聖書

キリスト教が教える隣人愛とは

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キリスト教が教える隣人愛とは、愛や赦しを中心にしたコミュニティの形成です。

 

愛や赦しを実行することで、信頼が生まれ、その信頼によって組織が強固になり、経済や教育、科学や政治、あらゆる組織形態を効率よく円滑にする、当たり前のことを当たり前に論理的に教えている「事実」です。

平和に慣れ親しんだ現代人は、隣人愛を誤解している人がいますので、詳しくみていきましょう。

1、隣人愛は、偽善的なのか

愛や赦しを中心に考える隣人愛は、偽善的だと勘違いしている人が現代人の中にはいます。

彼らは、本気で心から偽善だと思い込んでいるのです。

 

もし隣人愛が偽善的だと思うのであれば、注意信号が出ています。脳を汚染されている可能性があるので注意しましょう。

 

現代で隣人愛が偽善だと考えるひとたちは、平和に慣れ親しんでしまっているひとたちです。いわゆる「平和ボケ」している人たちです。

現代の世界には、憲法があります。この憲法には、人間には、人権があることが明記されています。

 

ですから、現代人は、生まれたらすぐに、聖書の教えである人権が、当然のように存在している時代で生まれ育っているというわけです。

日本人ならほとんど100%といっていいほど、聖書の基準が当たり前になっているということですね。

もちろん、人権が聖書の価値観から来ていることを知らずに憲法の下で暮らしているひとたちが大半です。

 

そして、人権が当たり前ではなかった時代では、人間には、ランクがあり、主人と所有物としての民が存在していました。

文明があった日本や白人社会は、奴隷という正当性のある秩序が構築されたり、藩や幕府などの主人とそれに従う民が組織を円滑にして、人権に近い価値観を持っていましたが、それでもひどい迫害や差別が存在していました。

 

日本や白人社会以外のところは、現代人では信じられないことが文化として広がっていました。下の人間たちには人権などありません。

勝ち組が、負け組を食べるというカニバリズムが、当たり前でした。

最近でも、チリで140人ものこどもたちの遺体が200体のラマと一緒に発掘され、すべての体から心臓が取り出されて、生贄に使われていた形跡がありました。今までは70人程度の儀式が行われていた最大のものでしたが、140人も見つかったのです。

これは当然のように人間を生贄にしては、神という名の悪魔のような宗教に支配されたひとたちが、自分たちのこどもさえも、捧げていた文化だったというわけです。同じように、カナン人の末裔であったフェニキア人やカルタゴ人の土地でも発見されています。

 

憲法が固定されるまで、この世界は、人権は当たり前ではなかったのです。

下の人は、所有物であり、何をされても文句がいえない差があったのですね。

 

そのような何をしても、苦しみや悲しみが味あわされ、悔しい想いをしてきたひとたちは、愛や平和を心から望んだのです。地獄のような社会や残酷な現実が目の前にあったからこそ、平和を望んだのです。

ですが、現代人のほとんどは、平和に慣れ親しみ、その愛や平和が当たり前なので、それらを軽んじているわけです。

苦しみの度合いが低すぎるから、愛やゆるし、隣人愛や信頼を偽善的だと思い込めるのですね。

 

自分たちが生まれた時からそれらの守られていることを忘れ、現実をみれなくなってしまっているわけです。これこそ、脳が汚染されている証拠です。

 

今はまだ、人権といっても、表向きだけのことで、完全に聖書の教えである人権が適応されていませんが、それでも表向きだけでも、適応されているので、権力者たちに、文句さえ言えるほどに成長しているのです。

 

韓国は、日本のように財閥がGHQによって解体されなかったので、財閥支配が90%にも及んでいます。財閥に立てつけば、未来が閉ざされるのです。にも拘わらず、財閥の家族が不公平なことをしたとして、ナッツ姫や水かけ姫などといってはメディアで叩くことが出来ているのです。

支配しているはずの財閥の娘が、メディアに対して謝る場面さえも報道されました。

 

日本も、政治家や権力がそれなりにある存在に対して、ものすごいバッシングが出来る国ですが、それが出来ているだけマシなのです。

江戸時代では、江戸幕府に文句を言うだけで罰せられました。集団で、意義を申し込みにいっただけで、その集団のリーダーは、処刑されていたのです。

話は聞くが、正当性があっても処刑されるほど、言論の自由がなかったわけです。

 

日本でさえそれですから、世界では、信じられない常識が常識として認識されていたのです。

 

制圧し、言論を妨げ、暴力によって支配し、恐怖によって押さえつけるやり方は、文化の発展を著しく衰えさせていきました。他人の意見を聞かず、一部の人間たちのアイディアだけで生きていこうとするのですから、当然文明は、発展しないわけです。

カトリック社会がそうであったように、一部の人間が、ご都合主義で、ルールを自分勝手に決定して、制圧しようとするやり方は、人々の可能性を極端に奪い去っていったのです。

カトリック以外の社会は、さらにひどかったわけです。

 

ですから原始的な文明しか発展せず、人間が人間を食べていたのです。

 

苦しんだ時代ほど、愛や平和、隣人愛を求めたのです。

 

なぜナポレオンは、巨大な権力を持つカトリックや王族貴族たちを打ち破ることができたのでしょうか。

フランス革命が起きた時代は、国というものは存在していませんでした。領主が土地を治め、その土地に住む人間や物や建物は、その領主の所有物として、利用されてきたのです。

戦争もその所有物であった住民たちを駆り出しては、行っていました。戦争をしても、次々と逃げるのが当然だったのです。

ですから、逃げたら斬り捨てるという役目をもった兵士さえいたのです。数少ない兵士よりも、目の前の敵のほうが、死ぬ確率が高いと思えば、次々と逃げていきました。戦争といっても、多くの兵士は本気で命をかける意味などなかったわけです。

 

ですが、フランス革命後は、カトリック支配の下で領地を管理していた王族貴族を一斉に、処断してまわりました。するとその土地や物は、誰の物なのかという議論になったのです。日本とは違い、大陸ですから、境界線もなければ、国境もありません。言葉もバラバラで、人種もバラバラ、肌の色も違うのです。

ですから、その土地に住んでいる人々を「国民」ということにして、国は民のものという意識を造り出したのです。

今までは、領主たちのために戦ってきた住民たちでしたが、次からはそれらは自分たちの物になるのですから、自分たちのために戦いはじめたのです。

 

王族貴族がチェスをやるように遊びでやっていた戦争とは違い、ナポレオンは、本気で自分たちのために命をかける兵士たちを手に入れて、連戦連想していったのです。

もちろん、その裏には、悪魔宗教がいて、支援や物資を援助していたことも勝利の要因でしたが、逃げない兵士は、強かったのです。

 

現代の中国は、人数が多いから強いとか、国家予算を軍事費に充てているから強いなど言われますが、実際の人と人との戦いでは、役に立たないと言われています。中国では、民を制圧してきた時代が長く、愛国心など皆無だからです。いのちをかけて、戦争をする意味がないので、すぐに逃げるのです。圧倒的に遣り込める戦争しか積極的には動かないのですね。

ですから、日本やベトナムにも大敗したのです。戦争にならなかったわけですね。

中国の真逆の日本人が恐れられたのもそこでした。次々と国のために死んでいく兵士をみて、恐れたのです。日本は2000年前から海という国境に守れた国が成立し、国の意識がすでにあったのです。

 

そんな日本でも、国内では、ひどかった時代が、戦国時代です。農民を兵士として雇うことが当然だったのですが、その農民たちには、報酬は与えませんでした。報酬は略奪と強奪、強姦でした。武田信玄もそれらを許可して、他国を略奪強姦を繰り返していたのです。

それらの常識を打ち破ったのが、織田信長の勢力でした。兵士は農民を使わずに、兵士をお金で雇い、報酬を与えるかわりに、略奪、強奪、強姦などは禁止されたのです。そのため、織田軍は、平和や天下泰平をかかげて、他国を打ち破っていったのです。

もちろん、その裏には、海外の悪魔宗教であったイエスズ会が支援して、銃などを海から取り寄せていたのですが、一番の信長軍の強さは、平和や義の志だったのですね。

ですから、裏切りが圧倒的に少なかったのです。

 

愛や平和などを偽善とした勢力たちは、自分たちの組織を守るために、民に圧力をかけて支配しましたが、ナポレオンや信長などは、民を自由にすることで、力を発揮していったのです。

 

アメリカの南北戦争も、少し違いますが、奴隷を解放する奴隷にも権利を与えるという思想が、白人以外の人々に受け入れられ、彼らは自分たちのために、いのちをかけて戦ったのです。リンカーン側が勝利した1つの要因が、それだったわけです。

 

このように、平和や愛、ゆるしは、決して偽善ではなく、それらをかみしめているからこそ、それを手に入れたい、それらを守りたいとひとりひとりが、感じた時に、ものすごい力を発揮したのですね。

 

映画やアニメ、小説や現代学校教育の表向きの歴史などでは、英雄など一部の人間があたかも能力があったかのように思わせられていますが、本当にすごい人間は、自分の力を使わなかったのです。ひとりの人の100%よりも、100人の1%の力のほうが、長く強靭だということを理解していたのですね。

 

日本は少し違いますが、戦争は、とてもゆっくりと進められました。ごちゃごちゃな戦闘も、もちろんありましたが、ごちゃごちゃになると形成が解らない上に、戦力が低下するので、一子乱れない隊列をもって、ゆっくりと歩き、まるで生き写しのように、並んで戦ったのです。

そうすることによって、相手がつけいる隙のある場所を無くしたのです。

現代社会でも流れ作業のほうが圧倒的に、効率がいいようにです。

 

このように、愛や平和、赦しや信頼は、圧倒的に現実的なのです。

 

よく考えれば解かることですが、経済でも信頼がなければ、成り立ちません。

信頼がないひとたちから、素直に物が買えるでしょうか。

何を入れているのか解らないような業者の肉や食べ物を食べたいと思う人はいません。

日本がなぜ、経済大国なのかというと、圧倒的に、国民性が道徳的だからです。

 

嘘を悪だと認識する国民性が、信頼を得て、それが当たり前だという常識があるからこそ、製品が売れて、経済がまわるのです。詐欺商品でさも、圧倒的に売れてしまうほど、日本人の当たり前の常識、信頼には力があったのです。

ですが、それらの信頼が、現代では軽薄になり、愛や平和、ゆるしなどが、偽善だと思い込むひとたちが増えれば増えるほど、相手に対して疑心暗鬼になり、製品は売れませんし、経済は悪化するのです。

そうです。経済とは、人の心であり、信頼が不可欠なのですね。

 

当たり前の中の当たり前なのですが、それでも、それらを偽善的だと思う、脳が汚染されたひとたちが、邪魔をしては、社会を壊しているのです。

 

アメリカの建国の父とも言われている、ベンジャミン・フランクリンは、楽観主義を伝えましたが、それらは決して間違いではないのですね。

長い目でみれば、楽観主義が、現実的で、正しいのです。

 

もちろん、100%楽観主義というのは、かなり問題ですが、普通の知能を持っていれば、そんな人などいません。

中国や朝鮮のように、嘘や詐欺が正義だという文化もあるように、日本では、真面目な日本人の裏で、詐欺師たちが、人を騙しては潤っているのです。そういったひとたちが現実にいるのは解っていても、それでも楽観主義や愛やゆるしの割合を高める必要があるのは、それが現実的だからです。

 

それなしには、生活できるわけがないからですね。

 

100%の楽観主義者は、生きていけるかもしれませんが、100%の懐疑論者は生きれるはずもありません。

この水を飲めば安全だと思って飲んでは生きていますが、その水やすべての食べ物を懐疑的に考え、口にいれなければ、死んでしまうからです。

 

どんなひとも楽観主義のまま生きているのです。

それに気づいていないだけで、自分が頭がいいなどと考えている人ほど、事実に程遠い想い違いをしているのです。平和ボケしているわけです。

 

愛やゆるし、隣人愛は、偽善ではなく、事実だということです。

 

悪い意味、表面的な疑心暗鬼に苛まれている経営者などが増えれば増えるほど、それらのひとは、自分で自分の首をしめているようなものだということです。

 

聖書には、「与えなさい。そうすれば、与えられる」という言葉がありますが、与えないのであれば、みなが富を囲い動かなくなり、自分にも返ってこなくなるのです。

ですが、楽観的に、与えれば与えるほど、社会に富が流れ、自分に返ってくるのです。

 

懐疑心が、まったくないのも困りますが、そんな人は滅多にいません。悪の子孫側にある脳の持主たちには気を付けて、接する必要があるのは当然です。ですが、現代の人権を理解しているのなら、手を取りあえることもあることでしょう。

 

2、神の子孫同士の隣人愛

神様は、悪魔宗教を実行する人間たちや現代では、犯罪だと認識されていることをする人間たちをも生かされて、守られています。

神様からすれば、悪人も、愛する子だから、悪を実行する人にも、雨を降らせ、空気を与え続けているのです。

 

クリスチャンも、神を信じないという無神論者という恐ろしい思想を持ったひとたちと向き合わなければ、現代社会を生きていけません。

そういった人たちとの距離感をどの程度にするのかは、その人の勇気や信念などになりますが、神様がそうされているように、愛やゆるしを示しながら、頑固に義を貫くことが求められるでしょう。それをみた脳を汚染されている人は、頭がおかしいと思ってくるかもしれませんが、何度も言いますが、事実だから実行するだけです。

 

とはいえ、神の子孫同士であれば、かなりの協力関係を築くことができることでしょう。

ローマ帝国は、多神教だった時代は、反乱と裏切りが毎日のように続いていました。

ですが、一神教のキリスト教を受け入れてから、人々の脳に、聖書の基準を植え付けたことによって、世界が広がったのです。

裏切りや反乱は、悪だという共通の認識が、それらを封じて、平和をもたらしたのです。

 

王族貴族が領地を平和的に支配するために、キリスト教を利用し、カトリックの下で、任命されようとしたのもそのためでした。

 

現代でも同じことが言えます。本当に聖書的な脳の持主同士なら、かなりの信頼を持って協力し合えるということです。

 

聖書は、神の子孫たちによって家族を形成することを薦めています。

これは、本当に素晴らしく、論理的なことです。

 

離婚などについても、神の子孫同士には、禁止されますが、片方が神の子孫ではないのであれば、離婚は成立できます。

脳が聖書的であれば、平和を保ち、忍耐とゆるしによって、支えあえますし、少しのことで離婚などをしてしまうのであれば、世の中の組織は、崩壊します。

聖書の教える離婚>>

家族とは、最小単位の組織だからです。

 

神様を頂点とした男女が家族という組織を持って、社会を形成することが、会社や政治などに反映していくのです。

天皇は、民を子として、考えます。家族政治が基本になるのです。

親が子を子とも思わず、子が親を親とも思わなくなった時、悲劇が起こります。

 

一方通行ではなく、相互作用なのです。

 

幕府にしても、朝廷にしても、民をないがしろにすればするほど、民からしっぺがえしを食らい、衰退していきました。

現代の世界を支配している悪魔宗教は歴史を学び、ものすごく狡猾です。

 

表向きは、自由・平等・博愛を掲げて、聖書を後ろ盾にして、自分たちの支配を保つのです。

ですから、株式などで投資という援助をすることで、利益を獲たりするわけです。

 

それらに支えられた人々は、クリスチャンであっても感謝することでしょう。

 

ですが、それらは、表面的な聖書の教えを実行しているだけで、彼らかすれば、聖書は、邪魔でもあり、自分たちを苦しめる最大の弊害でもあるのですね。

悪魔宗教は、原始的な悪魔宗教を弾圧することで、自分たちの正当性をアピールしていきました。

アメリカ先住民などがまさにそれです。

 

彼らに対して残酷な裁きを下しては、それらの罪を白人に押し付けて、情報をコントロールしています。

 

現代の支配層の考え方は、単純ではありません。悪をするために、善を限りなく行って大義名分を得ては、社会にも貢献するのです。その裏では、9・11や3・11のように、人々を虐殺することなどもするのです。

 

味方の振りをしているものほど、スパイとして怪しいものはないのです。

プロテスタントやカトリックに入り込んだ悪魔宗教は、とても狡猾に、聖書の教えを破壊するかのような思想を植え付けていきました。

 

科学や学問をそのまま、科学が学問だと認識している単純な民が多くなるのは、いつの時代も同じです。

科学や学問のようにみせて、実は何の根拠もない宗教であり、非現実的なのにそれに気づけないわけです。

 

ですが、彼らが裏では、悪をするために、善をしてきたことが、善の価値観を固定させて、ある程度まで、人々の価値観を押し上げました。

あとは、精度を上げていくだけです。

ですが、もちろん、あらゆる組織や宗教、学校、政治や団体には、悪魔宗教が入り込んでいるわけですから、気を付けながら、本当の聖書の脳を理解しているクリスチャン同士で、協力し合うことが大切です。

 

彼らのトリックの種明かしをしながら、脳を汚染されはじめているクリスチャンたちをも正常化していけるでしょう。

 

一歩ずつ、地道にじわじわと、善が悪に勝利しはじめているのです。

 

まずは、自分たちの精神や霊を保つために、神の子孫たちの輪の環境を造ることが大切でしょう。教会が必要な理由もそこにあることでしょう。

クリスチャンでなくても、神の子孫に近い人はいます。

 

神道は、原始ユダヤ教であり、原始キリスト教です。

聖書の価値観を文化によって、形成していったのが、日本であり、日本人です。

いまでこそ、無神論者という宗教を心から信じているひとたちが増えてしまっていますが、本来、日本人は、神様を信じて、心清く生活する民です。

ですから、どんな国よりも道徳的で、毎年のように落とし物は、警察署に届けられるのです。毎年170億円ものおかねが届けられているので、海外でも驚かれているのです。

 

3・11のような自然災害があると、略奪などで物資を確保するのが当然なのに、日本人はそういうことをしないことでも、驚かれました。

日本人は、恐ろしく道徳的なのですね。それらは、祖父母たちによる神様を信じる教えから来ているのです。

神様の存在こそ忘れても、その民族性は、残っているのです。

 

現代では、悪魔宗教も悪魔的なことを表で堂々とするわけもありません。ですから、偽キリスト教的な宗教を作り上げる幹部など以外の人々は、純粋に神様を信じていたり、宗教の教えを守ろうとするひとたちで、優しい人が多いわけです。

一辺倒な学校宗教団体の情報しか、脳にいれていない人たちよりは、聞く耳がある可能性が高いわけです。

 

クリスチャンと仏教徒の男女が結婚したという例もあります。

仏教は、キリスト教にとても似ているので、それも可能なのですね。

聖書の教える理想の結婚>>

 

このように、多角的な目で、その人が神の子孫側なのか、それとも悪の子孫側なのかを見極めて、協力し合うことが大切だということです。

現在、長く生き残っている宗教は、人権的な宗教です。

昔は非人道的な宗教もありましたが、ほとんどは、白人たちによって粛清されていきました。

今残っている宗教は、新興宗教は別にして、神様が許可されているものだということです。

 

ですから、無神論という恐ろしい宗教を信じるひとよりは、建設的な人が多いわけですね。

 

無神論のようであって、心の基準にあるのは、無神論ではないという日本人もいます。そういう人も神の子孫の脳のプログラミングに近い人です。

近いというだけで、明確にしていないだけ、危険であることには違いありませんが、そういうひとが多いのも、日本の特徴です。

 

ですから、神の子孫の割合を測りながら、自分以外の人との距離を考えていきましょう。

時代や環境、国や社会の変化によっても、その割合は、変わっていきます。神の子孫の割合が高い人ほど、変わりませんが、悪の子孫、脳に悪のプログラミングをされている人たちには、基準はなく、その正義感は、何を語ろうとも趣味趣向でしかありません。連続殺人犯を否定することさえできないものなのです。

人を殺してはいけない理由さえも持ち合わすことができないのです。

無神論とはそういうことなのです。

人間いは、愛や正義がないからです。

本当の愛とは何か>>

 

聖書の隣人愛とは、神の子孫に対しては、かなりの効果を発揮するものですし、それ以外の人々に対しても、示しくことで、目を開かせる必要があります。

悪の子孫が、悪を悪のまま私利私欲でするのであれば、神の子孫は、善を善のまま、硬い意思で貫き通すのです。

 

どの程度で貫くかは、ひとぞれぞれで、持って生まれた能力にもよります。漠然と想い描く、神の国に近づくように、大量の悪がまだ存在している現代社会で、生きていかなければいけないからです。

そのためにも、隣人愛は、偽善ではなく、現実的なのだと理解しましょう。

そして、現代は、善悪が複雑に絡み合っているので、正直、難しいのですが、悪に惑わされないようにしましょう。

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