世界の法則

聖餐式とは

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キリスト教には、聖餐式という儀式があります。

これはイエスキリストが、十字架刑にかけられる前日の夜、晩餐をひらいて、弟子たちに配ったパンとぶどう酒との時に語られ、これを続けるようにと言われたことを今でも続けているものです。最後の晩餐というと未信者でも知っているかもしれませんね。

 

マタイによる福音書26章26-28節

 26一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。 27また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。 28これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。

 

これはマタイによる福音書に書かれたイエス様の言葉です。

この時の弟子たちには、このことが何のことなのか、理解できていませんでした。なぜイエス様は、パンを割いて、ぶどう酒を契約の血だと言われたのか、解らなかったのです。

これが解るには、イエス様が十字架刑で死なれ、三日後に蘇ったあとのことでした。

 

弟子たちは生涯をかけて、イエス様に付き従うことを願って旅を共に過ごしていたのですから、まさか次の日にイエス様が捕まり、死んでしまうなどとは、思いもよらなかったのですね。

これを前の晩に、言われたことは、弟子たちにとってはすぐに起こった預言だったのです。

 

この時代、ローマ帝国にユダヤ人は支配されていました。ですが、旧約聖書に書かれたダビデのように力強い王が現れ、国々を支配するようになると解釈して、ユダヤ人だけの救世主伝説を信じて、ローマの支配を打ち破ってくれると望んでいたのです。弟子たちも、イエス様は、そのような人物かもしれないと思っていた人もいたことでしょう。裏切り者のユダもその思想にはまっていたと思われます。

裏切り者のユダは、なぜイエス様を裏切ったのか>>

 

ですから、イエス様が十字架刑で死ぬなどとは、露にも思っていなかったのです。イエス様が教えられたこの儀式は、のちに旧約聖書とともに解明され、その深い意味を弟子たちは知ることになります。

 

今回は、この短期間に及ぼされた、預言ともいえる聖餐式の意味と深みについて、みていきましょう。

1、罪との戦い

聖書を読むと解りますが、常に人は、罪との戦いに明け暮れ、騙し騙され、赦し、愛し、乱れていきました。それは現代でも変わりません。

このように世の中が複雑懐疑に、乱れている原因を聖書では、罪だと答えているのです。

 

この罪は、善悪を知るところからはじまっています。

聖書の人間であったアダムとそのアダムの骨から生まれたエバは、イエス様によって教育されました。エデンの時代の話です。

言葉もなく、イエス様から教えられた言葉から物事を考え、善しかない世界と善しかない情報によって、善しか考えつかないロボットのような存在が、アダムとエバだったのです。

 

ですが、イエス様は、人に動物の名前を発明するように教えたり、畑の作り方を教えたりすることで、人に新しくアイディアや発明、発見をさせることも教えられていました。いずれ、人間は、悪さえも発明していたかもしれません。自由意志を持てる能力は、すでに与えられていたからです。

 

そして、たった1つだけの戒めを人間に与えたのです。

それは、中央に生えていた善悪の知識の木から実を取って食べてはいけないという簡単なことでした。

 

人が自分自身で悪を発明し、善しかない世界に悪をはびこらせる前に、神様は、善悪の知識の木を用意され、蛇の存在を許可されました。

 

善悪を知ること自体は、罪ではありません。知ったあと悪を行うことが罪になるのです。

そして、人は、蛇の誘導に惑わされ、神様の戒めを破り、罪をおかして、実を食べてしまったのです。

 

人の脳の中、体の中、霊の中に、悪が入り込んだ瞬間でした。

一度、入り込んだ知識は、消すことはできません。自転車に一度乗れば、自転車に長く乗っていなくても、また簡単に乗れるように、悪というプログラミングがなかった時には、悪を考えることさえも、困難だったのに、悪のプログラミングを脳にいれた時から、人は目覚めたのです。

 

善と悪という両方を選ぶことができる存在へと、変わったのです。

 

ですが、悪を理解したことで、世界に悪が広がったのです。

 

神様は、人間に、まるで天国のような環境をお与えになっていました。現在のように、過酷な世界ではなく、巨大な世界と長寿の世界になるような環境を与えられていたので、悪を行っても、恵が人間を守っていたのです。

 

エデンはまさにその究極ともいえる環境だったのです。

 

そのまま、エデンに罪があるまま住まわせると、罪をおかしても、何の弊害もなければ、人は罪を平気で行ってしまうため、神様は、人間をエデンから追放し、罪による制約を与えたのです。

 

罪をすれば、自分たちにその罪が返ってくるように、人間を守られたのです。

 

ですが、それでも、現代よりも恵まれた環境にいた洪水前の人間は、恵まれすぎて、悪へと走っていきました。

 

人間は、圧倒的な善の法則に守られながらも、自分たちの意思で、世界を汚していったので、神様は洪水という水で洗い流し、人間に罪をすれば、滅ぼされることを植え付け、罪と戦うことを印象づけられたのです。

 

そして、唯一神様の教えどおり生きたノアの家族だけが生き残り、のちに新しい人間社会を善悪を知りながらも、善をする大切さと滅びの恐ろしさを伝えて、今は、滅びないように、人間は、善悪をバランスを取りながら生き続けられているのですね。

 

キリスト教を信じていなくても、この善悪との戦い、罪との戦いは、だれしも体験し、苦しみ、訓練されているのです。

聖書には、その理由は書かれていても、人間が作り出した他の宗教には、その答えはありません。

 

罪がどこからきて、そして、どうすれば救われるのかも、罪の発生すら伝えることができない宗教には、手出しができない問題なのです。

仏教では、分からないことは、考えてもしょうがないとして、学問的に諦める領域なのですね。

 

そして、アダムとエバが罪をおかしてから、神様は、変わりになる身代わりの方法を教えたのです。

2、世界中の宗教に共通する生贄

キリスト教以外の宗教を信じていたり、無神論、無宗教を心から信じているひとたちは、宗教は、みなバラバラな思想だと思い込まされていますが、実際は違います。バラバラなようにみえて、実はかなり共通点が多いのです。

 

それは海を越えた大陸であっても、共通点がある不思議も含めてです。

 

この現実に起こっている不思議を唯一説明しているのは、聖書だけです。

 

聖書は、1つの家族から、世界中の人間が増え広がったことを教えています。1度目は、アダムとエバ。2度目はノアの家族です。

 

わたしたちは、ノアの家族の子孫であることが、聖書には書かれているのです。

 

 

ですから、ノアという親が得ていた人生観や神概念は、もちろん子の脳にも入り込み、それが至って普通のことだと認識しながら、増え広がっていったのです。

 

 

そして、世界中の宗教の共通点の1つは「生贄」というものがあります。

 

ある宗教は、羊を生贄にしたり、ある宗教は、うさぎであったり、ヤギであったりします。ですが、動物だけではなく、人間を生贄にするものまでありながらも、神様には、なぜか生贄を捧げるという共通点が、世界中の宗教に共通しているのです。

 

神道も例外ではありません。

 

この共通点がある理由について、聖書はちゃんと書かれているのです。

 

アダムとエバが、罪によりエデンの園を追放された時、神様は、動物のいのちを取り、その動物の毛皮を人間の服として、つくり与えられたのです。

人は、悪を知る瞬間まで、裸であることに違和感を感じませんでしたが、悪を知った瞬間から、裸の体を隠すという行為をするようになりました。

 

すべての人は、服を着ていますが、それは自分の中に罪があり、他人にも罪があることを知り、自分と他人を隠すためのアイテムとして、利用し続けているのです。

 

神様は、罪によるむくいは、死だと言われました。

いのちとは、血です。

 

血が体全体に流れているからこそ、体中の細胞は、エネルギーを得て、生きていけますが、血液の流れがとどこおると、その箇所の細胞は死滅していきます。

ですから、いのちとは、血です。

 

ひとは、罪をすると死ななければいけなかったのですが、神様は、人間の代わりに、動物の血で贖うことを教えられたのです。

 

それから、ひとは、罪をおかすたびに、神様に自分たちの罪の身代わりとして、動物の血で贖い続けてきたのです。

 

 

アダムとエバの最初の子、カインとそして、弟アベルの話では、神様にささげる話が書かれています。

 

カインは、神様に食物を捧げました。弟アベルは、最良の子羊を自分の手で捧げました。

 

このように、人は、神様に自分の身代わりとして、捧げた契約を続けてきたのです。それが植物であろうと動物であろうと人間であろうと、世界中の宗教は、神様に対して、なにかを捧げ続けてきているのです。

 

これは、罪の戦いをみなが理解していた証拠でもあるのですね。

 

ですが、なぜ、動物の血が、人間の罪をゆるされるのか、人間は理解できていませんでした。

すでに、過去として、起こしてしまった罪が、動物の血によって、消されるという奇跡のような、儀式と理解は、理解できていなかったのです。

 

 

それが、まさに証明されたのは、イエスキリストだったのです。

3、イエスキリストによる罪の贖い

聖書だけではなく、世界中に救世主伝説は、広がっていました。処女から救世主が生まれるという預言は、エジプトでもギリシャ神話でも存在し、その他、多くの宗教にも増え広がっていた伝承だったからです。ノアの教えから救世主伝説は、世界中に広がっていたのです。

 

聖書には、アダムを誘ったエバにと、人間を誘惑した蛇について、神様は預言されていたのです。

 

創世記3章13-15節

 13そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。 14主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。 15わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

 

「すえ」とは「末」のことであり、子孫のことです。女から生まれる子孫から、悪魔の頭を打ち砕く救世主が生まれることが、神様によって預言されていたのです。

 

それ以来、アダムとエバは、自分たちの子が生まれる旅に、この子が、救世主なのか?と期待していたわけです。はじめは、はじめの子カインがその救世主であると思っていたことでしょう。ですから、カインはかなり優遇されて育ったために、悪が入り込みやすかった環境だったかもしれません。

ですが、フタを開けてみると、カインは人を殺し、さらなる罪を世界に残し、そして、弟アベルは死んでしまったのです。

 

ですから、アダムとエバは、自分たちの子だけではなく、その子の子、孫やそのあとの子孫から生まれる男の子の中に、エデンの園という天国に変えてしてくれる救世主を垣間見て、その伝承を伝え続けたことでしょう。

 

これが、ノアにも、もちろん伝わり、ノアから今の世界中の人々の共通点へと発展したと聖書には、書かれているのです。

 

現実の不思議は、聖書だけが説明できているのです。

 

ですが、なぜ動物の血の贖いが、自分たちの罪をも消し去るのかについては、伝承や教えから行って信じていただけだったのです。

 

それが、イエスキリストの死と復活、その救いによって、解明されたのです。

 

世界中が待ち望んだ救世主が、まさにイエスキリストであったことが、証明されたことによって、人は、罪という問題から解放される解決策を獲ることができただけではなく、今までの動物による血の贖いの奥義さえも理解できるようになったのです。

 

そのため、イエス様は、ご自分が死ぬ前に、弟子たちに、このパンは、わたしの肉、ぶどう酒がわたしの血であり、この血によって人間の罪が贖われるのだと、教えたのです。

 

弟子たちは、もちろん、この奥深い意味を理解できなかったのです。

 

アダムとエバが罪をおかしてから、何千年にも渡って、流されてきた血は、神様ご自身の血だったことを理解したのです。

 

わたしたち人間は、その動物が、神様であることを知らずに、何度も何度もナイフをつきつけ、罪を神様に押し付けていたのです。

 

そして、神様は、その預言とも思われる儀式を完成されるために、わざと十字架刑にかかり、その時代の人間だけではなく、永遠の救いのために、死なれたのです。

 

ダビデ王は、イスラエル人に王国を建てた偉大な王でしたが、それまでの存在でした。ですが、イエス様は、すべての人間と未来と過去のすべての人間を含めた、次元が違う大きさの救いを完成されたのです。

 

帝国などという小さなものの救いではなかったのです。

 

だれも、その意味に気づくことができず、悪魔でさえも、理解できずに、神様のご計画どおりに、イエスキリストを十字架刑にしてしまい、人間を悪魔から遠ざける決定的な王手をかけられたのです。

 

悪魔は、決定的な敗北を期したのです。

 

人間をいかに神様から離させるか、いかに罪をおかさせるのか、罪から解放させないように、いかに誘導するのかが悪魔の目的ですが、その目論見は、はずれたのですね。

 

イエスキリストによる決定的な罪からの解放と救いを受けることで、世界中に行われてきた動物の血による贖いは、する必要がなくなり、現在では、ほとんどの宗教でも生贄による儀式は、行われなくなったのです。

ユダヤ教でさえも、行ってはいません。

 

唯一の罪からの救いをもたらす、イエス様の血を人間が、伝え続けるために、儀式として、聖餐式が今でも行われ続けているのです。

そこには、動物の血は、もういらないのです。パンとぶどう酒によって儀式は進められ、疑似体験によって、神様に感謝を思い起こし、悔い改めるのです。

 

そして、その奥義である聖餐式をよこしまな心で受けることは、神様の血を汚す行為になるので、聖餐式の時には、心を改めて行うことが大切なのです。

 

第1コリント人への手紙11章23-32節

 23わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、 24感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。 25食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。 26だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。 27だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。 28だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。 29主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。 30あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。 31しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。 32しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。

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