思考の変化

聖書の再婚の教え

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聖書を読むと、再婚することは、すべて禁止されているかのように思えてきます。

マタイの福音書5章31・32節

また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。 32しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。

 

マタイの福音書19章9節

そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。

 

マルコによる福音書10章11・12節

そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。 12また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。 

 

ルカによる福音書16章18節

すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである。

 

第一コリント人への手紙7章

更に、結婚している者たちに命じる。命じるのは、わたしではなく主であるが、妻は夫から別れてはいけない。 11(しかし、万一別れているなら、結婚しないでいるか、それとも夫と和解するかしなさい)。また夫も妻と離婚してはならない。 12そのほかの人々に言う。これを言うのは、主ではなく、わたしである。ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。 13また、ある婦人の夫が不信者であり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。 14なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また、不信者の妻も夫によってきよめられているからである。もしそうでなければ、あなたがたの子は汚れていることになるが、実際はきよいではないか。 15しかし、もし不信者の方が離れて行くのなら、離れるままにしておくがよい。兄弟も姉妹も、こうした場合には、束縛されてはいない。神は、あなたがたを平和に暮させるために、召されたのである。

 

このように離婚することは、もとより、再婚することも聖書は否定しているかのようにみえます。再婚はしてはいけないのでしょうか。

1、離婚や再婚はよくない、「ただし」

聖書を読むと、離婚や再婚は、よくないことだと思えてきます。ですが、これには、頭に「ただし」という言葉が付け足されるのです。

 

根本的に、聖書は、神の子孫によって世界を運営、コントロールするために導かれた書物です。「神の子孫」という言葉が聖書に書かれているように、これには対比した子孫も存在することを聖書は、創世記からずっと伝え続けているのです。

それは、「悪魔の子孫」です。

人間に善悪の知識が脳にインプットされてから、人には、悪というものを発見し、悪を選択する自由さえも手に入れました。悪とは、非現実的なもの、存在しないもの、この世界には、関係のないもののことです。

人間の善悪の話ではありません。具体的にいうと偶像思想こそが悪であるということです。

偶像とは何なのか>>

神様は、この世界そのものなので、善でしか成りえません。その神様の体であり、法則、現実を無視して、神様という第一の存在を自由意志で否定したのが、天使から生まれました。それが悪魔です。

現実を無視して、神様よりも上になり、自分が神になろうとしたのです。現実を無視することこそ、悪なのです。言い換えれば「破壊」ということです。

自由意志があるからこそ、事実を無視して、破壊しては、自分の自我を貫こうとする考え方、それが悪なのです。

 

人間がどれだけ嫌がろうと太陽は1つしかありません。ですが、太陽は1つではない!と言い張ることもできるのが、人間であり、悪魔であるということです。

 

まったくのデタラメ、偶像思想、虚像や空想であっても、人はそれを信じるということも出来てしまうのです。

ですが、多くのひとたちが、現実を無視して、このような空想の思想、偶像思想が広まってしまえば、現実と乖離するので、被害が拡大してしまうのですね。

 

自分の考えや想い、感情論ではなく、事実を認め、神様が創ってくださったこの世界に従う存在、それが「神の子孫」なのです。

 

聖書が、離婚や再婚を否定しているのは、「神の子孫」という言葉が、前提にあるからです。

 

では、聖書を知らない人は、神の子孫ではないのか?ということではありません。現実を把握し、この世界に従って平和に生きる人間は、例え聖書を読んだことがなくても、理解している人がいるのです。神道であったり、仏教であったり、イスラム教であったりしても、真理を追い求めようとして、生きている人は、神の子孫に近い人間なのです。

ですから、聖書は、きちんとそのことが書かれているのです。一部の言葉だけを取り出して、自分の都合のいい解釈をする人などが多くいますが、聖書は、そのような読み方をするものではありません。聖書全体から人間の思考とは官益のない事実を教えていることを理解して、1つ1つの言葉を解釈していかなければいけないのですね。

 

マタイの福音書5章31・32節

また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。 32しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。

 

ここで書かれているように、「不品行以外の理由で」という言葉を忘れてはいけないのです。

神の子孫は、不品行をしません。ですから、クリスチャンは、神の子孫になろうと日々精進しているのです。

不品行とは、非現実的な思想、悪を行う「悪魔の子孫」がすることです。

 

クリスチャンは、聖書を読んでいるひとたちの集まりによって環境からも清くされていきます。聖書という固定された愛や正義を毎日のように心や精神、脳にインプットしては、修正を心がけています。必ず、クリスチャンも原罪があるので、悪がありますが、それでも悪から遠ざかろうとするものが、本物のクリスチャンです。

体や脳、霊的にも、プログラミングされていないノンクリスチャンは、その人の都合で動くわけですから、「悪魔の子孫」の選択を選ぶ確率が高くなるのは、当たり前です。ストーカーや犯罪者たちの主張とほとんど変わりません。もちろん、神道や仏教などで、自分の考えではなく、教えに従おうとしている人は、神の子孫に近いひとです。

ですが、宗教などを信じていない人は、犯罪者の主張と紙一重のところで、生きている状態なのですね。ですから、配偶者に対しても、悪をしても、それを悪だと認識できない場合も多くあるのです。

聖書が強く禁止しているのは、「神の子孫同士の離婚や再婚」です。神の子孫同士で、相手も正しいことをしているにも、かかわらず、離婚をするような人は、姦淫をおかすようなものだと強く否定しているのですね。

神の子孫同士でさえも、納得し、忍耐を示すことができないのなら、その人は、誰と一緒になっても同じです。完璧な人間がいないように、完璧な相手など存在しないのです。神の子孫になろうと心がけている相手なら、クリスチャンではなくても、離婚はゆるされないのですね。

家族というものは、組織の最小単位です。組織正義のために、悪をする人もいますが、それは一部の人間にすぎません。組織というシステムを神様が与えられていることで、多くの悪が抑えられているのです。どんなに凶悪な組織であっても、善を利用しなければ、成り立たないからです。共犯者もなく、たったひとりの連続殺人犯などでなら、捕まるまではやりたい放題のようにも出来るかもしれませんが、それでも、普段は善の生活をしているように見せなければ、すぐに捕まるのです。

それらを理解するために、家族という最小単位の組織は、理解する必要があり、結婚は、世界をも救うものだとさえ言えるものなのです。しかも、神の子孫同士が結婚して、組織を維持していくことをするわけですから、それを神の子孫が、離縁や再婚などをすることは、否定されるのですね。

ですが、相手が悪魔の子孫の脳のプログラミングを信じ込んでいると、非現実的なことさえも、現実と本気で信じ込むので、例え悪をしても、それが悪だと認識できない場合があり、神の子孫にも、危害を加えてくる可能性があるのです。ですから、「不品行以外の理由」と書かれているのです。

他の箇所も見ていきましょう。

 

マタイの福音書19章3-9節

さてパリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして言った、「何かの理由で、夫がその妻を出すのは、さしつかえないでしょうか」。 4イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、 5そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。 6彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。 7彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。 8イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。 9そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。

 

神の子孫たちのめぐり合わせは、神様が祝福されるところであって、彼らはもはや、ふたりではなく一体なのです。

これを否定してしまえば、世界は滅びます。

小さなことのように思えるかもしれませんが、世界を創られた神様のシステムを否定し、破壊する行為になるからです。もちろん、相手が「悪魔の子孫」「悪のプログライング」を脳にインプットされて、それを疑いもせず、信じ込んでいたとしたら、話しは別です。

はじめから、神様を否定している人に、愛や正義は存在しないからです。

本当の愛とは何なのか>>

そもそも、前提が崩れている人に、何を言っても、通じません。犯罪者に愛や正義を話しても通じません。死体に何を話そうと返事をしないように、彼らは、非現実的なものを信じ込んで、生きているようにみえますが、多くが死んでいるので、話してもまったく通じないのです。

そして、モーセの時代のイスラエル人たちもそうでした。アブラハムから受け継がれた一神教の神様のことを忘れ、多神教の神々という偶像を信じ込む人もいたので、前提が崩れているのです。そのような民を運営していけば、当たり前ですが、離婚は多発します。人々は、自分の正義、自分の愛を中心に、ご都合主義で、生きているので、心がかたくなになってしまっている集団だったというわけです。

ですから、モーセの時には、離婚状を用意する必要があったのです。

現代人もまさにそうです。離婚が多発しているのは、多神教のように、あっちもこっちもと手を出しては、自分の都合にあう思想(神)を選んでいるので、価値観の不一致によって離婚するのです。当たり前のことなのです。リベラルという自由主義は、聴こえはいいですが、愛や正義がない人間に、自由を与えたらどうなるのでしょうか。

ですから、クリスチャンでもない人たちなら、どれだけ離婚したり、再婚してもいいというわけではなく、離婚状を用意して、また苦しみ続けることしかできない悪循環に陥ることを理解させなければいけないということです。何度も何度も結婚しては再婚を繰り返す人は、悪魔の子孫であり、脳やあらゆるところが、すでに汚染されているから繰り返すのです。

 

離婚や再婚は、クリスチャン同士であれば、禁止されることですが、片方が、悪魔の子孫で、前提からずれているのであれば、再婚は認められるのです。ですが、再婚をするのなら、神の子孫にするべきだということです。また、悪魔の子孫と結婚したら、また離婚するだけだからです。

子孫というのは、血筋のことではありません。教え、言葉による理解、悪魔のプログラミングを信じている人間のことです。偶像思想を信じている人間のことなのですね。非現実的な思想を信じている人に、現実を言っても理解できないから、そういった場合は、再婚することは、やもなしというわけです。

2、聖書は、一貫している

マタイもマルコもルカもパウロも、まったく同じことを言い方を変えて伝えているだけで、一貫した教えを貫いています。

第一コリント人への手紙7章10-15節

更に、結婚している者たちに命じる。命じるのは、わたしではなく主であるが、妻は夫から別れてはいけない。 11(しかし、万一別れているなら、結婚しないでいるか、それとも夫と和解するかしなさい)。また夫も妻と離婚してはならない。 12そのほかの人々に言う。これを言うのは、主ではなく、わたしである。ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。 13また、ある婦人の夫が不信者であり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。 14なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また、不信者の妻も夫によってきよめられているからである。もしそうでなければ、あなたがたの子は汚れていることになるが、実際はきよいではないか。 15しかし、もし不信者の方が離れて行くのなら、離れるままにしておくがよい。兄弟も姉妹も、こうした場合には、束縛されてはいない。神は、あなたがたを平和に暮させるために、召されたのである。

たまに、聖書の離婚や再婚、あらゆる考え方をひとりの人間、その時代の人間の都合によって書き足されているかのようなことを主張する人がいますが、そんなことはありえません。

なぜなら、イエスキリストが死んだあとの時代は、原始キリスト教の1つ1つの発言は、死につながっていたからです。

 

彼らは、自分の想いや思想で、自分勝手に離婚や再婚のことを書いていたのなら、すぐにユダヤ教徒やローマ帝国から殺されました。

事実を伝え、それに正当性がない限り、彼らの発言、ましてや聖書というものに、活字として、書くのは自殺行為なのです。

 

生きるか死ぬのか分からない状態の時に、証拠になる書物を書くということが、どういうことなのか、みなさんも想像してみてください。命がけの作業だったことでしょう。

福音書は、その筆者が個人的な思想を持ち込む要素を持って書いたとしたら、すぐに殺されてしまうのです。

 

ですから、個人的な思想など、関係がないのです。

 

事実を語ったり、書いても、殺されるような時代に、個人的な思想を植え付けようとするようなことをすれば、一体どうなるのでしょうか。

それこそ、大義名分など存在しなくなり、その後、キリスト教がローマ帝国に認められるという事実さえも、嘘だといったような、訳の分からない主張になってしまうのですね。

 

悪意を持って、聖書を歪曲させた偶像思想へと持っていこうとする人たちが存在します。同じ個所を読んだとしても、悪魔の子孫は、前提からずれているので、どのようにも解釈しては、聖書を冒涜できるというわけです。

なぜ牧師や神学者が、聖書を冒涜しているのか>>

ですから、何も知らない未信者の方たちは、そういったものには、気を付けましょう。もし、純粋に、聖書の離婚や再婚の教えを知りたいと願っているひとなら、何か違和感を感じるはずです。

 

キリスト教国の人々による先住民への侵略、旧約聖書に書かれている虐殺といったような単純な思考で、聖書を冒涜しようとしてくる人がいますが、何の理由もなしに、そのようなことをしたと考える方がおかしいのです。

 

物事には、原因と結果があり、要因が必ず存在しています。例え、悪魔の子孫であっても、要因は存在するのです。

 

聖書は、その要因を旧約聖書から一貫して、伝え続けているのです。

人には、愛や正義は存在しませんが、この世界には、愛や正義があることは、誰にも否定できません。神様がいることを、空想を信じて否定できても、事実を把握すれば、誰も否定できないようにです。

全知全能の神様が存在する証拠>>

人は、愛や正義を自分の中から作り出すのではありません。それらは偶像でしかないのです。錯覚や状態異常を起こしているだけです。麻薬を打って幻覚を見ている人と同じです。ですから、人には愛や正義はないので、人は、愛や正義を自分の上に置いて、従うのです。

愛や正義は、人の下にはないのです。

 

それを理解しなければ、いくら再婚しても、同じことの繰り返しになるのですね。

 
 
 
 
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