思考の変化

人間関係がうまくいかない理由

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人間関係に悩んでいない人は、いないのではないでしょうか。

なぜなら、こどもであっても、人間関係に悩まされているからです。

 

このように、人間である以上、人間関係に悩まされることは、しょうがないことなのです。

「富士山はどうして動かないのだろうか」と悩まないように、人間関係に、悩んでいるのは、当然といえば、当然だということですね。

では、なぜ、それが当然であり、人間関係は、悩まされるものなのでしょうか。

1、人間には、愛や正義はない

「なんということを突然言い出すんだ」と思う人がいるかもしれませんが、これが事実だからしょうがないのです。

 

心ある多くのひとたちは、この事実を受け入れたくないと思うかもしれませんが、人間には、心ある人間と心ない人間がいるのです。

 

そのことからも、人間には、愛や正義がないと断言できるのです。

 

心あるひとたちは、心が大切、または、心も大切だと考えて強く生きていることでしょう。ですが、それらは、ある種の思い込みでもあるのです。

 

それが、正しいと思い込んでいて、それを心で抱いて生活を送っているから、自分は心ある人間だと思い込んでいるというわけです。

正しさを固定しているわけです。

 

ですが、世の中には、犯罪者や暴力、虐待やストーカーなどの正義を持っている人間も実際にいます。

これらの存在は、いないと言う人はいないでしょう。

 

確実に、犯罪者などは、存在しているのです。

 

心あるひとたちの多くは、彼らは正義をしていないと思っているかもしれませんが、実は違うのです。彼らは彼らなりの正義を持って、行動していて、その彼らの哲学、信じていることが、現代では、悪だとレッテルを貼られているだけなのです。

 

現代人は、日本という国に、憲法があることを知って、その憲法を基本にした国の民ということで、生まれ育っています。

その憲法には、人権というものが高い基準として、あげられています。

ですから、人権を無視している犯罪者たちの行動を悪だと認識して、正義だとは露にもかけないのですが、その基準は、本当に正しいのでしょうか。

 

憲法は、16世紀。ヨーロッパからはじまりました。日本には1400年も前から憲法があるかのように言われる人もいますが、日本の憲法は、憲法とは言えるものではありませんでした。自然的な発生での決め事でしかなく、その憲法は、権力者には適応されていないものだったのです。

 

ですが、現代のわたしたちの憲法は、民には適応されず、憲法の適応対象は、権力者です。

憲法とは、国や政府など、権力を縛るものであって、民は憲法ではなく、法で縛られているのです。

 

そして、その憲法が、固定されはじめたのは、ほんの少し前、200年ほどからです。

それまでは、憲法というものは、ヨーロッパにしか存在せず、日本は特殊な憲法で成立していただけでした。

 

世界には、憲法という基準がなかったのです。

憲法は、存在していなかったのです。

 

その基準がない時代を想像できるでしょうか。

 

基準がない世界。善悪の基準がない世界です。

 

人間に人権という基準がないということは、人間は権力者の所有物であり、物や家畜の1つだったのです。

 

ですから、ヨーロッパや日本以外の世界の場所では、カニバリズムという文化が広がっていました。

このカニバリズムとは、人間が人間を食べる文化のことです。

 

連続殺人犯で、人を食べる犯罪者がいますが、これを当たり前のように、文化としていた時代があったのです。

白人社会では、2000年前から聖書が共通の基準であり、聖書には、人間には人権があることを教えています。ですから、白人は人権を理解していたのですが、それは世界では当たり前ではなかったのです。

どこにいっても、カニバリズムは実行されており、それは飢餓から来るものではなく、生活の一部となっていたのです。

 

中国や朝鮮も同じで、カニバリズムは、当然のように行われていました。戦争では、食料は用意しません。敵が食料になるからです。

露店でも、ブタや牛肉と並んで、人間の肉が売り買いされていました。

 

アメリカ大陸では、140人ものこどもたちの心臓が取り出され、一斉に神という名の悪魔に、捧げられていたのです。

それらは保存状態がよく、発見されましたが、普通は、腐食して、証拠は残りません。それを考えれば、どれだけの人々が、犠牲になっていたのかを考えるとゾッとします。

 

白人は、聖書の価値観を2000年前から取り入れて、人権が当たり前になっていたので、10世紀を超えて大航海時代にはいって、世界の果てといわれた境界線も超えて、はじめて人間の闇を目にしたのです。

多くのキリスト教の宣教師や教徒たちが、未開の土地にはいって、食べられてしまいました。

彼らは、先住民の人間を食べる文化に、物をいったからです。

 

人間を食べてはいけないということは、文化や宗教の否定につながったのです。

 

白人がなぜ、先住民など、有色人種を同じ人間だと思いたがらなかったのか、理解できたでしょうか。

 

オウム真理教の信者が隣に引っ越して来たら、驚異に感じることでしょう。恐怖から白い目でみてしまうのは、防衛本能とでもいえることでしょう。

 

このように、現代の日本人であるわたしたちの心ある基準というものも、本当は、存在しないものであり、人によっては、環境や育ちによって、悪や犯罪といわれる行動が、正義になってしまうというわけです。

人間には、愛や正義がないから、悪ができるのです。

本当の愛とはなにか>>

 

 

2、人間関係に悩むことは、当たり前

人間には、愛や正義がなく、悪や犯罪といわれることでさえも、正義だと認識して、行動する人がいるだけに、人間関係に悩むことなど当たり前なのです。

 

昔の日本は、そうではありませんでした。

なぜなら、多くの日本人は、神様を信じているという共通点があったからです。

 

「人がみていなくても、おてんと様がみてらっしゃる」と心に宗を抱いて、生活していたからです。

ですが、現代はどうでしょうか。

 

神を信じていないひとばかりが、はびこり、愛や正義のない人間を基準にして、ものごとを考えているから、当然、争いや問題が大量に噴出しているのです。

愛や正義のない人間を基準にしている時点で、当たり前ですが、ぐちゃぐちゃになるのは当然のことなのです。

 

共通する基準がないということは、どれほど恐ろしいものなのかということです。

 

ローマ帝国は、多神教から一神教へと国教を変えました。

なぜ、一神教にしたのでしょうか?

 

それは、多種多様な価値観が存在し、人を食べることさえも、正義、嘘や反逆さえも正義だと考える価値観があり、常にローマは反逆者たちと戦い続けて、疲弊していたからです。

そこで、1つの価値観、1つの基準を脳の中に、インプットするために、キリスト教は使われたのです。

 

それは大成功を収めました。こどもたちが大人になるまでの30年間までは、反発や問題が上がりましたが、キリスト教による1つの価値観で統一することで、犯罪を犯罪だと認識する基準が生まれ、圧倒的に、平和が作り上げることに成功したのです。

 

ですから、大陸では、一神教になることが当然なのです。

 

日本は、狭い日本という土地で、海という境界があり、ほとんど1つの種族だけで国が形成されていたから、共通した価値観で平和になってこれましたが、大陸は、そのような優しい世界ではなく、過酷だったのです。

言葉も違えば、民族も違う、価値観も違えば、肌の色も違ったので、ありとあらゆる正義が存在し、それらは国境もないので、通過しては、情報が流されていったのです。

 

1000年以上、カトリックという基準によって、平和がもたらされ、ヨーロッパ自体が、その理由について、疑問さえも持たなくなったころに、大航海時代がきたのです。

 

日本の常識は、世界の非常識とよく言われるように、日本は、あんのんとした環境で守られていたからこそ、多神教でもやっていけると思い込んでいるだけなのです。

多神教だから、受け入れるかといえば、そうではなく、閉鎖した状態が長く続き、大量生産されたロボットのように、育てられるのが、日本人という民族でした。

 

これは、悪いことだけではなく、そのために、平和が保たれていたのです。

日本人は、世界で唯一カニバリズムをしない高い水準の民族だったのです。

ですから、白人は、日本にだけは、あらゆる文化や技術を教えました。白人は、白人以上の民族がいるといって、日本人を受け入れたのです。

 

豊臣秀吉の時代には、世界中にあった銃の数よりも、日本にある銃の数のほうが多かったほどです。

 

そして、神道や仏教などによって、日本人たちの価値観は統一されており、自然と人権があったのです。

人だけではありません。ブタや牛などの家畜も、日本人にとっては家族と同義だったので、食べることをしませんでした。

明治時代に入ってからそれらの肉を食べるようになったのです。

 

そして、近代宗教の進化論などを多くのひとたちが、心から信じるようになり、神様の存在を忘れてしまったから、大変です。

全知全能の神がいるという確実な証拠>>

進化論の正体 嘘と真実>>

心の底から、神様がいないと信じ込んでいるので、自分たちの価値観だけで生きている状態になります。

何度も言いますが、人間には愛や正義がないので、この状態は、恐ろしいものなのですね。

 

お金のためなら、嘘や詐欺行為も、正しいと考え、表では笑顔であっても、やっていることは、犯罪の紙一重、日本の法律では、裁かれないからといって、やりたい放題です。

 

そんな世界に生活しているのなら、まともな人ほど、人間関係に傷つき、被害者にも、加害者にもなってしまうものです。

 

3、神の子孫と悪魔の子孫

聖書では、子孫という言葉がよく使われいます。

「神の子」「神の人」などもそうです。

 

現代人は、遺伝子的、血統的なものが子孫だと思うひともいるかもしれませんが、それだけではないと聖書は教えています。

それは、脳にどのようなプログラミングが、インプットされているのかという情報を引き継いでいる子孫のことです。

 

弟子が、師匠の情報を自分の脳にいれると知識と知恵を理解して、行動基準を持つように、情報がその人の価値観になるのですね。

 

日本語でどうしても、物事を考えている時点で、これには逆らえないのです。

 

その中で、神様の与えたプログラミングを脳にいれた人間と悪魔の与えたプログラミングを脳にいれた人間は、大きく違うのです。

 

もちろん、100%神の子孫という人もいないければ、100%悪魔の子孫と言う人もいません。

割合になってきます。

 

人間は、ロボットと同じで、悪のプログラミングを脳にいれていたら、それを正義だと信じ込んで、行動してしまいます。

例えば、猛毒である抗がん剤を薬だと信じ込んでいれば、そのまま信じて、自ら死んでいくようにです。

現代医療と悪魔宗教>>

 

学校宗教団体の情報をそのまま真に受けて、信じてしまっている人からすれば、それが正義になってしまうのです。

進化論が違うよと論理的に教えても、感情的に、それを否定してしまう人がいるようにです。

 

人間を基準にすれば、犯罪者の正義も認めなければいけなくなります。

何でもありの世界になります。

 

ですが、人間が存在しているのは、この奇跡的な世界が存在しているうえでのことであって、人間は、その中にいる1つの生き物でしかありあせん。現実には、逆らえないのです。

人間が、正義を決めるのではなく、この奇跡的な世界をつくられた神様の基準、正義によって、正義を特定し、心も特定し、基準を設けるのです。

 

どんな国や政治でも、かならず宗教を基準にしているのは、人間を基準にできるわけがないからです。

 

民主主義の頭には、「神の基の」という言葉必要なのです。それは経済であっても科学であっても、学問であっても同じです。

すべてのことには、神様を中心にせざる負えないのが、現実なのです。

 

でなければ、組織など存在しえません。

 

現在の科学の発展があるのは、神を信じた有神論の科学者たち、学者たちによる恩恵であり、神様が造られた法則によるものなのです。

法則があるということ自体が、偶然ではない証拠なのです。

 

みなさんの部屋の空気が、1秒後に無くなり、死んでしまうような、いつ死んでしまうのか解らない状態なら、偶然の世界と言えますが、現実は違います。

何千年も、人間や動物、植物が存在して、子孫を残し続けていけている奇跡があるのです。

 

そして、その事実を人間の上に置いて、従う人間が、神の子孫です。

キリスト教徒だけではなく、それを理解していて、人間の上に神様、法則を置いて、生活している人は、神の子孫に近い存在なのですね。

こういったひとたちは、人がいないところでも、神様を畏れて行動をします。

簡単に嘘や詐欺などができません。相手を傷つけることもできません。

 

ですが、神がいない人間は、私利私欲、利益に基づいて生きているので、いつ裏切るのか解りません。感情次第で、急に手のひらをかえして、裏切ったりもします。そんな中で暮らしていたら、当たり前ですが、人間関係に傷つき、嫌だと思うようになるのは、まともな人ほどそうなります。

 

4、無視して、貫ぬく力

とはいえ、いくら神の子孫でも、悪魔の子孫たちと生活しなければ生きてはいけません。

では、どうすればいいでしょうか。

 

悪魔の子孫たちは、表面的は、論理的なようにみえて、本質をみると、感情論で生きているひとたちばかりです。

その中身を追求すると、ただ信じ込んでいる行動でしかありません。

ですが、そのような人に、本当のことをいっても、理解しません。

 

イエス様は言いました。

「耳のある人は聞きなさい」

 

神様であっても、耳のない人には、何をいっても無駄なのです。

 

養老孟司さんの著書の「バカの壁」ではありませんが、話せばわかるというものではありません。

この記事を読んでも、耳に入る神の子孫もいれば、まったく耳に入らない悪魔の子孫もいるのです。

 

頭から、神の存在を感情論で否定したがったりするのです。そういう人たちに、何をいっても、通じません。

こっちが論理的に話せば話すほど、向こうは感情的になり、シャットダウンしてしまいます。

 

ですから、多くの心あるまともな人ほど、人と争ったりしません。

「この人こどもだな」と思いながら、受け流して、笑って終わらせます。

 

それを勘違いして、悪魔の子孫は、自分の意見が正しかったと思い込むのですが、誰もケガしたくないので、離れて行くだけです。

 

ケガをしてもで、そんな人にも、真実を教えてくれる優しい人は、ほとんどいません。

真実をいえば、逆に逆恨みにあって、何をしてくるかわかったものではありません。

嘘や詐欺や悪さえも、正義だとしているのだから、恐ろしい存在なのです。

 

聖書は、このような人物には、離れろと教えています。

 

そして、世の中には、このような人間が多いはずです。

ですから、多くのひとは、距離を持って、特定の耳のある人と交わるようになります。

彼らが、無視して、悪を正義だとして、行動しているように、心あるひとたちも、自分の想いを貫く強さを身につけましょう。

 

優しさとは弱さのことではありません。どれだけ傷つけられ、どれだけ損をしたかのように思えても、それでも、正義を貫く強い意思がなければ、本当のやさしさは身につかないのです。

 

イエス様はいいました。

右の頬を叩かれたら、左の頬を出しなさい。

 

これは、相手に負けて、弱弱しくなれということではありません。

むしろ、手があるのに、手をつかわず、意思によってそれを押さえつけ、実力を行使せずに、強い意思を表示させることなのです。

 

ですから、悪魔の子孫から何をいわれようが、傷つく心であってはいけません。

悪を悪あと否定する力も必要です。

武力や攻撃によるものではなく、平和や優しさ、原理原則にそって、言葉だけではなく、生き様として、行動するのです。

 

解ってもらおうと思っても、ムダです。

イエス様は、あきらかに、十字架刑にかけられるほどの罪は、まったくしていなかったのに、多くの人々にばかにされながら、処刑を受けられました。

 

解ってもらえなくても、正義を貫く強い意思が必要なのですね。

解ってもらおうと思うから、傷つき、疲れてしまいますが、もともと、人間は、同じ脳ではなく、べつべつの脳なので、解かってもらえるわけがないのです。

 

富士山がなぜ、動かないのかと疑問を持たないように、解かってもらおうとするのも、無理なことなのです。

 

むしろ、解かってもらわないほうが、当たり前だと考えて、それでも正義を選べるのかということです。

 

一旦、こちらの正義を確保したら、あとは、バランスです。

悪魔の子孫たちとどのように接して、生活していくのか、バランスによって、生活していけばいいのです。

 

ですが、優しすぎて、相手が悪なのに、正しいと想い、自分が正しいのに、自分のせいにしてしまったりする人は、人生疲れるのは当たり前です。

不可能をどれだけな悩んでも、不可能だからです。

 

どうにもならないことは、どうにでもなっていいことだと、割り切る力が必要なのですね。

優しい人は、感情も大切だとおもって、感情論に走りがちですが、感情には、気を付けましょう。

 

感情は、道具のようなものです。感情を基準にしてしまっては、いけません。

 

包丁は、料理にむければ、良い道具ですが、人に向ければ犯罪です。

 

感情も、善に根付いて使えばいいですが、悪に根付いて使うと、怒りや復讐、ゆるせない心などを産みます。

感情ほど、怖いものはないとさえ言えるほどです。

 

ですから、感情という道具は、二の次で、どれだけ論理的に、整頓された知識と知恵という基礎のもとで使うのかが大切だということです。

 

この意思を貫くという発想は、海外では、良いことだと評価されますが、日本では、評価されない対象になりやすいです。

日本は、昔からロボットのように調和を乱さないほうがよいとする風潮があるからです。

海外では、組織よりも個を優先する考え方が環境的にあります。

 

ですから、日本では考えられないあらゆる生活のパターンがあり、存在しています。

 

どちらがいい悪いではなく、どちらも短所と長所がありますが、区別できるところは、区別し、区別できないことは、区別しないと、論理的に、ものごとを考えていく能力を身につけましょう。

そうしなければ、疲れるのは当たり前です。

 

100m走は、100m地点にゴールがあるから精神的に疲れませんが、ゴールが設置されていない状態で、走らされたら、精神的にも疲れます。

割り切れるものは、割り切り、割り切れないものは、割り切らないという分別が必要なのですね。

そして、無駄に、心を痛めることをしないようにしましょう。

 

 

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