ思うだけではなく、行動として、表すことで、実感することができるようになります。

ですが、実感するには、心から捧げたい、与えたい、神様に感謝したいという想いがなければ、実感できるものではありません。

ですから、心がないまま強制的に、献金をするのは、間違いです。

心がないのなら献金の本質から外れていることになるのですね。

生きている時点で、神様からエネルギーを奪い取っているかのように存続している事実を認めることから、遠ざかってしまうのです。

自分のものは、自分のものではなく、すでに神様のものであって、その祝福をさらに与えることによって、祝福を得れるようになるのですね。

マラキ書3章

 8人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。 9あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。 10わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。

4、お金の危険性

現代人は、お金に対しての知識が不足しています。江戸幕府もカトリックも、中国の歴史でも、お金は危険なものだとして広く教えられ続けました。それはなぜかというとお金は危険だということを理解していたからです。

現代人は、当たり前のようにお金を使い、お金に対しての恐ろしい現実をみていません。もし、お金がなければ、多くの犯罪はなくなるのですが、お金という偶像が信じられ続けていることで、この世には、多くの犯罪が消えずに、残っているのです。

お金がなければ、詐欺師は、詐欺をする必要もありません。銀行強盗もする理由もなくなります。戦争も、お金を設けるために武器商人などの悪魔宗教によって大義名分を作り上げては、起こされ続けています。お金が無くなることへの不安感から人に与えることをしなくなります。

お金への執着が、世の乱れとなり、国や帝国までも滅ぼしてしまうことを時の支配者たちは理解していたのです。

日本は、お金ではなく、食を基準にした米制度で長く続いてきました。食というものは、現実と乖離することが少なく、人に偶像思想を植え付けることがお金よりも少ないからです。

現実と一致したことがらを基準とすれば、人は道徳的に正しくいきますが、現実を無視して増え続ける偶像を基準とすると反乱や不道徳が広がってしまうのです。

お金を手に入れることを目的としてしまうと、そのために人間を利用し、世界を利用しようという思想へと脳が変化していきます。悪の子孫へと進んで行くのです。

テレビゲームなどもそうですが、数字や数を集めることを目的としたら、その手段は選ばなくなっていくのです。

昭和時代には、人の心はすたれて、豊かさとは正反対に、世は乱れました。お金のために、水俣病や四日市喘息、イタイイタイ病など数多くの犯罪的な企業の価値観が支配し、今でもそれらを信じているひとたちがいるのです。

利益のためなら嘘や誇張はゆるされると心から信じている未信者は数多くいるのです。

ですから、聖書は、必要なものは必要だと教えて、お金は偶像であるとしているのです。

とはいえ、現在は、お金システムが信じられている世の中で、黙示録に書かれているように、それらを持っていない人間は、買うことも売ることもできないようにされているのです。

黙示録13章17・18節

 17この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。 18ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。

その中で、お金は利用するものであって、支配されるものではないことを教え続けるものです。

硬貨を数えてみてください。1円・5円・10円・50円・100円・500円、これらを足せば、666になるのです。

1000円・2000円・5000円・10000円、これらを足せば、18000円。6+6+6=18

世界中のお金は、すでに666の数字を持つ人間を中心にして、コントロールされていて、それらを疑うことなく、民は利用しては、自分たちを苦しめているのです。

お金に執着するのではなく、お金は利用できる1つの手段として、使用するものなのですね。

現代では、無料化が進み、お金というものの価値や必要性が無くなりつつあります。仮想通過などに悪魔宗教は手を出そうとしはじめたり、お金に対する見方は、変化しています。

未来ではお金がない状態で、世の中がまわっている共生のシステムで成り立っているかもしれません。

現代では無理なことが多いので、使うしかありませんが、そのような小さい枠の中だけの思想に流されてはいけません。

第1テモテへの手紙6章7-12節

7わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。 8ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。 9富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。 10金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。 11しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。 12信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。

5、什一献金

昔から世界の富を膨れ上がらせる法則として、存在しているのは、10分の1を与えるという行為です。自分以外の人にお金を与えることで、自分が祝福されることを大昔から理解されていたのです。10分の1を投資する考え方は、聖書以前から存在し、バビロン碑石などにも書かれているのです。

聖書では、アブラハムの祝福を自らも与えられるようにと、王がアブラハムに10分の1をささげていることが書かれています。

創世記14章18-23節

18その時、サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。 19彼はアブラムを祝福して言った、「願わくは天地の主なるいと高き神が、アブラムを祝福されるように。 20願わくはあなたの敵をあなたの手に渡されたいと高き神があがめられるように」。アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った。 21時にソドムの王はアブラムに言った、「わたしには人をください。財産はあなたが取りなさい」。 22アブラムはソドムの王に言った、「天地の主なるいと高き神、主に手をあげて、わたしは誓います。 23わたしは糸一本でも、くつひも一本でも、あなたのものは何にも受けません。アブラムを富ませたのはわたしだと、あなたが言わないように。

十一献金は、教会にするものだという認識がありますが、献金は建物である教会にするものではなく、その集まった共同体である兄弟姉妹に与える行為なのです。特に、新約聖書を信じるキリスト教では、ユダヤ教の嵯峨が神の愛によってゆるされていることを教えられているので、動物を生贄にするなどの行為は、しません。当時のユダヤ教は、動物の生贄を捧げていただけに、民から財産の10分の1を集めて、贖うことが必要でしたが、イエスキリストによってそれらの生贄の儀式は完成され、イエスキリストの意味を表す生贄の儀式は、必要なくなったと考えるのです。

ユダヤ教であっても、すでに動物の生贄の儀式ができない状態なので、行っていません。

教会とは、神の子孫である兄弟姉妹であり、そのひとりひとりのうちにあるイエスキリストのことです。

毎週、教会に通う重要性>>

ですから、教会に什一献金するのは、教会が必要な兄弟姉妹を把握して、分配できやすいようにするためであって、それが把握できるのであれば、自分がその兄弟姉妹に援助すれば献金になるわけです。

この考え方が、現代の資本主義を発展させました。

キリスト教徒は、禁欲主義です。自分にお金や財産を使わないので、お金は貯まります。ですが、与えなさいという教えがされているので、神の子孫である兄弟姉妹に、おしみなく自分たちの財産を与えていったのです。

そのような行為が、広がっていき、現在の自由貿易につながっているのです。

現代人は、学校宗教団体などで、利益重視や数字重視などの思想がされていますが、もともと、このようなクリスチャンたちによる利益を無視した行いによって経済は発展したのです。

カトリックは、経済を自由にすることを拒みました。これは悪魔宗教を抑え込むためです。悪魔宗教は大昔からお金や財産を集めては、武器や人を手に入れて反乱を起こして国や帝国を滅ぼそうとしてきたのです。

それに規制を設けて、国の平和を維持しようとした結果、与えるべきものさえも与えないような体制へと構築されていってしまったのです。

ですから、カトリック社会であった国ほど、経済発展は遅れました。科学や学問も遅れていきました。

国を守るための規制が、はげしかったからです。

それに対して、プロテスタントは、聖書を信じるひとたちは、すでに救われている人間なので、自分にお金を使うのではなく、与えるものだと主張して、経済緩和していったのです。

人々は、与え続けることで、多くの発展を読み込むことに成功したのです。

ですが、カトリックが懸念したように、その緩和によって悪魔宗教も解放され、自由になっていきました。

本物のクリスチャンは、地位や名誉を求めないので、組織のトップになろうとはしませんが、悪魔宗教は表向きはクリスチャンの顔をしながら、裏では私利私欲に支配されているので、多くの悪魔宗教家たちが、組織のトップ、社長や財閥、政治家や教師、法律家などを独占していったのです。

そのため、歴史は歪曲され、あたかも、宗教を否定した人間たちによって経済や科学が発展したかのようにプロパガンダを広げていますが、事実は違うのです。

聖書の正当性があったからこそ、王族や貴族、カトリックなどが許可を与えたのであって、決して聖書を無視した人々によってもたらされたものではないのです。

このように、禁欲主義でありながら、自分以外の兄弟姉妹に与える行為によって、現代社会が発展したのであって、利益重視だという価値観は、悪魔宗教のマインドコントロールなのです。

聖書を信じるのであれば、什一献金を教会である兄弟姉妹に与えて、ともに助け合い発展という祝福を得ることが大切なのです。

献金をすることで祝福されることは、現代の発展をみれば、証明されているのですね。

6、献金は祝福

すべてのものは、神様から与えられたものです。献金をすることは、合理的なことなのです。クリスチャンにとっては神様への感謝も含めていることから、さらに上の思想が存在しています。人間の能力を超えて、神様はあらゆる出来事で祝福してくださいます。お金というものだけではありません。平安や安心など、悪から守ってくださることも含めてです。

悪は、悪によって打ち破られることを聖書は教えています。悪魔宗教が世界を支配し、表向きは正義の顔をしながら、裏では信じられないことを続けていますが、それらの悪の根源から生み出された共同体は、さらなる悪を生み出し、裏切りと恐怖を絶えず与え続けます。

悪のために育て上げた殺し屋が、次の日、自分の命を狙うものになるかもしれません。国や政府、民族や情報を規制したことで、悪は、苦しめられるのです。

人は、神様によって自由に生きることを望むように造られています。人間という小さな枠の中で、奴隷のように生きていくようには造られていないので、そのような生活を続けていれば、ストレスが貯まっていき、その原因は何かを追求していくことになるのです。

その時、その瞬間は、悪が勝っているかのようにみえても、それは長い時間をかけて、悪はあばかれ、また、悪によって情報が流され、解放へと進んでいるのです。

クリスチャンは、悪をする必要はありません。悪は悪が倒してしまうからです。

ゆるしと愛、真理と事実をもって歩んでいき、すぐに世界を変えるのではなく、ゆっくりゆっくり、まるで花に水をやるようにして、忍耐と自制をもって生きればいいのです。

悪を持って生きるものは、自分が悪の思想なので、相手も悪の思想だと本気で信じています。それは恐れなのです。

家族であっても信用できないのです。

休まることのない外見だけの富と笑顔で平安をもって生きている平凡な生活をしているクリスチャンは、どちらが幸せなのでしょうか。

夜寝れること、心からの笑顔で暮らせること、これらはお金を払っても手に入らないのです。悪をすればするほど、遠ざかるものが、幸せなのです。

連続殺人犯をみてください。彼らにとって幸せ観は、欲望です。人を傷つけることが好きで、行っていますが、それも隠れてしているではありませんか。

表ではできなず、みつかれば、捕らえられるのです。

普段から神様から与えられているものに感謝しましょう。それこそが祝福だからです。

 
 
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