思考の変化

聖書に書き足すことが禁止されている理由

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聖書は、新たに書き足すなどをすることは、禁止されています。

このような書き足したり、新たに書物などを利用したりすることを容認する思想は、異端だとされます。

 

ですが、人間的な考え方であれば、時代とともに新たに付け足したりして改定していったほうが、安全ですし、新たに科学や学問で分かったことに対応できます。

大乗仏教では、次々と新しい考え方や思想を取り入れ、改定させていきます。

なぜ聖書は、そのようにしてはいけないとされているのでしょうか。

1、正当性を示すため

よく、聖書に対して、正当性を疑問を抱くひとがいます。

「あの箇所の内容は、事実とは違う。」「ここで書かれていることと違うことが違う書物では書かれている。」「このようなことを命令する神はよくない。」など、多くの疑問を出してきます。

 

ですが、きちんと理解するとそれらの疑問に答えられています。

 

とは言え、疑問を持った人①が正しいのか、疑問に答えた人②が正しいのかは、解らないと考えてしまいます。

 

①と②には、圧倒的に正当性が違うことに気づけるでしょうか。

 

①の人は、時代や場所、その人の思想によって、なんとでも言えるのです。

 

例えば、あなたが、大きなカバンを持った老人が歩道橋に上がろうとするのを親切に助けてあげようとしたとします。ですが、人によっては、老人のカバンを盗もうとしていると批難するひともいます。

事実は、前者の親切であっても、その人の思考によって、どうにでも文句を言えるのです。こういうのを「いちゃもん」と言います。

 

①は、いくらでも、言えるのです。

 

ですが、②は、違います。

なぜなら、聖書は、固定されているからです。圧倒的に、②が不利なのです。

固定されている聖書なので、自分勝手な思考を言えないのです。固定されて書かれていることに沿って、自分勝手に疑問を持てる①のひとたちの疑問に、答えてしまえているということ自体が、そもそもすごいことなのです。

 

科学的に考えれば、進化論などという思想は、現実にはありえません。これを一貫して信じてきたのは、聖書を信じるひとたちでした。学問が進めば進むほど、聖書の正当性は証明され続けているのです。

進化論の正体>>

聖書には恐竜は書かれているのか>>

なぜ創世記の時代のひとたちは長寿なのか>>

聖書は約2000年前から固定され、かわらないものであるのに、その自由に付け足すことができない書物のほうが、事実に対して、一致していることがまた、驚異的なのです。

 

聖書が、時代とともに、書き足されることが普通であれば、その時代や学問の発見に対応して、変えることもできますが、聖書は、そのようなことを禁止されてきたので、正当性があるのです。

 

聖書を利用しながら、新しい宗教を作り出したものの多くは、違う正典などを利用しています。ですが、これらには、正当性がうすれているということは、間違いないのです。

2、聖書を付け足すことは、禁止されている

黙示録22章18・19節

 18この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。 19また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。

 

旧約聖書を信じていたユダヤ教からすると、新約聖書を新たに付け足したキリスト教は、異端だと考えます。

正当性がなくなっているというわけです。

ですが、新約聖書は、旧約聖書をないがしろにすることではありません。

 

例えば、イスラームは、イエスキリストをただの人間であり、預言者であるとないがしろにする考え方をしていますが、キリスト教は、違います。

むしろ、旧約聖書をさらに大切にして、旧約聖書に書かれていたことの正しい解釈に気づかせるものだったのです。

ですから、次から次へと旧約聖書に書かれてきたことを引用しているのが、新約聖書なのです。

 

旧約聖書に書かれていることだからこそ、新約聖書が正しいと言えるのです。

イエスキリストが生まれる前から存在していた旧約聖書に、イエスキリストの生涯がすでに300以上にも渡って書かれていたからこそ、イエス様は、人間ではないということが証明されているのです。

イエスキリストの預言>>

 

また、旧約聖書は、神様による契約。律法による善行、善い行いを固定させるものです。

ですが、この律法と善い行いを固定することは、問題を新たに生み出してしまうのです。

 

それは、正しいことを固定することは、それに従えなかった人に、罪悪感を抱かせて、罪人であることを示してしまうことです。

すでに起こしてしまった罪に対して、新たな善行は、力を発揮できないのです。

 

ですが、それに対して、旧約聖書は、子羊などの生贄によって、自分たちの血ではなく、身代わりに動物たちの血で償うことを文化として、続けていました。

なぜ、動物の血によって償えるのか、理解できずに行ってきたのです。

 

そのことも、イエスキリストによって理解できるようになったのです。

 

旧約時代で行われてきた生贄は、イエスキリストを表すもので、罪を示された人々に、罪のゆるしをさらに与えることだったのです。

 

新約聖書は、旧約聖書を完成させるものとなったのですね。

 

親は子のために、注意やルールを与えて、守ろうとするものです。ですが、それだけでは足りません。それらが愛から来ていることを示さなければ、子は、それらのルールや注意に心を痛めて、逆に親から離れてしまうのです。親を否定している時点で、親の意図は無意味になってしまうのです。

 

反発している人からは、神様の言葉さえも受け入れることはできないのです。

 

イエス様は、「耳のある人は聞きなさい。」と言われました。

耳がない人は、イエス様の言葉でさえも、心に入れることもできないのです。

 

旧約聖書の行いによる教えは、正しいですが、それだけでは、人は反発し、神様の言葉を受け入れることができなくなってしまうというわけです。

 

一度も笑ったことがない人もいなく、一度も怒ったことがない人はいないでしょう。笑うことと怒ることは、真逆ですが、ひとりの人の中に存在していることです。

親も、厳しくする時もあれば、優しくする時があり、どちらが正しいというわけでもなく、どちらも正しく、どちらも正しくないのです。

 

すべてのことはしてもいいのですが、すべての時にしていいというわけではないのです。

 

時と場所、人や環境によって、正しさが変わってくるのですね。

 

ですから、旧約の厳しさに対して、新約の愛が、1つになることで、聖書は、完成されたのです。

 

イスラームは、さらに旧約の行いに立ち戻る教えになっていますが、これはすでに旧約で表していることなので、新約の教えをないがしろにしてまで、コーランで新たに付け足す必要もないと考えるのです。

 

その他、聖書以外の書物を利用する宗教は、正当性がなくなります。

カトリックも外典などでギリシャ文化に根付いた思想をキリスト教の中に入れこもうとする人がいますが、これもまた、正当性を汚す行為なのですね。

 

新たに聖書に付け足したりすればするほど、「ご都合主義」になります。

何でもありになるのです。

先ほどの①の疑問を自分勝手に抱くひとたちと同じレベルになるのです。

 

このようにご都合主義を容認すれば、善悪など存在しなくなります。

何が正しく何が正しくないのかは、人間には決めることはできません。人間を中心にすれば、正義や愛など存在しなくなるのです。

3、聖書は本物のユダヤ人よって書かれた

旧約聖書があり、さらに外典なども存在していますが、なぜ外典は、外典なのでしょうか。

それは、ユダヤ人による文化によって書かれたものが、聖書だと認定されていたからです。

外典などは、ギリシャ語で書かれているもので、ユダヤ人だけで書かれていたとは考えられません。

ローマ帝国でもそうですが、世界中の宗教や文化、学問などを取り入れていました。それはイスラエルも例外ではなかったのです。ユダヤ人の文化も、研究され、ユダヤ人とギリシャ人によって、その中身を融合し、ご都合主義が通用するのかを試されていたのです。

 

そのため、外典は、イスラエル人の思想からはずれ、ギリシャ的な思想ばかりが書かれているのです。

これらの外典を理由に、多くの組織システムを作り出してきたのが、カトリックでした。そのため、人に激しい階級をつくり、聖書さえも読めなくするという悪環境が生まれ、人々を支配者がコントロールするという歴史になってしまったのです。

 

聖書に書かれ、教えられていた内容とは、まったく違う思想や考え方になり、カトリックこそ、異端であると気づいたのです。

黙示録にはまさにそのことさえも書かれていました。

 

救世主を産んだ女、淫婦が、世界を汚していくのです。

イエス様も母マリアに対して、とても厳しい言葉をなげかけていました。母とは言わず、「女」と発言もしています。

死ぬ直前でさえ、母とは言わず、救いの役目として、存在していたことを示されました。

 

母マリアは、確かに素晴らしい女性だったと思われます。ですから、幼子であったイエスも、罪をおかすことなく成長できたのです。マリアとヨセフは、素晴らしい人物だったからこそ、イエス様の家族として選ばれたことでしょう。

 

ですが、だからといって、神でもなければ、女神でもありません。ただの人間です。

キリスト教以外では、女神崇拝が盛んにおこなわれてきました。バール信仰にも、女神崇拝があり、世界中に同じ思想が広がっていました。いまでも、そのなごりは、存在します。

 

アメリカの自由の女神などは、まさに偶像であり、忌むべき存在です。

イエスキリストの誕生日かのように、クリスマスを祝っていますが、12月25日は、イエス様の誕生日ではありません。他宗教の忌むべき日であり、冬至を祝うもので、反キリスト的な思想なのです。

 

このように、本物のユダヤ人の文化は、現在のキリスト教には、消え去り、黄色人種のユダヤ人文化で広がっているのではなく、白人文化のままキリスト教は広がってしまっているのです。

 

聖書の文化こそ消え去っていますが、聖書は残っているというのが、現在のキリスト教なのです。

 

逆に、聖書こそ消え去っていますが、聖書の文化が残っているのが、本物のユダヤ人で造られた国、日本なのです。

本物ユダヤ人とは、日本人>>

 

どちらも、大切なものが欠如している状態なのですね。

ですから、外典は、外典として、聖書とは別物として、読まなければいけません。1つの人間的な歴史の1つとして、読むわけです。

ですが、それが正しいとは考えないのです。

 

正当性があるのは、本物のユダヤ人によって書かれたものであり、さらに預言者たちによって、神の霊感で書かれなければならないのです。

 

第二テモテの手紙3章16・17節

16聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 17それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 

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