思考の変化

神の愛とは

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神の愛のことをアガペーや父の愛などとクリスチャンは表現します。

人間の愛と神様の愛は、どう違うのでしょうか。

 

ここで愛を神の愛と人間の愛などと分けてしまうから人は混乱してしまうのですが、実際は、神の愛が本当の愛なのです。人間同士の恋をする愛というものは、脳による錯覚であって、恋はとても脳内麻薬を分泌させて気持ちよくさせてくれますが、これは本当の愛ではありません。

愛は対象を限定するものではなく、人間が何をする、何を選ぶなどといったことには関係がありません。

 

では神の愛とは何なのでしょうか。

1、神の愛とは一次的な絶対愛

わたしたち人間とくに、未信者などが思い描くドラマや映画などでみる男女の愛は、二次的な愛にしかすぎません。この二次的な愛を誇大表現をして、脳を気持ちよくさせて、お客さんを集客するののが、映画やドラマなどの手法です。音楽もまた同じです。男女の愛ばかりを歌うミュージシャンもそれが売れるから歌っているわけです。

二次的な愛は確かに人の脳を高揚させて、気持ちよくさせてくれますが、それは状態異常を起こしている状態であって、正常な状態に戻れば消え去ってしまう愛です。

本当の愛とは何か>>

ですが、一次的な愛、真実の愛というものは、人間が怒っている時も、犯罪をしようとも、悪をしようとも、常に一時的な愛はそそがれていて、彼らはそれゆえ、行動できるのです。

 

AくんとBさんが、付き合って、お互い愛を語り合ったとします。ふたりとも、心からお互いを好きだという反応をみせて、愛を語り合います。

ですが、愛を語り合えるということは、生きているから出来るのです。

 

生きていない人は、愛を語り合うことはできません。

 

愛を語り合うということは、口があり、脳があるからできるのであって、生まれた時から奇形で口がなかったり、脳がなければ、愛を語り合うことも、ふたりが出会うこともなかったことでしょう。

 

悪人がどれだけ悪をしようとしても、死んでいればできません。生きていて、手があり、脳があるから悪が出来ているのです。

 

「生きて存在することが出来ている環境が存在している」という事実こそが、まさに神の愛なのです。

この事実が、本当の愛であって、一次的な愛なのです。

 

神様は、悪人にも雨を降らされ、守られ続けているのです。いつか彼らや彼らの子孫が、神の子孫へと変わって悔い改めてくれると彼らを守っているからこそ、彼らは悪事をすることが可能なのですね。

 

どれだけ人間が悪をしようとも、この愛や正義は、覆すことができません。結局、圧倒的に善が勝利しているのが事実なのです。

 

人間はその事実を無視して、悪を行動したり、悪を容認したり、悪を選んだりしているだけで、人間が何をしようとこれは変わることがないのです。

 

例えば、人間が神の法則を導き出し、今までのように神の法則から車や飛行機を作り出してきたように、神様の法則を捻じ曲げることができるものさえも、発見し、変えることが可能になったとしても、それを発見し、作り出せる時間を守られていたという過去の事実は変えようもないのです。

 

どれだけ人間が嫌がろうと、必ずその人には親がいたから、生まれ存在しているのです。

 

その親もまた、神様の愛、本当のこの世界の愛に守られ生きていたから、わたしたちが存在しているのです。何をしようと過去は変えられないのです。

 

この一次的な愛、絶対愛というものが、神様が絶対的な正義に基づいていることを証明しているのです。

あなたが、今生きている時点で、それはもう、数学的にいえば、ありえないことなのです。ですが、あなたは存在しているのです。

 

「ノウイング」というニコラス・ケイジの映画が過去にありました。主人公のニコラスは、物理宇宙学者で、彼は無神論者でした。ですが、彼は理解していました。この世界が存在し、自分たち人間が存在していることは、数学的には、ありえないということをです。ですから、彼は心から自分たちは、宇宙で孤独な存在なのだと確信していたのです。

ですが、さらに深く読み解けば、ありえないのに、実際に存在しているという事実を彼は理解していなかったのです。

それは神の存在がいる、この世界自体がすでに不思議であるということを認めることだったのです。

 

神が存在しないという考えは、数学的にいえば、ありえないことです。人間がどれだけ悪をしようとこれだけは覆せない事実なのです。

全知全能の神が確実に存在する証拠>>

2、本当の愛に従うか、それとも逆らうのか

悪だと解って悪をする人は、目の前が崖なのに、そのまま前進する人と同じです。

どれだけお金を持っていても、どれだけ権力を持っていても、神様が創り出した法則を無視することなどできないのです。

 

一時は、彼らは勝利しているかのように見えているだけで、彼らは悪を正義として行っている以上、悪を恐れ他人を恐れ、生涯安心してくらせないのです。楽観主義では生きていけないのです。

お金がなくても、人を疑わない人は、幸せに暮らしています。自分が人を疑わないので、騙されたりする確率は高いですが、自分がそうなので、他人もそうだと信じているのです。ですから、日々を恐れて暮らすことなく、笑顔でのびのびと生きることができるのです。

あなたはどちらがいいでしょうか。

お金があって、それがいつ奪われ、いのちの保障さえもない日々を恐怖と疑心暗鬼、裏切りの生活を送るのか、それともお金はないけれど、だからこそ、裏切る必要もないひとたちに囲まれて、安心して生きることです。

 

前者は、いつも戦い続け、一握りの確率でしかありません。後者は、脳の錯覚に惑わされず、ただ生きていることを感謝すれば、誰にでも手に入ることです。

前者は、いつまでも偶像を信じ込み、脳の錯覚、裸の王様のまま意味のない人生を必死に生きるのですが、後者は、偶像に目をくれず、事実を認め、従いながら生きていくだけです。

偶像とは何なのか>>

いつの時代も神様は、人間や動物、植物など、努力する必要もなく、そのまま生きているだけで幸せになれるように、環境を整え続けてくれました。ですが、人間は、それを無視して、人間同士で競いあい、それ自体が偶像であって、他の人間よりも少しでも上にならないと満足しないという傲慢さで、事実を無視し続けたので、この世界が、天国であるという事実さえも、気づかずに生きているのです。

 

幸せは、すぐそこにあるのですが、偶像を追い求めることで、見失ってしまっているのです。

発展途上国であろうと先進国だといわれているところだろうと、変わらず神様は、必要最低限の人間が幸せになれる環境を1秒も止めずに、与え続けられているのです。生きているすべての人や生き物にです。

 

死んだから不幸ではありません。死ぬことが出来たということは生きていたということです。死んでいる人間は、だれも殺すことさえもできないのです。不幸が来たということは、生きている証拠なのです。死んでいる人間に針を刺しても痛がりません。

ものすごく好きな人を見つけたとします。遺伝子的、性格的、あらゆる面で、この人だと思うような相手です。ですが、その相手が、自分を選んでくれるとは限りません。世界には数十億の男性もいれば、女性もいるからです。

どれだけ自分が好きな相手だと思ったとしても、実際は、その人は、別の人間で、別の脳で生きているという事実は、変わらないので、コントロールしようがないのです。

ダビデは、そのような女性を見つけましたが、彼女はすでに結婚していて、どうしてもダビデは彼女がほしいと考え、彼女の夫を激しい戦場の最前線に持っていくように仕向けて、彼を殺し、彼女を手に入れたのです。

このような悪をして、他人を蹴落とし、他人の幸せさえも踏みにじる行為は、彼や彼の子孫を苦しめることになるのです。

悪の連鎖がはどめなく続いていくのですね。

 

この偽物の愛による悪の連鎖を止めるのは、本当の愛しかありません。

 

イエス様は、ご自分のいのちを犠牲にして、十字架刑に架かられました。自分を十字架刑にかけろとバカにし、批難したひとたちにも、神様にゆるしを与え、守られるように祈られるのです。

イエス様は、罪人として、あきらかな冤罪で処刑されたのです。ですが、その行為が、人々に愛や正義を呼び起こしたのです。

武力によって世を治めれば、武力によってそれらは潰されます。

これは、悪魔宗教も学んだことです。

 

現在の世界を統一し、支配者となっている悪魔宗教は、キリスト教やユダヤ教などを表向き信者となっているのは、武力による統治をすれば、すぐに崩壊するので、かなりの自由を与えることで、今でも人々は知らずに彼らを認めるように、誘導されているわけです。

彼らの善は、表向きであっても、表向き善をしなければ、統治できないという事実は、世界を支配していても、変えられないのですね。

 

彼らが悪をすればするほど、彼らは追い詰められていきます。それは人間の歴史が証明しているからです。

 

すでに、世界は聖書の価値観、憲法で人に人権があることを学んでしまっています。人権を無視したことを小さなところでやっただけで、大ごとになってしまうように、表の世界ではなってしまっているのです。

悪魔宗教はあらゆる策略で、キリスト教や善をするひとたちを破壊し、聖書を冒涜しようとしてきましたが、結局、世界の善には、すべて裏返ってしまったのです。

 

どんな悪の組織でも善を利用しなければ、組織が成り立たないからです。

 

ヤクザなどが秩序や親子の盃などをかわすのも、組織を安定させるために、表面的であっても、しなければ存続できないからです。9・11で悪魔宗教は、とんでもない権力と財力を持っていることが明らかにされましたが、その9・11をして悪魔宗教たちが喜んだことが、人々の目を覚まさせてしまったのです。

アフガニスタンでもなく、イラクのフセインでもなく、ビンラディンや麻原彰晃ではなく、彼らが本当の敵だったことを彼らは自分たちの手で、明かしてしまったのですね。

彼らが隠れていた時は、発展した街々は、まるでソドムとゴモラのようになり、日本の東京都も、バブルがはじけるまでは、そのような場所で、今でも物質や拝金主義者の固まりのような街です。男女は踊り狂い江戸全盛期のように、お酒や快楽に溺れていったのです。

ソドムやゴモラのように人を食べるほどにまでは至っていなかったからか、ただのバブル崩壊というもので終わってくれましたが、本来なら、隕石が落ちるなりしてもおかしくなかったことでしょう。

紙切れという紙幣を刷れば、経済が安定するという安易な考え方は、世に欲望をまきちらし、偶像を広げてしまうだけで、悪化するだけなのです。

そう考えれば、わざと経済悪化をさせているかのような、安倍政権は、長い目でみれば、正しいことをしているわけです。

 

人間が悪をすればするほど、聖書の価値観が広がってしまっている以上、彼らは追い詰められていくだけです。ですから、これからは、与えることをして、ゆるしを乞うことをしなければ、自分たちのしてきた悪によって滅ぼされてしまうことになるのです。

 

神様は偉大で、善人が悪をしなくても、悪が自らの悪によって滅ぼされる現状のような状態を導いてくださったというわけです。毒は毒によって制するといった具合で、結局、秦氏(原始キリスト教)のように、虐げられながらも、平和を続けていったものたちが勝利するのですね。

武力や悪を倒そうとするのではなく、誇りを持って善をしていく、心、それこそが、本物のプロテスタント思想であり、強い意思を持って両方のほほを差し出すのです。

キング牧師やガンジーのように、非暴力による解決を目指すのです。

 

敵さえも愛するということは、悪への絶対的な攻撃力になりえるのです。悪の連鎖を唯一断ち切るのは、神の絶対的な愛を認め、それに従う人々による勇気ある行動でしかないのですね。誰かを傷つけて解決したとしても、それを悪がみれば、やり返すだけなのです。ですが、赦しによって解決したものを見た時、悪人にも善を理解する糸口が生まれるのです。

マタイによる福音書22章37-40節

イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 38これがいちばん大切な、第一のいましめである。 39第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 40これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

この神の愛に従うことこそ、すべての秘密、すべての解決、律法全体と預言(未来)がかかっているのです。

神の愛に従うことこそが、第一のいましめなのです。

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