世界の法則

洗礼とは、どういうものなのか

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キリスト教には、「洗礼」という儀式があります。

水につかることで、その身を洗い流し、神様とのつながりを回復させる儀式です。

キリスト教のことを知らない未信者の方たちは、なぜこのような儀式をするのか疑問に思うことでしょう。

今回は、「洗礼」についてみていきましょう。

1、すべての人に受け継がれた罪

アダムが善悪の知識の木から実を食べた時から悪を脳にいれ、霊まで以前のものではなくなったことで、その子孫であるわたしたちも、罪人になってしまいました。

この世に悪のプログラミングが広がったことで、人は神様から離れた存在になってしまったのです。

善と悪を頭の中に入れてしまったことで、人は愛と正義が無くなってしまいました。

現在でも、犯罪が存在しているように、人は事実を無視して、空想である偶像を信じることができるようになってしまったのです。

偶像とはどういうものなのか>>

ですから、人は裏切ることもできるようになってしまっているのです。

愛や正義は人の中にあると思っている方がいるかもしれませんが、人の中に悪がある時点で、すでに人の中には、愛や正義は、不安定なものになっているのです。ですから、戦争もあれば、詐欺師もいますし、犯罪者もいるのです。不倫や同性愛、嘘やねつ造、歪曲やあざけりなどが出来てしまうのです。

クリスチャンは、よく「はじめの愛にたち戻ろう」と言います。

人には愛や正義が無くなってしまったので、自分の上に、神様の愛や正義を置くことで、それに従うのです。

神を愛するとは>>

このように、人はすでに親から受け継いだ罪を背負って生きているのです。そして、罪を背負った人は死ぬものへとなり、以前のものは死んでしまったのです。

ローマ人への手紙5章12節

 12このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。

2、水によって新しく変えられる

アダムの子孫として罪を持ちながら生きた人間は、悪を広げていきました。ノアの家族以外は、悪を行うようになった時、神様は、水によって新しい世界を作り出したのです。その時に助けたのは、ノアの家族8人です。

大洪水前の世界は、とても恵まれた世界でした。その恵が、人間の高ぶりを覚えさせ、試練の無さが人の罪を抑えることができなくなったので、洪水後は、徐々に、現代のようにすこし過酷な世界になりました。

ひとは120歳ほどの寿命になり、生き物は小さくなりました。

創世記の時代の人は、なぜ長寿なのか>>

アダムとエバに、永遠に生きることができたのは、いのちの木という存在でした。いのちの木は、イエス様でした。

イエスキリストの創世記>>

イエス様を通してでなければ、人は霊でさえも、死ぬものなのです。

水によって世界を洗い流した後、神様は悪のプログラミングが入った人間に、聖書を与えたのです。

モーセの時代まで聖書を与えられなかった理由>>

人は、悪をすると試練が訪れるようになり、また世界が滅んでしまうことを理解したことで、悪を以前よりも抑えることができるようになりました。

ですが、悪が存在していることは変わらないので、多くの苦しみや悲しみが今でも存在しているのです。

罪を重ねるたびに、人は動物の血によってその罪を贖い続けてきました。それがイエス様であり、神様の身代わりだったのです。

わたしたち人間は、このいのちの木であり、罪から解放してくださるイエス様と繋がるために、罪のものであったものを「水で清める」必要があるのです。

それが、洗礼であり、バプテスマなのです。

全身を水の中にいれて、水から生まれ変わり、世界に新たに生きるものになる儀式です。

もちろん、それですべての罪が贖われるものではありません。洗礼は、儀式であって、罪を無くすものではありません。罪を無くすのはイエス様だけです。

ですが、その新しく生まれ変わるという教えを形として表すことで、体にも、意識にも深く認識させるのです。

第一ペテロの手紙3章18-21節

18キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。 19こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。 20これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。 21この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。

ヨハネによる福音書3章3-8節

3イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。 4ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。 5イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。 6肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。 7あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。 8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。

3、洗礼は、認識が大切

イエス様によって、罪人であったわたしたちが、新しい霊を受け取り、永遠の命を得たという認識が、次の行動に影響をもたらします。

日本人は、嫌でも日本語でものごとを考えて行動してしまうように、脳に入り込んだプログラミングによって次の行動が変わってくるのです。

そのためには、強く救われたことを認識すればすることです。

もともと、解りやすい罪をしてしまったひとは、その罪による呵責が、胸を苦しめるので、そこから救いを与えてくれるイエス様に深く感謝することができます。クリスチャンにも元ヤクザという人などがいますが、そういった人ほど、救われた時には、強い認識をもって感謝するのです。

使徒といわれたパウロは、元の名前をサウロと言いました。この頃のサウロは、原始キリスト教を追い詰めて、捕まえるとクリスチャンの引き釣りまわしたといいます。

そして、12使徒のひとりであったステファノのいのちを奪ってしまったのです。

サウロは、とても熱心なユダヤ教徒で、現代人でいう東大のトップエリートのような存在でした。律法や聖書を深く信じて、正しいと本気で考えて、原始キリスト教とを追い込んでいたのです。

ですが、そのサウロにイエス様がくだり、サウロの目をみえなくされたのです。

サウロは、イエス様が本当の神様であったことを理解すると、その目からウロコのようなものが落ちて、目覚めたのです。

その後、サウロは、パウロという名前になり、どの使徒よりも大きな働きをするようになるのです。

このように、強い認識が出来た人の行動は、その変化が著しいのです。

罪人であることに悩み、苦しんでいる人ほど、その変化は、違ってくるのです。

自分が正しいと思っている人には、この認識は薄いので、行動もまた小さい変化になるのです。

洗礼では、イエス様によって新しく生まれ変わるという認識がとても大切だということですね。

第一ペテロの手紙3章18-21節

18キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。 19こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。 20これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。 21この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。

ガラテヤ書3章

 23しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。 24このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。 25しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。 26あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。 27キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。 28もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。 29もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

4、洗礼の効果

洗礼は儀式であり、生まれ変わりを象徴する行為ですが、まったく効果がないわけではありません。

洗礼を受けることで、思考だけではなく、体も体験することによって、洗礼に影響されるようになるのです。

人は、脳の中のプログラミングによって物事を考えて、それを行動に移しています。

体験というプログラミングを通して、次の行動が変わってくるのです。

人は、環境に影響されるのですね。

聖書には、洗礼であるバプテスマによって変わっていたことが書かれています。

使徒の働き8章9-13節

 9さて、この町に以前からシモンという人がいた。彼は魔術を行ってサマリヤの人たちを驚かし、自分をさも偉い者のように言いふらしていた。 10それで、小さい者から大きい者にいたるまで皆、彼について行き、「この人こそは『大能』と呼ばれる神の力である」と言っていた。 11彼らがこの人について行ったのは、ながい間その魔術に驚かされていたためであった。 12ところが、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えるに及んで、男も女も信じて、ぞくぞくとバプテスマを受けた。 13シモン自身も信じて、バプテスマを受け、それから、引きつづきピリポについて行った。そして、数々のしるしやめざましい奇跡が行われるのを見て、驚いていた。

シモンという魔術、トリックをつかって人を騙していた人物が、本物の奇跡をみることによって、救われてしまうのです。その時、クリスチャンたちは、聖霊様を知らずに、バプテスマを受けて不思議な体験を味わっていたのです。

洗礼は、儀式ですが、体だけではなく、霊にも影響を与えるものだということです。

洗礼に必要なのは、意識です。

自分が罪人であるという事実を認識したあと、それをイエス様によって助けられたという認識が、脳に入り込み、霊に影響を与え、洗礼を受けることで、大きな違いをもたらします。

ですから、罪からの解放と新しい体になることを理解して洗礼を受けることは、とても大切です。

ですが、それだけではなく、体で洗礼を受けることによる体験もまた、人に影響を及ぼすのです。

現代人は、石鹸などで体を洗いますが、1度、水だけで洗ってみてください。石鹸で洗うよりも、気持ちのいい清さを味わうことができるようになります。

石鹸は、必要なものまで取り除いてしまいますが、水は汚れを落としてくれるからです。

その清さの体験は、心にも影響を及ぼすのです。

カトリックは特に、幼児洗礼を行いますが、これも無駄とは言い切れません。もちろん、意思を持ち、選択できるようになって改めて洗礼を受けることが望ましいですが、洗礼自体が無駄ではないのですね。

一番良いのは、認識して儀式にのぞみ、体も脳も霊も一緒に、洗礼を受けることです。

洗礼を受けることで不思議と悪から守られるです。

未信者からすれば、信じられないかもしれませんが、それはあるのです。

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