歴史

なぜ日本は、鎖国をしてキリスト教を弾圧してきたのか

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鎖国という言葉は、のちの人たちが解かりやすく理解するために造られた言葉で、当時の江戸幕府では鎖国という言葉はありませんでした。

歴史は、当たり前のように教えられていますが、裏が当然あるのです。

 

わたしたち一般人が学校宗教団体で教えられる歴史は、一般人に教えてもいいという表面的な歴史でしかありません。

これは当たり前のことです。

 

なぜ当たり前かというと、みなさんは、自分の奥底で考えている想いを知らない人に打ち明けたりするでしょうか。

わたしたちでさえ、信頼している人以外には、そのようなことをしないのに、民主主義になる前の時代は、戦国時代でも、いのちがけのやり取りをしていたのです。

大名なり、領主なりが、自分たちの考えをそのまま文字にして、残しておくと思うでしょうか。

なぜ、わざわざ敵に自分たちの本意を教えるリスクを作り出す必要があるのでしょうか。

 

わたしが、王様や大名なら、教えていい書物だけ残し、教えてはいけない本意の書物は、決して誰にもみせず、見せるべき人にみせたら処分させます。

 

昔は忍者という忍びが、屋根裏や床下から、こっそり話を聞いて、その内容、本意の情報を奪いとっていました。

ですが、それが出来ないように、本意を話す時は、小さな小部屋の茶室を利用したのです。そこで、本意のある政治が語られていたからこそ、茶を出してもてなした空海僧正などが、権威ある人物としてあげられていたのです。

離れにある小さな建物だからこそ、忍びさえも、潜り込めるわけがないのです。

 

現代では、社長や会長などが社員やお客の本意を知るために、盗聴などをすることが当たり前のように横行しています。自分たちには情報を持つようなシステムを確保して、自分たちの本意の情報は、流されないようにしたのです。

 

学校宗教団体で、教えられる歴史というのは、建前上だけの歴史であって、本意なわけがないのです。

では、なぜ本意が解るのかというと、どうしても、覆せない本意の情報もわたしたちでさえ、手に入れることができるからです。

例えば、その人物そのものです。

 

そういう大名や王様、天皇がいた、豊臣家がいたなどは、隠しようもないのです。

そのような人物たちが、本当はどのように動き、どのように考えていたのかは、解からなくても、その存在や状況という覆せないものから、ある程度、本意がみえてくるわけです。

また、わたしたちが知っている歴史は、表面的であるということも、当たり前ですから、知っている歴史を180度回転させて考えてみることも効果的です。

すると、本意がみえてきます。そして、驚くべきことに、180度回転させた歴史をみていくと裏歴史と一致していき、一本に歴史はつながってしまうのです。

 

学校宗教団体では、歴史は、「こうだった」と断定的に教えられ、テストで独断的に点数化されていますが、それらの表の歴史の1つ1つには、「???」という疑問が残るものが多くあります。

1、戦国時代の本意

信長が本能寺で死んだ後、豊臣秀吉は、オウム返しという、たった1週間で、後ろに巨大な敵であった毛利を残したまま、明智光秀と対峙したのです。

これをそのまま当たり前で、答えだと思うのは、おかしなことです。現代の1週間ではなく、当時の1週間で、自軍を700kmも戻しすのは、奇跡としか言えません。

ものすごい速さで、その途中でも、食事の用意がされ、あらかじめ、織田信長が殺されることを知っていたかのような反応で動いているのです。

しかも、毛利家と戦っていた最中にです。

 

毛利家は、信長の次に勢力を拡大していったもので、信長とは違い策略や謀略、裏切りなどを繰り返しては、狡猾に勢力を伸ばしていった存在でした。第二の信長軍とさえ言える勢力です。そんな油断もすきもない相手を後ろにして、戻れると思うでしょうか。

これらの奇跡を起こすために、本意ではまったく違う情報が、それぞれに流れていたと考える方が自然です。信長にも、明智光秀にも、徳川家にも、もちろん、豊臣秀吉や毛利家にもです。

彼らは賭けをして、天下を取ったのではなく、勝つべくして勝つ演技を組み込んだとみるべきなのですね。

で、あれば、あれらの謎の行動もみな説明できてしまうわけです。

信長は、明智光秀を自分の後継者にしようとしていました。信長家で、一番出世していたのは、明智光秀です。豊臣秀吉よりも出世の速度は速かった人物でした。一番信長に信頼された明智光秀が、信長を暗殺するのが、本当に本意だと思うでしょうか。

このように、わたしたちの知っている歴史というのは、表面的なものでしかありません。裏では、勝つべくして勝つための策略が張り巡らされ、表に出してもいい情報は、敵味方に扮して、天下取りをギリギリで取ったかのように見せていただけだということです。

明智光秀は、豊臣秀吉によって討たれ、死んだとされていますが、一連の騒動は、すべて天才軍師であった明智光秀の計画通りであったとしたら、どうでしょうか。信長は、明智光秀と出会うまで、人々に我は正義だと広め続けていました。農民たちの暮らしを良くしようとする領主として、みなと力をあわせて、生きていこうとした異端児だったのです。信長は女ではなかったのか?と言われるほど、信長は優しい人物でした。

ですが、明智光秀と出会ってから、信長の表の情報は、まるで鬼や魔王かのような情報が飛び交うようになっていったのです。

天下を取るためには、悪魔的な発想とシステムを作り出して、日本を裏でコントロールしていた藤原家と戦わなければいけなかったからです。

優しいイメージだけでは、藤原家と対峙することは出来ないと考え、藤原家にも気に入らなければ、簡単に弓を弾くという鬼のようなイメージを表で流し、実際は、平和や絆の政治を行っていたのです。

藤原家は、カナン人の末裔です。その策略と謀略によって日本の天皇を人質にして、中央を支配し、日本を裏で支配し続けました。今でもフジテレビなどは、藤原家のもので、放送局のほとんどは、藤原家がアメリカから一任されているのです。

太平洋戦争も、この藤原家の近衛文麿元総理によって起こされました。

表向きは、反共産主義者の顔をして、天皇家とゆかりのある存在として、日本中が彼を称賛したのです。天皇以上の人気を得て、世をコントロールしたのですが、誰よりも日本を苦しめ、日本人を死へと追いやった人物でした。

このように1400年間も、日本を裏で支配し続けているのが、日本の巨悪である藤原家です。

その藤原家と信長たちは戦わなければいけなかったのです。

藤原家は、偽仏教を利用して、日本中の大名たちをコントロールしていました。宗教も政治も大名も、経済も、藤原家が裏で支配していたのです。

 

それに逆らい続けたのが、幕府でした。鎌倉幕府も、室町幕府も、江戸幕府も、みな藤原家を牽制するための組織だったのです。

日本はながらく二重政治をしてきました。朝廷と幕府との争いが続いていたのです。

ですが、室町幕府が朝廷に負け、お飾りになってしまった時代に、信長が登場してきたのです。

信長は、天才軍師明智光秀を手に入れ、明智光秀の計画通りに、天下を取っていったのです。明智光秀は、驚くべきことに、藤羅家から差し向けられたスパイでした。世界でもそうですが、国や帝国を支配するために、目となり、耳となる人物を朝廷から差し出して、大名たちの軍師にして、コントロールしては、歯向かわないようにさせていたのです。

明智光秀、石田三成、直江兼続などは、朝廷からのスパイとしての軍師だったのですね。

 

そのスパイだった明智光秀が、朝廷を裏切って、信長を天下人へと登りあげたのです。

裏の情報も表の情報もすべて知っていた明智光秀が、朝廷側には、信長をコントロールしているかのように演技し、信長側には、本当の軍師として、信長を鬼のようなイメージにして、自分の意見さえも聞かないとしていったのです。

 

信長は、絶大な信頼を明智光秀に持っていました。自分の成功はすべて明智光秀によってもたらされたといっても過言ではなかったからです。ですから、信長は、明智光秀に継いでもらいたいと望んだのですが、明智光秀は、さらに上をいっていました。

明智光秀は、天下人になることを望まなかったのです。

天下人というトップになれば、いずれは生きるか死ぬかになるのは、歴史では当たり前です。表でトップだと顔をだせば、すべての責任は、トップへと向けられるからです。藤原家がなぜ1400年もの長い間、日本を支配できたのかというと、トップを天皇にして、裏で操って来たからです。自分たちは、2番手になることで、生き残って来たのです。

信長もそのまま天下取りになれば、織田家は滅んでいたかもしれません。信長の跡を織田家の子孫が受け継げば、織田家は滅ぼされる可能性は高かったのです。

ですから、織田家は、2番手、3番手になるようにして、天下取りのトップを他の誰かにする計画を建てたのですね。

そして、信頼もできて、仲間であり、平和の象徴であった農民出の豊臣秀吉が、選ばれたのです。

 

あとは、信長が天下を取るだけになった時、信長を明智光秀が殺したという演技をみせて、豊臣秀吉が、その明智光秀を討ち、信長の意思を受け継いでトップになったのです。

明智光秀は、藤原家の最後の砦でした。その砦であった明智光秀が邪魔な信長を殺してくれたことに喜んだ時に、その明智光秀が豊臣秀吉にあっけなく殺されたという情報が、飛び交うわけです。

さすがに、織田信長が天下を取る頃には、藤原家は、明智光秀が裏切っていると考えていたのに、その明智光秀が信長を殺したことで信頼しようとしたのに、すぐに明智光秀が死んだので、混乱したことは間違いありません。

ですから、藤原家は、何度も信長の首と明智光秀の首をみせるようにと催促したとされています。

ですが、それらの首が本当に信長や明智光秀のものだったのかは、解らなかったという話でした。

 

豊臣秀吉は、鬼である信長が生きているかもしれないという含みで、藤原家を脅して、藤原家が持っていた関白まで奪い取り、藤原家の上にまで、登り詰めたのです。

それもすべて明智光秀の計画通りだったことでしょう。

明智光秀も死んではいませんでした。彼は、天海という人物になり、徳川家康のおかかえになることで、裏で織田軍の軍師として、計画を建てていたのです。

天海の墓や日光東照宮には、明智光秀の家紋がなぜか残され、また明智光秀の子孫たちがなぜか、徳川家と縁があり、春日局などが大刀していくのです。

信長を暗殺した裏切り者の明智光秀の家紋が、なぜ日光東照宮にあるのでしょうか。

戦国時代から江戸幕府の繁栄まで、すべて明智光秀の計画通りだったというわけです。

 

 

 

 

2、織田側の勢力は、なぜ急にキリスト教を排除しはじめたのか

勝つべくして、勝つとさきほど言いましたが、それでも日本における現実は、簡単に理想や思想だけで、覆せるはずはありません。

織田信長が、日本中を敵にまわしても、勝ち進むことができたのは、裏があったからです。

 

それは、海外勢力における知識と技術でした。信長は、運のいい人で、その人格にほれられたのか、あらゆる知識人たちから情報をもらい、また、織田信長の父から受け継いだ商人としての知識もあいまって、海外との貿易を進めていきました。

圧倒的に、不利であり、信長が持っていた領地も、すべて藤原勢力に囲まれていた状態でしたが、信長が1つだけ優れていたのは、海外との貿易でした。

海外から火縄銃を取り寄せ、大量に所持することができたのです。

 

明治維新の裏にも海外勢力がありました。徳川家康と豊臣軍の石田三成との戦い、関ケ原の戦いにも、海外勢力のエリザベス女王がいました。イギリスから大筒を手に入れ、たった6時間で、石田三成を倒したのです。藤原家を倒したのですね。

このように、中の巨悪を倒すのなら、外からの勢力を頼るというやり方は、とても効果的だったのです。

ですから、信長は、とてもキリスト教に対して、好意的でした。

自分の城にさえ、天主閣という部屋を最上位の部屋にして、イエスキリストを受け入れていたのです。

 

信長にそのツテがなければ、いくら明智光秀でも、信長側にはならなかったかもしれません。

その信長に対して、藤原家は、信長包囲網を作り出し、一機に攻めてきましたが、それさえも防ぐことができたのは、海外から取り寄せた技術に他ないでしょう。

信長は、イエスキリストに共感していました。イエスキリストは、罪人のまま十字架刑にされ、すべての人たから罵声を受けたにも関わらず、その後は、世界の救世主として、崇められることになったからです。

信長の不評の人生と被るところがあったことでしょう。

表の歴史では、鬼や悪魔だと言われても、実際に手にした日本の事実が、太平であり、平和であるのなら、それで満足だと感じていたことでしょう。

 

何よりも、織田家は、忌部氏の滅英でした。忌部氏とは、物部氏や蘇我氏と同じように、天皇と神道であった原始キリスト教(または、ユダヤ教、レビ人)で、日本を平和にしてきた一族でしたが、藤原家によって壊滅的ダメージを負わされ、落とされた一族です。

聖書の神に対して祭司の役をまかされていた一族でした。

神道や仏教などにも、精通していた時代い、信長は生まれたのです。

ですから、信長は、裏の歴史も親から聞かされていただけに、その時代のシステムに対して、疑問を持つことができた忌部氏のでしょう。

次から次へと異端的な発想で、政治を進めていった織田信長で、不思議としか言えないものでしたが、それらにも、裏を知れば理解できるわけです。

 

原始キリスト教、本物のユダヤ教(神道)であったイスラエル人たちが、日本列島にやってきて日本というエルサレムを作り、平城京(エルサレム)を建て、聖書に基づいて国を構築していったことも知っていたことでしょう。

信長の父、信秀は、藤原家からしても、少し注目されていた大名のひとりだったと思われます。なぜなら、他の大名よりも何倍も多く、朝廷に献上金を渡していたからです。その商人的な賢才は、天才である信長を産んだきっかけになったことでしょう。

様々な情報を得て、明智光秀でも手に入れることができた織田信長は、藤原家と対峙することが可能だったわけです。

 

戦国時代の常識は、信長側によって次々と覆されていきます。

例えば、戦国時代の兵士は、農民を使うことが当然でした。農民を兵士にして、自分たちの領地を守り拡大させていくという大義名分が、当然だったのです。しかも、農民たちには、報酬を与えませんでした。報酬は、戦争で手に入れた土地を略奪、強奪していくことでした。男たちは好き勝手に女性などにおそいかかり、土地を荒らしていったのです。武田信玄もそれを当然のように行っていました。

ですが、信長軍は違いました。兵士を農民ではなく、徴兵制度にして、兵士にお金という報酬を与えて、別枠にしたのです。

兵士という職業を固定させたのです。そして、強奪・略奪を禁止して、それらをした兵士は厳しく処罰されるという正義を掲げたのです。

裏切り・謀略・策略・嘘偽りの時代に、それらを否定する思考によって、臣下から絶大な人気を持つようになっていった信長は、家臣から裏切られることは、ものすごく少なかったのです。そのため、信長は裏切りは決してゆるしませんでした。

信長は、平和を実現し、体現することで、信頼を得て、その平和を守るために、民が一丸となって努力しはじめたことが、強味になったのです。民からも細かい情報を獲ることで、戦局を優位に運んだわけです。

信長が、武力や権力によって国をコントロールすれば、反発や裏切りがでますが、国の外から攻撃され、平和が脅かされると意識をむけさせれば、反発や裏切りは、なくなり、一丸となって国を守ろうとしはじめるのです。

この力は、歴史でも、多く使われてきました。中に問題を見出すのではなく、外に問題や難題があるとして、意識を向けさせるのです。

 

ナポレオンの連戦連勝も、日本の大東亜戦争も、ナチスドイツもみなこのような思想でした。

彼らは自分たちの国を守るという意識が生まれ、自分たちのために戦うという意識があるだけに、逃げなかったのです。

それまでは、人々は、領主や王たちの所有物でしかありませんでした。国は、一部の人間のものだったのです。

ですが、信長やナポレオンや日本やドイツは、民主主義精神であり、国は民のものだという発想があったので、兵士たちはいのちをかけて、本気で戦ったのです。逃げる者たちが圧倒的に少なかったわけです。

中国が圧倒的に弱いとされるのは、このためです。いつの時代も所有物として、中国軍は使われてきたので、本気で戦う人間などいなかったのです。日本やベトナムに負けたのは、いのちをかけて国を守るなどバカバカしくて、本気で戦うわけがなかったからです。

 

信長の発送は、かなり現代に近いものでした。平和的であり、民による国であり、論理的な政治を目指しました。

道なども整備して、行き来を楽にするなどのとんでもないことさえも、政治的に実行していったのです。物の行き来がしやすいということは、敵が軍を進めやすくなるということです。

朝鮮半島は、日本軍が助けるまで、一部の貴族が中国のスパイとして、朝鮮を支配し、民を苦しめていました。道路などもわざと整備しなかったのです。整備しなければ、北からのロシア軍も軍を進めることが困難になるからです。

 

戦国時代に、経済を優先して、発展させようとした発想は、異端と言えることでしょう。

 

あらゆる異端を受け入れ、そのひとつがキリスト教だったわけです。

 

そのキリスト教徒は、なんとあの本能寺にもいたという証言があるのです。ということは、海外勢力も、その計画に一枚かんでいた可能性があるのですね。

信長は、海外に勢力を伸ばすことも夢にしていたという話があります。その野望を受け継いで、豊臣秀吉は、朝鮮へと軍を派遣したとさえ言われています。

実際は、豊臣側以外の大名たちを疲弊させるための無理やりな作戦だったわけですが、信長が海外を望んでいたことは、間違いないことでしょう。

 

信長は、自分が死んだとさせて、もしかすると、キリスト教徒ととも、船で海外を見物しては、日本のその情報を流していたのかもしれません。

日本という天下を取ったのなら、次は、自分のために人生の時間を使おうという気持ちだったかもしれませんね。

 

ですが、急に信長側の勢力が、キリスト教への弾圧をはじめたのです。

それは何故なのでしょうか。

それと同じくして、豊臣秀吉は、藤原家に頭があがらなくなります。石田三成という軍師を置かれ、石田三成にやりたい放題されていくのです。

朝鮮出兵も石田三成の案でした。

意味のない大名いじめが繰り返され、秀吉の子、秀頼も実は、石田三成の子だったという話さえあるのです。

 

なぜ、突然、豊臣秀吉は、藤原家に頭が上がらなくなったのでしょうか。

 

これは憶測でしかありあせんが、信長は、日本に来ていたキリスト教の実態を知ってしまったのではないでしょうか。当時、日本に来ていたキリスト教は、実は、キリスト教ではなかったのです。イエスズ会という悪魔宗教であり、異端的な宗教で、キリスト教を占領したい国に広めて、内側から国を崩壊させ、支配していくというものでした。

愛や正義、想いなどの熱意のある宣教師を送り出して、一度は信頼させた後、権威ではなく、権力で支配しているその国の権力者を倒して、裏からコントロールしようとする、海外の悪魔宗教だったのです。

日本の悪魔宗教が、藤原家なら、海外の悪魔宗教は、イエスズ会であり、カトリックやプロテスタントなどに深く潜り込み、力をつけていたのです。

 

詐欺師がよくやる方法です。最初、甘い話を持っていき、実際に利益を与えて信頼させるのです。そして、信頼させたあと、与えた利益よりも多くの損をさせて、利益を確保するのです。

信長勢力たち、江戸幕府などが、キリスト教や貿易を禁止していたのですが、受け入れてからは、日本は海外から搾取されました。日本の小判は、海外の金貨の2倍ほどの価値があったにもかかわらず、そのまま貿易が行われ、2年間で膨大な金が、日本からアメリカへと流されていったのです。

その額、1京とも2京とも言われる膨大なものです。

 

日本の現在の借金が1400兆円といわれていますが、位のケタが違うのです。

 

その利益で、南北戦争に、勝ったとさえ言われているほどです。

 

現在のアメリカがあるのは、日本のおかげだとさえ言えるほどです。

 

このような海外の悪魔宗教のやり方を理解したのか、信長は、イエスズ会によって殺されたのではないでしょうか。

そして、その首を藤原家に渡し、藤原家は、本物の信長の首を秀吉に見せた。

 

信長の恐怖によって、藤原家をコントロールしていた秀吉は、逆に、尊敬する信長の首をみせつけられて、打ちのめされたのではないでしょうか。

それから、秀吉は、石田三成にやりたい放題されていくのです。

秀吉が死ねば、石田三成の子が、豊臣として、天下を支配していき、朝廷も、幕府も、藤原家になってしまいます。

 

ですから、関ケ原の戦いでは、なぜか豊臣川の武将たちが、徳川側に参戦し、その武将たちを徳川側に寝返らせたのは、なんと、徳川家を守るべきはずの秀吉の妻であった「おね」だったのです。おねは、秀吉が農民であったころから支え続けてきた本当の妻とさえ言われる人物でした。そのおねから、秀頼が秀吉の子ではないと聞かされたのなら、秀吉への忠義は、逆転してしまうのです。

寧々は、秀吉に恨みを持っていた可能性があります。自分の父だと考えていたあ浅井長政は、秀吉によって殺されたとされています。そして、2番目の父も、秀吉によって殺されました。

その後、信長の血を受け継ぐ子がほしいなどと考えた秀吉によって、寧々は妻となります。

秀吉よりも力があり、勝手なことができた石田三成と寧々との間に、子ができたとしても、不思議ではありません。

 

石田三成が勝てば、秀吉の想いだけではなく、信長の想いさえも消えてしまいます。ですが、家康が勝てば、信長の意思は、残り、秀吉の想いやおねの想いも、残るので、多くの秀吉側の武将たちが、家康側についたと考えられるのですね。

秀吉は、本当は、天海であり、明智光秀の計画のまま、世を支配していたいと考えたことでしょうが、暗殺にたけた藤原家を考えれば、秀吉は、コントロールしやすい支配者として、利用されているように振る舞うほうが、得策だったのでしょう。

しかし、その秀吉が死んでしまったのであれば、弱気にはいられません。

秀吉と家康の力関係は、とても複雑で、表向きには、仲たがいしていたかのようにみえましたが、なぜか秀吉は、家康を排除することはありませんでした。むしろ、家康を信頼していたのです。それは、空海の基で、仲間だったからでしょう。

日光東照宮には、家康の隣で、秀吉が祭られているのです。

そして、死後は、家康に託したと思われます。

託された家康や天海(明智光秀)は、盤石な徳川幕府を組み立て、藤原家を倒すとこなく、離れずつかずの関係で、日本を守っていったのです。

なぜなら、日本の藤原よりもタチが悪いのは、海外の悪魔宗教だったからです。

海外の悪魔宗教は、白人を利用して、次から次へと世界中を支配し続け、奴隷にしていっていたからです。

 

いつ日本もそうなるのか、解かったものではありませんでした。ですから、海外の情報は、書物1つにしても規制され、コントロールされていたのです。

特に、イエスズ会などの悪魔宗教は、批判され、藤原家も彼らを敵視していました。

自分たちと同じか、それ以上の狡猾であくどい海外勢力よりも、平和的な幕府と手を組んでいたほうが、安全だったからです。

 

毒は、毒によって静するという言葉がありますが、まさに、それでしょう。

日本の裏の支配者とともに、海外勢力と対峙して、日本のバランスを取ろうとしているわけです。

その勢力図は、今でも変わりません。藤原家は、以前よりも平和的であり、尾崎豊などを支え守っていたのですが、海外勢力によって彼は暗殺されたと言われています。

海外勢力が作り出した宗教が、いまは日本の政治の中心にありますが、もし、藤原家がいなければ、とっくに日本は支配され、本当に解体されていたことでしょう。

ですが、藤原家は、もともと中国であり、カナン人なので、在日系の政略を進めます。

決して油断してはいけないものなのですね。

 

とはいえ、藤原家は、日本という土地で暮らしている日本の裏の支配者なので、日本が滅ぶことを良しとしていないだけに、海外の支配者たちよりは、ましかもしれませんね。

 

ですから、今でもキリスト教は、天皇家によって許可を宣言されているわけでもなく、否定されてもいません。

もともと、キリスト教は、日本人の祖先によって神様から与えられた宗教ですから、否定する必要もないのですが、偽キリスト教を悪魔宗教は、作り出しているので、簡単に認められないのです。

 

神道が、原始キリスト教であり、ユダヤ教であり、神道の鳥居や祭り、お神輿などが、本当のキリスト教の文化だと世界中に認められるまでは、キリスト教を簡単には、容認するべきではないでしょう。

もちろん、本当に聖書に忠実なキリスト教徒に対しては、天皇家は、寛容です。昭和天皇も、毎週のように牧師を呼んで、聖書勉強をしていたほどです。

天皇家にキリスト教徒が多いのは、今にはじまったことでもありません。

だからといって、すぐに正式に容認するのは軽薄ですね。

 

わたしは、江戸幕府が偽キリスト教を排除して、平和を守ろうとしたことは、正しかったと思います。

長崎のキリシタン、天草四郎は、秀頼だったのではないかという噂話もあったりと面白いものです。

海外勢力が、秀頼を利用して、キリスト教を布教しようとしていた可能性もありますね。

 

有名な人物が生きていたというのは、大量にあります。西郷隆盛や土方歳三が、ロシアで余生を暮らしたとか、山本五十六が、アメリカで保護されていたとか、ヒトラーの老後の写真が出回っていたとか、勝つべくして勝つ演技のうちの1つのものが、代表役者たちが、殺されたというストーリーです。

石田三成は、悪だったとしても、その子である秀頼には、罪はないとして、裏では、生かしておいたのかもしれません。秀頼は、寧々の子であったことは間違いないはずですから、信長の血を受け継いでいるからです。信長の意思を大切にしていた家康や天海が、手をかけなかった可能性はあると思われます。

本能寺の変などが自作自演だったとしたら、秀吉と光秀との戦い、山崎の戦いの戦死者は、どういうことなんだ?と言われる人がいますが、それらの死体は、秀吉軍と毛利軍との戦いの時の死体を持ち運んだかもしれません。人の錯覚、トリックによって、思考を誤魔化すのです。

毛利軍は、秀吉の軍門に下り、関ケ原の戦いでも、石田三成の側として軍を起こしました。

自作自演だったのなら、黒田官兵衛の行動にも合点がいきます。なぜ、黒田官兵衛は、秀吉を祭り上げていたのに、軍師から遠ざかり、石田三成と仲が悪かったのか、関ケ原の戦いには参加せず、九州で戦いを挑んで、九州を平定したのか、なぞは見えてくるのです。

イエスズ会が、本能寺にいたことは明らかにされていることから、何等かの関わりはあったことでしょう。

信長の台頭の裏の支援者として、彼らがいたことは間違いありません。尾張から海に繋がっていたからです。

偽キリスト教であったのなら、どちらが問題だったのか、解らなくなりますね。

 

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