クリスチャンではない未信者の方たちが、信じられないと思ってしまうキリスト教の話の1つが、処女マリアによるイエスキリストの誕生です。
男女の性行為がないにも関わらず、イエスキリストが生まれたという話には、疑問をどうしても持ってしまうというものです。
そういった奇跡を目の当たりに見たことがないと思っている人からすると、処女マリアの出産は、不可思議にしか思えないのは、わたしにも理解できます。
イエスキリストは、本当に処女マリアから生まれたのでしょうか。
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1、奇跡を否定することは、自分がいないと言っているのと同じ
奇跡とは、人間の理解を超えた現象のことを奇跡だと言っているにすぎません。
200年前の人間にスマホを使う人間をみせたら、奇跡だと思い込むでしょう。
奇跡だと思うことは、常識という壁が頭の中にあるからそう思うだけで、普段からわたしたちは、ありえない世界の中で過ごしているのです。それを常識というマインドコントロールによって見えなくされているので、理解できないだけなのです。
この記事でも書いていますが、わたしたちが存在している時点で、すでに奇跡を超えた奇跡です。
わたしたちは、両親から生まれてきたことを否定するひとはいないと思います。そして、その親にも、両親がいて、その結果生まれてきたことを知っています。
ですが、それを繰り返していけば、限りなく少なくなっていくことが用意に解りますね。
はじめの男とはじめの女になるのです。
進化論という宗教を信じている人たちは、あらゆるお猿さんの種類から人間が進化したかのように、勘違いしている人もいるかもしれませんが、進化論でさえ、近年は、アフリカから人類が発症したとして限定した考え方をするようになってきました。
そうしなければ、ありえないからです。
もし、進化論で、あらゆる種類のお猿さんからさまざまな人類が同じ時代に、進化しているというのなら、今でも原人は、普通に存在していなければ、おかしいからです。
それほど簡単に、生き物が進化するのであれば、外を歩けば、中途半端に進化していない人間もいるはずなのです。
ですが、現実には、原人などどこにもいません。
この問題を不完全な進化を遂げたものは、淘汰され、絶滅されたなどという言い訳をする人がたまにいますが、ならなぜ、お猿さんはいるのでしょうか?
原人よりもさらに不完全で、人間のように道具を使うこともできません。
なぜ、ナマケモノという1日数センチしか移動しない生き物が、絶滅せず存在しているのでしょうか。
お猿さんがいて、人間がいるのに、その中間種である原人がいないのは、はじめからお猿さんと人間は、それぞれ別々の種類であって、決してご先祖様ではない証拠なのです。
人間は、1種類の男女から末広がっていったのです。
それを聖書では、アダムとエバだと書かれているのです。
聖書に書かれていることは、ものすごく合理的なのです。
なぜなら、奇跡を否定していないからです。
はじめの男アダムとはじめの女エバは、奇跡によって造られたのです。
ですが、聖書を信じないひとたちは、これを説明することはできません。最初の男女がどのように生まれたのかを説明できないのです。
鶏は、たまごが先か、それとも鶏が先なのかを説明できないようなものです。
現在の鶏が、卵から産まれているのは、不思議ではないと思いますが、最初の鶏は、どこから発生したのか説明がつかないのです。
これを聖書では、人間と同じように、神様が造られたことが書かれています。
ビックバン節が一時期、流行り、世界の誕生をあたかも説明しているかのように話していた時代がありましたが、ビックバンは、小学生でも間違いだと分かるほど、現実的ではないことが分っています。
爆発によって生み出されたのなら、この宇宙では、星は、一定方向にまわっていなければいけないのですが、実際の星は、あらゆる方向に自転しているからです。
爆発などで吹き飛ばされたら、銀河系などがあることもおかしなことになってしまいます。
ですが、現実の宇宙をみれば、銀河系は、外へと膨らんでこそいても、その広がる力とは裏腹に、一定の距離を保っているのは明白だからです。
また、忘れてはいけないのは、わたしたちの銀河系だけの話をしているのではないということです。
銀河は、数多く存在して、同じように一定の距離を保つようにそこに留まっているのです。
この不思議が理解できるでしょうか?
なぜ、地球と月は、一定の距離を保っているのか、説明できないのです。
もうこれは、全知全能の神が、はじめからこの絶妙な位置から月と地球を置かれたと考えなければ、はじまりがおかしなことになってしまうのです。
月と地球は、毎年3cmずつ離れていることを知っているでしょうか?
地球の引力に絶妙に乗って回っている月は、その引力から離れるように地球の外側をまわっています。
月日とともに、離れる力が増しているのです。
進化論に根付いた宇宙学では、地球は54億年まえに生まれたと適当な数字を語りますが、聖書を信じているクリスチャンは、この地球は6500年ほど前に、神様が造られたと信じて語ります。
宇宙空間に、絶妙な位置で計ったように存在している星々は、人間のこどもがオモチャを必要な位置に持っていくかのように、置かれなければ、ありえないことを理解しているからなのです。
このように、現代を基準にして、それを当たり前だと思い込んでいても、その起源、最初のものを考えれば、かならず奇跡に直面してしまうのです。
では、そのあらゆる万象の奇跡が目の前にありながら、処女マリアによるイエスキリストの誕生だけが信じられないのは、現実をみていない証拠なのですね。
イエスキリストは、人間のこどもと同じように、女の人の体から生まれました。はじめの人アダムよりも遥かに、理解できることです。
初めの人アダムは、その女すら存在しなかったからです。
女がいて、そこから出産したことは、すべてのこの天国のような世界を造られた神様にとって、なんら難しいことでもなく、土から人間を造るよりも、簡単なことだと言えるのです。
ちなみに、ハップル宇宙望遠鏡によって宇宙の果てが観測され、この宇宙は157憶年前に誕生したと言いはっているひとがいますが、これがおかしなことを言っているのが、分かるでしょうか?
地球から測った宇宙の果ての距離が、北も南も東も西も157億光年なら、地球は、この巨大な宇宙の中心にいるのでしょうか・・・・。
宇宙の誕生が何億年前とか、地球が何億年前だとか、恐竜が1万年前だとか言っているのは、適当に人間が信じやすい数字を言っているだけで、何の根拠もないのです。
「むかーし、昔」と言っているだけなのですね。
詐欺師は、数字をつけることで、あたかもそれが論理的だと相手の脳を錯覚させて、騙すのです。
これはあらゆる詐欺的な宗教や国、支配者などがしてきた人間の歴史です。
人は、小さな嘘より、大きな嘘を信じやすいのです。
国が認めていれば、嘘でもまかりとおってしまうほど、人間の脳は、簡単に信じてしまうのです。
わたしも例外ではありません。
2、イエスキリストの誕生は、さらに預言されていた
イエスキリストの誕生は、また奇跡ともいえる二人の物語からも、預言されるように起こっていたのです。
ユダヤ教徒は、イエスキリストを否定するものですが、そのユダヤ教徒が大切にする旧約聖書に、イエスキリストと対比するような話が書かれているのです。
それは、アブラハムとその嫁サラです。
アブラハムは、腹違いの妹であった美しいサラという女性と結婚して生涯を共に暮らしたのですが、そのサラは、不妊の女性でした。
旧約聖書には、サラは、月のものがあったことが、書かれています。ですが、それでもこどもが生まれる体ではなく、さらに90歳の歳になって、サラには、月のものさえも止まってしまっていたのです。
創世記18章11節
さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。
アブラハムはさらに10歳年上の100歳でした。もちろん、大洪水前のまだ環境が残されている世界環境なので、アブラハムは170歳まで生きたものだったので、現在の100歳の老人とは一致しませんが、それでもかなりの歳だったことが分ります。
現に、サラは月のものが無くなっていたほどだからです。
それでも、天使がやってきて、アブラハムとサラに、こどもが生まれることを告げたのです。
すると、処女マリアによって生まれたイエスを信じられないと思い込む人と同じように、サラは、「そんなことありえない」と心で笑ってしまうのです。
すると天使に少し叱られるのです。
アブラハムも一度は否定しましたが、天地万物を造られた奇跡をおこなった神様が、人間の体である男女のふたりから、こどもが生まれさせることなど、造作もないことだとすぐに理解するのです。
創世記18章12-16節
それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。 13主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。 14主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。 15サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。 16その人々はそこを立ってソドムの方に向かったので、アブラハムは彼らを見送って共に行った。
マリアとその夫ヨセフにも、アブラハムとサラのように天使が来て、同じように奇跡的なイエスキリストの誕生の預言を与えられるのです。
そのイエス様は、十字架刑で、すべての人間の罪のために死んでくださりました。
また、アブラハムの息子イサクも、イエス様と同じように、生贄になることを神様から命令されたのです。
イサクは、助けられたのですが、その出来事は、イエスキリストの預言だったのです。
このように、イエスキリストは、ただ奇跡の中で生まれただけではなく、すでにそのように不思議な業の中から生まれることは、イエスキリストを否定しているはずのユダヤ教徒が信じる旧約聖書に、預言されていたのです。
3、マリアとヨセフの2つの家系図
新約聖書には、2つのイエスキリストにつながる家系図が書かれています。
マタイの福音書1章1-16節
アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。 2アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、 3ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、 4アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、 5サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、 6エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、 7ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、 8アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、 9ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、 10ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、 11ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。 12バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、 13ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、 14アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、 15エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、 16ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。
ルカによる福音書3章23-38節
イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。ヨセフはヘリの子、 24それから、さかのぼって、マタテ、レビ、メルキ、ヤンナイ、ヨセフ、 25マタテヤ、アモス、ナホム、エスリ、ナンガイ、 26マハテ、マタテヤ、シメイ、ヨセク、ヨダ、 27ヨハナン、レサ、ゾロバベル、サラテル、ネリ、 28メルキ、アデイ、コサム、エルマダム、エル、 29ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタテ、レビ、 30シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリヤキム、 31メレヤ、メナ、マタタ、ナタン、ダビデ、 32エッサイ、オベデ、ボアズ、サラ、ナアソン、 33アミナダブ、アデミン、アルニ、エスロン、パレス、ユダ、 34ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、 35セルグ、レウ、ペレグ、エベル、サラ、 36カイナン、アルパクサデ、セム、ノア、ラメク、 37メトセラ、エノク、ヤレデ、マハラレル、カイナン、 38エノス、セツ、アダム、そして神にいたる。
それを読むとそのふたつが、一致しないことが分ります。
これを聖書の矛盾だとして、安易に否定するひともいますが、これは間違いでも矛盾でもありません。
なぜなら、1つは、嫁マリアの家系図で、もう1つは、夫ヨセフの家系図だからです。
それぞれ、途中までは同じ、ダビデの家系から生まれていますが、親戚として別れ、その末裔同士のふたりが選ばれたのです。
そして、それさえも、すでに預言されていたのです。
イエスキリストによる誕生は、ダビデ王の家系から生まれると旧約聖書に書かれているのです。
第一歴代誌17章11-14節
あなたの日が満ち、あなたの先祖たちの所へ行かねばならぬとき、わたしはあなたの子、すなわちあなたの子らのひとりを、あなたのあとに立てて、その王国を堅くする。 12彼はわたしのために家を建てるであろう。わたしは長く彼の位を堅くする。 13わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしは、わたしのいつくしみを、あなたのさきにあった者から取り去ったように、彼からは取り去らない。 14かえって、わたしは彼を長くわたしの家に、わたしの王国にすえおく。彼の位はとこしえに堅く立つであろう』」。
創世記49章9-11節
ユダは、ししの子。わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。彼は雄じしのようにうずくまり、雌じしのように身を伏せる。だれがこれを起すことができよう。 10つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。 11彼はそのろばの子をぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を良きぶどうの木につなぐ。
これもまた、奇跡です。
人間の能力を超えた事実が、そこに存在しているのですね。
イエスキリストの救いや人生や教えが、正当化されて世界中に広がった理由は、イエスキリスト本人が、勝ってに説いた哲学や神学思想だからではありません。
イエスキリストが生まれる前から存在していたユダヤ教や聖書という土台に裏付けられているから正当であるのであって、勝手に思想を広げたわけではないのです。
小説や漫画、あらゆる宗教家たちが、「〇〇〇〇」と呪文を唱えれば、救われるなどと説きますが、それに何の意味があるのでしょうか。
わたしが、「〇〇をしたら救われる。」といったところで、何の根拠になるでしょうか。
イエスキリストは、すでに生まれた時から奇跡の連続だったから、神様であると信じられ続けているのです。
イスラム教やユダヤ教はそれを否定していますが、旧約聖書に間違いなく、イエスキリストの生涯の預言は、300カ所以上にもわたって書かれているのです。
4、世界中の宗教もイエスキリストを待ち望んでいた
クリスチャンではない人たちは、イエスキリストと自分の信じている宗教は、関係ないかのように思っている方も多いとは思いますが、実はそうではありません。
聖書だけが、イエスキリストの誕生を預言していたのではなく、世界中の宗教が処女から救世主が生まれる予言を教え続けていたのです。
また、それらの世界中の救世主伝説は、女神から救世主が生まれるといった内容で、広がっていたのです。
女神崇拝は、世界中に存在し、エジプト神話でも、ギリシャ神話でも、また仏教でさえ、そこから逃れれるものではありません。
あらゆる宗教の中に女神崇拝があり、また処女である女から生まれる救世主が、表されているのです。
日本では、毘沙門天というものがありますが、あれも女神の頭からこどもが生まれる慈愛の思想なのです。もちろん、それらの仏教の思想は、別の宗教からの流れで、伝言ゲームのように姿を変えながら伝わっていったのです。
世界中に広がったそれらの共通した認識を説明できているのは、聖書だけです。
聖書には、アダムとエバにすでに、救世主の預言が、神様からもらっていたのです。
創世記3章15節
わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう
アダムとエバは、蛇に惑わされて、悪のプログラミングを脳にいれて、それを実行して罪人となりました。そこからすべての子孫である人間は、罪を継承しつづけているのです。
その罪のゆえに、神様は、人間が完全に滅ばないように、試練を人間のために用意されたのです。アダムとエバは、現在の世界よりもさらに天国であったエデンの園から追放されたのです。
天国から追放され、一緒にいたイエス様とも離された彼らの悲しみはどれほどだったことでしょう。
しかし、神様はそれだけではなく、人間を惑わした蛇の頭を踏み砕く救い主が、女の末(女の子孫)から生まれることを預言されたのです。
アダムとエバは、自分たちの息子が救世主で、またエデンの園へと導いてくれる存在になると信じたのです。
ですが、ふたりの息子カインとアベルは、すぐに救世主ではなかったことを認識されるのです。
兄カインは、弟アベルを殺してしまうからです。
これ以来、アダムとエバは、自分たちの子孫である娘たちから生まれるこどもたちをみるたびに、その男の子が、救世主かもしれず、またエデンの園という天国に戻してくれる存在かもしれないと伝えつづけ、それを人々は継承していったのです。
それを一番継承したであろうノアによって、また新たな世界が造られ、善悪を理解し、人間の悪によって世界が滅ぶことも経験したあと、さらに家族に、その継承を伝えたので、世界中の宗教には、ありえないほど共通点が存在しているのです。
救世主伝説は、世界中の宗教の共通点であることは、聖書が正しいことを証明してくれている1つの事柄なのです。
イザヤの子孫であったサカ族から生まれた釈迦は、西からすべてを一致させる存在が生まれることを予言したことが、伝わってもいるのです。
それは孔子も同じでした。
このように、世界中が待ち望んだ存在、それこそが、イエスキリストだったのです。
このように、聖書だけではなく、世界中の奇跡的な伝承が、イエスをキリスト(救世主)として、認めたのです。
なぜ、世界中の宗教を研究していたローマが、キリスト教を国教としたのか、それは、あらゆる情報を持っていた学者たちが、あまりにも聖書が合理的で、現実的だったことを認めたからです。哲学などが好きだったローマ市民には、この驚異的な人間の能力を超えた教えこそが、認めるべきだとして、急激に信じるひとたちが増えていったのです。
釈迦もそうですが、聖書の教えとバラモンの教え、2つの文化を知っていたからこそ、バラモンの教えに疑問を持つことができたのです。
吉田松陰は、海外の情報を知っていたからこそ、日本の文化に疑問を持てたのです。
ローマ市民は、さまざまな情報を持っていたからこそ、本物を理解できたのですね。
また、それらが絶妙なタイミングで、流れるように、存在している奇跡を考えれば、処女マリアによるイエスキリストの誕生だけを否定するのは、どうなのかと思わされるのですね。
わたしたちがいることは、間違いありません。この世界があることも間違いありません。その現実を理解すれば、決してありえないことではないのです。