思考の変化

イスラム教やキリスト教は、「愛」を説きながら、なぜ同性愛者を否定するのか

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キリスト教やイスラム教などを信仰する人たちが、同性愛を否定することを批判するひとたちがいます。

ノンクリスチャンの方たちからすると、なぜ、キリスト教などは「愛」を教えているのに、同性愛を認めないのだろうかと、疑問に思うようです。

 

なぜ、キリスト教やイスラム教は、そこまで同性愛を否定しようとするのでしょうか。

 

今回は、そのことについて考えていきましょう。

1、聖書は、偶像思想を否定するもの

偶像とは、虚構、虚空、事実とは違うもののことです。

例えば、木や石で人間の手で作られた神は、しゃべることも、歩くこともできない人間以下のものなので、明らかに神ではありませんね。神ではないものなのに、それを神だと嘘や詐欺を信じているわけです。

偶像とはどういうものなのか>>

嘘や詐欺、存在しないものや事実とは違うものを多くの人間が信じてしまったら、世界はどうなるでしょうか。

スマホではないものをスマホだと嘘を付いて、売りさばいたら、買ったひとは、喜ぶのでしょうか。

スマホは、スマホだから喜ばれるのです。スマホとは違うものをもらっても、喜ばれないのです。それどころか、争いに発展していきます。

 

人間の背中には、現実には、羽はありません。ですが、人間の脳は、背中に羽があるように想像力できます。絵や小説、映画などで作り出せるわけです。

そのまま、事実と違うことを信じて生きていたら、どうなるでしょうか。

空を飛べると勘違いして、ビルから飛べば、怪我をしてしまうのです。

このように、聖書は、偶像思想を否定して、人間が存在しないものや嘘やトリックなどに騙されないように、教えるものなのです。そうすることで、事実と一致した生活を多くの人間が行動すれば、争いや苦しみ、悲しみが世に出ることも抑止できるようになるのですね。

 

 

2、聖書のいう善悪とは、事実が、善であり、事実とは違うものが悪

事実が神様の愛です。

神様はこの世界そのものであり、事実を肯定することしかできません。この世界である神様が事実でないものを肯定すれば、世界が崩壊してしまうのです。

人間が、自分の体を傷つける自傷行為を普通はしない以上に、神様が自分の体を壊す理由はないのです。

ですから、神は善であり、愛なのです。

 

人間と猿との間には子孫は生まれません。ブタと犬との間にも子孫は生まれません。その種類に従って子孫は生まれていくのです。

地球には空気があるという事実があるからこそ、多くの疑問に質問もできれば、人間が生きていけるのです。その事実が愛なのです。そして、その愛は、「はじめの愛」と表現されるのです。一次的な愛です。そして、人間の愛は二次的な愛です。一次的な愛の存在があるから人間は生きていけて、二次的な愛を語ることも歌うこともできるのですから、二次的な愛よりも一次的な愛のほうが重要なのですね。

よく映画や小説、漫画などで、トラブルにまきこまれた人物が、神様に文句を言ったりします。例えば、山で狼に襲われ、どうしようもなくなった時などに、神様に文句をいうのです。

ですが、よく考えてください。文句を言えているということは、生きている証拠です。生きていないひとは、文句をいうことも、傷つくこともできないのです。生きていないからです。生きているからこそ、その口で、神様に文句を言えているのです。

神様は、空気を人間に与えて、守られているのです。空気がなければ、生きていけないので、狼に襲われることさえ出来ないのです。狼に襲われている時でさえも、神様は人間を守られ続けているのですね。これを感情論で、否定したい人が多くいますが、事実はそうなのです。

 

人間の好き嫌いの善悪ではありません。感情論の話ではないのです。ですから、悪魔は、人間的な善をも利用して、人を惑わしたりもする複雑な存在として聖書に書かれています。

優しいというものは、正しいわけではありません。優しくても、事実と違うことをすれば、それは危険なものになるのです。

3、同性愛は、一見、愛のように見えるが、事実とは反している悪。

同性愛とは、偶像思想なのです。

男と男の間に子孫は、生まれるでしょうか。
女と女の間に子孫は、残せるでしょうか。

必ず、その種類に従った異性の存在同士でなければ、子孫は残せない「事実」があるのです。それが、神様がこの世界に下さった愛であり、一次的な愛なのです。

人間がどれだけ嫌がろうとそれは変わりません。

ですが、悪魔は、それを覆そうとした存在であった天使なのです。
事実を存在しないものへと歪曲させて、神への冒涜とするのです。
一次的な愛をどれだけ壊しせるのか、それが悪魔の目的でり、本物の悪なのです。

多くの犯罪は、これに根ざしています。悪魔宗教の影響が世界中に色濃く伝えられているからです。

事実とは違うものをわざと選ぶことで、興奮する思想です。気持ちよくなろうとするのです。

万引常習犯は、どうでもいい物を盗みますが、物がほしくてしているのではなく、してはいけないことをするスリルと興奮、脳内麻薬が大量に分泌する気持ちよさを求めて、悪いことをするのです。

ギャンブル依存症は、お金を捨てるようにするから興奮するので、やめられないのです。

不倫は、愛するものを裏切る行為が、スリルと興奮を呼ぶから背徳感で、気持ちよくなるわけです。

SMという好きな人を傷つけ、好きなひとから傷つけられるという真逆のことをすることで、背徳感を感じて気持ちよくなろうとしているのです。

いわゆる変態。変質者、変な質を持つ者なのです。

それに疑問を持てる人は、正常であって、それを肯定している人は、異常な思想の持主であり、危険なのです。同性愛の問題は、正常と異常の戦いとも言えるのです。

聖書は、人を殺してはいけないと教えていますが、連続殺人犯は、逆に殺すという背徳感で興奮して、趣味趣向で人を手にかけて気持ち良くなるわけです。

このように、犯罪や依存症は、事実とは真逆のことをすることで、ルールを破り、解放感に脳が錯覚を起こして、脳内麻薬で気持ちよくなる行為なのですね。

人は本来、神という事実の基で、自由に生きていくように神様に造られたものです。エデンの園はまさにそうでした。世界に悪がないので、規制する必要もなく、善として存在しているだけだったので、試練や悲劇などを人間に与える必要もなかったのです。

ですが、人間が悪を脳で理解してからは、試練を神様はお与えになりました。人間が事実とは違うこと「悪」をすれば、悪が返ってくるようにしなければ、人は、悪をしても大丈夫だと思い、世界に悪を広げていってしまうからです。

ですから、大洪水前の時代の恵まれた世界の人間たちは、悪を増大し続けたのです。今よりも、圧倒的な恵まれた環境でした。

創世記の時代のひとたちは、なぜ長寿なのか>>

そして、神様は一度、人間の悪が増大すれば、滅ぼされるという試練を人間全体に知らしめることで、第二の創世記であるノアの家族から、世界中に終末論が広がっていったのです。

同性愛は、長続きしないとよくいわれます。それは犯罪的であり、事実と違うことをして、気持ちよくなろうとする行為であるのに、人間の脳内麻薬には、限界があり、慣れてしまうので、みせかけの愛は消え去ってしまうからです。

ジェットコースターに乗り、わざと恐怖を味わうことで興奮して、脳内麻薬を分泌させますが、同じものに何度も乗れば、慣れていき、興奮しなくなるのです。

いつまでも、最初と同じ脳内麻薬の分泌量の効果は出ないのです。

はじめは、まわりから反対されたり、気持ちわるがられたりして、相手をされるので、それに感情論が加わり、反対されれば、されるほど燃え上がり、脳内麻薬が分泌してその興奮が愛だと勘違いできますが、他人はいつまでも他人のために反対してくれません。ですから、背徳感を味わえなくなり、愛が消えたと勘違いして、長続きしないのです。

興奮やドキドキが愛だと勘違いしているからです。

男性が女装をすることを趣味にしている人がいますが、まわりが気持ち悪いという一般常識があるから、気持ちよくなれるのであって、それがなければ、女装することに興奮は減少するのですね。

恋を愛だと勘違いしている異性同士の愛と変わりません。ドキドキするのは愛ではありません。それはただの脳の錯覚であり、脳内麻薬で脳と体が「状態異常」を起こしているのです。脳が状態異常になっているので、言葉や言語能力も落ちるので、いいらわせないように錯覚しますが、それらは偽物の愛なのです。

お酒を飲むと脳が状態異常になるので、気持ちよくなれるのと同じです。まっすぐ歩くこともできない状態なのですが、本人は気持ちいいのです。

同性愛を許可し、肯定するということは、あらゆる犯罪を容認することになります。空想であり事実と違うことでも、人間が愛だと思い込めば、ゆるされるのなら、あらゆる詐欺商品やあらゆる思想は許可され、世界は事実とは違うもので支配され、崩壊するのです。

子孫を残せず、絶滅しくだけの問題ではないのです。

人を殺めて、気持ちよくなる人たちの価値観さえも認めるということになってしまうのです。

彼らからすれば、人を殺めることで気持ちよくなり、それが愛だと思い込んでいるからです。彼らからすれば、それが趣味なのです。

4、聖書のルールを大切にするキリスト教とイスラム教

聖書は、あらゆる偶像を否定します。事実ではないことを否定するのです。

キリスト教は、愛とゆるしを強調しているので、そこは甘いところがありますが、きちんと聖書を認めている人は、流されません。悪いものは悪い。良いものは、良いと流されないのです。

イスラム教は、愛とゆるしのキリスト教から、また行いという律法に戻った宗教なので、さらに事実に対して、厳粛に考えるのです。

ですから、キリスト教よりも、木や石で造られた像を壊して、認めないのです。

 

事実とは違うことを信じ込んでいる人に、「それは錯覚だよ。」という人を逆に、責める人がいます。

「自由でしょ!」「人の勝手でしょ!」などと言うのです。

本当にそれでいいのでしょうか。

そう叫んでいるひとは、他人から、傷つけられても、文句はいえません。その人から「わたしの勝手でしょ!」と言われるからです。

人間には、愛や正義はありません。なぜなら、人間は、本当の愛ではないものも、愛だと思い込めるからです。だからこそ、世の中に争いや戦争、悲しみが存在し、犯罪者も実際に存在しているのです。

同性愛を肯定することは、まわりまわって、その人に不幸を及ぼす、恐ろしいことなのですね。

ですから、キリスト教やイスラム教など、まともな宗教ほど、感情論ではなく、冷静に良い行いに根付いた生活をするように説くのです。

「禁欲主義」です。

 

生きていくために必要な食欲は、必要です。ですが、それ以上の食欲を求めるものをあまり肯定しません。仏教などもそうですね。

普段から、そうやって欲に対して、危機感を持って質素に生活することで、争いを産まないようにしているのですね。

 

ですが、近年、多くのひとたちは、宗教を知らずに成長しているので、欲の恐ろしさを考えず、むしろ、それを正当化しています。

他人よりも優れていることを求め、地位に走り、相手を蹴落としたりすることさえ、平気で正義にして、生きていくのです。

名誉のためなら悪をしてもいいという異常なことを正当化して、組織を壊そうとするのです。

 

それは、教えられていないからです。

日本人は、教えられていないのに、フランス語を話せるでしょうか。話せませんね。

人間の脳は、高性能なパソコンと同じで、その脳にプログラミングされれば、悪でさえも、善だと思い込めるのです。

ロボットのプログラミングに、人を傷つけるように組み立てると、ロボットは、そのプログラミング通りに動き、人を傷つけます。

 

人間は、教わらなければ、善悪を理解することができませんし、逆に悪を教わっていれば、それを心から善だと思い込めるのです。

狼に育てられれば、狼のように振る舞うようになるのが、人間なのです。日本人に育てられれば、日本人のように振る舞うようになる、それが人間なのです。

ですから、人間を中心にして、考えれば、善悪など存在しなくなるのです。犯罪を犯罪だと認識することもできなくなるのです。

 

だからこそ、人間を超えた存在、人間を造られた存在を中心に、善悪を教えるのが、キリスト教であり、イスラム教なのです。

愛や正義を固定できない人間の上に、事実を把握できる神様が、善悪の基準を与えたのです。

 

そして、同性愛は、その事実とは違う思想なので、悪なのです。感情的でもなければ、生理的に否定しているのではありません。もちろん、不自然なことをすれば、違和感を感じるわけですから、生理的な部分もありますが、それだけではないのです。それはむしろ一部であり、大きな理由としては、同性愛は、錯覚だから、危険だということを教えるのです。

 

すべての人が欲望や自分勝手な自由を中心に考え行動すれば、世界は滅ぶのです。

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