思考の変化

人生には意味があるのか

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人生に意味があるのかを疑いたくなる時があります。

自分は大きなことをしていない。平凡な生活をしているだけだからという理由で、人生に意味はないと思いがちです。

 

また、何か1つの出来事に対して、いくつかの選択する道がありますが、その選択は、100人いれば、100通りの意味を持って選択しているのが人間です。

この人間を中心に考えると、それぞれがバラバラに行動し、人生を歩んでいるので、統一性がないように感じて、人生には意味がなく、偶然その行動をしているにすぎないなどと考えたりもします。

人生に意味を見出すのは、その人の行動次第、努力次第だと考える人もいます。

 

果たして、そうなのでしょうか。

1、努力の矛盾

現代人は、お金システムという人間社会の都合の中で生きています。

ですから、ひとりを雇うにしても、能力の高い人を求め、生産性が高い人を求めようとします。

求められていることを実感するために、地位や名誉を手に入れようとする人もいます。

 

ですが、これには矛盾があります。

人間に認められること、求められていることを望んでいるという矛盾です。

 

人間は完璧な人などひとりも存在しません。

不完全な者から認められたとして、あなたは本当に満足できるのでしょうか。

 

人には、必ず、善もあれば、悪もあるのです。わたしも例外ではありません。

その時の都合と感情や決断は、それぞれ違うので、認めてる時もあれば、認めない時もあるのです。

そのような人間に認められたからと言って、それが答えになるわけがありません。

 

その時は正しい選択をしたかのように思うかもしれませんが、未来では、その善行が悪になってしまう場合もあります。

なぜなら、人間は、悪も持っているからです。あなたが心から正しいことをしたとしても、他人の悪は、あなたの善行を悪だと認識している可能性があるのですね。

 

神様だからこそ、未来がみえる神様だからこそ、その選択に納得できるのです。

聖書を読むと、なぜ神様は、このような決断をされたのだろうか?と悩むような場面が、多々あります。

人間の目からすると、これは正しくないのではないのか?と見える場合があるのです。

 

ですが、実際の未来に生きている私たちから見て、フタを開けてみると、神様の決断は、正しかったことが解かるのです。

 

人間の考えることは、バラバラで、感じることもバラバラであっても、それでも共通点があります。

100人の日本人を集めても、考えることがバラバラでも、同じ日本語を使っているという共通点があるようなものです。

 

このように、神様は、未来をも含めた大きな枠では、人間に枠を設けてはいても、それぞれ人間に自由に選択できている権利も与えられているのです。

その人間の歴史ばかりをみている歴史家たちには、この大きな枠を見落とし、本当の神などいないと陥りやすいのですが、そうではありません。

人間がどう考え、肯定しようと、否定しようと、それでも地球がまわっているように、人間には手出しできないことも、安定して保たれている現実をみれば、神様がいないという錯覚は、大嘘なのです。

 

そして、現代人の多くは、神様を信じない、または、神様がいるのか、いないのか、分からないところの意識で生活しています。

ですから、目に見える知能を持った人間をみてしまいやすく、その人間から認められることを求めてしまい、騙されてしまうのです。

 

いかに人間から認められるのかを基準にして、生きなければいけないのであれば、その人は最後の最後まで、苦しんで生きることになります。

100通りの考え方を持った人間に答えを見出すことなど出来ないからです。

 

はじめから不可能なことを望んでも、それは無理なのです。

カトリックにしても、藤原家にしても、ロスチャイルドやロックフェラーにしても、権力をどれだけ独占し、力を誇示していても、人間を自分たちの枠の中に完璧にいれて、コントロールはできないのです。

 

それを無理やりコントロールしようとすればするほど、人は離れて行き、その帝国は崩壊するのです。

 

どれだけ地位や名誉を持っていても不可能なのが、人間に認められることだということです。

 

マラソン選手は、その距離をいかに早くゴールするのかを競いますが、果たしてそれが正しいのでしょうか。

マラソン選手は、短命です。

心臓が動く回数はある程度、決まっていると言われています。細胞にしても、無限に細胞は増殖しません。マラソンでいかに早くゴールしようとするのかを目指すことは、体を必要以上に酷使しているのです。

マラソンが好きで、それを目的にマラソンをしている人です。それを承知で選択しているので、わたしはそれでいいとは思いますが、すべての人が、同じレールを目指して、努力しているのは間違いだということです。

健康を目指すのなら、適度な運動をすることがベストです。努力しすぎることは、よくありません。

 

会社でも、極限まで、社員を働かせようとする社長などがいますが、わたしからすれば、頭がおかしいです。

人は、毎日極限まで走り続けられるわけがないからです。

 

スーパースターのように、努力して結果を出す社員がいたとして、次の日死んでしまえば、その穴を誰が埋めるというのでしょうか。

だったら、8分の力にして、少しでも永らえるようにしたほうが、会社のためになります。

 

視点を変えれば、マラソンは自殺しているようなものです。死を目指しているようなものなのですね。

多くのスポーツ選手は、似たようなものでしょう。

極限を目指して、普通の人には手に入らないものを手入れようと、努力を惜しみません。

自分の命さえもささげているわけです。

 

その視点に立って、歩んでいないわたしからすれば、そうではあっても、地位や名誉を求める人にとっては、それが正しいと考えているわけです。

連日、スポーツ選手の成績をテレビやニュースなどで報道していて、それがあたかも正しいかのように思わされていますが、それらの報道で、「自殺でもしようとしているのでしょうか。」と連日報道されていれば、彼らは批判の的になるのが当たり前のようにさえなるのです。

 

視点を変えればという例えを言っているだけで、スポーツ選手が悪いという話ではありません。彼らは、彼らの意思でそれを選択しているのであって、わたしたちとは違うということを言っているのです。

生まれた環境も違えば、体も違うからです。

世の中から認められやすいだけであって、平凡な生活をしているひとたちが、何もしていないかのように考えるのもおかしいということです。

 

スポーツ選手たちの多くは、努力家なので、自分に厳しく、他人に優しい人が多いように思えます。ですから、自分たちを支えてくれたひとたちに対して、感謝を口にします。支えてくれているひとたちは、彼らほど、努力しているわけではなくても、それに感謝しているわけです。

 

何かの成功は、ひとりのひとによってもたらされるわけではなく、多くの役割に支えられて、結果が出ていることを理解しているというわけですね。

 

すべての人が社長になっていたら、会社組織などまわらないのです。

 

みなさんが目にしている成功は、みなさんという歯車があってこそ、成立しているのであって、自分を卑下する必要もなければ、比べる必要もありません。ひとつでもその歯車があわなければ、その成功は手に入りません。その証拠に、どれだけの失敗や障害があることでしょうか。

 

多くの失敗や挫折や障害の中から成功が見いだせているのなら、それら失敗などは、むしろ成功だとさえいえるのです。それが失敗だったことが解かった成功だからです。みなさんも、みんさんにしかない人生の意味を失敗を繰り返しながら、見出せばいいのです。

 

2、聖書による人生の意味

聖書の教えは、無理のないものばかりです。むしろ、努力や行いは、罪をかきらかにするものだとさえ教えています。

何かを設置するということは、そのラインに達しなければ、人は失敗したと認識してしまうからです。

 

ですから、神様はモーセの時代まで、人間に聖書を与えませんでした。もし、人間が悪に染まる前から聖書によって律法などの基準、ルールを与えていれば、そのルール自体が、罪を誘発してしまうからです。

 

人を殺すという認識がない人に、「人を殺してはならない。」と教えたら、わたしは人を殺すことができるのだと理解してしまう人が出てくるのです。

 

律法とは、罪を誘発する諸刃の剣でもあるのです。

 

神様が人間に臨まれていることは、努力しなさいということではありません。悪から離れ、幸せに生きなさいということです。

たったそれだけの話であるのに、人間には悪があるので、さまざまな誘惑や他人の目線を気にして、努力しているかのように振る舞ったりしてしまうのです。

 

ひとりのひとの100%よりも、100人のひとたちの1%を集めた100%のほうが強いのです。

1%しか力を出していないので、毎日続けられます。毎日、永続的にはいる結果は、固定利益だと認識してもいいほどです。

1%の人が何かの不慮で、いなくなったとしても、新たに1%を補充すれば、組織はまわります。

 

ですが、100%をしてしまっている人がもしいたとしたら、それは組織にとっても被害が大きくなります。彼らに比重を持っていかれているということは、彼らがいなくなれば、組織がまわらなくなるからです。

 

マクドナルドが成功したのは、フランチャイズによってだと言われています。誰でもマニュアルを読めば、そのお店をまわせるというシステムを開発したことで、利益を獲ていったのです。

 

戦争でも、ひとりのひとの武は、関係ありません。アニメや漫画などでは、ひとりの武将などが信じられないほどの武力をみせつけて目立って描かれていますが、実際の戦争はそのようなものではありませんでした。

むしろ、人は、組織の1部として、ロボットのようにゆっくりを動くことを義務づけられていたほどです。

 

輪を乱すと大きな損害になるので、ダンサーやオーケストラのように、決まったことをゆっくりと乱さず、行動するのです。

そうすると、その組織は、ジワジワと威力を発揮して、一糸乱れぬ組織が勝利するのです。

 

なぜ、行進などをするのだろう?と思ったことがないでしょうか。あの乱れない動きにこそ、その意味があるのです。

ひとりのひとの100%よりも、100人による1%のほうが、戦争においても、効果的だったというわけです。

 

みなさんは、自分の生活を何でもないものだと思っている人もいるかもしれませんが、みなさんが行った1%の努力は、実はすごいことなのです。

日々の何でもない積み重ねが、積もり積もって山となっていくのです。

 

解りやすい成功の多くは、その一瞬で終わります。大きなチャンスを得た成功です。ですが、小さなチャンスを積み重ねることは、組織によって大きな財産になるのです。

 

そして、99%のゆとりがあるのなら、いつか自分にとって50%努力をしても楽しめるものさえも、見つけ出すこともできるのです。

 

人間の体のつくりは、よくこの世界に例えられます。

心臓と胃は、違うものですが、それぞれ生きていくのに、必要なものです。心臓は心臓の機能でしか動くことはできないのにも関わらず、重要なのです。

右手は右手、左手は左手で、それぞれなくてはならないものなのです。

ひとつひとつの器官は、とるに足らない役割をしているかのように思えても、実は重要なことをしているのです。

 

 

無理をして努力をしているということは、むしろ、矛盾だらけなのです。みなさんが、楽しいとか、ほしいと思ったことに対して、行動していることが、他人からみたら努力家だと思わせていたというものは、矛盾は少ないのですね。

他人からみたら努力のようにみえても、自分からすれば、やりたいからやっていることだからです。

 

みな、同じことをする必要はありません。もともと、同じではないからです。耳は耳。目は目として、その役割をこなしていくことこそ、組織によって有益になるからですね。目なのに、右手のふりをして努力し続けることは、負担になり、苦しみになるのです。

 

善も悪もある人間社会に生きている現代組織が、すべてのひとが、前向きな思考だけで運営したいたら、ゾっとします。悪に対して敏感で、違和感を感じてくれる人が組織の中にいなければ、いつまでもアクセルを踏み続けて、事故を起こしてしまうからです。アクセルとブレーキは、両方存在しなければ、組織は上手く運営できないのです。

 

幼稚園の実習などにいくと、あったばかりなのに、すぐに近寄ってきて、抱き着いてくるひとなつっこい子がいます。その反面、あったばかりの人を怖がって、隅っこで、距離を置く子もいます。一見、ひとなつっこい子のほうがいいように思えるかもしれませんが、そうではありません。ひとなつっこい子は、普段からその傾向があり、本当の犯罪者にもそう振る舞ってしまうからです。人を疑る才能のある子がいることで、みなを守っているわけです。

 

親は子に、あーでもないこーでもないと注意をします。これを子は、嫌がったりしますが、親からすれば、子が心配だからこそ、その愛情のために、注意を促しているわけです。自分が嫌われたとしても、子の安全を願うわけです。

上手な親は、バランス良く、注意と自由を与えますが、人によって才能が違うので、子を育てるには、まわりのひとたちの色々な才能に助けられることが、一番よいことだとわたしは思います。

余談になるかもしれませんが、子を育てるのなら、教会にいくことは、とてもいいことだと思うのです。

 

昔の日本は、近所の大人たちが、こどもたちを育ててくれていたのですが、その関係は、現代ではほとんどないからです。教会は、ひとつの家族として、みなが、注意してもくれますし、愛を与えてくれもするからです。

 

聖書は、できないことを教えるものはありません。自然体で生きることを薦めています。

ただ、悪や罪をしないように教えているだけで、人間に対して、それ以上の努力をすることは、臨まれていません。

 

モーセという預言者は、聖書の中でも偉大な人物のように思われますが、彼は口ベタな男性でした。うまく話すことができないので、兄であったアーロンに代弁してもらっていたのです。

その他にも、人間の能力や努力ではなく、むしろ、神様にゆだねることを教える場面もあります。

少人数の兵隊を用意して、人間の力でカナン人に勝ったのではないことを教えられるのです。

 

人間社会は、善悪、両方存在し、その両方を兼ね備えた帝国や国などが栄えてきました。目に見える富は、善悪を兼ね備えたものでした。ですが、聖書は、悪から離れて、善行することを教えました。善悪を兼ね備えたものには、悪さえも利用して、利益を望む方法があるだけ、結果が出やすいです。

ですが、それは実は崩壊にもつながるのです。基礎のない家を早く建てて、結果を出すのですが、嵐がきたら倒壊するようなものです。

 

善だけのものは、すぐに結果はでませんが、無理をしていないだけにジワジワとその効果を表します。基礎がしっかりしているだけに嵐にも強く、善意によって組織が倒壊することを阻止することができます。

 

悪意を容認している組織は、その悪意のために、組織に調和はありませんが、善意には、心の中に大義名分を自分から作り出す効果があり、組織を守ることにつながるのです。

 

フランス革命でも、そうでしたが、自分たちの権利のため、はじめて国という意識が芽生えたことで、組織が強くなり、次々と他国を倒していきました。

それまでは、領主や王族貴族の所有物であった民たちだったので、戦争をしても、すぐに逃げ出していました。死んでまで戦争をする必要はなく、大義名分がなかったからです。

ですが、土地の領主ではなく、民主主義によって自分たちの国を持つようになってから、自分たちのための戦争という大義名分ができたことで、連戦連勝していったのです。

 

織田信長もその時代では、行われていなかった徴兵制度を利用していました。それまで、農民を兵として使っていた太守たちでしたが、その報酬は、強奪と強姦でした。武田信玄などは、民に強奪を許可していたように、戦国時代ではそれが当たり前だったのです。

信長は、そのような蛮行をゆるさず、お金を払い雇うことで、民ではなく、兵という職業を与えて、立ち上がりました。彼の優しい思想が、武将たちに強い信頼感を得て、信長は強い組織を手に入れて、天下を取るほどまで成長していったのです。

 

人に平和を与えるということは、強さなのです。

その平和を無くすことは、恐怖になり、その平和を保つ組織をいのちにかえても、守ろうとするようになるからです。

 

神様は、天国の世界であったエデンの園をアダムとエバに与えました。

ですが、彼らはしてはいけないことをしてしまい、追放されたのです。

 

彼らのその絶望感は、計り知れなかったでしょう。

エデンが素晴らしかっただけに、それ以外の組織は、受け入れることは難しくなるのです。

 

恐怖政治をはじめると、国でも帝国でも滅ぶ寸前なのが、歴史ではみえます。恐怖政治は、確かにその恐怖心から効果はありますが、愚策だということです。

悪人にとっては良いことでも、悪をしていない人にも恐怖を与えるのは、愚策です。

 

そのストレスから見えないところで、反動がでるからです。また、新しい自由な組織を連想させてしまうわけです。

 

ですから、いかに神様が造られたこの世界に見習い、自然体で生きていくのか、それが大切だということです。

それを忘れて、行き過ぎるとシワ寄せがどこかに出てしまうのです。

自然体をベースにして、特定の意思を持ったひとをも受け入れ、発展に取り入れるようにしていけばいいわけです。

 

神様は、発明や発見を悪いものだとはしていません。神様はアダムに動物の名前を発明するように伝えました。また、罪をおかす前から、畑しごとを教えました。無理なく、何かを生み出し、発展していくことは、決して悪いことではないのです。

背中に羽が生えていないのに、空を飛べなどとは、神様はむちゃなことを人間にするようには言われないのです。

基礎は、みなさんが出来ることをして、悪から離れ、善行で生きていくことです。そこに、神様から与えられた才能を見出せるのなら、楽しみながら、それを伸ばしていけばいいわけです。

 

才能は、頭の中の常識という枠が、よく邪魔をしてしまいます。天動説が常識の科学としてまかり通っていた時代では、地動説は、理解されませんでした。ですが、地動説が、現実なのです。

その時の常識、人間社会の常識を激しく頭の中に汚染されていると、それからそれることが出来ず、事実をみる能力が欠如してしまうからです。

 

発明はいつも、今の常識から逸脱しているからこそ、発明になりえます。飛行機は現代人では常識でも、過去ではまるで魔法のようなものです。空を飛ぶことができるのは、常識外だったのです。

 

ですから、他人と見比べる必要はありませんし、常識に捕らわれすぎる必要もありません。常識も理解しなければ、本当の常識も理解できないので、大切なのですが、捕らわれすぎてはいけません。

 

1つの出来事に対して、1つだけの考えに固定するのではなく、10個にも20個にも考え方を見つけ出す必要があります。

そうしなければ、1つの悲劇は、悲劇だけにとどまり、うつ病のようになってしまうからです。

それは、不自然な生き方です。

 

すべての出来後は、神様の許可の基で起こっています。未来で悲劇的な結果を生み出すことであれば、善であろうと悪であろうとそれはゆるされません。

 

裏切り者のユダは、イエス様から生まれてこないほうがよかったとまで言われましたが、それは、ユダにとっては、生まれてこないほうがよかったという意味でした。

世界全体からすれば、ユダの悪の存在は、預言通り成就されるべき出来事で、生まれてくる意味があったのです。

 

であるのなら、みなさんにも、必ず意味があります。世界全体からすれば、小さくて見えないようであっても、その積み重ねは、必ず意味があります。

現代の日本人が使っている日本語も、積み重ねによって伝えられているのであって、何でもないかのようにみえることにも、意味があるのです。

人間を中心にする思想のひとたちの言葉を聞くと、惑わされやすくなりますが、事実をみていきましょう。

そうすれば、惑わされることはないのです。

 

全知全能の神が確実にいる証拠>>

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