聖書

マリアとはどのような女性だったのか

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救い主イエスキリストを産んだマリアのイメージは、その宗教によって大きく異なります。

カトリックでは、聖母マリアとして、神的存在かのように扱われ、マリア像まで存在しているほどです。

 

カトリックでは、人間を持ち上げる風潮があり、使徒なども聖人として、像が造られ、人間であってもローマ教皇と神のように祭り上げられた時代も存在していたのです。

そして、マリアはその代表だとも言えるでしょう。

 

なぜ、マリアは、そこまで特別な存在として、あげられてしまったのでしょうか。

聖書は、マリアについてどのように書かれているのでしょうか。

1、イエス様の母マリアは、ただの人間

まず、聖書は、マリアを特別扱いしていません。ただの人間の女性として扱われています。

むしろ、マリアは、なぜか遠くに追いやられるべきかのように、書かれているのです。

 

マタイによる福音書12章46-50節

 46イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。 47それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。 48イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。 49そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 50天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。

ヨハネによる福音書2章1-5節

1三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 2イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。 3ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。 4イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。 5母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。

ヨハネによる福音書19章25-27節

さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。 26イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。 27それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。

 

このように、聖書は、明らかに、イエスの母マリアをただの女性として扱っているのです。何度も何度も、このことについて書かれているにも関わらず、マリアを特別扱いしてしまうひとたちがいるのですね。

たしかに、マリアは、素晴らしい女性だったことでしょう。そうでなければ、イエス様の育ての母としては選ばれなかったはずだからです。

マリアも、ヨセフも素晴らしい人格者だからこそ、神様から選ばれたのです。

だからといって、ふたりは神でもなければ、特別な人間というわけでもありません。わたしたちと同じ人間なのですね。

2、母性としてのマリアの人格

イエス様は、母マリアに対して、とても冷たい態度を取っているかのように、感じる方がいるかもしれません。特に女性なら、自分のお腹から生まれた存在を子として、扱って何が悪いのだろう?と考えてしまうはずです。

わたしも、普通の女性なら、それは理解できます。

自分の遺伝子情報が組み合わさり、お腹を痛めて産んだ自分の子孫である子に、愛情深くなることは、当然といえば当然です。

神様も、女性に産みの苦しみを与えられたのは、母が子を大切にするように仕向けるためのルールのようなものだったと考えられるからです。もし、女性が、何の苦労もなく、子を産めるようになっていたら、悪がある人間の中には、子を簡単に手放し、愛情も持てないようになっていたことでしょう。実際、産みの苦しみを味わったにも関わらず、その子を手にかける母親も存在するからです。痛みがなければ、その割合は増えていたことでしょう。

動物も同じで、痛みによる出産を終えると子を守るように育てはじめます。もちろん、極一部だけその例外になる動物や人間がいますが、ほとんど100%子孫を大切にするように、生き物はプログラミングされているのです。

 

では、マリアは、普通の女性とは違ったのか?というと、違ったのです。

明らかに、普通の女性と違ったのは、子が生まれる前から、天使によって告知がされていたことです。

女性のみなさんが、子を産んだ時、天使が告知してくれたでようか?

ほとんどの人は、告知されず、普通に自分の子を産んだことでしょう。

 

ですが、マリアは、天使からすでに、マリアの子ではなく、神の霊によって救い主が生まれることを告知されていたのです。

しかも、東方の博士3人によって宝物が与えられ、教育費まで、確保された状態でした。

 

あなたなら、どうでしょうか。

 

天使からそのような話をされて、宝物まで用意され、救い主だという子を普通の人間の子を育てるように、育てるでしょうか?

 

それらの不思議なことが起こったのなら、普通の人間は、その子を特別な教育をして、救い主らしい生活と親の態度を見せるように暮らそうとするはずです。

 

マリアやヨセフもそのように、生活し、そのように、イエス様を育てたのです。

 

イエス様は、こどもの頃から自分は神の子であるとマリアに言い聞かせていました。

ルカによる福音書2章41-50節

41さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。 42イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。 43ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。 44そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、 45見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返した。 46そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。 47聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。 48両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。 49するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。 50しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。

 

12歳のイエス様にマリアは、自分の父は神様なのだと言われたのですが、それを理解することが出来ていませんでした。ですが、イエス様が大人になり、弟子とともに旅を続けて家にいった時、マリアはそれをすぐに認めたのです。

ヨハネによる福音書2章1-5節

1三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 2イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。 3ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。 4イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。 5母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。

 

普通の母親なら子に、「女よ。あなたとわたしと何の関係があるのか?」と言われたら、意味が解らず、叱ることさえするでしょう。聖書には、父と母を敬えという教えもあり、日本人でもそれは理解できることでしょう。

ですが、マリアは、イエスにそう言われて、すぐにイエス様のいうことをきいたのです。

これは、小さい頃から何度も、イエス様によって、マリアは、イエスの母ではなく、イエスの父は、神様だという教えがされていて、大人になり、弟子をつれて旅をしていることがその証明にもなったからだと考えられるからです。

 

みなさんは、マリアは、イエスの母であり、その遺伝子をイエスが受け継いでいるという認識かもしれませんが、そうではありません。

むしろ、イエス様は、マリアの親なのです。

「何を言ってるんだ?」と思うかもしれませんが、そうなのです。

 

マリアは、アダムとエバの子孫です。家系図にも載っているように、アダムからはじまり、アブラハムの子孫であるダビデの家系の子孫、それがマリアとヨセフだったのです。

福音書に2つの家系が書かれているのは、マリアとヨセフが両方、ダビデの子孫だという証拠として載せられているのです。

そして、ダビデもまた、アダムの子孫です。

 

そして、そのアダムは、イエス様に似せて造られた人間でした。

イエス様は、アダムの親であり、雛形だったのですね。

だからこそ、アダムの血よりも、イエス様の血に力があり、その正当性がみいだせるのです。

ひとりのひとアダムによってすべての人間が、罪に追いやられたのですが、そのアダムに善なる素質で作り上げた雛形であるイエス様の血によってその罪は、贖われるのですね。

ですから、マリアは、イエス様の遺伝子を受け継いだひとりの女性であるだけであって、イエス様がマリアの遺伝子を受け継いでいるわけではないのです。

イエス様は、神の霊によって生まれたのであって、人によって作り出されたのではないのですね。

 

それをマリアは、イエス様が旅をして弟子を連れてくるまで、理解できず、自分の子として、母性を働かせて、考えていたのですが、やはりイエス様は、自分の子ではないと心の奥底では知っていたというわけです。

 

イエス様は、その悲しみを汲んで、死ぬ間際に、マリアに声をかけられたというわけです。人間としての母親としての感情を汲まれたのですね。そして、弟子をマリアの息子として選ばれたのです。

 

このように、マリアは素晴らしい女性であり、母親であったと思いますが、決して神でもなければ、聖人でもないのです。

 

3、世界中に存在した救世主伝説

救世主伝説は、聖書だけのものではありません。

世界中の宗教に、処女が救世主を産むという伝承があり、その情報は広がっていたのです。

ですから、世界中に女神崇拝がされていたのです。

 

この事実を説明できているのは、また聖書だけです。

聖書には、世界の情報が共通している不思議を説明しているからです。

 

アダムとエバは、神様のたった1つのルールを破り、罪をおかしました。悪を選んだのです。

そのため、人間に悪のプログラミングが入り込み、世界に悪が増大することになりました。

そこで、人間が滅びないように、神様は人間に悪をすれば、試練が返ってくるようにされたのです。

試練を与えるという愛で、人間を守られたのですね。

 

ですが、アダムとエバは、天国であったエデンから追放され、イエス様から離されることは、恐怖であり、苦痛でした。

そんな、ふたりに神様は預言を与えられたのです。

 

また、エデンに戻れることを預言し、またそれは、女の子孫から男が生まれ、彼が救世主として、悪魔の頭を踏み砕くというのです。

 

創世記3章13-15節

 13そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。 14主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。 15わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

 

この預言は、女の末(女の子孫)と書かれています。人間の子孫ではなく、女だけの子孫、処女から生まれる子孫です。そして、その彼が、悪魔の頭を踏み砕くのです。

 

アダムとエバは、自分たちの息子が、その救世主であり、またエデンに戻してくれる存在だと考えたことでしょう。ですから、最初の息子であったカインに、救世主として特別扱いした育て方をしてしまったかもしれません。そのため、カインは、アベルとの競争心によって、アベルを殺してしまったのです。

アダムとエバは、死んだアベルでもなく、人を殺してしまったカインでも救世主ではないと理解したことでしょう。

 

それから、自分たちの子孫、こどもたちから生まれる男の子が、誕生するたびに、その子が救世主ではないのか?と伝え続けたことでしょう。

世界中に、共通点が存在し、それが世界中に広がっている理由、それは伝言ゲームのように、親や祖先から言い伝えられたものであったと聖書だけが説明しているのです。

 

他の宗教では、言葉や民族や土地がバラバラであり、さまざまな宗教がありながらも、世界中の伝承や宗教に共通点があるという不思議について、説明できるものはありません。

聖書だけがそれを説明できているのです。

人間の肌の色が3色であるということも、現代人なら簡単に解ったとしても、何千年も前のひとたちがそれを知っているわけがないのに、聖書は3色で広がっていることが書かれているのです。

 

人間の能力を超えているのが、聖書なのですね。

 

世界中に救世主伝説があり、女神崇拝があるのは、聖書だけにとどまったことではなかったのです。

その理由を説明は出来なくても、伝承として残されていったのです。

 

 

4、カトリックは新興宗教

多くのひとは、カトリックは、キリスト教だと思っていますが、カトリックは、原始キリスト教を利用した、多神教と一神教を混ぜ合わせた新興宗教なのです。

ローマ帝国は、世界中の宗教や情報、哲学など集めた最先端の国であり、町でした。

法律もとても論理的に造られ、多神教を広めていたことは、政治目的にも、役立ったからです。

 

世界の宗教は、さまざまな神々が存在しており、様々な文化や価値観がありました。

それらを強制的に、力で押さえつければ、当たり前ですが、反抗してこられ、戦争に発展してしまいます。

ですから、ローマ帝国は、多神教を国教にして、他国の宗教を認め、そこで寛容さを表して、帝国に連盟させようとしたのです。

 

これは、帝国が広がろうとしていた最初のうちは、良かったのですが、その考えが現実的ではないことにローマは気づいたのです。

なぜなら、ローマ人が考えている以上に、他国は、文化的でもなく、人格的でもなかったからです。

嘘や裏切り、反乱や犯罪さえも、正義とする文化も存在していたのです。

 

中国では、孔子や劉備玄徳がカニバリズムをしていたことが書かれています。人は、人を食べることを正義とした文化さえあったのです。

他国のアイディアを盗んで、利益にするという正義の文化も現在中国であるように、わたしたちの考えている聖地とは、決して当たり前ではないのです。

 

ですから、ローマ帝国は、反乱や反逆が後をたたず、次から次へとそれを武力で押さえつける戦争が、続き疲弊していったのです。

認める政治と武力によって認めない政治の繰り返しがローマの歴史と言えるほどです。

 

リーダーに権力を集中させるのか、それとも政治全般に力を分散させるのか、どちらも正しく、どちらも間違ったものを繰り返していたのです。

 

ですが、その常識を打ち破ったのが、原始キリスト教だったのです。

原始キリスト教は、ローマからもユダヤ教からも迫害され、捕まえられては、殺されていました。

にもかかわらず、迫害すればするほど、ローマ市民に原始キリスト教は認められ、多くのローマ市民の信仰につながっていったのです。

 

そして、不思議なことに、それらクリスチャンたちには、自然と平和と安定、理解が増し加わった教育が心の奥でされているということでした。

 

ローマは、このキリスト教の道徳的な心を生み出す仕組みを政治に利用しはじめたのです。

 

力によって、文化や価値観を植え付けようとするのではなく、一神教の宗教によって、人々に道徳的価値観や文化を与えようと考えたのです。

 

それは、大成功を収めたのです。

 

頭の中のプログラミングを植え付けるのは、はじめは難しいものですが、それは30年も経てば、理解されていくのです。こどもたちにそれを教えることで、その子たちの時代になった時、ローマの安定が約束されるようになっていったのですね。

 

ですから、ヨーロッパの王族貴族は、キリスト教を信じることで、自分たちの土地を平和に反逆されることなく、統治することができるようになったのです。

 

 

なので、王族貴族よりも、上だったのがカトリックの司祭だったのですね。

王や貴族にその位を授けるシステムにあったのも、理にかなった論理的なものだったのです。

人には、愛や正義がないので、宗教によって愛や正義を固定し、それに人々が従うようなシステムを作り上げたのです。

 

多神教は、島国のような日本などでは、通用しますが、大陸のような過酷な環境では、通用しないのですね。

 

なぜなら、日本は、海という国境があり、ほとんど同じ民族、同じ言葉、同じ価値観で統一されていたから、平和や安定があったのですが、大陸には国境がなく、言葉も民族も価値観もバラバラなので、信じられないほど残酷な現実が存在していたからなのです。

 

とはいえ、多神教だったローマ帝国が、突然一神教の宗教に、変われるはずもないので、多神教であり、女神崇拝をしていた文化をキリスト教に植え込み、カトリックという新たな新興宗教を作り出すことで、認めさせはじめたのです。

 

ですから、聖書では、マリアはただの女性であり、人間だと書かれているのに、カトリックなどでは、神とさえ崇める思想も存在してしまっているのですね。

 

現在のキリスト教と考えられている文化は、実は、聖書的なものではありません。

クリスマスも、聖書のものではないのです。イースターやハロウィンなども、聖書的なものではありあせん。

それらは、他宗教の文化であり、多神教や悪魔宗教の文化なのです。

 

白人は、黄色人種であったユダヤ人たちから、聖書を奪いそれを利用しはじめたのですが、ユダヤ人が世界中に広がって消えてしまったので、文化も消えてしまったのです。そして、自分たちのやってきた文化をキリスト教に融合させ、聖書を教えながら、やっていることは、白人の文化になって世界中に広がっていったのです。

そして、それらがおかしいと抗議しはじめたのが、プロテスタントでした。

プロテスタントは、新興宗教をやめて、原始キリスト教の教えに、立ち戻ろうと運動をはじめたのですね。

 

ですから、プロテスタントでは、マリアは、神としては教えません。尊敬できるひとりの人間としては教えても、聖人でもなければ、神でもなく、聖書に忠実に、教えるのです。

 

また、聖書は、マリアや女神崇拝をとても恐ろしい存在であることが書かれています。

悪魔宗教は、アダムたちから受け継いだ善の知識や情報のノアの伝承を歪曲させ、悪魔的にしていきました。

世界の闇のルーツ、カナンの教え>>

 

多神教によって石や木で作られた神々も登場していったのです。その悪魔的に歪曲された情報の1つが女神崇拝です。

忌み嫌うべき、アスタロッテなどが、聖書には書かれています。

そして、その伝承は、カトリックに受け継がれ、キリスト教が女神崇拝しているかのように、歪曲させていきます。プロテスタントの国であったはずのアメリカにも、自由の女神が置かれているのです。

これらの現代は、過去からみれば未来ですが、それさえも、聖書は預言されていました。

黙示録12章1-6節

1また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。 2この女は子を宿しており、産みの苦しみと悩みとのために、泣き叫んでいた。 3また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた。 4その尾は天の星の三分の一を掃き寄せ、それらを地に投げ落した。龍は子を産もうとしている女の前に立ち、生れたなら、その子を食い尽そうとかまえていた。 5女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。 6女は荒野へ逃げて行った。そこには、彼女が千二百六十日のあいだ養われるように、神の用意された場所があった。

女は、神のみもとに引き上げられる子を産み、その子は、すべての国民を治めると書かれています。まさに、イエス様を産んだマリアです。

龍とは、悪魔のことです。龍は、子を産もうとしている女の前に立ち、うまれたなら、その子を食い尽くそうとかまえているというのです。

龍という悪魔が、マリアを利用して、イエス様の権威を食い尽くそうとするのです。

まさに龍とは、カトリックのことを指している可能性があるのですね。

 

現代は、悪魔宗教の下に、カトリックも存在していますが、将来は、どうなるのか解りません。インターネットによって個人でも情報が流される環境が出たことで、パンドラの箱(契約の箱)が空き、次々と悪が外へ暴露されていきます。その箱とはパソコンのことなのかもしれません。そして、残ったのは、希望です。

次々と悪魔の策略や計略が暴露されていけば、悪魔宗教は自然と追い込まれることになります。では、どこに彼らは逃げるのでしょうか。

まっとうなキリスト教や神道などに逃げても、滅ぼされるだけです。彼らが逃げるとするのなら、キリスト教に似せて造られたカトリックではないでしょうか。

もしかすると、世界中の悪魔宗教は、カトリックの基に逃げていくかもしれません。そうすると絶大な権力をカトリックは持つことになります。

しかも、悪魔宗教と違って、善悪のハーフであるカトリックですから、一般市民の多くもこのカトリックを信じているのです。

天と地と人がそろった龍であるカトリックは、本当に恐ろしい存在になるでしょう。

 

それに対抗できるのは、本物のキリスト教と神道、またイスラム教や仏教などの連合になるかもしれません。

神様のされることは、とても不思議です。人間の考えでは、論理的にみえなくても、人間の理解を超えて、世界にバランスをもたらされているのです。

マリアが選ばれたのもまた、そのためでしょう。

マリアが神だという思想を世界にもゆるされている理由、それも未来では明らかになっていくことでしょう。

 

 

まとめ

 

マリアという女性は、素晴らしい人だったからこそ、神様から選ばれ、イエス様の育ての親、両親になれたのです。

そして、女性としての子を想う気持ちもあった不完全な人間だったのですね。

神様や世界の仕組みを理解できておらず、至って普通の女性だったことが聖書では読み取れます。

ですが、そのマリアを利用して、神だとして、崇め始めた黙示録にかかれた汚れた教会が、誕生しはじめるのです。

それらは、キリスト教にとても似ていますが、似て非なるものであり、特に支配者層は、信仰によって生きているのではなく、組織正義や地位や名誉、しがらみに縛られて、生きているのですね。

マリアという人物は、至って普通の女性だということです。

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