歴史

キリスト教は、ユダヤ教を否定する宗教なのか

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キリスト教は、ユダヤ教が信じた旧約聖書の後の時代の宗教です。

イエスキリストを中心にして、ユダヤ教と対立していたイメージを未信者は持っているかもしれません。対立していたから十字架刑にかけられたと考えるわけです。

ですが、キリスト教は、ユダヤ教を否定するものではありません。

むしろ、肯定する宗教なのです。

 

キリスト教が否定したのは、旧約聖書を捨てて、タルムードなどに走っていった新しい新興宗教になってしまった偽ユダヤ教です。

キリスト教は、旧約聖書に書かれている大量のイエスキリストの預言を認め、旧約聖書があるからこそ、イエスキリストが救世主であり正当性があることを主張するものです。

ユダヤ教徒は、あまりにも旧約聖書にイエスキリストが書かれているので、第二のイエスキリスト、救世主をイエス以外に再現できずに、今日までいるので、旧約聖書よりも別の書物を書き加えて、そちらのほうが旧約聖書よりも優先するべきものだという、本質的には、まったく違う宗教を作り上げてしまったのです。

 

ですから、本当のユダヤ教をキリスト教は、否定しません。むしろ、肯定して、旧約聖書を大切にするのです。

1、律法の大切さと問題点

わたしたち人間は、言葉によって物事を多く理解しています。

日本人が日本語で、どうしても物事を考えてしまうように、その言葉がなければ、考えることはできないのです。

フランス語を知らないのに、フランス語で、母親から赤ちゃんが生まれることを考えることはできないのです。

 

そして、言葉だけではまた、不十分です。

なぜなら、この世界には、悪が必ず存在しているからです。

言葉を理解したとしても、やっていることが悪であるのなら、この世界は滅びるだけだからです。

 

ですから、悪が入り込んでいる人間には、ルール(律法)が必要になるのです。

基準を設けなければ、人は、悪であっても、正しいと本気で考えて、そのまま生活できてしまうからです。

 

200年前まで、この世界のほとんどの場所では、カニバリズムという文化が広がっていました。

人が人を食べる文化です。食料がなくても、どうしても食べなければいけないというものではなく、平然と正しいと考えて、人が人を食べていたのです。

 

白人は、2000年前から聖書を基準にルールを設定し、人間には人権があることを理解し、時代が流れているので、人を食べることは、悪であるという認識が当然のように存在していました。

 

ですが、白人が大航海時代を迎えて、世界中に足を運ぶようになると、その常識は、当然ではないことに気が付くのです。

未開の土地にいけばいくほど、人は人を食べ、それを純粋に行動に移して、正しいと思って生活していたのです。

 

人権を理解していた白人からすれば、まるで悪魔をみたようなものだったでしょう。

同じ人間だと考えたくなかったのは、多くの証言からも解る通りです。

そのようなカニバリズムを推奨するような文化ほど、発展せず、人権や道徳は、腐敗していました。

白人からすれば、連続殺人犯に、白人の文明をさずけることは、危険に映ったことでしょう。銃など渡せるわけがありません。

 

日本人で解りやすくいえば、オウム真理教の信者に、銃を渡して、近隣住民として、一緒に暮らせるか?というものです。

わたしなら、警戒します。

 

 

このように、人間は、例え悪であろうと、それを善だと認識すれば、そのまま長く文化として、受け入れ、生活することもできるほど、恐ろしい存在なのです。

 

だからこそ、ルールが必要であり、基準が必要なのです。

 

何のガイドブックもなく、ルールもなく、こどもを育てるなどは、あり得ない話なのですね。

 

もちろん、悪が存在していなかったエデンの園の時代は、ルールは必要ありませんでした。すべてが善だったので、そのまま生活しても問題にはならなかったのです。

ですが、今はその時代とは違い、悪が必ず存在しているので、それが悪なのだという認識を脳に植え付けるためには、ルール(律法)が必要なのですね。

 

多くの宗教は、律法を大切にして、善い行いをうながします。

それは、人間に悪があることを証明しているのです。もし、人間に悪がないのなら、教える必要はありません。ですが、人間には悪があるからこそ、何度も何度も律法を教えて、脳にも、心にも、霊にも、基準を設けて、正しい「道」を示し続けなければいけないのですね。

 

ですから、律法は、とても大切なものなのです。律法、行いを大切にした宗教、それがユダヤ教だったのです。

 

 

ですが、律法にも問題があるのです。

何が問題かというと、律法を教えるということは、悪も教えてしまうということです。

例えば、3歳児の絵を描くことが好きな子がいたとします。彼は、一所懸命に紙にクレヨンで絵を描くのです。親が子の成長のために、手にクレヨンを持たせ、目の前に紙を用意し、こどもの手を持って、紙に絵を描くということを教えたのです。

その子は、紙に絵を描くという発想しか、脳にはインプットされていないので、壁に絵を描くことなどできないのです。

 

ですが、親が壁に指を指して「壁にはクレヨンで絵を描いたらだめだよ。」と教えると、壁にもクレヨンで絵を描くことができることを発見するのです。

これをしては、ダメだよ。という律法であり、ルールは、してはいけないことの存在を逆に教えることになるリスクがあるということです。

 

ですから、エデンの園では、神様は律法を人間に与えませんでした。神様が人間に律法を与えたのは、その2000も後のモーセの時代からでした。

人間が悪魔の知識と融合して、悪を発明しつくした時代まで、神様は律法を人間に与えなかったのです。

 

アダムに唯一与えたのは、1つだけ、中央にある善悪の木から実を取って食べてはいけない。というルールだけだったのです。

その他のすべては、ゆるされていたのです。善しか脳にプログラミングされていない人間アダムは、善しか発想がないロボットのような存在であり、その行動しかできなかったのですね。

 

そのような状態で、十戒という律法を与えていたら、どうなったことでしょうか。

神様が、「殺してはいけない。」と人間に律法を教えたとしたら、それは、「殺せる。」ということを発見させてしまうことになるのです。

 

 

「盗んではいけない。」ということを教えれば、「盗み」を神様が教えてしまうことになるのです。

だからこそ、神様は、モーセの時代まで律法を与えなかったのです。

 

教えないほうが悪いと考える人がいるかもしれませんが、よく考えれば、すべて善の世界であり、天国であったエデンの園という世界を人間に与えていたのです。世界のすべてが善であり、世界からみれば、悪は、存在しないほどの小さな蛇だけだったのです。99.9999%善の世界で生まれれば、教えなくても、善がそのまま基準になるので、律法を教えれば教えるほど、逆に悪を発生させてしまうことになるわけです。

 

そして、人間は、本来、神様の基で、自由に生きることを喜びとして生きる存在です。

ですが、人間に悪が入り込んだことで、ルールが増し加えられ、そのルールによって縛られることになったのです。縛られることが、人間は本来は嫌であると感じるので、そのルールを破りたいという想いが出てきてしまうのです。そして、そのルールをわざと破った時、人間は、その事が悪であったとしても、解放感を感じてしまうことができるのです。

 

犯罪者たちは、その快楽のために、犯罪という悪を繰り返しているのです。解放感や快楽を脳で味わうための欲望なのです。

不倫なども、愛するひとを裏切るという非人道的なことをすることで、解放感を味わい快楽を感じるので、行ってしまうわけです。

不倫じゃなければ、恋愛ができないという人は、依存症であり、愛ではなく、快楽を求めて実行しているのですね。

 

 

ジェットコースターなど、わざと危険なことをすることで、してはいけないことをした解放感から快楽を獲るのです。

同性愛や女装なども同じです。まわりから変だと思われることをわざとすることで、解放感を味わい反対されればされるほど、脳内麻薬が分泌して気持ちよくなっているからやめれず、しかも、それを正当化して、「勝手でしょ!」と主張するわけです。

 

犯罪の共通点、犯罪者の正義の共通点は、脳内麻薬の分泌による快楽思想なのですね。

 

そして、神様による自由ではなく、歪曲させた悪の自由を正当化して、間違った解放感を味合おうとするわけですね。

これも、律法のリスクの1つです。

 

同性愛は長続きしないとよく言われます。これはなぜかというと、他人は、いつまでもその人のために、反論してくれないからです。反論されなければ、脳内麻薬が分泌しないので、興奮できずに、楽しめません。楽しめないから相手への気持ちがなくなったと勘違いして、別れることになるわけです。

 

このように、「律法律法」と言えばいうほど、逆にその律法に反逆したくなる人も生まれるというリスクがあるということです。

 

 

また、律法のリスクはそれだけではありません。正しい人にも、律法のリスクはつきまといます。

というのは、「〇〇をしてはいけない。」というルールを設定すれば、真面目な人は、それを一所懸命守ろうとします。ですが、人間は、完璧ではありません。あらゆる外的影響から、ついつい「〇〇」をしてしまう場合があるのです。

 

「〇〇をしてはいけない。」という教えを脳にインプットされている人は、その「〇〇」をしてしまった事実を把握してしまうと、「罪悪感」というものが生まれてしまうのです。

 

これが、律法によるリスクなのです。

 

自分の中に、悪があるという証拠として、律法は確定してしまうリスクがあるということです。

2、律法を完成させたキリスト教

ユダヤ教は、律法を大切にする宗教です。旧約聖書は、律法や善を固定させることによって、人々に悪をせずに、善で生きることを導く良いものです。

ですが、律法を大切にするだけに、そのリスクも沢山存在し、問題もあったのです。

人間は、完璧ではないので、悪1つしないという人間は、存在しないからです。

 

みな、悪人だという証明を逆にユダヤ教は、してしまっているわけです。

 

旧約聖書の神様は、力強く、畏れられる存在です。

ですが、それは、親が子を大切だからこそ、忠告や注意をするのと同じで、人間を愛しているからこそ、滅んでほしくないと願い、律法をモーセの時代に与えたのです。

 

親としては、それだけでは、足りません。

 

聖書の神様は、しあげと、律法による矛盾を解決するために、イエス様を世に送られたのです。

 

人間は、完全な人など存在せず、みな罪人だからこそ、その罪を贖うことはできません。いつまでも、罪悪感と悪をする恐怖、悪を見出す恐怖の連鎖からはみ出すことは出来ずにいたのです。

 

ですが、聖書の神様は、救世主であるイエス様を人間のために、送られ、不完全な人間のかわりに、すべての罪を背負い、律法から解放してくださったのですね。

 

人は、イエス様によってゆるされ、罪悪感を残すことなく、前向きに生きることを与えられたのです。

悪によって、多くのルールが成立してきたのですが、そのルールによってまた、ゆるされることがなかったのですが、イエス様の身代わりの血によって、それらはゆるされ、悪の連鎖ではなく、愛の連鎖が作り出され、多くの人間の鎖が、解放されはじめたのです。

 

女性にも権利が生まれ、男にも自由を持てる人も増え始め、さまざまな解放が、次々と現れていったのです。

カトリックは多くの規制を持って、世界を支配しました。ですが、プロテスタントによって規制は緩和され、解放され、現代のように科学や学問や文化が発展していったのです。

 

次々と不可能だということを覆すようになったのは、あのイエス様の十字架刑からです。

 

イエス様の存在がなければ、明治維新も起こることはありませんでした。巨大な権力をもった江戸幕府に対抗するには、海外勢力からの支援が不可欠だったからです。海外では、江戸幕府よりも巨大なカトリック支配からの解放が起こされたことが、日本に影響を及ぼしたのです。

 

人を裁くことばかりをする、律法主義者は、日本人に沢山いますが、それは負の連鎖でもあり、そればかりでは前に進めません。それも大事ですが、ゆるし、信頼し、愛を持って接することで、人の脳は、制限されることが少なくなり、あらゆる発想ができるようになるのです。

 

これはしてはいけないという固い頭だと、発想力は低下します。ですが、してもいいというものだと、発想は広がっていくのです。

 

悪に対しては、制限は必要です。ですから、律法は必要なのです。ですが、その律法だけでも足りません。ゆるしと愛がなければ、律法は、リスクとともに、新たな悪を生み出し、救いを失い、発展を妨げるのです。

 

普通の親は、こどもに、怒ることもすれば、愛を示すこともするのです。それが普通です。どちらも大切なことなのです。

 

キリスト教は、その奥義を見出し、律法を完成させたのですね。

 

だからこそ、キリスト教は、ユダヤ教を否定しない宗教なのです。ユダヤ教を否定すれば、キリスト教は成り立ちません。旧約聖書という基礎があるからこそ、花開けるからです。

 

何が悪く、何が正しいのかを固定できる律法の正しさ、そして、律法から出るリスクを解決する愛とゆるしによって、完成されるのです。

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