聖書

キリスト教の教える罪とは、どういうものなのか

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今生きている人たちのほとんどは、善悪という概念を理解しています。

物を盗む=悪 だと判断したり、人に道を教える=善 だと思ったりします。

その行動のひとつひとつを善悪の基準で葛藤しては、選び行っています。

 

一般的には、その悪を行った行動が「罪」だと考えられています。

〇〇殺人事件という小説を書いた作家は、罪人だとは思われず、〇〇殺人事件という小説の内容をマネて実際に殺人をおかした人は、罪人だと考えられるようにです。

ですが、キリスト教の教える「罪」というものには、2種類あると聖書に書かれているのですね。

 

その1つが、悪を行った行動1つ1つの罪。

そして、もうひとつが、それらの罪の根源である原罪という罪です。

1、罪はどこから生まれたのか

罪という概念は、決してキリスト教から生まれたものではありません。

もちろん、キリスト教によって罪の認識が深まり、さらに罪を明確化した宗教だということはいうまでもありませんが、それでも、キリスト教が成立する前から罪という概念は、世界中に存在していました。

まず、人間は罪を罪だと明確に認識できるわけではありません。

 

なぜ、罪を罪、悪を悪だと認識できるように今の人間は、育っているのでしょうか。

 

それは、律法や法律、ルールが存在しているからです。

 

生まれた直後にわたしたちは、わたしたちが関与していないルールがある世界に、母親のお腹から出てきます。

 

わたしたちが、選ぶ選ばないも関係なく、わたしたちの承認もなく、勝手にルールがすでに作られているのです。

 

例えば、日本語を使って生活するということも、日本で生まれたら選べることもなく、日本語を脳に入れられます。

 

大きく育っていくとその日本語で、ルールを教えられます。

「壁にクレヨンで絵を描いてはいけない」とか、「人を叩いてはいけない」などです。

 

このルールに従って生きている人たちは、正しい人で、そのルールに従っていない人たちは、正しくないと判断するようになっているわけです。

 

法律やルールは、キリスト教が成立するずっと昔から存在していました。

現在までに人間が確認できるルールは、ハンブラビ法典だとされています。

 

石に文字で法律が彫られていたもので、確認できるものとしては、一番古いのではないかと言われています。

ですが、そこに文字でルールが書かれていたということは、それよりも前に、ルールは存在していたということです。

 

人間が頭で理解しなければ、文字で書くことはできないからです。

 

約3800年前だと言われていますが、少なくとも、それ以前からルールは存在していたということです。

 

善悪の価値観は、4000年前であっても存在していたということですね。

 

聖書の旧約聖書は、そのハンブラビ法典よりも後の時代に書かれはじめたものだと言われています。

3600年前頃だと言われています。

 

キリスト教が成立するよりも1600年も前から法律や律法などは存在し、その法律の基で生まれ育ったひとたちは、その法律によって善悪の基準として、明確化し、罪を罪だと認識していたということです。

聖書が恐ろしいと言われているのは、聖書が書かれている出来事と現実の世界が一致していることです。

後から書かれているにも関わらず、世界で最も現実と一致した内容が書かれているのです。

進化論という宗教は、正しくないことは証明されています。ですが、聖書の創造論は、かなり現実と一致しているのですね。

わたしの信仰では、すべて一致していると信じてはいますが、わたしは神ではなく、不完全な人間なので、すべてを理解しているわけではないので、こう表現しているだけですが、聖書はかなり現実と一致しているのです。

進化論は、単細胞から進化を続け、動物となり、猿から人間へとまた進化を続け、人間が徐々に言葉を持つようになったという空想を考えますが、それは不可能なのです。

 

聖書は、神様がはじめの人間であったアダムに言葉を教えたことが書かれています。言葉を持っていた神によって、はじめのアダムは、言葉を脳にインプットされ、動物たちの名前を発明するように導かれるのです。

この創造論の内容は、可能ですが、進化論の内容は、不可能なのはなぜでしょうか。

 

それは、人間は、脳に言語中枢というものがあり、言語中枢は、幼い頃に手に入れなければ、その後、脳は固まってしまい言葉を習得できなくなるからです。

 

この世の中には、悲しい状況で生まれる子たちがいます。理不尽な親によって生まれた時から監禁され、狭い世界でしか生活してこなかった子もいるのです。日本では、なかなか存在しませんが、広い世界では、そういう子たちもいるのです。

その親からは言葉さらかけられず、そのまま8歳とか、10歳と成長していくのです。言葉をかけられないので、言葉の概念がないわけです。

そして、そういった子たちを救い出し、その後、言葉を教えようとするのですが、その子たちは、言葉を使えないのです。どんなに多くても50単語程度で、言語中枢が、発達していないので、新たな言葉を習得できないのですね。大半は10単語程度しか使えず短命で死んでしまうのです。

わたしたちが、英語やフランス語などを後から学び使えるのは、すでに日本語という言葉によって言語中枢が作られているので、習得できるだけで、母国語自体ない子たちは、言葉自体を脳にインプットすることができなくなるとう現実があるのです。

 

この事実が、なぜ進化論とつながるかというと、「お猿さんは、言葉をしゃべらない」ということです。

進化論という宗教に100歩ゆずったとして、猿から人間に進化したとしましょう。

ですが、人間に進化した人間の親は、お猿さんです。言葉を使いません。

ということは、その言葉を使わないお猿さんに育てられた、完璧な人間に進化している子も、言葉を習得できないのが、現実だということです。

 

現代人の完璧な人間の子であっても、幼い時から言葉を学ばなければ、その後、言葉を習得できなくなるのであれば、お猿さんがどれだけ進化しても、その親が言葉を使っていないのだから、習得できないわけです。

人間は、永遠に言葉を使えないのです。

ですが、現代人の多くは、言葉を使っています。このサイトを見ている人は、もちろん、言葉を使っていることでしょう。

なぜ、人間は、言葉を使えているのか?ということです。

 

創造論は、それをきちんと説明しているのです。神様が人間に言葉を与えたからだというのです。

聖書のおそろしさを少し、垣間見えたでしょうか。

聖書は、少なくとも2000年前から変わっていないものなのに、なぜか現実の現象と一致しているのです。

また、聖書よりも前に書かれたものよりも、現実の現象と一致しているのです。

 

そして、その聖書には、約6300年前に、アダムが造られ、その人間たちに、神様がはじめてルールを1つだけ与えたのです。

99.999%すべて自由であった人間に、0.001%のたった1つだけのルールを与えたのです。

それは、「エデンの園の中央にある善悪の木からその実を取って食べてはいけない」という簡単なものでした。

そして、そのルールをアダムとエバは、守らず破ったのです。すると、彼らは悪と罪に目覚め、恐怖を覚えるようになり、ルールを与えられた神様から隠れたのです。

 

 

ルールなどがなければ、人は罪を罪だと認識することは、かなり難しいものです。

例えば、狼に育てられた人間の子は、狼のように振る舞い生活をはじめます。もちろん、日本語は使いません。言葉という概念もありません。

言葉すらないので、多くのものを自然から発見し、発明していくしかないからです。

200年前の人間がスマホを想像できなかったように、狼に育てられた子からすれば、言葉という概念を想像することは難しいのです。

 

聖書は、それらの謎に答えているところが恐ろしいのです。

 

人間は、いつから言葉を手に入れ、誰から教わったのか、そして、ルールはいつから発明して、使いはじめたのか、それらも書かれているのです。

人間社会の根源になる言葉の由来さえも大昔から書かれ、現代でやっと理解できたことが、すでに書かれているのですね。

 

言葉に関しては、さらに聖書が正しいことが、言えるのですが、今回は、趣旨が変わってしまうので、次の機会に書こうと思います。

 

2、複数形の罪と単数形の罪

盗み、嘘、詐欺、暴行、乱暴、殺人など、罪だとされる事柄は、多数存在しています。

これらを聖書は、複数形の罪「罪・sins」だと表します。

ですが、なぜ人間は、これらの複数の罪をするのでしょうか。

 

どこからそれらの罪は、来ているのでしょうか。

 

言葉を親から学ぶように、罪の存在や種類も、親やまわりの環境から人間は学びはじめます。

この環境からの影響から人は罪をするのでしょうか。

 

ずっと家で育てた素直な子を幼稚園や保育園に通わすようにさせると、悪い言葉を覚えて使うようになり、その変化に親が驚くということがあります。

家族だけのかかわりしかなかったことで、ほとんど善しかできなかった子にも、家族以外の環境の刺激から悪だとされることを平気で行うようになるわけです。

 

悪に対する知識が、一般人のひとたちの脳に、すでにインプットされていることが、大きいということです。

 

ですが、それだけではありません。言葉や知識からだけではなく、ひとは罪をおかす可能性があるのです。

 

なぜなら、動物には、痛覚や違和感を感じ取る五感ないしは、六感があるからです。

 

動物も恐怖したり、威嚇をしたりするように、人間も生まれた時から与えられた体などの能力によって、違和感などを感じ取れるのです。

赤ちゃんは、教えられなくても、ストレスや違和感を覚えると泣きはじめます。

おむつに、もらすと違和感を覚えて泣いたり、お腹が減ったら泣いたりしてくれます。

 

痛みを覚えたら泣いてもくれます。

 

泣いてくれるから、親は何かあったのだと気づくことができて、対処できるわけです。

 

それらの違和感などをかわきりにしてなのか、人は悪を教えられなくてもしてしまう傾向があるのです。

 

こどもが、虫を発見して、その虫の足などを、もぎ取ったりする場面があります。至って普通に、不思議だと考えて、実験するように虫を解剖する子は、いいのですが、楽しみながら虫をいたぶる子もいたりするのです。

 

誰に教わったわけでもなくです。

 

人によってその割合は違うのですが、神の子孫の割合が高い子たちと悪の子孫の割合が高い子たちがいるのですね。

 

聖書に書かれていたカインは、まさに後者でした。

 

人間のはじめての息子であったカインは、弟アベルと比べられる意識を持って育ったと考えられます。はじめて他人と競うという概念を持って育ったカインは、そのアベルを殺してしまうのです。

 

人間を殺すということをはじめて行ったカインですが、神様は、彼を守られました。

人間を殺すという発明というよりも衝動的な殺意、我がままであり、家族や仲間を大切するというものではなく、弟アベルが邪魔だという違和感を実行してしまったからです。

 

何を教わったわけでもなく、悪を行ってしまう人間の根源とは、一体なんなのかという問題に、聖書は答えています。

 

それは、アダムとエバが、神様のたった1つのルールを破るという行動から罪を受け入れてしまったことです。

アダムとエバは、それまで、善のプログラミングしかなかったので、悪という存在を発明することが出来ませんでした。

ですが、悪魔が入り込んだ蛇によって、新たな悪というものにアダムとエバは、気づかされたのです。

 

悪のプログラミングが、蛇によって人間の脳にインプットされたのです。

 

今まで無かった悪を入れてしまったアダムたちは、いままでの存在とは異なったものになりました。アダムたちの一部は死んでしまったのです。

 

正常に生きるというところから、歪曲させて破壊する悪を理解したことで、遺伝子なども傷つき、霊の一部も死んだものとなってしまったのです。

 

そして、善悪を理解して変わってしまったアダムとエバからわたしたち子孫が生まれていったのです。

 

親アダムから罪を継承するようになってしまったのですね。知識だけではなく、知識を超えたところでも継承してしまったのです。

悪の父である悪魔の仲間、悪の子孫の割合が高い子も生まれてくるようになったわけです。

 

日本人同士から生まれた子は、嫌でも目は黒色で、髪の毛は黒色です。そして、親と似た姿で生まれてきます。

罪というものも、その親の遺伝子や霊によって受け継がれ、成長とともに、さらに知識や言葉によって悪を理解していくようになります。

 

これを聖書は、単数形の罪「原罪・Sin」というのです。

 

この単数形の原罪が親から受け継いだことで、複数形の罪を多数できるようになっていると教えているのです。

 

3、律法による副作用

神様は、人間に律法を教えたのは、アダム誕生から1500年も後のことでした。

もちろん、善悪の木の実を食べてはいけないというルールを与えましたが、それは多くの善の世界のごくわずかな、あるかないか解らないほどの悪魔の蛇に対する対処方法だったのです。

 

明確に、律法を与えたのは、モーセの時代からです。

 

なぜ神様は、律法を人間に与えなかったのでしょうか。

 

それは、ルールを教えるということは、悪を教えることにつながるからです。

 

「殺してはいけない」という律法を何も知らない人間に与えたら、人間は「殺せる」ということに気づいてしまうのです。

キリスト教はユダヤ教を否定するものなのか>>

ですから、神様は、善も悪も広まりきったような時代のモーセの時に、律法を与え、結局、善悪とは何なのかを明確にする基準を与えて、再度、人間社会や世界が正常化するように修正されたのですね。

 

現代人なら、「人を殺してはいけない」という教えは、当たり前だと思うかもしれませんが、200年前までは、それすらも当たり前ではありませんでした。

 

最近も南米のチリで、140体のこどもたちの遺体が発掘されました。ラマ200頭と一緒に、8歳~14歳頃の子たちが、一斉に心臓を抜き取られて、生贄にされていたことが解かったのです。

神という名前の悪魔的な存在を信じて、南米の先住民たちは、こどもたちを生贄にしていたのです。

彼らにとっては、それは正義だったのです。

 

白人が聖書の基準を持って、人間に人権があるという発想が世界中に広まるまで、この世界は、カニバリズムという文化ばかりが広がっていました。

人間が人間を食べる文化です。

食料がなくて、食べるというものではありません。日常的に、趣味趣向としていたり、文化として、人間が人間を食べていたのです。

2000年前から聖書の基準を受け入れた白人からすれば、大航海時代を迎えて、さまざまな世界の文化をみればみるほど、おそろしく感じたことでしょう。

 

人間を食べる人間をみて、同じ人間だとは思いたくはなかったはずです。

 

ですが、先住民にとって、それが正義だったのです。

 

孔子や劉備玄徳なども、悪びるということではなく、カニバリズムをしていたことが書かれています。

それらを趣味としていた文化だったのです。中国では、戦争をする時、食料を持参しませんでした。なぜなら、敵が食料になったからです。露店などでも平気で、人間の肉が売り買いされていたのです。

このように、人間には、愛や正義はなく、善悪なども律法や法律、ルールなどによって固定しなければ、それらを認識して、悪さえも善だと思って行動できてしまうのです。

特に神様がいない文化や悪魔宗教の文化では、その恐ろしさは測りしれません。

 

アブラハムやモーセの時代もそうでした。

 

白人が世界中に聖書の価値観を固定してくれたからこそ、現代では、それらの文化は、連続殺人犯や犯罪だと認識されて、刑務所にいれる権利が与えられているのです。

もし、白人が聖書の基準を広めなければ、今頃、日本人のわたしたちは,朝鮮人や中国人の食料になっていたかもしれないのです。

 

神様は、このように混沌とした時代、人間に善悪がどこにあるのか、不明になりつつあった時代のモーセに、律法を与えたのです。

 

とはいえ、すべてが悪だというわけでは、もちろんありません。

なぜなら、この世界は、神様が秩序をもって絶妙なバランスで作られているので、善を利用しなければ、生きていけないようにシステム化されているからです。

善は、善だけで生きていけますが、どんな悪の組織でも、悪だけで生きることなど出来ないのが現実だからです。

 

実際は、悪は極一部でしかないということです。

 

世界中にカニバリズムが広まっていましたが、彼らは純粋にそれが正しいとおもって笑顔で食べていたのです。わたしたちが、焼き肉店でブタや牛の肉を笑顔で食べるようにです。

そんなこと当たり前だと思うかもしれませんが、日本で肉を食べる文化は当たり前ではありませんでした。牛などの家畜は、日本では家族だと考えられていたので、それら家族を食べることは非常識だったのです。

ですから、どんなに古い焼き肉店でもその歴史は140年ほどしか日本にはないのです。

 

明治時代から家族の牛などを食べる店が出始め、それを目にした日本人たちは、「なんて野蛮な」とショックを受けた日記などもあるのです。

 

このように、人間は、律法や法律によっても、善悪を把握しているのであって、決して愛や正義があるからではないのです。

 

カニバリズムをしていたひとたちは、愛する家族だからこそ、食べていたからです。彼らにとってはそれが愛だったのです。

 

善悪が広まった時代に、神様は聖書を与えたのです。

 

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4、罪からの赦しと解放

世界中の宗教が、大昔から罪を贖うために、生贄を捧げてきました。

普通は、動物などの生贄でしたが、悪魔的なものほど、人間を生贄にする文化が広がっていました。

 

まともな宗教は、罪による贖いとして、その文化を広げていったのです。

 

日本の神道も例外ではありません。罪による贖いのために、明治時代まで、動物を捧げていたのです。

 

奈良の鹿がなぜあれ以上、増えないのかと考えたら、少しゾッとしたりもしますが、世界中に罪による報いを動物を身代わりにしてきたのです。

 

これも聖書が現実の現象と一致しているものです。

 

聖書以外の宗教は、なぜ世界中の宗教に、共通点があるのか説明できませんが、聖書だけは、説明できています。

 

アダムとエバが罪をおかした後、彼らは、悪と罪に目覚めて、目が開かれました。そして、自分たちが裸であることをはじめて理解して、体をいちじくの葉で隠し始めたのです。

そのため、神様は、動物のいのちをとって、その動物の皮で、人間に服を与えてくださったのです。

 

それ以来、人間は、罪をおかすたびに、動物を自分たちの身代わりとして、贖うようにしてきたのです。

 

アダムとエバから知識を授かった子孫たちが、同じ共通点を持って宗教を広げている理由を聖書はこのように書かれているのですね。

 

もちろん、伝言ゲームのように、間違って伝わったり、悪魔宗教のように歪曲させて人間をささげはじめたりするものもありますが、どれもその思想は、共通しているのです。

 

聖書は、罪による贖いは、死だと教えています。

神様の創られた世界のシステムに逆らわずに、生きれば、死ぬこともないのですが、人間に原罪が入り込み悪を理解したことで、現実を無視する、現実を破壊する、歪曲させるという、本当の悪をすることができるようになり、霊も体も死へと近づくことになっていくのです。

いのちとは、血です。

人間の体中に流れる血が、ひとつひとつの細胞を生き残らせ、体を形成しています。

寒さや血液がとどこおってしまった部分は、急速に腐敗していきます。

 

血がいのちだということは、そういうことです。

 

そして、人間は、罪をして、神様の世界を壊したことで、本当は、自分たちの血を流さなければいけないのですが、神様はそれを良しとはされませんでした。

なぜなら、この世界を創った理由は、神様の子である人間のためだったからです。

天使も動物も植物も地球も宇宙も、人間が生きていくために必要なツールであり、物だったのです。

ですから、神様は、人間の身代わりとして、動物の血で贖うことを教えたのです。

 

ですが、その動物の血では、本当は、人間の罪は、贖うことはできなかったのです。

 

それらは罪といのちと血による象徴であって、人間を超えているものではないからです。

 

人間は、その罪や悪のために、戦争や争いや悪を壮大させていきました。悪の連鎖が止まることなく、続いていました。

それら悪の連鎖を止めたのは、イエス様でした。

 

アダムという人間からすべての子孫が生まれ、原罪を受け継いだからこそ、世界に悲しみや悲劇があったのですが、さらにそのアダムの前に存在されたイエス様の姿に似せて、アダムは造られたのです。

イエスキリストの創世記>>

アダム以上に基準となるイエス様が、すべての人の罪を背負って、十字架刑にかけられ、人間の代わりに血を流してくださったことで、罪からのゆるしと解放が、成就されたのです。

 

それは、イエスキリストという人物によって考えられた自分勝手なルールではなく、イエスキリストが生まれる前から存在していた旧約聖書に、すでに300カ所以上にも渡って、預言されていたことを成就した奇跡から十字架刑は行われたのです。

イエスキリストの預言>>

どこかの宗教のように、呪文を唱えれば救われると勝手に言い出したとしても、何の意味もありません。小説や映画やアニメで、すべての人が救われるルールを突然言い出したとして、何の根拠にもならないのです。イエスキリストの救いは、イエスキリストが生まれる前から存在していた旧約聖書やユダヤ教、イスラエル人の文化によって裏打ちされていたからこそ、正当性があるのであって、勝手に言い出したことではないのです。

この事実は、人間の脳力を超えていたことで、イエス様は神様だと認識されているのです。

悪に打ち勝つのは、戦いや勝利ではなく、愛やゆるしによって、悪の連鎖を打ち切ることです。

悪に対して、悪で返せば、悪が増大するだけだからです。

 

 

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