思考の変化

神様は、なぜ「ねたむ」と言われたのか

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出エジプト20章にはこのように書かれています。

 

 5それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、 6わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。 

 

聖書の神は、妬む神なのでしょうか。

なぜ、神様は、このようなことを言われたのでしょうか。

これは、モーセに神様が10戒を与えた時に、言われた言葉です。

今回は、この意味について考えていきます。

1、神様は妬むことが出来るのか

全知全能の神様のことを理解している人は、この世界そのものが神様であることを知っています。

神様はこの世界すべてであるわけです。

 

すべてを持っている神様が、どうやって妬むことができるのでしょうか。

 

ある青年が、「ぼくは自立したい。どうすれば自立できるのですか?」という質問をしていたことがありました。

わたしは、「そう思っているうちは、自立はできないよ。」と答えました。

 

なぜなら、自立している人は、「自立したい。」とは考えないからです。自立している人は、自立しているのですから、自立したいなどとどうして、考えるでしょうか。

 

何かをほしいと思っているということは、持っていないということです。持っているものをほしいと考える人はいないからです。

 

では、なぜ神様は、妬むなどと言われたのでしょうか。人間の妬みとは違い、そこには、深い意味が隠されていると考えるのですね。

2、神様は、人間に自由意志を与えられた

神様は、人間の自由意志をとても尊重される方です。

ですから、人間社会には、悪が大量に存在しているのです。

 

神様は、人間を妬むことは、できない存在であったのに、それを放棄してでも、人間に自由な意思を与えたのです。

 

その為、人間は、非現実的な、”聖書の神を選ばない”という選択もできるようになったのです。

 

妬みは、罪の1つです。

ダビデ王は、他人の妻を愛し、妬んだ末に、その夫をわざと死ぬようなところに配属させて、夫を殺したことが、罪として聖書に書かれています。

他人のものを妬んで、それを手に入れようとする思いは、罪なのです。

 

ですが、その夫からすれば、妬みは罪にはなりません。妻は夫のものであり、契約をかわした仲であるのに、それをダビデ王のように壊そうとするものに対して、違和感を感じることは、悪いことではありません。調和を守ることは、罪ではないのです。

 

神様は、まさにこれです。

神様は、この世界そのものであり、人間は、その世界なしには、生きていけません。人間は、聖書の神様と1つであることだけが、唯一の平安を得る方法なのであり、それが自然です。

 

にも拘わらず、その神様から離そうとするもの、悪が、その調和を壊そうとしているのです。

 

 5それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、 6わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。 

 

と、書かれていますが、きちんと全文を読むと解ります。

1神はこのすべての言葉を語って言われた。 2「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。 3あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。 4あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。 5それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、 6わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

 

このように、他の偽物の神を自由意志によって選ぶこと、本当の神様から離れることに対して、妬むと言われたのです。

神様は、1つであり、妬む必要もなかった状況であったのに、人間のために、自由意志を与え、自分という存在を持てるようにしてくださいました。自分の意思で、本当の神様を選ぶのか、それとも、非現実的な嘘の思想を信じて、偽物を掴むかは、その人の選択にまかされたのです。

 

3、なぜ妬むという強い言葉を使われたのか

神様のおっしゃっている妬みは、正当です。

とは言え、なぜ神様は、このように強い意志を感じる言葉「妬む」を使われたのでしょう。

 

それは、神様のためだけの話ではなかったからです。

 

神様は、善をすることしかできません。この世界そのものが神様であるのです。自分と同じ全知全能の存在は、1つも存在しません。その神様にとって、悪をすることなど、する理由もなければ、無意味だからです。

「事実そのもの」が神様ということです。

 

地球には、空気がある。ということも神様の1部であり、宇宙空間には空気がないということも、神様の1部分のことであり、事実なのです。

 

これを悪は、地球には空気がないと歪曲させたり、宇宙空間にも空気があると嘘をついては、人を騙したりするのです。

事実を歪曲させて、非現実的なことを教える思想こそが、悪なのです。

 

神様の善悪とは、人間の善悪のことではないのです。

 

宇宙空間には、空気がないのに、空気があると教えられて、裸で宇宙空間に飛び出したら、その人は死んでしまいます。

滅びるのですね。

 

ですから、聖書の神様は、偶像思想を強く否定されているのです。

 

偶像は、虚像、虚空、嘘などのことです。

 

人間の手で石や木で作られた像は、明らかに神ではありませんね。ですが、人間は、これを神だと信じ込めるのです。悪であり、嘘や詐欺思想であって、間違っていても、信じ込めるのです。

 

もし、人間のほとんどが、このような嘘を信じてしまったらどうなるでしょうか。

 

原爆のスイッチを押しても、安全だという嘘を信じていれば、どれだけ恐ろしいことでしょうか。

 

小さな悪であるように思えますが、それらが積もり山となれば、それほど恐ろしいものはないのです。

現に、大洪水前の世界は、滅びました。恐竜も滅んだのです。

 

そのまま人間が生き残っていたら、いつまでも悪をして、事実を無視しつづけ、それこそすべてを「無」にしていたことでしょう。

 

神様が、なぜ「妬む」と言う言葉を使われたのか。

 

それは、それほどまでに、してはいけない、悪であり、人間が滅んでしまわないように教えていることなのですね。

 

人間は、聖書の神様から嫌でも離れることは、できません。

 

なのに、その事実を無視して、離れようとしては、悪をして、世界を滅ぼしていくことに対して、強い注意をうながしているのです。

 

1つであった家族を守ること、それを普通の親はします。

親は、子が結婚する時、「本当に大丈夫なのか?」と考えます。

子からすれば、余計なお世話のように感じるかもしれませんが、人生を長く体験してきた親からすれば、当然の思考です。

子を愛するからこそ、注意をうながし、大切に思うのは、当然なのです。

 

だからといって、聖書の神様は、無理やり正しいことを実行はされません。極限まで、人間の自由意志を尊重されるのです。

他の神々を拝んではならないという言葉を言う必要など、本当はないのです。

 

なぜなら、全知全能の神様なら、他の神を選ぶことができないように、人間に強制することもできるからです。

強制的にそのように設定できるにもかかわらず、言葉によって、悪を押していること自体、人間の意思を尊重している証拠なのですね。

 

一神教の神は、一方的だという間違った思考をしている人がいますが、まったく違うのです。

聖書の神様は、もともと1つであり、それが自然であると言っているだけで、その他を魅力的に感じて、1つであったものをバラバラにする必要などないと温かく教えているのです。そこに、自由意志があるのですから、一方的ではないことは、少し考えれば、解かるのです。

夫婦が1つであるのに、浮気相手を考えて離れ、滅びる必要はないということです。

 

今回の「わたしはねたむ神である。」と言う言葉も、そういうことなのですね。

一見、強制的に思える言葉ですが、深く考えると、愛であるのです。

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