思考の変化

悪い行いをやめられないという悩み

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真面目で優しい人は、なるべく罪をおかさないように生きようとします。ですが、それでも悪をしてしまう自分に嫌気を感じてしまう人がいます。

クリスチャン信仰を持った人は、そういった悩みをたまに聞くことがあります。

 

聖書を信じ、イエス様を信じたとしても、それでも悪をしてしまうことは、どのように考えればいけばいいのでしょうか。

 

1、罪の中で生きている

わたしたちは、体を持って生きています。

生きているということは、反応を良くも悪くもしてしまうのです。

クリスチャン信仰を持っても罪をしてしまうのは、反応してしまう体、聖書でいうところの肉があるせいです。

いくら自分が一生懸命に罪をおかさないようにしようとしても、まわりの環境が罪をしたり、罪をさせる情報ばかりであれば、嫌でも流されてしまうのです。

それらを完璧にやめようと思うのなら、現代社会と関わりを持たない生活をするしかないかもしれません。

アーミッシュという集団生活をするひとたちを知っているでしょうか。

彼らは、文明的なものをなるべく使わず、馬車などを使って生活しているひとたちです。服装や格好は、独特で、男性は成人するとヒゲを剃らず、女性はこどももナフキンを頭に巻いて、まるで200年前の生活のまま暮らしているのです。

このような現代社会とは一線をひいた生活や環境にすれば、ひとは限りなく罪をおかさず、生活できるようになります。

ですが、本当にそれでいいのでしょうか。

イエス様は、罪のある世界を弟子たちと共に旅をしました。そして、罪ある世界のひとたちによって十字架刑にかけられて死なれたのです。

イエス様は、罪ある世界と戦ったのです。

もちろん、武器で戦ったわけではありません。なるべく、自分たち以外の生活をしているひとたちも救われるように、行動したのです。

イエス様がアーミッシュのように生活すれば、死ぬこともなかったでしょう。ですが、イエス様の人生がなければ、今でも憲法や人権は人間は手に入れることができず、多くのひとたちは苦しみと悲しみを味わっていたでしょう。アーミッシュという思想を許可されることも無かったかもしれません。

罪をおかさないように、自分たちの枠の中で生活するのは、簡単ですが、罪の世界を無視して、何もしないようにするればするほど、罪の世界は、悔い改めるひとが少なくなり、アーミッシュのような生活さえも壊しにかかるかもしれないのです。

アーミッシュが悪いと言っているわけではありません。そういった思想で生きてくれる人も大切ですが、罪の社会であっても生きながら、少しでも良い社会に章とする人も必要だと言っているのです。

ですが、罪のある社会に生きていれば、それだけ影響されて、悪をしてしまうのも事実です。

その人によってどちらの才能があるのか、神様からどちらの賜物を用意されているのかで、選択するといいでしょう。

罪の社会との関わりによって、悪をしたくなくても、悪をしてしまうという悩みをいつまでも引きずると心を病んでいってしまいます。

優しいだけに、心を痛めつけられてしまうのです。

ですが、それらは罪をしてしまうことは、反応にすぎないという事実があるのです。

もちろん、罪や悪が正義だと思って悔い改めることもしない犯罪思考は、あきらかにいけません。ですが、罪をしたくないのに、罪をしてしまうことに悩んでいる人は、それが現実だと受け止めるしかないのです。

わたしたちは、罪の社会の時代に、生まれたのです。ですから多くのひとたちが苦しんで生きているのです。

そして、少しでもこの社会をエデンのような世界にしていくように、精進していくことが大切なのです。

未来をあきらめるのではなく、わたしたちの子孫のために、少しでも良い世界になるように、情報を広めたり、善行をしていく意思を持ち、苦しんで生きることこそが、神様からの試練なのです。

神様を信じていない人の多くは、この苦しみから逃げるように、あきらめてしまいます。これを「大人だ」とかなんとか口先で平然と宣言する人がいますが、現実から逃げているだけにすぎません。本当に強いひとは、殴られても殴られても、それでも前に進もうと生きていくのです。どれだけ心を痛めても、それでも立ち上がり、少しでも良い社会にするように生きるのです。

私利私欲や利害で計算して、都合よく解釈して、「それが大人の社会さ。」と諦めて生きることなど簡単です。

罪にたいして、見て見ぬふりをして、悪をしても心を痛めないように犯罪的になればいいだけだからです。

罪の社会で生きながら、その罪と向き合い逃げずに、苦しみながら、少しでも良い行いをしたいと願い生きて売る人のほうが、どれだけ努力をしているのか、そして、簡単ではないのか理解するべきです。

イエス様は、誰よりもさげすまれ、騙され、裏切られ、見捨てられて、その命を奪われました。

わたしたちも、何度も何度も心を傷つけられながら、生きていきますが、イエス様を見習って、イエス様に少しでも近づけるように生きていくべきなのですね。

悪をしても、心を痛めないようにする悪の思想に入り込んではいけません。悪をしたら胸が痛むように生きなければ、世の中は、崩壊してしまうからです。

悪をしても心を痛めないようになれば、どれだけ恐ろしいことになるのか、考えましょう。

罪はどうしてもしてしまいます。ですが、その罪をした認識と胸の痛みを感じているのなら、あなたは正しいのです。本当に危ないひとは、胸さえ痛まずに、そのまま自分は正しいと生きているのです。

罪の意識があることは、素晴らしいことなのです。あなたが罪をすることで胸を痛められることは、恵なのですね。

2、原罪による悪の発生

アーミッシュのような生活をしても、それでも完璧に罪をおかさないでいることは、人間には難しいです。

聖書は、そのことについて書かれています。

アダムとエバは、完璧な環境で暮らしていました。現代人では考えられないほど、悪にうとかったのです。

悪行を発明していくまで、人は悪を理解することはできなかったのです。

アダムとエバは、悪を行うというよりも、現代人よりも確実に悪を知らないので、知らないことは行動には移せないのです。そのような両親と環境を持ちながらも、そのこどもであったカインは、弟アベルを殺してしまいました。

なぜ、そのようなことが起こったのでしょうか。

それは、原罪による罪から来ているのです。

アダムによって悪のプログラミングや原罪が入り込み、カインは悪の子孫として生まれてきてしまったのです。

物凄く素晴らしい両親に育てられても、犯罪者のこどもに育つ場合があります。

これもまた、悲しい現実です。

それは、その子が、悪の子孫として、生まれながらに強く遺伝してしまっているからです。

カインは、まさにそういう子だったのです。

第一ヨハネの手紙3章12節

12カインのようになってはいけない。彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのである。なぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである。

裏切り者のユダもそうです。

ユダについて、イエス様は、生まれてこないほうがよかったとさえ言われました。

どれだけ正しい世界で、天国のような環境になっても、人には、悪をしてしまいやすい人が出てくるのです。

限りなく、悪を少なくするような社会の形成は可能ですが、完全に悪を無くすることは、肉のある社会では、難しいのです。

わたしたちも同じように、罪をしたくなくても、原罪によって罪をおかしてしまう場合があるのです。

聖書はこのように書かれています。

ローマ人への手紙7章14-20節

 14わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。 15わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 16もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 17そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 18わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。 19すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 20もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 

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