歴史

十字架を飾ることは偶像ではないのか

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キリスト教の教会では、十字架を飾っているイメージがあります。

ですが、その十字架は偶像ではありません。

カトリックでは、十字架にイエスキリストらしき人物の像が彫られ、飾られていますが、それらは明らかに偶像です。

 

なぜなら、イエス様の姿は、どのようなものだったのか、誰も知らないにもかかわらず、イエス様の形を表しているからです。

みなさんが、わたしの母親に会ったこともないのに、わたしの母の似顔絵が描けるわけがないのです。

 

特にカトリックで描かれるイスラエル人たちは、白人です。

イスラエル人は、白人ではなく、黄色人種であり、現代でいうとアジア人です。

このように、明らかに嘘を表しているもの、アイドルが偶像なのです。

 

では、十字架は偶像なのでしょうか。

1、十字架は、ただのマーク

確かに、教会では、十字架を置いています。

ですが、その十字架は、神でもなければ、イエス様でもありません。ですから、その十字架に祈っている人などいません。

「十字架の神様よ」と言いながら祈っている人などひとりも見たことがありません。

 

教会で使われている十字架は、ただのマークです。

会社のマークと同じで、ここが教会だということを人々に解りやすく表すための道具にしかすぎません。

いわゆる、家でいうと「住所」や「表札」のようなものです。

郵便配達員が来て、「ここは、〇〇さんの家だな」と解かるように、利用されているだけです。

 

ですが、その十字架に、イエス様らしき人物などを置いてしまえば、人々は、間違ってその人間が作った偽物のイエス様に向かって祈りはじめたりしてしまいます。

ですから、プロテスタントでは、そのような像などは置きません。

 

便利だから使っているだけのことなのですね。

 

また、十字架の形は、ほとんど固定されています。

十字の形をした十字架もあれば、日本のように「木」の形で、足を広げて固定しているような形もありますが、十字は共通です。

「十」の形は、利用されているのだから、間違いだとも言えません。

 

律法を大切にしてきたイスラエル人も、マークをよく使いました。

イスラエルには12部族がいて、それぞれの部族のマークがあったのです。

蛇や杖、葡萄やヤシの木、獅子などがそうです。

2、十字架は、悲しみ

十字架は、イエス様を手にかけた処刑台です。

ギロチンなどの処刑台をみて、ゾっとする人がいるように、十字架は人のいのちを奪う象徴です。

ですから、その十字架を神として、祈ったりもしなければ、語りかけるひともいません。

 

もし、十字架が神だとして語りかけていたら、その人は、少しずれた人です。

 

教会によっては、十字架すらも置かないところもあるぐらいです。

 

便利なので、宣伝のために使っている教会がほとんどでしょう。

 

わたしはそれはいたって普通のことだと思います。

 

正しく利用できるものは、利用するべきだと考えるからです。

 

イエス様も、旧約聖書を利用されました。イエス様は、イエス様だけの存在で神とか、救世主とか言われているわけではありません。

イエス様は、イエス様が生まれる前から存在していたユダヤ教や旧約聖書に沿って歩まれたから正しいとされているのです。

 

このように、イエス様が十字架刑で死なれたことは確かなことなので、その出来事を思い起こすヒントにもなる十字架を利用するのは、普通のことでしょう。

 

もちろん、十字架はそれだけのことで、その十字架を神だとか言い出したら、明らかに偶像になります。十字架は処刑台であって、神ではないので、祈ってはいけません。

わたしは、ネックレスなどの十字架も持ち歩きません。

自分がクリスチャンだということが解かりやすくなるという意味では、良い事かもしれませんが、ほとんどの人はそのようには観てくれません。飾りや格好を気にして付けていると観ることでしょう。スポーツマンや有名人が十字架のネックレスをするのは、効果的かもしれません。有名人がイエス様を信じているという宣伝が、福音になる可能性もあるからです。

 

体にタトゥで十字架を描く人もいますが、わざわざ形にする必要もありません。誰に弁解するわけでもなく、心に神様を抱くのなら、その人はクリスチャンなのです。それに神様から与えられた体を傷つけることはよくありません。針や体を切り刻んだりすることも、聖書は否定しているからです。

 

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