世界の法則

信仰とは何か

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
Pocket

聖書にとって信仰とは、アブラハムのことを表すことが多いです。

なぜかと言えば、聖書には本当の信仰のことがいくつか書かれていますが、アブラハムだけが唯一神様から義とされたと明確に聖書に書かれているからです。

アブラハムの選んだ選択、または生き方に本当の信仰の秘密があると言えるということです。

 

では、本当の信仰とは何なのでしょうか。

1、本当の信仰とは大げさなことではない

信仰を表すことは、情熱的であることだと考える人がいますが、本当にそうなのでしょうか。

むしろ、情熱的に語ったり、必死になって信仰を表そうとする人は、心の奥底で、信仰がない、または、信仰とは何なのかが解っていないから、恐れて、信仰があるように振る舞っているとも言えるのです。

例えば、みなさんには、親がいることでしょう。兄弟でもいいですが、そういった大切な人がいるということを情熱的に話すような人などいるでしょうか。

「おれには母親がいるんだ!」と叫ぶように情熱的に人に伝える人がいるでしょうか。

 

もしいるとするのなら、その人は、逆にその母親が身近にいない人生を送っていたような人ではないでしょうか。

母親が小さい頃からいない人は、母親を強く主張したくなります。それはないことが当たり前だからです。

 

これと同じで、信仰がある人は、それを主張する必要がありません。逆に信仰がない、または信仰とは何かが解っていない人は、心の奥底で信仰がないと思っているから、大げさに、信仰がある振りをするのです。

 

「信仰がある。信仰がある。」と唱えるように、思い込もうとするひとは、実は信仰がないから唱えるのであって、信仰がある人は、唱える必要もないのです。

あるからほしいとは思わないですし、求める必要もありません。それは、あるからです。

 

普通に親がいた人生を歩んだ人は、「これがわたしの親です。」と特に情熱的に紹介する必要はないのです。

 

 

2、アブラハムの信仰

アブラハムは、なぜ神様から義とされたのでしょうか。

それは、アブラハムが、目に入れても痛くないほど愛していた息子を神様の命じる通りに、生贄に捧げようとしたことではなく、そこに選択の余地がないほど、当たり前のことだと認識していたからです。

なぜアブラハムは愛する息子を生贄に捧げようとしたのか>>

普通、自分のこどもを生贄にするという選択をせまられれば、人は、どうしようかと考えるはずです。

生贄に捧げるという選択と生贄に捧げないという選択があると考えるはずです。

 

ですが、アブラハムは、捧げるという選択しかありませんでした。神様からの指示があったことで、生贄に捧げることしかなかったのです。

粛々と儀式の用意をして、次の日には、出発しています。

 

アブラハムは、息子を生贄に捧げようとした行いによって義とされたのではありません。その選択しかないということを知っていたことが信仰だったのですね。

 

アブラハムは、100歳になってからイサクが生まれました。念願の息子だったのです。

 

ですが、アブラハムが神様から義とされたのは、イサクが生まれる前のことです。名前もアブラムの頃でした。神様はアブラハムの信仰によって義とされたのであって、行いや熱い想いによって義とされたわけではなかったのです。

アブラハムにとって、神様は一次的であって、息子や自分の命というものは、二次的なものだったのです。

神様は善だと何故言えるのか>>

神を愛するとはどういうことなのか>>

本当の愛とは何なのか>>

 

そこのことを理解していたアブラハムは、当然ながら、息子を生贄にささげよという指示も、自分の二次的な選択枠は存在せず、一次的な存在である神様の指示に従うことしか彼の中にはなかったから、イサクを生贄にする直前まで行動するしかなかったのです。

彼は粛々と行動を行ったのですね。

 

アブラハムの一次的な存在に対する信仰は、二次的な息子の愛などの信仰よりも上なのは、疑う余地もなかったのです。

 

それは何かと言えば、わたしたちは、本来存在しいえないということです。

 

みなさんは、大切な人に愛の言葉を贈ったとしましょう。ですが、その愛の言葉を口で言えているのは、生きているからです。あなたが、存在しているからこそ、二次的な愛を行動に移せるのです。

ということは、生きていることのほうが、二次的な愛の言葉の語りよりも、より重要だということです。

 

死人に口無しというように、死んでいる人は、愛も語れないのです。イサクだけではなく、愛するサラが生きるため、自分が生きるために、神様は不可欠であるという事実が先にあるのです。

 

わたしたちが、行動できている、生きているということは、すでに存在しているという証拠です。みなさんは、自分が存在していることを否定できないでしょう。

大乗仏教では、すべてのものが無だという思想が歪曲されて伝わっていたりするのですが、無など存在しません。

無というのは、本当の0であって、本当に何もないということです。

 

ですが、自分が存在しているのか?と疑問に思えるからこそ、自分は存在していることは確かなのです。我は考える、ゆえに我ありです。

 

この世界は、無や0といったものではありません。必ず、最初の有が存在し、それが神様なのです。神様があってこそ、わたしたちの有が存在しえるのです。

わたしたちの存在が、確かに今ここにあるから、それをどう表現しようとしても、そんなことには意味がないのです。

 

どんな行いをしても、わたしたちは存在し、存在したことは、変わらないのです。

 

母親のお腹の中で流産しようとも、その子は、存在したから流産できたのであって、存在しなければ、流産もできないのです。

 

アブラハムにとってイサクは、すでに与えられた現実であって二次的な愛する存在であり、結果なのです。イサクが次の日死んだからといって、彼が存在していたことは、消せないのです。

 

わたしたちやこの世界が、存在しているという事実は、神様の存在証明であって、意思ある存在から、この世は創られたことは、誰にも否定できないのです。

 

進化論的思想は、意思のない物体から意志のある存在が偶然生まれたという、バカらしい意味不明な発想で考えられていますが、そんなわけがありません。

 

みなさんは、子は親に似るということを知っていたり、日本人同士からは日本人しか生まれないことを知っているはずです。

ひまわりの種をまいたら、たんぽぽが生えると考える人がいるでしょうか。

ほとんどの人は、ひまわりの種を蒔いたらひまわりの形をした花が咲くと自然に考えます。なぜ、そんなことが言えるのでしょうか。みなさんは預言者でしょうか。

預言者とか大それた存在じゃなくても、こどもでも、その程度のことは答えられるほど、当たり前のことです。

 

ですが、この当たり前は、実は当たり前ではないのです。何かといえば、そこに法則が存在しているということを未来を見なくても、解っている、共通認識だということです。

 

共通していることが、まずおかしいという話なのです。

 

このことから、この世界を素直にみれば、神様がいないなどという発想は、絶対にありえないのです。

全知全能の神様が確実に存在しているという証拠>>

 

子は親に似る、ひまわりの種を蒔けばひまわりが育つというのを現代人に分かり易く言えば、遺伝子という設計図がそれぞれ正確に存在しているということです。

この遺伝子というものは、言葉と似ています。

 

言葉の組み合わせによって、情報になり、わたしたち生き物に組み込まれているのです。その法則を生きていれば当たり前のように目にするので、ひわまわりの種を蒔いたら、ひまわりが育つとほとんどの人が答えるのです。

 

この世界は、言葉、意思ある存在によって造られたことは、疑う余地がないのです。

ヨハネによる福音書1章1-4節

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は初めに神と共にあった。 3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

 

生き物は、すでに設計図が規則正しく存在している時点で、おかしいのです。これを偶然だというバカらしい考えは、脳が汚染されていないからぎり、言う人はいません。わたしたち生き物は、美しすぎるのです。わたしたちの体には、神様の言葉が宿っており、言葉によって組み立てられ、情報が維持されているから、子は親に似るのです。

 

この事実こそが、愛であり、正義なのです。人間がどう思い、どう考えるかは、関係ありません。人間がどれだけ情熱的に語っても事実は変わらないのです。

 

人間は、愛や正義がないので、勝手に偽物の愛や偽物の正義を造り出しては、本当の愛や正義を破壊できるのです。現実を無視して、神様がいないと思い込むことさえ出来てしまうのが、人間です。

ですが、現実を認めれば、神様の存在は、誰にも否定できません。否定しても、その人の存在、否定できているというその存在自体が、神様を証明してしまっているからです。

 

神様を否定するひとは、自分は存在していないと、訳の分からないことを言っているだけなのです。

 

アブラハムにとって、恐怖の対象は、人間でした。なぜなら、人間は、自由意志を持っていて、現実を無視して悪を行えるからです。ですから、アブラハムは、嫁のサラに自分の嫁だと言わずに、妹だと言ってくれと頼んだのです。実際、サラは、腹違いの妹でした。父親は同じ父親だったのです。

現実を無視した悪魔崇拝者、または、悪魔思想を脳にいれらえている人間は、悪を正義だとして、行動できてしまいます。

聖書にも、誠実に正しく生きた人間が、悪人に殺されることがあると書かれていますが、現代でも同じように、悪のプログラミングによって、現実を無視して、悪を行う人間が存在しているのです。

ですから、その人間は、現実を無視して、世を破壊していくのです。悪魔は霊であり、体がないので、それほど怖くはありませんが、人間は体を持っているだけに、恐ろしい存在なのですね。

 

悪のプログラミングを脳に汚染されている人が多くなればなるほど、この世は、破壊と悲劇が広がっていきます。

 

だからこそ、聖書は、神様を第一にしなさいと教えるのです。サタニズム思想を信じている人たちは、現実を無視して、神様の存在を心から存在しなと信じ込んでいるので、悪をすることに恐れはありません。むしろ、物質や私利私欲の目で恐れているだけで、そのような偶像に基準を置くので、人の目を気にしますが、人のいないところでは、何をするのか解ったものではないのです。

偶像とは何なのか>>

ですが、神様を信じている人は、人がいないところでも、悪をすると心が痛むのです。神様がみていることを知っているので、悪を簡単にはできないのです。

 

神様がいると心から信じている人と、神様がいないと心から信じている人の思考は、まったく異なっているのです。

 

そして、神様がいることは、現実をみれば、誰にも否定できません。アブラハムにとって、神様は自分が否定しても、否定できない存在なので、従うという選択しかなかったのです。

アブラハムにとって、人からどう見られるのかといったことや、その他の意思は、二の次でしかなかったのですね。

 

感情的に愛を語ることが愛なのではなく、愛そのものが、愛であって、人間の意思は関係ありません。正義もまた同じで、人間の入り込む余地はありません。事実が、愛であり、正義なのです。

 

自分の中から愛や正義を生み出すのではなく、人が愛や正義に従うのです。人が愛や正義を作り出しているのではないのです。人が愛や正義に守られ存在しているだけだということです。本当の愛や正義とは、人間の存在する前から存在する「事実・世界の現象」なのです。

 

そして、それこそが、一次的な愛や正義であり、神様そのものであり、神様の意思なのです。

 

アブラハムにとって、イサクへの愛は、二次的なものだということが、事実であって、神様なしでは、イサクも存在しえなかったのです。イサクが次の日に、死んだとしても、イサクが存在したことは、確かなので、アブラハムは、すでに与えられたことを理解していたと思われるのです。

 

神様によって生きる者となったイサクは、体こそ証明しても、その存在と霊は、残るのです。肉体がなくなるので、イサクからもらうことは、そこでストップするので、悲しいですが、すでに与えられているという事実は、変わりません。

 

神様であっても、与えていないものを奪うことなどできないのです。

 

ひとは、自分中心に生きていれば、無くなったものへの悲しみや怒りに惑わされますが、事実を基に考え、神様中心に考えれば、あきらかに、与えられていることのほうが多いのです。

 

アブラハムの信仰心とは、事実からみた世界観であり、神様を中心に考えざる負えないから、特に感情的に表す必要もなく、自然に生きる行動を自然に行っていただけのことだということです。

 

そして、それが神様から義とされたのです。

 

何か大げさに行動したことが義になったのではなく、事実を把握して、認めてるしかないと理解していたことが、義とされたのです。

3、イエス様は、自然体だったはず

イエス様は、どのような雰囲気で、人々に聖書を教えていたのでしょうか。

わたしが思うに、わたしのように暑苦しいく話をされなかったのではないかと思うのです。

 

世界を創られたイエス様が、何を強がって語ることがあるでしょうか。

動物や植物は、人間と違って、神様の創られた法則に強く従うしかありません。人間は、自由意志の度合いが大きいので、非現実的な行動もできることから、法則に反した行動もできます。

ですが、人間以外のものは、植え込まれた法則に沿って動くことしか、ほとんどできないのです。

 

パソコンには、スクリーンセーバーがあります。パソコンを動かさずに、時間が経つと、勝手に画面が待機状態にされます。画面が変わって、まるで生き物のように、自由気ままに、図形が動き出します。

それをじーっとみていると、まるで生きているもののように見えたります。

 

ですが、そのスクリーンセーバーの図形は、プログラミング通りに動いているだけで、生き物のようにみえるのは、人間の目や脳の錯覚なのです。

 

動物や植物も、生きているかのように、人間の目では見えるのですが、実際は、プログラミング通りに、動いているだけで、お腹がすいたら食べ物を探して、食べ物が少なくなった場所や危険な場所からは、離れて環境のいいところをプログラミング通り動いているだけなのです。

 

ですが、人間は、違います。確かに動物や植物と同じように、すでにインプットされているプログラミングに影響されて多くの行動を起こしていますが、自分で自分のプログラミングを想像して、打ち治すことも可能なのです。お腹がすいても断食などをすることが可能です。

神様ととても似ている能力を人間は持っているのですね。

 

これこそが生きているという存在でもあるのではないでしょうか。

アダムとエバは、まるで動植物のように善のプログラミングしか存在しませんでした。ですから、彼らは悪を知らないだけに、悪はできなかったのです。自分が裸であることさえも理解せずに生きていました。

創世記3章7節

すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

その後、善悪の知識を手に入れたことで、人間は悪魔の言った通り、神様のように本当の意味で、生きるような存在になったのです。

 

ですが、その代償はとても大きなものでした。人間は悪をするというプログライングを脳にいれたことで、悪を行うことができるようになったからです。

それを自由と言う人もいますが、実際は、不自由になったのです。

 

悪をすれば、悪が帰るように、神様はこの世界を創られていたのです。善と悪を手に入れたことによって、選択することができるようになりましたが、だからこそ、試練や苦難が人間のために用意されたのです。

悪を行動する人間によって、多くを奪われた人もいることでしょう。だからこそ、失ったからこそ、大げさに行動してしまうかもしれませんが、本来、人間が正常に、神様のプログラミングに従っていれば、失うこともないのです。

 

現代人の多くはクリスチャンも含めて、大きく欠如しているからこそ、大げさに行動し、信仰があると見せたくなってしまうのですね。

ですが、本当の信仰とは、無いからあるようにみせるものではなく、あることを認めて、自然体で、生きることなのです。

 

わたしは学者タイプで、預言者タイプではなく、未来をみることもできないので、現状で足りないものを判断して、熱苦しく記事を書いたりしてしまっているのですが、イエス様は、未来をご存知であり、神様が勝利し、すべてのひとが納得できる未来の結果をご存知なので、何も情熱的に語る必要などありません。

事実をそのまま口にするだけです。

本当の信仰とは、大げさなものではなく、否定することも肯定することも必要ありません。人間の意思とは関係なく、事実が目の前に大量に存在していることを認めることであって、大げさに言うほうが変なのですね。

 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す

*

CAPTCHA