イエスキリストを神だとして信じているのは、キリスト教です。
カトリックやプロテスタントは、イエスキリストを神だと信じています。
ですが、イスラム教やユダヤ教は、イエスを神だとは認めていません。歴史的にも、イエスを神だと考えなかったひとも多く存在していました。
クリスチャンは、この考え方を否定することはありません。
なぜなら、聖書にイエスキリストは、マリアから生まれ、人間の形を持って生きていたことが書かれているからです。人間の姿をしていたのですから、人間だと考えてしまう人がいることは、間違いないからです。ただ、その奥義を彼らは理解していないだけなのです。
イエスキリストに付き従った多くの弟子たちも、イエス様が神だと思っていたわけではありませんでした。神だと理解したのは、死んだ後のことだったのです。
神様とは人間とは違う偉大な存在の唯一であると考えていたのが、ユダヤ人だったからです。
このように、イエスキリストは、神だったのか、それとも人間だったのかの議論は、尽きることがありません。
神様の存在を否定することは、人間にはできませんが、どの神様が本当の神様なのかを知るのは、聖霊によってでしか解らないと聖書には書かれています。
また、イエスという人物が、存在していたことも、誰も否定できません。
ですが、イエス様が神であったのかを理解するには、確率論や統計学、すべてのつながり、その奥義に気づくことができるのか、聖霊様の働きなしには、理解できないのです。
1、聖書の罪に対する教え
聖書は、創世記から黙示録まで、罪について明らかにする教えを一貫して教えています。
罪があるからゆえに、律法を神様は人間に与えて、悪を悪だと認識できるように人間の脳にインプットされているのです。
その基準が聖書なのです。
人間を殺してはいけないという考え方を現代日本人なら、ほとんどの人は、信じているとは思いますが、それは、聖書が存在していたおかげです。
聖書がない時代には、人間には人権はありませんでした。
人間が人間を食べることもあれば、殺すことも正義だとした思想も存在していたのです。
上の人間が下の人間をないがしろにして、まるで所有物であるかのように使ってきたのは、日本も例外ではないのです。
ですが、その行為を現代日本人は、良い事だとは考えませんね。
なぜ、現代人は、そのような思考を持っているのでしょうか。
それは、聖書から造られた憲法による基準が脳にインプットされているからです。
人間を食べることは悪だと認識できているのも、法律の基準となる憲法がベースにあるからです。
このように、律法という教えがなければ、人は悪を悪だと認識することもできなくなってしまうような存在なのです。
もともと、神様は、人間に善悪を教えることはされませんでした。そして、律法も与えたのは、モーセの時代からです。
それまで、律法は神様は人間に与えなかったのです。
なぜなら、律法をアダムの時代から教えてしまったとしたら、その律法の教えから悪を人間が理解してしまうからです。
「殺してはいけない。」という教えを何も知らないアダムに教えたとしたら、「殺せる。」という認識が人間に気づかせてしまうのです。
ですから、神様は、アダムには、ありのままの世界の善のプログラミングだけしか教えませんでした。ルールといえば、たった1つだけ、エデンの中央にある善悪の木の実を食べてはいけないということだけでした。
このように、聖書は、人の善悪、罪に対しての教えは、世界のどの宗教に対しても、深い奥義を持っていて、それを説明できるのは、聖書だけなのです。
そして、その聖書を正典の1つとしているのが、イスラム教です。
にも拘わらず、その罪の答えであり、救いであるイエス様を神とは認めていないという考え方は、とても矛盾しているのです。
彼らは、ユダヤ教の考え方である、行いを再度重要視しています。
ですが、行いによっては、罪はゆるされることはないのです。
旧約聖書時代では、動物による生贄がされていましたが、現在、動物の生贄は、ユダヤ教さえもしていません。イスラム教もしていないのです。
行いに対しては、確かにイスラム教は、正しいことをしていますが、罪による救いには、無抵抗なのです。
聖書の神様は、罪を明らかにするだけの方ではありません。その罪に対しての救いさえも用意されているから偉大なのです。
そして、イエス様が、神様でないのであれば、何の権威によってすべての人の罪がゆるされるというのでしょうか。
人は、アダムから生まれた子孫ですが、その前に、アダムは、イエスキリストに似せて造られたことが創世記に書かれています。
アダムよりも前の存在に、立ち戻り、そのイエス様が身代わりになって罪を背負われるからこそ、人間の罪はゆるされるのです。
未来において、罪をおかさないようにする行いは確かに大切ですが、過去においての罪はキリスト教以外の宗教には、手を出せるものはないのです。
それは、イエス様が実在したことでも証明されています。イエス様が神なのかを理解できるのは、聖霊様によるものですが、イエスが十字架刑にかけられたことは、誰にも否定できない事実だからです。
ある人は、イエスが十字架刑にかけられたのは、革命の失敗だと考えました。
その他、人間的な考え方で、イエスを人間だと認識した人もいました。
ですが、聖書には、常に罪との戦いが書かれているのに対して、その罪の贖いは、動物による生贄だったことは、ユダヤ人の文化から解っていることだったのです。最上の生贄として、イエス様をその過去のユダヤ人の文化から連想して、一致させた考え方を認めることは、けっして愚かなことではないのですね。
イエスが十字架刑にかけられたことは、ユダヤ教徒であっても認めていることだからです。
聖書の罪に対する教えとそこからの救いは、ユダヤ人の文化・歴史と事実に基づいて、一致させることができるのに対して、それを認めないようにしようとする考え方は、自分たちの行いをも貶めることになってしまうのですね。
2、イエスキリストの世界の共通点
イエスキリストが神だと認識できるのは、聖書やユダヤ人だけではありません。世界中の宗教や文化に、処女から救世主が生まれるという思想は存在していたのです。ですから、世界中に女神崇拝が存在しているのです。
聖書では、エバに対して、神様が預言を言われたのです。
罪をおかした人間を救う存在が、女の子孫から生まれることが預言され、またエデンへと導いてくれるとアダムとエバは信じたのです。
ですから、彼らは、こどもが生まれるたびに、その子が救世主ではないのかと期待していたことでしょう。
カインもアベルもエデンに返してくれる救世主だと思っていたからこそ、カインに闇が取り着いたとも思えるのです。
おごり高ぶりです。
カインがアベルを殺してしまったことで、彼らが救世主ではないと理解できたとは思いますが、アダムとエバの子孫が生まれるたびに、救世主は望まれ、その伝承が、世界中に広がっていたことでしょう。
そして、セツの子孫であるノアにも当然、その思想は強く存在していて、ノアの家族から現代の人間の文化が、広がったことで、世界中に救世主伝説が共通して存在しているのです。
仏教の毘沙門天も、女神崇拝で、頭から救世主を産むという思想です。
世界中が、待ちに待っていた救世主、それがイエス様だったのです。
イエス様は、それににあうだけの人生を送られました。自分よりも前に存在していた旧約聖書やユダヤの文化と一致した生き方によって正当性が認められ、なにより、旧約聖書に預言されていたことを次々と成就していったからです。
このようなことができるのは、人間には不可能です。
ですから、いまだにイエスキリスト以上の救世主は存在しないのです。ユダヤ教は、イエス以外の救世主を待ち望み続けていましたが、それでも、出てくることはできなかったのです。
多神教の思想であったローマ市民も、イエス様を認めたのは、世界中の文化や出来事と聖書とイエス様が一致したことを理解できたからです。ローマには世界中の情報が集まっていたところだったからですね。
そのなごりで、カトリックはいまだに女神崇拝を止めることができていませんが、ローマの文化の中にも、救世主伝説は存在していたのです。
すべての宗教を回復させ、答えを出せるのは、イエスキリストだけなのですね。
3、聖書と事実の一致
聖書は2000年前から変わらず、固定されて信じられている書物です。
にも拘わらず、現実と一致していることが、驚異的なのです。
現代人は、科学や学問の発展によって世界を昔のひとよりも理解できています。例えば、生き物は、細胞が存在し、遺伝子情報によってその形を維持できていることも現代人だから理解できているのです。
聖書には、人間が世界を支配するように書かれています。
これも理解できているのは、現代人だからです。
現代は、世界中を飛行機などで飛び回り、行き来できているからこそ、人間が支配していることを理解できるのであって、2000年前まで、世界がどこまであるのかさえも知らないのに、なぜ聖書は、その事実を確実に書かれていたのでしょうか。
また、人間には、白・黒・黄色という3色、そして、その中間種だけであることは、現代人だから納得できるのです。
ノアの息子、セム・ハム・ヤペテのそれぞれの妻たちの肌が、3色に別れ、広がっていたことなど書かれていたとして、なぜ2000年前からそのことが解かっていたのかということです。
人間には、計り知れない情報でさえも、聖書はすでに書かれていて、的確に現実と一致しているのです。
その時代その時代の常識によって、聖書は例えで書かれていると信じ込んできたのが人間でしたが、実際、フタを開けてみれば、聖書は例えでもなんでもなく、そのままの世界を的確に表していたのです。
間違っていたのは、人間でした。
地球が丸いことも聖書には書かれています。ですが、人間がそれを理解できなかったので、聖書の教えを反して、それを押し通してしまったのです。
天動説は、その時代の学問だったのです。
聖書自体は、地動説を否定するものではありません。否定したのは、偏った考え方を訂正できなかった人間による間違えだったのですね。
世界中の人間の使う言葉が、バラバラなのは、現代人なら理解できます。
ですが、言葉がバラバラなはずなのに、なぜ文化や宗教に共通点があるのかの不思議には、進化論はもとより、多くの学問でも謎なのです。
聖書はその事実についても的確に書かれています。
もともと、人間は1つの言葉だったことが書かれています。そして、その後、人間が神に近づくこうとして、高い塔を建て始めたことで、神様は、人間たちの言葉をバラバラにして、世界中にちらばらせたのです。
このことで、教えや文化、宗教に一致しながらも、言葉がバラバラであるという不思議にもなぜか聖書は、説明してしまっているのです。
世界中に共通点があることなど、2000年以上前の人間たちには、理解できるはずもないにも関わらず、その答えをあらわして書かれていることが、聖書の不思議なのです。
それを信じることもできない人がいることは、否定しませんが、その世界に共通点があるという事実に対して答えを持っているということも驚愕だということです。
昔の進化論は、その土地や場所の猿が進化をとげたという、浅はかな考え方をしていましたが、現代ではアフリカから発生して、世界に広がったと聖書に近づけるようにしてきました。
縄文人にしても、昔は、日本固有の進化から発展した存在だと信じられていたのです。
そんなことはありえないのは、今では当然ですが、聖書はまさに、2000年前から変わらず、一貫して世界を説明してきたのです。
それが問題であることさえ理解できない時代のさらに前から、その答えが書かれているわけです。
あまりにも聖書が現実と一致し、論理的すぎるので、世界中の宗教は、聖書に似せるように、近づいていきました。聖書に近づいてきた悪魔宗教は、異端として、多くが滅ぼされ、いまでは極端な紛い物、聖書に似せた宗教は、表では存続できていないのです。
それも不思議のひとつと言えるでしょう。
聖書を読んで信じていたユダヤ人やカトリックであっても、聖書を理解できず、自分たちの頑なな想いとともに、歪曲させて聖書を理解してきたにもかかわらず、聖書は現実と一致して正確に書かれているのです。
創世記にイエス様が存在したことも、当時のユダヤ人たちには、まったく理解できなかったからこそ、イエス様を十字架刑にかけたのです。
イエスキリストの創世記>>
聖書には、その奥義を理解できるようにあらゆるヒントが隠されているのです。
そして、世界は、イエスキリストによって集約されているように、存在し、聖書もまたそのように書かれているのです。
それをそうだと理解するには、聖霊様の働きなしでは、人間の頑なな心によって邪魔されてしまうのです。
幼児は、言葉がうまく使えないので、ストレスになり、なきじゃくったりしてしまうように、ほとんどの人間は、自分中心んに世界がまわっていないことに対して、どこからしらストレスを抱えています。それが事実なのですから、認めて受け止めるべきなのですが、そのストレスから、世界を恨んでしまう人がいるのです。
神を信じない歴史家などには、多く存在するその手の人物です。
人の善を望みながらも、結局諦めて、どこかしら世界を呪った思想で生きているのです。
しかし、神を信じ、また事実を認めている人は、大きな世界のつながりを見ることが出来ます。ひとつひとつの出来事には、統一性がないように思えて、あきらめてしまっても、大きく世界をみると、実はそのバラバラな出来事には、共通点があることに気づくのです。
その究極ともいえるものが、イエスキリストなのです。
人の歩み、罪の解放、罪の救い、悲しみと愛と悪への勝利。人間の支配と、その権利。すべてに一致して、答えになるのは、イエスキリストだけです。
多くの謎のピースを手繰り合わせて、ピースをはめこむと、そこに浮かび上がるのは、イエスキリストなのですね。
これを理解するには、聖霊様の働きなしには、ありえません。神様から与えられた数々のヒントを人間がみるように意識を持っていかなければ、気づけるものも、気づけないからです。
イエス様の生涯が、イエス様を神様だとしている証拠になりますが、それも認められない人もまた存在するのです。