思考の変化

クリスチャンになるにはどうすればいいのか

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日本人でも、キリスト教に興味を持ってくださる方がいます。

 

そのイメージは、もしかするとカトリックであったり、映画で流れる教会になり華々しいのかもしれません。

日本では、少ないですが、海外では教会はとても大きくて綺麗です。

 

その教会によって違うのですが、音楽は、パイプオルガンであったり、ギターやベース、ドラムやピアノなどのバンド編成の教会もあります。

アメリカやカナダなど、海外ではクリスチャン音楽が盛んで、音楽コーナーの中に、クリスチャンソングの棚があるほどです。

 

わたしが好きなのはnikki-leontiで、参考までに載せておきます。

曲を流しながら、記事を読んでもらえると幸いです。

 

プロテスタント系の教会では、このようにポップであったり、ロックで賛美をしている教会もあります。

面白いのは、インディアンの町では、インディアン系の音楽を奏でて、賛美をしていたりもして、かなり自由度が高いです。

 

6オクターブもの音域をもったソンガーなどもいたりと、やはりアメリカ、カナダは音楽に力をいれているだけに才能が多々あると思わされたりもしました。

わたしは、ジャズが好きなのですが、わたしのジャズギターに合わせて、突然メロディーラインを歌いはじめ、ミニセッションをしたこともありました。

 

中学から教会の影響でギターを始めて、高校の頃は、ノンクリスチャンの普通の友達と教会にいっては、バンド練習などもしていました。バンド練習が、ドラムをあわせて使えることができたことは、ありがたいことでした。

 

海外に行った時にも、音楽は変わらず、友達などと演奏できたことは役立ちました。

 

みなさんは、キリスト教に対してどのようなイメージを持たれているのでしょうか。

何はともあれ、キリスト教に興味があるけれど、どうすればいいのか、解からないという方に今回は、的をしぼって紹介していこうと思います。

1、簡単なところからはじめましょう。

今はブロードバンドによって映像なども配信されていますから、日本の教会の様子などもみることができます。

まったく聖書の内容を知らないと教会に行きづらいと思うかもしれませんが、関係ありません。教会に興味を持てば、楽な気持ちでいってくださればいいと思います。

それでも少しは、聖書の内容を知りたいというのなら、ネットには、紙芝居などもあるので、聖書物語を楽しむのも1つの方法かもしれません。

 

いきなり難しく考えるのではなく、自然体で、親しめるように、理解していくことをわたしはお勧めします。

2、神の子孫になる

クリスチャンになるということは、神の子孫になることです。

子孫というと血統のようなイメージを持たれるかもしれませんが、聖書が教える子孫は、血だけのことではありません。

仕事や学びによって血のつながらない師匠から色々なことを教わると、その情報が脳の中に入り込みます。

まさに、学校教育がそれですね。

 

良くも悪くも、情報がわたしたちの脳に入ることで、その情報は切り離すことのできない、その人の一部になります。

その脳へのプログラミングのことを聖書では、子孫と表したりするのです。

 

聖書には、大きくわけて2つのプログラミングがあることが書かれています。

それは、①神の子孫と②悪魔の子孫 です。

 

創世記3章15節

 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

 

末とは、子孫のことです。

アダムとエバが善悪の木の実を食べてしまった後に、神様が誘惑をした蛇との関係について、預言された箇所です。

女の子孫 と おまえ(蛇・悪魔)の子孫と表されています。

 

悪魔は、霊的な存在なので、子孫は残せないのですが、悪魔からの情報によって霊や精神が汚染されていく人間も生まれてしまうというわけです。

また、逆に神の子孫に近づく人もいるわけですね。

 

3、教会に行きましょう。

神の子孫に近づく方法として、早いのは、その環境で生活することです。

ですから、「一見は百閒にしかず」という言葉のように、紙芝居や映像だけではなく、教会にいって観てみることは、大きなことです。

 

はじめて教会にいくと、紙に名前や住所などを書いてもらい、それを基に、礼拝の時に、すこしはじめての方が来てくださったことを紹介してくれる教会もあることでしょう。

 

はじめから、新しい環境に慣れるひとは少ないと思います。ですから、最初は、礼拝が終わったらすぐに帰ることもいいとも思います。ですが、1つの教会に、何度も通うことをお勧めします。

 

人は、慣れだからです。

 

現代人は、国から進められて、学校宗教団体に通いますが、はじめは1年生で、緊張して学校に行ったことでしょう。

ですが、通うことを何度もしていると、どんどん慣れていきます。

友達などもできて、こういう人がいるんだと、顔なじみになればなるほど、自然にキリスト教を理解していけるようになるでしょう。

 

難しいことよりも、まずは慣れることをお勧めします。

 

献金は、信仰心ができた時に、はじめればいいです。それまでは、お金は一切出す必要はありません。自分の中で、同じ神の子孫を支える用意ができ、神様に対して感謝したい気持ちが育ってから、心から献金をするようにしましょう。まわりの目を気にして、献金をすることは、神様にとっては、悲しいことだからです。神様はお金などほしくありません。神様からすれば、お金はただの鉱物であり、紙切れです。何の役にも立たないものだからです。

ですが、人間社会で利用され、生活するためにツールとして利用しているだけに、神の子孫を支えるものとして、献金を募っているだけなのです。

 

生命保険などは、このような支えあう教会システムから考え出されたと言われています。

 

支えあう気持ちもないのに、お金を出す必要はないということですね。

 

献金するのを試したいという理由もあるかもしれませんが、次から献金しないことへの罪悪感などに襲われても困りますから、やはり献金は、神への信仰が育ち、神の子孫を支える気持ちになった時からはじめることをお勧めします。

 

はじめて教会に行くと、ひとりで勇気がいるように思えるかもしれませんが、教会のみなさんは、はじめて来てくださった人の友達になろうと考えるのが普通です。学校とは違い、教会に通うひとたちは、正義感によって集まっているからです。強制で教会に通う人は、ほとんどいません。

例外は、牧師の息子や娘ぐらいかもしれません。

 

また、教会に来てほしいと願うひとたちばかりなのは、当然なので、敵対する人などいません。

ですから、新しく入社したり、学校に通いはじめたり、塾に通いはじめるよりも、楽だということです。会社や学校では正義感などは関係ない人たちも通う場所だからです。

慣れることに専念して、5回は、同じ教会に通うようにするとクリスチャンになる土台は育つとわたしは思います。

 

もちろん、その通う回数が多ければ多いほど、神の子孫に近づいていきます。聖書の内容も自然に増えていきますし、神の子孫たちがまわりにいるので、その影響は、当然あるからです。

環境に影響されるのは、人間では当たり前の反応だからです。

 

4、知識が少なくてもクリスチャンになれる

知識がないとクリスチャンになれないと思いがちかもしれませんが、そうではありません。

神様に対する信仰心があれば、その時点で、あなたは神の子孫です。

全知全能の神が確実にいるという証拠>>

 

信仰の父といわれるアブラハムという人物がいます。

このアブラハムの時代は、まだ聖書すら存在していませんでした。ですから、もしかすると、みなさんよりも聖書の神様に対する知識がなかった可能性もあります。聖書がなかったからです。

アブラハムの父テラは、多神教の神官でした。メソポタミヤで多くの情報を持っていた父であったと思いますが、その中でも、アブラハムが信仰を持っていたのは、唯一の神様でした。ノアからの伝承を信じて、多神教ではなく、一神教の神様の存在に注目したのです。

 

日本人であるみなさんは、このアブラハムと似たような存在かもしれません。日本は多神教というイメージが強いのですが、一部キリスト教などの情報があり、その一神教のキリスト教に興味を持ち、信仰を強めていくからです。

 

多神教と一神教はどちらが正しいのか>>

 

このアブラハムから400年後に、有名なモーセがアブラハムの子孫として、生まれるのです。

そして、そのモーセによって聖書の言葉が神様から下り、聖書が形成されていくのですね。

 

ですが、聖書には、聖書の無かったアブラハムこそ、信仰者だと書かれています。

アブラハムの行いでもなく、アブラハムの知識でもなく、神様に対する信仰心によって、彼は義とされたことが神様に認められているからです。

 

彼は、100歳になった時に、はじめて愛するサラとの間に息子が生まれるのですが、その息子イサクを神様に捧げなければいけない試練にあうのです。

アブラハムは、迷うことなく、それを実行しようとしたのです。目にいれても痛くないほど愛する息子を捧げるという信仰を神様に表したのです。

神様は、ギリギリのところで、その儀式を止め、かわりの動物を用意されました。

 

知識がないからという理由で、クリスチャンではないとは言えないのです。

神様に対する信仰心があれば、神の子孫であり、クリスチャンなのですね。

5、イエスキリストによる罪からの救い

キリスト教だけではなく、多くの宗教は、罪や悪に対するものとの心の戦い、葛藤を追求してきました。

純粋な人ほど、自分の罪に対して敏感です。悪をしてしまうことに、心を痛めるのです。

 

その悪の積み重ねが、悲劇や悲しみを生んでいることを知っているからです。

 

この悪や罪に対する救いは、世界中の宗教が挑んできたテーマなのです。

 

完璧な人間はひとりもいません。わたしも含めて、不完全なのが、人間です。必ず、悪のプログラミングが脳に入り込んでいますし、親から受け継いだ罪の遺伝子は、この身に入り込んでいるのです。

日本人同士のこどもは、黒目に黒髪であるように、アダムの子孫であるわたしたちは、罪をも受け継いでいるのですね。

 

その永遠ともいえる罪との戦いに、答えを出されたのが、イエスキリストでした。

 

イエスキリストは、十字架刑によって処刑され、わたしたの代わりに血を流してくださったことで、わたしたちの罪はゆるされたのです。

この世界すべてを作られた神様ご本人の血によって、人間の罪は、ゆるされたのです。

 

わたしたちの人生で苦しんできたことのすべてを背負い、人間が考え出した一番残酷な処刑法であった十字架刑にかかって死なれたのです。

イエスキリストは、弟子たちからも見放されました。多くの人々にけなされ、バカにされ、つばをはかれ、殴られながら、罪人といわれ、処刑されたのです。

 

ですが、驚くべきことに、そのすべての出来事は、イエスキリストが生まれる前から存在していた旧約聖書に、すでに300にも及んで、預言されていたのです。

 

このことから、人間には、できないことをイエスキリストは、その人生を行われたのです。

 

イエスキリストの預言>>

 

そして、わたしたちは、そのイエスキリストが神であったことを認めた時、クリスチャンになり、罪から解放されるのです。

イエスキリストが実在したことは、誰にも否定できない事実です。

 

イエスキリストは実在したのか>>

 

そして、十字架刑にかけれたことも事実です。

あとは、わたしたちが、それを認め、その出来事によって、自分たちの罪をもゆるされたことに感謝でるかどうかなのです。

 

自分がゆるされた経験をすると、他人をゆるすことも自然に学ぶことができるようになります。能力があり、優れている人ほど、自分が正しいと考えてしまいますが、自分たちが罪人であることに気づけるのかは、重要なことでしょう。

 

悲しみを知って、喜びを実践していく、それがクリスチャンの生き方です。

私利私欲、地位や名誉を基準に生きている人間社会の人々とは、違い自分を犠牲にしてでも、世の中に善を行おうとする強い意志がある者はクリスチャンです。

 

これは歴史でも証明されていることです。

 

クリスチャンはその命をかけて、いつの時代も、悪に対して善を行ってきたのです。

それは現代でも変わりません。警察組織でも、クリスチャンの警察官たちによってその組織の悪が表に出てきていたり、多くの世の中の悪を暴き続けているのは、いつの時代もクリスチャンでした。

 

なぜ、そのような善を行う意思があるのでしょうか。

 

それは、神様の存在を否定することなど、現実をみれば、できないからです。

この世界は、あまりにも美しすぎ、あまりにも天国すぎるからです。

 

これを偶然だと考えられるほど、非論理的ではないのです。

神様の存在が否定できないのであれば、天国もまた信じられることです。

 

天国とはどのようなところなのか>>

 

クリスチャンの自分を犠牲にしているかのような生き方をすごいと言う方がいますが、実は、誰よりも現実主義だからともいえるのです。

自分のために、善をしているだけにすぎないのです。

善をすることが、事実だから、善をしているだけなのです。

 

悪をしていることが非現実的だから、それをしないだけなのです。

それを知らないノンクリスチャンには、なかなか脳に入り込むことができなく、いわゆる脳の中の「バカの壁」によって、神の子孫になることを拒否してしまっているのですね。

 

 

沖縄は、そのバカの壁のために、悲劇が起こったところでした。当時の日本の情報では、アメリカ人は「鬼畜米」という情報だけが流れて、生きて捕まると、死ぬよりもひどいことをされると言われ、次々と自殺をはかっていったのです。

ですが、フタを開けてみると、アメリカ人は、一般人には手を出しませんでした。彼らは聖書の基準を持ち、人権を理解していたからです。

アメリカの一部の権力者は悪魔的ですが、多くの奴隷国民であったアメリカ人たちは、日本人同様優しい思想を持ち合わせていたのです。

 

沖縄では、実はアメリカ兵よりも日本兵のほうが日本人を殺したことになるのですね。

 

このように、情報を規制され、本当ではない情報によって、脳が汚染されて、間違った行動を取ってしまうのも、人間なのです。

ですから、いかに多種多様な多角的な情報を脳にいれて、その中から正しい選択をできるのか、それが大切だということです。

 

そして、12弟子たちも、イエス様が十字架刑に架けられた時、イエス様を見せてて逃げてしまったのです。ですが、それが預言通りであったことを理解した時、彼らは変わったのです。

その命をかけて、原始キリスト教を広げ始めたのです。ユダヤ教だけではなく、ローマ帝国さえも原始キリスト教を迫害し、いのちを狙い続けましたが、迫害されればされるほど、多くの人々がクリスチャンになっていったのです。

 

多神教の文化であったローマ市民たちであっても、一神教のキリスト教は認められ、信仰を深めていったのです。

 

もし、日本人が柔軟な思考を持っているのなら、日本人にも理解できるということが歴史でも証明されているということですね。

そして、イエス様によって、旧約聖書の伝えたい本質が、何なのかが解明されたのです。

 

それは、「イエスキリスト」だったのです。

 

この世界のはじまりから、終わりまでが書かれた聖書の本質とは、イエスキリストであり、そのイエス様の姿に似せて造られたのが、アダムであり、その子孫がわたしたちなのです。

人間が世界を支配していることを否定する人は少ないでしょう。聖書が書かれたように、神様の姿に似せて造られた人間に、世界を支配する権利があり、人間のために、世界を創られ、その人間を悪や罪から解放するために、すべては造られたのです。

 

天使でさえもその例外ではなかったのです。

 

新約聖書が書かれるまで、その奥義に気づくことができなかったのですが、新旧あわせて聖書を読むことで、1つであることに驚くことでしょう。

 

 

 

6、聖書を読もう

多くのメッセージを聞いたり、紙芝居をみたりすることもはじめはいいですが、いつかは、聖書を読むようにしましょう。

このサイトの情報や牧師などの話にしても、それは聖書から中継して、1つ人間の思考が入り込んでいるので、確実に精巧であるとは言えないからです。

 

何が正しく、何が正しくないのかを本当に理解したいのなら、自分の目で、聖書を読むことです。

 

読み方としては、聖書一冊として、考えると、難しくなります。聖書は、新旧あわせると太い本になりますし、言葉も理解できない場合があるからです。

 

ですが、聖書は実は、短編小説を66個あわせたものなのです。

 

その1つ1つの量は、決して多くありません。

 

例えば、創世記は、50ページほどしかないのです。

 

たった50ページの短編を読むのは、簡単ではないでしょうか。

 

この世の謎、この世界の奥義を知ろうと聖書をむさぼるように読むようになると、創世記は、どうして、こんなに短いんだ・・・と思えてくることさえあります。もっと、最初の出来事や創世記時代のことが書かれていたらと人間的な意味で思うこともあるのです。

 

それほど、面白いものが聖書です。

 

日本人だから関係ないと思うかもしれませんが、日本人だからこそ、面白いと言わざるおえません。それはなぜかというと、聖書の民だといわれるイスラエル人とは、実は、日本人だからです。

日本人の祖先こそ、イスラエル人であり、日本人が行ってきた文化は、まさに聖書そのものなのです。

 

本当のユダヤ人とは、日本人>>

 

聖書を証明しているものが、日本中に存在し、それが目に見えて確認できるだけに、これほど面白い書物は日本人にはないのではないでしょうか。

日本人の秘密が聖書にこそ書かれているのです。

 

神様は存在しています。その神様が唯一人間に、言葉を残したもの、それが「聖書」です。

聖書の預言は成就されつづけ、人間には憲法を手に入れ、人権があることも保障された時代さえ発展できたのです。

聖書がなければ、いつまでもわたしたち奴隷国民は、人権がなく、奴隷として人生を終えていたことでしょう。

 

多くの科学や学問の発展は、神を信じる有神論者たちによってもたらされてきました。偉大な発見の8割の学者は、神を信じたひとたちだったのです。

2流、3流の学者ほど、神を信じません。世界をみる能力が欠如しているからです。

これほど美しすぎる世界をみても、まだ偶然だと信じ込めるほど、非論理的だからです。

 

神様は法則によって世界を形成され、人間を造られています。まさに全知全能の力を持った存在です。その神様に目を向け、目先の利益ではなく、無限ともいえるほどの本当の利益に目を向けましょう。

 

みなさんは、悪に染まったままの90年の人生を選ぶのか、それとも神の国で蘇り、何百年も愛するひとたちと暮らすことを選ぶのか、どちらでしょうか。

神様の存在が否定できない以上、わたしは、後者を選びます。自分のためでもありますし、それが事実だからしょうがないのです。

 

人間がどれだけ嫌がっても、それでも地球は、まわっているのですね。

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