思考の変化

イエスキリストは神なのか

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神様がいることは、現実をみることが出来る人には、否定できないことを以前話しました。

全知全能の神が確実にいる証拠>>

 

ですが、イエスキリストは、神だということは、なぜ解るのでしょうか。

キリスト教は、イエスキリストは神であることを信じる宗教です。

ですが、イスラム教やユダヤ教などでは、人は神にはなれず、神は全知全能の唯一の神様だけだと言います。

 

聖書を信じる人たちは、全知全能の神を信じます。それは、現実の世界では否定できないこともありますが、聖書がまた人間の能力を超えていることをいくつも証明してきたからです。

現在、残っている大きな宗教のほとんどは、聖書の教えを基にして、広がっているものばかりです。仏教も、神道も、イスラム教もです。聖書の教えから神を無くせば儒教や上座部仏教になります。

ですから、とても共通点が多いのです。

科学の発展、学問の発展、資本主義や民主主義、共産主義、人権や憲法など、さまざまな現代の基礎は、聖書から学んだ人間が作り上げたものです。

それほど、聖書には、現実的な力と平和や愛、正義が存在しているのです。

その聖書を深く読み解けば、イエスキリストは、神であることは、解るのですが、浅く読み解けば、人間であるかのようにも読めてしまいます。

 

イエスキリストが神なのだとなぜ言えるのかについて、追及していきましょう。

1、聖書は、未来を証明してきた

聖書の不思議、奇跡を証明しているものの1つは、聖書の「預言」です。

ユダヤ教は、紀元前6・7世紀に復古運動を経て、設立されたものです。

復古運動が起こるまで、聖書を書いた民であったイスラエル人は、多神教を多くのひとたちが信じていました。唯一の神を信じ続けていた人たちは少人数だったのです。

なぜなら、目に見える他国との貿易や政治、利益や合理的だと思える表面的なものに流されるひとが、現代人だけではなく、昔も多く存在したからです。

みなさんは、多くの文化を受け入れて、交流したほうが経済は、活性化すると思うでしょうか。

その考え方は、グローバル思想です。

一見、これらのグローバル思想は、利益をもたらしてくれるかのように思いますが、世界の歴史ではその考え方は、通用しないのです。

なぜなら、価値観が、一致していないからです。

わたしたちが考えている愛や正義、常識は、他国の国の民の愛や正義、常識とは違っているからです。

わたしたち日本人は、嘘や詐欺は、悪だという認識がありますが、世界では、嘘や詐欺は、正義だという認識さえあるのです。

自分たちの家族には、嘘や詐欺はしてはいけないが、他民族や他国には、嘘や詐欺をして、利益を獲ることは、正義だとするのです。どのようなやり方をしても、利益を獲ることこそが、最終の現実だと心から信じている価値観です。

ですが、これは現実的には、不利益をもたらします。はじめの1・2回は、上手くいくでしょう。ですが、その悪の思想が、国全体を支配したら、誰も人を信じません。嘘や詐欺が当たり前だという世界では、本物さえも疑うようになるからです。

経済に大切なのは、「信用」です。

信用しているから、物が売れるのです。誰も信用していないものを買おうとは思いません。

日本が世界の経済大国をドイツと共に、走り続けているのは、日本やドイツの気質によるものです。

それは「真面目だ」ということです。

日本人やドイツ人は、とても真面目で、働くことや努力することが、正義だという意識が広がっているからです。

それを毎日体験していると、真面目に働くことが当たり前だと思い込みます。

その思い込みが、経済を動かしていくのです。

ですが、中国や韓国などは、日本とは逆の思想が、昔から存在してきました。中国や韓国は、儒教が人々の心に広がり、神がいないという思想が、まかりとおっていました。このため、人は、神を恐れず、自分たちの価値観に従って、詐欺や嘘をしては利益をむさぼろうとしてきたので、人を信じるよりも、疑うことが多く、経済がまわらないのです。

GDPをみれば、日本やドイツは、1位ではないかのように思わされていますが、そうではありません。実質的な経済力は、日本とドイツ以外は、赤字であり、黒字であるのは、日本とドイツ、またはイスラーム圏内の国々ぐらいです。

資源が恵まれているか、「信用」を広げているかが、経済発展の境目なのです。

「中国や韓国も「信用」をうたうぞ。」という人もいますが、表向きだけの信用ではダメです。一人ひとりの心に、信用がなければ、ひとりひとりが、物を買ったり、売ったりできないのです。

疑うことさえも忘れさせるような、信用の常識が、経済をスムーズにさせていく潤滑油なのですね。

日本では、詐欺商品や悪徳商法でさえも、売れるほど、人々は純粋で、信用したので、信じられないほどの経済発展をしたのです。

ですが、それらの多くが詐欺だったことがバブル崩壊で理解して、突き落とされました。

そのため、多くの日本人の心には、「信用」よりも、「疑い」が色濃くなり、20年にも渡って、不景気が蔓延しているのです。

信用がない人間社会なら、人々は、自分を守ろうと警戒心を高め、お金を使おうとはしなくなります。それが国全体に広がれば、不経済になるのは当たり前のことなのです。

このように、「利益」よりも、実は「信用」が経済発展には、不可欠なのです。科学や学問の発展も信用です。さまざまな実験をするにも、信用に当たるさまざまな道具を用いなければ次を獲れないのです。

なのに、目先の利益を求めるようなグローバル思想は、たかが表面的な見せかけでしかないのです。

仲良くするにも、悪と仲良くなっても、経済発展はたかが知れているのですね。

ですが、昔から人間は、目先の利益に走りがちだったのです。聖書の民だというイスラエル人もそうでした。目先の利益、貿易のために、他国の宗教を取り入れ、文化を理解しようとしたことが、彼らの国を滅ぼしたのです。

信頼、真実、愛、正義、を育て上げる聖書を忘れ、心すさんだ民には、経済はまわらないのです。

これらの事実は、偽善的なことではありません。現実であり、事実です。

目先の利益に流され、短期的な利益だけにするのか、それとも長く利益をもたらすシステムにするのかの選択なのです。

多神教は、世界で通用しないのは、そのためなのです。

目先の利益のため悪をゆるしたことが、戦争や悲劇になり、人々の心をすさませてきたので、世界に愛や正義の基準を一神教によって固定させる必要が世界には、あったのです。

日本は多神教のように錯覚しているかもしれませんが、どの国よりも唯一神信仰を守るような民が日本人なのです。

それは、日本は、島国で、海という壁が存在したので、価値観を簡単に狭めることができたからです。

多神教で上手くいっているからではなく、環境によってうまくいっているのが日本なのです。

ですから、ドイツとは違い、日本は、とても騙されやすい気質なのです。

ドイツは、壁がないので、多くの世界の闇や悪を体験してきました。日本の悪の比ではありません。にも拘わらず、信用を大切にする気質がある骨太の国がドイツです。

日本は、環境に恵まれて、必死にならなくても、価値観を信用へと持っていくことができていたのです。

しかし、現在は、もう海という壁は取り除かれ、多くの科学的発展によって、交流ができているので、日本も、荒んだ心の者が多くなりつつあるのです。

昔は、物理的に書物や人を海という壁から運びこまなければいけませんでしたが、今は電話、インターネットなど、データだけ、情報だけが、日本に入り込むことができるようになり、さまざまな海外の悪の情報まで、入り込むようになったのです。

誰でも信用する日本人は、いいカモなので、バブルなどに流され、進化論なども心から信じるような人も増えていき、目先の利益、犯罪的思考を持つ人々が増えつつあるのです。

そして、聖書は、そのようにグローバル思想によって荒んだイスラエル人が、他国から滅ぼされることが、すでに預言され、捕囚にあうことが書かれていたのです。聖書通りの現実を目の当たりにして、イスラエル人は、本当の神の存在と力を認めざる負えなくなったのです。

ですから、とても熱心で、保守的なユダヤ教が、イスラエル人の基本になっていったのです。

それほど、聖書は恐るべき書物なのです。

世界の未来が書かれている書物で、未来の情報を知っていれば、それは人間にとっても深い利益をもたらせるのです。

それを現代は、悪魔宗教が独占しているので、世界を支配しているのですが、これを正しい組織や集団が手に入れることができるようになれば、世界は、現実を認め、平和へとつなげることができるようになるのです。

聖書に日本の歴史が書かれていた>>

そして、何よりも、的確な預言は、イエスキリストの預言です。

イエスキリストの預言>>

ユダヤ教が大切にしてきた旧約聖書の中に、300にも渡って、イエスキリストの生涯が細かく預言されていたのです。

イエスキリストの死後に、それに人間は気づいたことで、人間の能力を超えた奇跡を信じるのではなく、認めざる負えなくなったのです。

ユダヤ教を信じていたイスラエル人は、白人ではなく、黄色人種でした。ローマの属国の国の1つの国でしかなかったのです。

ですが、ローマ人は、とても哲学や論理や倫理が好きだったので、聖書のあまりにも深い論理性に、目覚めたのです。

学問や科学を超えた、奇跡が書かれた聖書を認め、多神教から一神教へと心変わりしていったのです。

紀元前に存在してきた帝国の台頭さえも、聖書はすでに預言していたほどです。聖書は4つの大きな力のある国、帝国が現れることが書かれていたのです。

それ通りに、実際に世界は進み、現代に至っているのです。

恐ろしいことに、それらの帝国の価値観、情報は、カトリックなどに引き継がれ、今でも影響力を持っているのです。

聖書が、どれほど力を持っていることが、少しは理解できたでしょうか。それを現在は、悪魔宗教が独占して、わたしたち奴隷国民は、どうでもいい情報や価値観を学校宗教団体で教えられ、脳が汚染されているのです。

わたしも含めて、人間は正しい人など存在しないことをすべての人が叩きつけられている時代なのですね。

みんなが一斉に悪魔宗教のプロパガンダによって汚染脳され、騙され続けているのです。

洗脳の真実>>

現代医療と悪魔宗教>>

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2、聖書こそが神の道しるべ

恐るべき聖書の内容を少し垣間見ていただきましたが、それらをまた証明しているのは、現実に存在しているものです。

聖書が恐るべきなのは、現実と一致しているからなのです。

例えば、ユダヤ教の存在です。

ユダヤ教は、今でも存在していることを否定するひとは少ないでしょう。

学者で、ユダヤ教が存在していないとする人はいません。

それほど、現実にユダヤ教は存在しているのです。

そのユダヤ教や聖書、キリスト教などをどれだけ歪曲させても、それらが存在している事実は、否定できません。

イエスキリストが、実在の人物であることを証明しているのは、キリスト教を弾圧し続けたユダヤ教やローマ帝国の存在が存在したからです。

イエスキリストは実在したのか>>

原始キリスト教は、ユダヤ教だけではなく、ローマ帝国からも迫害され続けました。キリスト教徒の信仰を守り続けることは、当時は、命がけだったのです。

そのため、キリスト教が広がったのは、ローマ市民が多かったのです。

それら迫害や苦難は、決して無駄ではなかったのです。それらの苦難によって多くのクリスチャンは命を失いました。ですが、それらの迫害があったことで、キリスト教の正しさが、証明され、今では10億を超え、20億にもなるキリスト教徒が世界中に存在しているという奇跡を残しているのです。

それは、聖書が正しく、奇跡を体現しているからなのですね。

これらの現実に存在している文化や学問と一致しているからこそ、根強く世界に広がり、現代社会を構成してきたのです。

これほどの証拠に囲まれた宗教は、他にはありません。

救いとは>>

3、聖書は、イエスキリストが、神であることが書かれている

それら現実と一致した聖書、力強い証明を続けている聖書に、イエスキリストは、書かれているのです。

ですが、その聖書を信じる人であっても、イエスキリストが、神ではないと解釈する人たちもいます。

それは、ユダヤ教やイスラム教なのです。

ユダヤ教は、自分たちがイエスキリストを処刑してしまったので、それを否定したいという想いがあったとしても、なぜイスラム教は、イエスキリストは、人間であって、偉大な預言者だっただけの人物だと解釈しているのでしょうか。

それは、情報が少なかったからです。

マホメットは、神学を独自に読み解き、情報が少なかったことで、キリスト教の奥義を理解することができませんでした。

三位一体の神は、マリアだとさえ思い込み、マリアを否定したのですが、カトリックでさえ、三位一体の神は、マリアではないのは当たり前なのです。

マリアは、救い主を産んだ母であって、三位一体の神ではないのです。

このように、マホメットは、かなり独断の解釈で聖書を読んでいたことが、解るのです。

イスラム教のこのような独自の聖書解釈は、キリスト教だけではなく、ユダヤ教からも否定され続けています。

ですから、イスラム教は、聖書よりもコーランを大切にして、つじつま合わせをしながらも、平和を望もうとする「人間社会主体」の宗教なのです。

イスラム教の素晴らしいのは、神様を忘れなかったことです。儒教などのように神の存在を否定するかのような思想は、人の本質を濁らせ、犯罪思想を広げますが、唯一の神を大切にする思想は、人々に愛や正義に従うことを刻み込んだのです。

ですから、聖書解釈こそ間違ってはいても、現実的に世の中に平和や平安をもたらしているのは実は、イスラム教なのです。

行いが伴っているのですね。

ユダヤ教は、あまりにも旧約聖書にイエスキリストが存在しているので、旧約聖書よりも、タルムードを大切にしてしまっています。

このように、正式に聖書を素直に読み解けているのは、キリスト教だけなのです。

とは言え、キリスト教は、現実的には、正しい行いが出来ているのかは、疑問が残ります。

なぜなら、聖書の力をどの宗教よりも利用することで、一番豊になったからです。

そのため、人の心は荒んでいきました。多くの悪魔宗教が、キリスト教に入り込み、表向きはキリスト教徒ですが、裏では悪魔宗教をしているものが多数存在しているのです。

このサイトは、本質を読み解き、現実と聖書の一致を証明し続ける情報が、多数発信されていますが、キリスト教の多くは、これらの奥義を隠します。

それは、悪魔宗教によって止められているからです。

表で、権力を持っているひとたちのほとんどは、悪魔宗教側のもので、本質を大切にしているひとは、少人数になってしまっているのが、現状です。

とはいえ、それほどの力を得たのは、それだけ聖書解釈が優れていたのが、キリスト教だったからです。

それを今は悪魔宗教が悪用しているだけです。

悪用するということは、本質が実際に聖書には、存在している証拠なのです。

包丁は、食べ物に向ければ素晴らしい道具ですが、人に向ければ恐ろしい道具になってしまうのです。ですが、利用できることは、どちらも同じなのです。

利用できる力があるからこそ、悪用できるのです。

それを善が利用すれば、世の中は、平和や平安を手に入れることができるのです。

キリスト教の存在が、イエスキリストが神であるという1つの証明にもなっているということですね。

ですが、聖書を読めば、イエス様は、ご自分を神だとは、はっきりとは宣言されていません。それどころか、「天の父」と祈られ、神様とご自分の違いを示されているかのようにさえ、見えてしまいます。

イエス様は、なぜ「わたしをお見捨てになったのか」と言われたのか>>

その理由は、イエス様が、必ず十字架刑で死ぬ必要があったからです。

ユダヤ教は、良し悪しを別にして、とても熱心な宗教です。保守的で、神様を大切にしょうという想いがあるだけに、多くのキリスト教徒を追い詰めていきました。キリスト教の使徒とさえ言われるパウロも、そのユダヤ教徒で、神学者でした。彼は心から正しいと考えて、キリスト教をその手で、殺めたほどです。

彼らは、心から正しいと思って実行していたということです。

そのような時代に、もし、イエス様がはじめから「自分は神である。」と宣言されたらどうなるでしょうか。

人々は怒り狂い、イエス様に石をぶつけて、殺してしまったことでしょう。

そうすれば、十字架刑にかけられることもなく、預言は成就しませんでした。

神であるのなら、人間に殺させないようにすればいいと考えるかもしれませんが、聖書の神様はそのようなことはされません。

極限まで、「人間の自由意志」を尊重されるのが、聖書の神様です。

神様がその気になれば、聖書の神以外、拝めないようにすればいいところを、神様は人間の自由意志を尊重して、「わたしの他に神があってはならない。」という教えだけを残したのです。

「殺してはならない。」という教えは、殺すこともできるということなのです。もし、人間が殺すことができない世界なら、神様は「殺してはならない。」などとは人間に教えないのです。

アブラハムにしても、モーセにしても、神様の命令に口をはさもうとしたことがあります。彼ら預言者であっても、自由意志を尊重されていたのが、聖書の神様です。

ご自分を殺そうとする人間の選択も、神様は、決定的には、左右させられないということです。

イエス様を十字架刑までは殺さないように、促すことはあっても、それを神様が決定しているわけではないということです。

人間の自由意志を尊重するために、イエス様はご自分を神だとはっきりとは宣言されませんでした。

そのため、イエスキリストは神ではないといった解釈をそのままする人がいるわけです。

ですが、聖書は、奥義が隠されている書物です。未来のことが書かれていたとしても、その未来が来てからではないと、それだったとは理解できないものが多く、人間が推測した預言解釈とはまったく違うのに、的確にそれを示されていたことが、後になって解るほど、奥義は隠されているのです。

イエス様が十字架刑に架けられている時、弟子たちはみな、逃げました。ペテロは、3度、イエス様のことを知らないと否定したのです。

みな自分たちの命を優先して、生きていたイエスキリストをユダほどではないにしても、裏切ったのです。

にも拘わらず、彼らは命がけで、キリスト教を世界中に広げました。

なぜでしょうか?

それは、イエス様がよみがえり、弟子たちに、その奥義を伝授されたからです。弟子たちは、イエス様が死んだあとで、やっと理解したのです。イエス様こそが神様であって、人間のために、死んで蘇ってくださったことをです。

それから、彼らはイエス様が天にのぼられ、目に見えなくても、その信仰を命がけで広めたのです。

12使徒は、わたしたちと同じように、自分の身が大切だったにも関わらず、その後、命をかけたのは、「理解できた」からなのですね。

それを浅く読もうとすれば、イエス様は、人間だったとするかもしれませんが、深く素直に読めば、至るところに、イエス様は、旧約聖書の中に存在されているのです。

イエス様は、創世記のエデンの園にも、存在されていたことが書かれています。

イエスキリストの創世記>>

聖書の神様は、完全な一神教というわけではありません。一神教なのですが、その神様の形は、三位一体であることをキリスト教は信じています。

それは、この世界そのものである全知全能の神様・聖霊様・イエス様です。

三位一体とは>>

また、本当の神様は、三位一体であるという証拠は、世界中の宗教の中にも垣間見えるのです。

神様は、三位一体であるというものは、聖書だけではなく、世界中にあり、神道にも、エジプト神話やギリシャ神話、さまざまな宗教に表されています。

悪魔宗教でさえ、三位一体の形を示しているのです。阿修羅像などの三面一体でそれを表していたりもするのです。

これらの世界の宗教の共通点を説明できているのは、聖書だけです。

聖書は、アダムから人間が増え広がったことが書かれています。

子は、親の情報から知識を増やしていくことは、誰も否定しないことでしょう。代々ひきつがれてきた情報のように、現代に生きる70億人以上のひとびとは、実は1つの家族から生まれたのです。

そして、1度滅び、ノアの家族から現代人が増え広がっていきました。

その知識が、共通しているのを聖書は説明しているのです。

悪魔宗教は、とても聖書の教えに似ています。悪魔宗教や聖書を研究するひとで、途中悪魔宗教に脳が歪曲させられてしまう人がでてくるほど、悪魔宗教は、聖書の教えを組み込みながら、悪へと変換しているのです。

情報を盗んでは、それらを180度回転させて、悪にしてしまうのです。

世界の闇のルーツ、カナンの教え>>

世界の悪魔宗教のパターン>>

このように、世界には共通点が間違いなく、存在しているのです。

そして、それらで共通しているのは、神様の形は、三位一体であるというものです。

ユダヤ教やイスラム教は、唯一の神様を信じるものですが、それらの解釈が正しいとは言い切れません。もし、ユダヤ教が正しく聖書解釈ができていたのなら、なぜ、イエス様を十字架刑にかけたのでしょうか。

人間には、未来をみる能力がないので、その時点の価値観や偏見でしか、聖書を読み解くことができないのです。

キリスト教の中にも、聖書解釈を良い意味で、柔軟に解釈することで、未来を予測できるのですが、あくまで予測でしかありません。キリスト教の中の多くは、終末思想があり、世の終わりを告げて、キリスト教徒を増やそうとしたりしていますが、果たしてそうなのかは、未来になってみないと解らないのです。

天国とはどのようなところなのか>>

聖書には、どうすれば救われると書かれているのか>>

聖書には、イエス様がはっきりと十字架刑で、わたしたちのために死んでくださることが書かれているのに、それ通りに、イエス様を処刑してしまったのは、人間が明らかに不完全だからです。

イエス様の預言以外は、予測がつかないほど、抽象的なので、尚更、人間には読み解くことが困難にされているのです。

ですが、聖書に書かれてきた預言は、ことごとく成就し続け、2000年前からすでに書かれていないにも関わらず、今も聖書は、現代を置いて、未来を走り続けているのです。

人間はその後ろを科学や学問、情報を集めることで、遅れて追いつくことしかできていないのです。

そして、その聖書には、間違いなく、イエス様が、神であり、三位一体の形の1つとして存在されている方だと書かれているのです。

イエス様を神だとするのは、聖書を深く読み解き、その時代時代の背景を理解して、素直に読めば、イエス様は神様なのですね。

そして、そのイエス様が死んで蘇ってくださったことで、エデンからの試練から解放され、次々と神様の基の自由が得られ始めているのです。

まだまだ、天国のような世界には程遠いですが、間違いなく、行きつく先の未来は、明るいことでしょう。

そこに至るまで、黙示録の試練は続くことでしょうが、それも明るい未来のためです。悪魔宗教は、証拠を大量に独占していながら、それらを隠し、人々を欺き続けていますが、それもやがて不可能になっていくことでしょう。

神様によって、それらの証拠は、次々と明らかにされていきます。人々は、それらの証拠からパウロのように目からうろこが取れて、本当の神様を理解していくことでしょう。進化論というトンデモ説・宗教を心から信じ込まされていることも、神様が許可されている不思議の1つです。

進化論の正体>>

創世記の時代のひとたちはなぜ長寿なのか>>

私も含めて、みなが騙され続けてきた現実が、人の目のうろこを落とすのです。

そして、イエス様の十字架の意味を世界中の人々が、認める時代へと入り始めているのです。

ヨハネによる福音書1章1-5節

1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は初めに神と共にあった。 3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。 

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