思考の変化

家族の死のとらえ方

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世の中には、大切な家族が亡くなるという悲劇を味わったひとたちが沢山います。

少し前の日本は、戦争をしていたことで、愛する人を亡くすことは当然のように起こっていたことでした。

現在でも、事故や事件などに巻き込まれて、悲運にも亡くなってしまい、その悲しみからのストレスや無気力、うつ状態になってしまったという人さえいます。

 

このような場合、わたしたちは、人の死、家族の死をどのようにとらえるべきなのでしょうか。

どのように死を受け入れて、立ち直ることができるようになるのでしょうか。

 

それを聖書や事実から導きだしていきたいと思います。

1、死はマイナスではない

わたしたちは、愛する家族や知人が死んでしまうと、とてもショックを受けて、涙し、絶望に暮れてしまう場合があります。

また、その原因の1つが自分にあったりすると、自分を責めてしまいがちになります。

自分に責任を負うことで、けじめをつけたくなってしまうのです。

 

死とは少しずれてしまいますが、自分が生きていることを確かめるために、自傷行為をどうしてもやめられないという人がいます。

普通のひとたちからすると、なぜ自分の体を傷つけて、わざわざ痛い想いをしようとするのか、理解できませんが、彼らは、それを楽しんでいるのです。

ホラー映画が好きだったり、絶叫アトラクションなど、ジェットコースターなどが好きな人たちがいます。

なぜこのような自分を傷つけるようなアトラクションがあり、人気があるのかというと、普通ではダメだとされているものをわざとすることで、脳内麻薬が分泌して、自由感を得ているのです。

犯罪者などがなぜ犯罪をやめられないのかというと、この現象があるからなのですね。

 

若者が好みの相手に恋をする状態と犯罪者思考は、同じなのですね。

 

してはいけないこと、正しいこととは違うことを自分に課すことで、自分の存在を肯定したいからこそ、間違った考えや行動をしてしまうのです。

いわゆる、自分が可愛いからこそ、自分が世の中の一番の被害者であるという主張が、必要以上に、愛する家族の死につながってしまっているのです。

 

間近にいた存在が、死んでしまうことは、自分の体の一部を失ったも同然です。

ケガをして「痛い」と声を出してしまうように、愛する知人が亡くなることは、痛みを伴うことなのです。

そして、自分が可愛いという想いと結びつくと、家族の死に絶望し、そのことで、マイナスだと思い込んでしまいます。

 

ですが、それらは本当にマイナスなのでしょうか。

 

ここで一方的に、家族の死がマイナスだと決めつけてしまうと、神様などいないと考えてしまったり、違うものにそのストレスを向けてしまったり、やる気をなくして立ち直れなくなってしまうようになってしまいます。

 

どれだけ大切な人が死んだとしても、決してそれらは0にもなりませんし、マイナスではありません。

それが事実です。

 

この意味が解らないかもしれませんが、それが真実です。

 

なぜなら、愛する家族や知人を亡くなったことで、悲しんでいるあなたがいるからです。

 

亡くなったひとたちは、マイナスにはなりえません。存在しなかったということにはならないのです。

存在していたからこそ、悲しめるのです。

彼らが3歳で死んだのか、生まれる前に死んだのか、それとも40歳で死んだのかは、解りませんが、生きて存在したことは確かなことなのです。

だからこそ、親や家族、知人たちは、その人の死を悲しめるのです。

 

 

聖書には、ヨブという人物の話が書かれています。

このヨブは、神様に忠実で、非の打ちどころのない人物でした。神様はあらゆる面でヨブを祝福されていました。

ですが、悪魔が神様の前にやってきて、「ヨブが正しい行いをしているのは、神様が祝福しているからで、もし、ヨブに不幸が起こったのなら、ヨブは、あなたをけなし始めるでしょう」と発言しました。

そこで神様は、ヨブのあらゆる祝福していたものに悪魔が手を出すことを許可されるのです。

次々と不幸がヨブを襲うようになりました。彼はとても誠実で正しいことをしていた人物であるのは神様が証言しています。にもかかわらず、そのヨブに不幸が続き、息子や娘たちこどもたちまで、死んで、財産もなくなり、体が病気になり、愛する妻や知人からもヨブは攻め立てられることになります。

ヨブは、財産や知人からの責めやこどもたちの死を体験しても、それでも神様を信じ続けました。

ですが、自分の体が病気にさらされ、苦しめられ始めて、その後に愛する妻からの責め立てられた言葉の裏切りにあい、ついに神様に文句をいいはじめるのです。

 

そこで神様は、ヨブに声をかけられるのです。

 

「あなたは裸で生まれ、裸で死んでいく、塵から生まれ、塵になっていく、あなたの存在を与えたのは、わたしであって、あなたはそれができるのか」と言われます。

ヨブは、人間的に正しい人物でした。非の打ちどころのない人生を歩み、正しいと思っていました。まわりの人間も彼を正しい人だと考えていました。

ですが、正しい人間などひとりもいないのです。

 

どれだけ苦しめられたとしても、その苦しみを味わえるのは、生きている証拠です。存在している証拠なのです。そして、自分の存在を造り出した奇跡の存在、神様が、それらを無くすことに許可したとしても、けっしてマイナスではないのです。まだまだ、ヨブは与えられているからこそ、生きて文句をいうことができたのですね。

ヨブは、理解しました。自分の存在、この世界そのものが祝福だということです。

 

正しい人生を歩んでいたからといって人が正しいわけではなく、正しいのは、この天国のような世界を創られ、与え続けている神様しかありえないことを理解したヨブは、前以上に、神様から祝福を受けて、資産を増やし、また新しこどもたちが生まれ育っていくことになります。妻との関係も修復されていきます。

 

ですが、死んだ子たちは、どうなったのでしょうか。

新しい子たちが生まれたのは分かりますが、死んだ子たちは、いなくなったのです。

 

それはどのようにとらえるべきなのでしょうか。

 

ですが何度も言いますが、事実は、死んだ子たちも、死ぬ前に生きて存在していたという事実が確実になるのです。

ですから、感情論にたたず、事実から言えば、ヨブは、死んだこどもたちというプラスと新しいこどもたちまで与えられたということです。

 

 

死んで触れなくなった、話せなくなった、その姿をみることも、彼らの未来を見据えることもできなくなったと考えて、悲しみに暮れますが、そんな家族や知人であっても、彼らの存在を無くそうとはしません。

 

愛する弟や妹が死んだことで、深く傷つき、悲しんだとしても、これほど悲しいのだから、彼らが最初から生まれてこなければよかったんだと考える人などいないということです。

 

彼らは生きて存在したというプラスの事実があるからこそ、悲しめるのです。

 

神様は、この世界を創られ、無から有を生み出し、わたしたち人間を造られました。

それがなければ、わたしたちは、悲しむことも、戦争をすることも、犯罪をすることも、喜ぶことも、悲しむことも、食べることもできなかったのです。

はじめから、0のものは、0なのです。

 

なにかしらの作用を及ぼせるということは、存在していたという事実の証明なのです。

 

神様がいないという考え方が出来る人などいません。

 

自分やこの世界が存在しているからです。

 

神様がいないと考えれるひとは、ものすごく非現実的な思想を心から信じているだけにすぎないのです。

 

全知全能の神様が確実にいる証拠>>

 

その全知全能の神様がわたしたちや世界を創られたからこそ、悲しめたり、苦しめるのです。

ですから、死はマイナスではないと事実からは言えるのです。

 

ですが、自分が可愛いと考えたり、無神論であったりすると、答えが見いだせないので、ストレスになり、世の中を恨んだり、不の選択を選びはじめたりしてしまうのです。

 

人間は、今の状態を0だと勘違いして、あらゆる祝福を受けていながら気づかず生活しているので、自分のものが無くなったりすると、すぐにマイナスだと勘違いしますが、与えていないものは、神様でも奪うことはできないのですね。

 

神様は、悪人にも雨を降らせ、空気を与え、法則でまもられ続けているのです。これらは科学的にいえば、当たり前ではありません。わたしたちの存在自体、本来は、ありえないのです。存在していることが、ありえないのです。

ですが、存在していないはずのわたしたちの存在を造り出し、存在しているものへと変えてくださったからこそ、悲しみも味わえ、喜びも味わえるのです。

家族の死が訪れても、彼らが生きていた存在は、誰にも消すことはできないのです。

2、死んだ家族は何を望むのか

家族や大切な人が亡くなると、間違った道へと歩むひとや選択する人がいます。犯罪的な思考に入り込み、批判的になったり、自暴自棄になったりするのです。

これらのひとたちは、自分が可愛いからそのように行動するのです。

 

もし、死んだ家族を想えば、自暴自棄になったり、世の中を恨んだりすることにはなりません。

 

よく考えてみましょう。

あなたの愛する家族が、死んだ後、死後の世界からあなたをみていたとします。

自分の死のために、あなたが自暴自棄になったり、立ち直れず、いつまでも引きずっては、非生産的な生活を繰り返していたら、どう思うでしょうか。

笑顔ではなく、悲しみにくれて、楽しそうにしているひとたちをみても、批判的な思考でそのひとたちをみている姿を死んだ家族がみていたとしたら、どう思うでしょうか。

「自分が死んだから・・・自分せいで、人生を棒にふって悪をするようになったのか・・・」と悲しむのではないでしょうか。

 

死んだ家族は、死後の世界であなたたちにどうなってほしいと望んでいるでしょうか。

「もっと悲しめ!もっと苦しめ!世の中を恨め!」などと考えていると思うでしょうか。

そんなわけないと考えることでしょう。

 

もし、自分可愛さではなく、死んだ家族を想えば、強く前向きに正しい行いを続けることが、彼らのためになるのです。

死後の世界からみている彼らも、安心することでしょう。

 

死んだ後も、彼らを悲しませようと思うのなら、悪の行動を選択すればいいです。愛する家族をさらに苦しめたいのならそうすればいいわけですが、もし、自分ではなく、愛する家族を想うのであれば、糧にして、彼らの分まで生きるべきです。

 

自殺をした知人が、自殺前に電話をかけてきて、自分は仕事でその電話をすぐにきってしまい、後日、その知人が死んだことを知ったことで、あの電話でちゃんと対応していれば、生きていたかもしれないと、自分を責めるというケースがありました。

そのことで、その人は長く苦しみ続けました。あの時、助けられたのではないのかという苦しみが、ずっと残っているのです。

ですが、そのように後ろ向きで、不を背負って生きていることは、さらに状況を悪化させているだけであり、間違いの上に間違いを上乗せしているようなものです。

本当にそれが問題だと考え捕らえたのなら、前向きに生きるべきなのです。

悲しみにくれて、自分を可愛がるのではなく、厳しく自分をもって、明るく生きていく強さに変えて生きるべきなのですね。

 

イエスキリストは、十字架刑ですべての人の罪を背負ってしなれました。ですが、それらの出来事は、グッドニュース、福音という形で世界中に広がっていきました。今では20億人もの人数、日本人の20倍ものひとたちが、イエスキリストに感謝して、前向きに生きているのです。

 

愛やゆるしという生産的な行動によって、あらゆる束縛や悪を打ち破って来たのです。

 

死は0でもなければ、マイナスでもないのですね。

それらは実際に起こり、存在していたのです。

 

どれだけ残酷で、卑劣なものを目にしたとしても、ありとあらゆる神様の祝福は、1秒たりとも、わたしたちにそそがれないことなど、ありません。

もし、神様が1秒でもその祝福を止めたとしたら、その瞬間、わたしたちは、絶滅します。空気がなくなり、宇宙は崩壊し、いまのように、このサイトをのん気に、読むこともできなくなるのです。

それが事実です。

 

ですから、キリスト教の葬式は悲しむのではなく、感謝になるのです。

彼らとの言葉のやりとりは、死によって一時期中断されますが、それはたかが長くて120年です。その後は、彼らとまた再会し、死んだこどもたちと新たに生まれたこどもたちとともに、ヨブのように、語り合えるようになるのですね。

ヨブは、2倍のこどもたちを得たことになったのです。

アダムによって、悪のプログラミングが入り込んだこの世界では、死は決して悪いものだけではありません。試練や困難という宝物のために、人間は、悪をすることを抑止し、制御しようと考え、行動できるようになるからです。

試練や悲しみは宝物>>

悪をすれば、悪が返ってくるからこそ、正しい生き方をするようになるのです。それらは一概に悪いことだと判断はできないのですね。

悲しみを知っているからこそ、強く優しく、喜びながら感謝して生きていくのです。

3、天国の存在

神様がいるという事実を感情論ではなく、論理的に把握すれば、天国の存在もみえてきます。

全知全能の神が確実にいる証拠>>

神様がいるということを否定できる論理的な人はいませんが、だからといって、天国があるとは言い切れません。

ですが、神様の存在が確実であるだけに、天国がある確率も高まります。

 

なぜなら、天国に近いこの地球という世界の環境が実際に存在しているからです。

わたしたちの暮らしている地球の環境や宇宙環境は、ありえないほど絶妙なバランスの上に存在しています。

本来、このような状況でわたしたちが存在している自体、偶然では絶対にありえません。

ですが、実際にわたしたちは存在しているのです。

 

わたしたちやこの世界、地球が存在していることが、神様の証明になっているわけですが、そのありえないほどの天国のような環境である地球があるのですから、天国がないと考えるのも、おかしなものです。

聖書には、1度天国がこの地にあったことが書かれています。

それがエデンの園です。

エデンの園には、悪は存在せず、人間も悪の存在を知らないだけに、発明することさえ出来ない状態でした。日本の環境で生まれ育った子が、フランス語でものごとを考えられないことで、それは証明されています。

悪を知らない人間は、悪を考えることができなかったわけです。

ですから、悪魔が入り込んだ蛇以外は、悪というものは存在せず、動物たちも肉食ではありませんでした。

恐竜などの牙がそれを証明しています。

 

肉を切るのはナイフであって、フォークで肉を切るのは難しいのです。

鋭い牙は、果物などに穴をあけるのには、役立ちますが、肉を食べるには不得手になるのです。

鋭い牙をもったゴリラやコウモリなどが草食であるようにです。

このように、天国は1度この地球に存在し、またイエス様は、主の祈りでも、「この地に御国が来ますように」と預言的な祈りをささげました。

 

天国とはどのようなところなのか>>

イザヤ書でも、エデンの園の時代のように、人間が長寿になり、悪がなく、ライオンなどと平然と仲良く暮らしていくような世界が来ることを示唆しています。

わたしたちがイメージする天国とは、1つではないのですね。

この地にも、戦争のない争いや悲しみ、また悪が限りなく無くなった世界を作り出すことも可能だというわけです。

その時、死んだものたちは蘇るとも書かれています。

 

もちろん、神の子孫に近い人々だけかもしれませんが、蘇るのです。

また、長い間、天国のようなこの地で悪がほとんどない生活のまま暮らしていけるひとたちがいますが、1000年後、その世界も滅んでしまいます。

本当のおわりです。

そのあと、わたしたちがイメージしているような霊的な天国へとあげられていきます。

ここで、神の子孫たちは、以前死んでいったひとたちと再会を果たす人もいることでしょう。

 

すべての秘密、世界の真実を天国で知ることができるようになり、すべてのひとが、納得できるといわれるイエス様からの説明がされ、みなで永遠の平和のまま過ごしていくことになります。

その時の天国では、体という肉はないと思われます。

 

 

現在、肉があり、悪のあるわたしたちの存在は、悲しみや苦しみが必ず存在しています。

愛する人たちの死を悲しむのも、胸が苦しくなることも、肉があり、その肉の基準で考えるからこそ、辛くなります。

ですが、上でも説明したように、わたしたちの存在が消えさるわけでもありません。

体という肉は消え去っても、霊の存在は消えないのです。

悪魔の子孫の霊は、消え去るのか、はたまた違う場所で苦しんでいくのかは解りませんが、霊は消え去らないので、天国でまた再会できることでしょう。

 

例え生まれる前に、流産などで死んでしまった子であっても、命が宿った時点で、そこには霊が宿り、天国で再会できるでしょう。

悪を多く脳にプログラミングしてしまっているわたしたちよりも、生まれる前に死んだ子たちのほうが、天国にいける可能性は高いかもしれませんね。

 

天国がある可能性は0ではないということです。

なぜなら、天国に近いこの地球という世界が実際に存在しているからです。

わたしたちという地的生命体の人間が存在しているからです。

 

本来は、そのこと自体が、ありえないのですからね。ありえないのに、実際に存在しているのだからしょうがないのです。

それを偶然だという大嘘を信じるほどバカではありません。テレビが偶然できたなど、わたしは信じません。

そのテレビよりもありえないほど高性能なのが、人間なのです。

人間はテレビを造れても、人間を造ることはできないのがその証明なのです。

 

だからこそ、この地球があり、わたしたち人間がいるから天国がある可能性は0とは言えないのですね。

 

今はまだ、信じられないかもしれませんが、200年前のひとたちの一体だれがスマホや飛行機の存在を信じられたでしょうか。

200年前のひとからみれば、スマホはまるで魔法なのです。

ですが、実際にそれらは存在し、利用し、それが当たり前だと思い込んでいるのです。

 

人権が世界中で当たり前の基準になった人間社会の未来では、戦争なども無くなっていく可能性も0ではないのです。

悪という存在が限りなく0に近づくような世界も不可能ではないのですね。

 

ですから、死んだからと言って悲しむだけではありません。

聖書は、生まれる前に死んだ子のほうが幸せだったといった内容も書かれていたりするのです。

それは今は、この地、人間社会には、悪が蔓延しているからです。

だからこそ、死が必要以上に苦しみへと感じ、恨みや無気力などに襲われたりしてしまいますが、本当の情報さえつかんでいれば、死のすべてが悪いとは一概には言えないのですね。

 

もちろん、自殺などはいけません。この地にも天国になるように精進し、子孫たちに平和を与えることが大切だからです。

自殺はなぜいけないのか>>

大乗仏教のカルト的なものやオウムのようなもののように、この現世で苦しんで死んだ方がいいから、そのように行動しろといったものではありません。これらは悪魔宗教の歪曲した考え方であって、この世界でも天国が来るようにと願って生きていくことが本当の教えなのです。

ですが、それ以前に死んでしまったひとたちに対しての解釈、どのように考えるのかという今回のテーマですから、死んでしまったひとたちは、決して悪いことだけでもないということです。

 

まずは、学校宗教団体の大嘘などを暴きましょう。そして、神様がいるという事実を受け止め、その存在を否定できないことを理解したら、天国の存在の可能性もみえてくることでしょう。

死んだら無だという考え方は、単純すぎます。これほど素晴らしい世界が目の前に存在しているのに、それを無視して、無にするほうが、どうなのだろうと思われます。もちろん、悪魔の子孫、悪魔のプログラミングされた存在であれば、無にされるのかもしれませんが、それは解りません。

麻原彰晃などのように、悪魔に魂を売ったような存在。偽預言者や偽救世主のような悪魔的な存在、占い師などは、永遠に苦しむ可能性はありますが、悪魔宗教などによって騙されていただけで、脳に悪魔のプログラミングをいれられて、脳が汚染されていたぐらいのひとたちは、憂慮されるかもしれません。

知っていてする罪と知らないでする罪には、差があるのですね。

そして、単純に神様や死後の世界などないと思い込むこともできません。なぜなら、この地球という信じられないほど奇跡的な星の環境があるからです。

死を終わりだと思うからゆるせないと激しく考えてしまうかもしれませんが、死は終わりではありません。

ですから、自殺もいけませんし、犯罪をするという恐ろしいことをするのも軽はずみにはできないのです。死んだら無だと思えば、軽はずみに悪をできるかもしれませんが、決して無だと分かっているわけではないのです。

 

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