思考の変化

無神論の問題点

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日本はもともと、神道や仏教を信じる国で神の存在を信じ続けて、大切にしてきました。

ですが、近年になって新興宗教の進化論やサタニズムの無神論が、急激に信者を増やし続けています。

 

それについて、なんら問題はないと生活しているのですが、それがどれほど恐ろしいことなのか本気で解っていないのです。

日本では、この無神論という宗教の信者が学校宗教団体で急速に広まり増え続け、そのことに疑問を持つことがありませんが、世界は無神論の信者は少なく、神を信じる人たちが多いので、平和で、人権を常日頃から大切にしようと生きているのからこそ、無神論だと言う人をみると、怖がるのです。

 

無神論だと堂々という人間は、どんな恐ろしいことをするのか解らないので、もの凄く怖いのです。

 

犯罪者とそれほど離れていない存在だと理解しているのです。無神論の中でも善や正義を求めて自分は正しいと思い込んでいる人がいますが、それは錯覚にすぎません。なぜなら、無神論だからです。

 

人間の歴史をみても、無神論、サタニズムを信じた集団、民族ほど、残酷で恐ろしい常識を作り出し、悪影響を及ぼしてきたのです。犯罪者の主張そのものなのですね。

無神論の問題点を今回はみていきましょう。

1、無いということは、後から発明された

あるという考え方は、当然どんな民族でも理解して、文化に取り入れてきました。なぜなら、自分たちの存在があるから、無いという発想など出てこないのです。

 

無いというものは、不自然なことなのですね。

 

「我思う、ゆえに我有り」という言葉があるように、あなたが、何かを考えていることが、あなたの存在を証明しているのですが、そこから、我は無いといったような、バカらしい考え方を脳に汚染していくオウムのような宗教が、今でも存在しています。

その中でも特に大乗仏教などが有名でしょう。釈迦の空の思想を無と取り換えて、歪曲していくのです。

 

すべての大乗仏教がそのような教えではないのですが、この世界は無だと教えて、事実を無視するような行動を人間にさせていくのです。

 

聖書には、空の教えがあります。釈迦よりもだいぶ前にすでに空の教えは聖書にされていて、それは世界に広まっていました。ですが、空の教えは、この世界は、空のようなものだと教えているだけで、この世界が無いと教えるものではありません。

この世界はあるが、唯一の神様が創り出したものであって、それらは空のようなものであると教えているだけで、有るのです。

 

ですが、大乗仏教の教えの中では、無だと教え、自分さえもいないと脳を汚染させ、何も飲まず食わずを繰り返して、ずっと座禅を組むのです。ですが、そんな人も現実に存在していることは否定できません。何もせずに座り続けると血行が滞り、足が腐敗していってしまうのです。そして、足を無くしたという修行僧も存在したのです。

これを正常だと考えるのは、異常です。

 

 

 

「0」という数字は、近年になってインドで発明されました。それまでは0という概念は、数字では存在しなかったのです。

温度計で、「0度」という表示がありますが、0度は、温度が無ということではありません。

0度でも温度はあるのです。ただ、人間がその地点を0として表記しているだけで、0ではないのです。

 

0というものは、本当に0のことです。ですが、この世界には、0というものは、人間の脳の中にしか存在しません。無いものは、認識できないからです。

人間が本当に認識できているものは、「有る」ものなので、本当の0ではないのです。

 

身長0センチなんて人もいなければ、りんごが始めから目の前に無ければ、りんごを数えることもしないのです。

 

マイナスというものも、「有る」ということを示しているのです。

マイナス10度という温度計の測りも、冷たい環境があるということを示していて、無いということではありません。

 

昔の人は、神が存在することは当たり前だと考えていました。変に0、「無い」という概念がないだけに、有るということを信じたのです。

 

なぜなら、自分たちが有るからです。

 

子がいるということは、親がいて、その親にも親がいてと、続いていきます。結局、組織は、ピラミッド型になり、頂点のはじまりは、1つに集約されていくことになります。そして、それは、はじめから「有る」という存在でなければ、この世界が、存在していることを説明はできません。

何かを誰かが新しく発明したとしても、それは初めから有るから発明できたのです。何も無い状態なら、絶対にスマホなどは発明できません。

 

聖書は、それを「神様」だと教えています。世界中の宗教が、神様から世界が創られたと似たような内容で語られ続けてきました。

 

このように、「有る」ということを考えることは、ごく自然なことですが、「無い」ということを考えるのは、不自然であり、人間の空想の世界では、想像できても、実際には、ないので不自然なことなのです。

 

無神論というものは、不自然で、それを心から信じている人は、「自分は存在していない」と訳の分からないことを真剣に言っている人になるのです。

 

無神論の信者さんたちは、その矛盾を考えずに、ただ頑なに無神論を信じているだけの人が多いですが、行っていることとやっていることが、矛盾しているのです。

仏教や儒教は、無神論かのように教える人がいますが、決してそうではありません。もともと、釈迦も、孔子も、先祖代々の教え、書物などから、論理的な思考を広げるために、神の存在を強調しなかっただけで、否定しているわけではありません。

 

神が有るという事実を利用した、詐欺師や犯罪者が多発していたので、それを論理的な思考で騙されないひとたちに育てようと、学問的な要素が強い宗教を打ち出したにすぎないのです。

否定したのは、神ではなく、オウムのようなカルト宗教の矛盾した教えだったのです。

 

これは、信長や江戸幕府も同じで、政教分離という言葉はあっても、宗教と政治が切り離せるわけはないのです。彼らがやろうとしたのは、カルト宗教のような宗教が政治に入り込まないように、論理的な宗教の基準に引き上げるための言葉にすぎないのですね。

2、無神論の信者は、なぜ犯罪者と変わらないのか

日本の無神論者は、平和的で安全だと勘違いしていますが、それは錯覚にしかすぎません。

彼らが平和や安全を心の中の正義だと考えているのは、昔から神道や仏教で、愛や正義が、正しいという基準が文化の中にあるからであって、無神論がそうさせているのではありません。

 

そして、彼らは祖父母の神様の教えを無くした時点で、犯罪者と変わらない存在になっているのです。

 

「なぜだ?キリスト教や神道のひとたちと同じように、平和や愛を大切だとしているのに、何が悪い?」と思うかもしれませんが、それはその人の我がままで、愛や正義を正しいと思い込んでいる感情論にすぎず、犯罪者と同じ、趣味趣向で、語っているだけになるからです。

 

犯罪者は、悪をすることで、高揚を獲て、楽しいと感じて、素直にそれに従っていると主張します。それを思い込みで偽善者の顔をして、愛や平和を語る人間を彼らは、否定するのです。

 

彼らにとっては、悪だと認識されていることが、正義であり、楽しいと感じるのです。

 

あなたが他人の好きな音楽を否定したとしても、そんなものは、無神論を信じるひとたちでは、趣味趣向の相違でしかありません。

 

なぜなら、無神論者は、人間中心主義で、心から世界を観ているからです。神さえも、人間が作り出し、すべて人間様を中心に、ご都合主義で生きるしかないと心から信じ込んでいるのです。

そのような大嘘の思想をこどもの頃から教えられ続けて、そこそこの平和が出来ているのは、神を信じる人々たちのおかげなのに、それに胡坐をかいて、自分たちは正しいと勘違いしているのですね。

 

人間を中心に考えるのなら、なぜ犯罪者の正義は、認めないのでしょうか?それこそ、差別です。

無神論者が、勝手に愛や正義を正しいと考えているのなら、犯罪者の正義も認めなければいけません。

 

人を無差別に殺すこと人も、認めなければいけないのです。

 

ですが、世の中、そのようにはなっていません。犯罪者がすることは、悪だという基準が存在し、それらの基準は、すべて神を信じる宗教から生まれてきたのです。人間を中心にすれば、犯罪を認めざる負えませんが、神を中心にすれば、愛や正義を固定して、犯罪者の正義を否定できるようになるのです。

 

現代人が、人を殺すことは悪だと思い込んでいるのは、憲法に、人権が示されているからです。人には、人権があり、大切にするという基準が設定されていてて、知らないうちにそれを脳にプログラミングされているから、そう思い込んでいるだけにすぎないのです。

その憲法は、聖書から生み出されました。結局、無神論者は、聖書の価値観の世界に守られ、生活しているのに、それでもまだ、神はいないと言い張っているだけで、平和は、宗教によっていつの時代も守られてきたことを知らずに、口走っているだけなのです。

神を信じる人たちは違います。例え法律がなくても、愛や正義を正しいと認識できるのは、神がいると信じるからです。ですから、人がいないところでも、悪だと考えていることをすると、心を痛めてしまうのです。祖父母たちは、神を信じて、純粋に生きることを望みました。そういった人たちの1つ1つの選択が、今の平和を生み出しているのです。

 

ですが、近年になって神はいないというサタニズムの無神論という宗教が日本では広まり、心が腐敗していっているのですね。祖父母たちが守って来た日本の心や想いを捨てて、自分たちは、犯罪者と同じ趣味趣向だけの基準に生きようとするので、犯罪などが多発し、自分勝手な価値観で生きるので、離婚が増え、不道徳な社会を生み出しているのです。

 

3、神がいないと心から信じることの恐ろしさ

中国や朝鮮半島は、孔子の教えを歪曲させたものが、広がり、神はいないと本気で信じてきました。その歴史は、日本人では、想像もつかないものでした。

人を食べると言う行為が正義であり、美徳とさえされていた中国思想を生み出していったのです。

露店で人の肉さえも売り買いされていました。

聖書の基準が世界中に広まるまでは、世界は、カニバリズムという人が人を食べる文化で満ちていました。唯一カニバリズムをせずに文化を広げていたのは、日本という国だけで、それ以外は、どこにいっても、カニバリズムが広がっていたのです。インドでも、アメリカ大陸でも、オーストラリアでも、どこにいってもです。

 

彼らにとって、人を食べることは、日常的な行為であって、現代人が、焼き肉屋で、牛や豚肉を食べるように、自分の家族さえも純粋に正義として食べていたのです。

 

そういった文化は、発展せずに、一部の部族長などがのさばり、その社会の価値観を独断的に支配していました。白人は、最初は福音を延べ伝えるために、仲良くなろうと彼らのところに赴いたのですが、彼らの行為は、人権を知っていた白人からすれば、まるで悪魔の所業にみえたのです。同じ人間だとは思いたくなかったはずです。

 

ですから、白人は、彼らを奴隷にして、えんぴつ1本も造れないように情報を規制して、彼らに力を持たさせず、彼らを恐れたのです。

 

カニバリズムをするような民族は野蛮人として、毛嫌いし、そういった文化ほど、発展していないと信じました。

 

ですが、例外はあるもので、中国という巨大な国では、文化が発展しているにもかかわらず、カニバリズムが、美徳として、行われ続けていたのです。

ですから、眠れる獅子として中国は恐れられていて、白人は中国に手出しすることはためらわれていたのです。

 

そんな中国に戦いを挑んだカニバリズムをしない日本を世界の白人社会は、認めたのです。眠れる獅子に戦いを挑み、正義を実行する日本をカトリックもアメリカも賛同していたのです。

 

中国が恐ろしいのは、神がいないと民が信じていたので、ありとあらゆる犯罪が、横行していたことです。途中、神を信じる仏教などが入り込んだことで、大人しくもなったのですが、それでも、中国や朝鮮半島の人間の価値観は、愛や正義に根付いたものではありませんでした。

 

それぞれが、ご都合主義で、詐欺や嘘さえも正義だったのです。自分たち家族は、騙されてはいけないが、人を騙すことは正しいと教えられて育つのです。

 

中国は、犯罪が増えれば国も疲弊するので、厳しい法律を用いて、道徳を植え付けようとしましたが、それも無駄でした。盗みをするだけでも、処刑されるという法律ができると、罪をおかしたら、必ず処刑されるのなら、目撃者を完全に殺してしまえという考えになり、また犯罪が多発するのです。

 

日本でも、在日系の犯罪者は、恐れられます。日本人の空き巣は、物を盗むだけですが、在日系の空き巣は、目撃者を殺していくのです。日本の法律は易しいので、まったく彼らは怖がらないのです。

 

法律があっても、人は、神がいないと本気で信じるひとたちは、このようにご都合主義になっていくのです。

 

多神教の恐ろしさは、悪であっても、正義だと思い込ませる思想さえも取り入れられることです。神が沢山いるので、自分たちの都合のいい神々を作っては、大義名分を作り上げて、悪さえも正義にしていってしまうのです。

 

神道は、多神教ではありません。ほとんど一神教の教えがされているので、愛や正義を正しいと判断する基準がありますが、世界の多神教は、違います。悪さえも、正義だとするものが圧倒的で、ご都合主義で、悪や正義を歪曲させて、恐ろしいことをしてきたのです。

 

それでも、まだ無神論よりはましです。無神論は、その基準さえも捨て去り、自分勝手に自分の好みの教えを信じるだけだからです。

神や悪魔などの概念もさらさらなく、自分の趣味趣向で判断するので、まわりとしては、迷惑この上ありません。その人の趣味趣向で行動しているので、恐ろしいわけです。憲法やまわりの雰囲気に合わせようとしているからまだいいですが、本質を辿れば、自分勝手に愛や正義を決めているだけだからです。

神を否定するわけでもなく、優しい日本人を好むような人なら、害はそれほどありません。それは日本の文化や神道の教えなどに基づいているからです。

 

ですが、それさえも無視した人間は、常にその口で毒を吐きます。堂々と毒を吐くのですが、温和な人は、それに違和感を持っていても、教えてくれません。毒を堂々と吐く人間に本質を教えてくれる勇気のある人などほとんどいないのです。そういう人に本質を教えても、へたすると恨まれるだけです。

 

ですから、完全に無神論という宗教を信じ込んでいる人には、わたしはなるべく近づきません。自分の信じている宗教しか聞く耳が持てない人には、何をいっても通じません。例え論理的に話しても感情的になられて、恨まれるだけです。陰で何を言いふらされるのか分かったものではありません。

神を信じるひとたちは、他人の悪口をいうことを嫌い、神を恐れるので、口が堅いですが、神がないと本気で信じ込んでいる人の口は軽いです。組織にあらぬ問題を増幅させて、争いを産んでいくのです。

 

4、無神論者は無価値の世界に入り込んでいく

神は存在せず、ただ偶然にこの世界や自分が存在していると、大嘘を信じ込まされると、無神論者は、自分には価値がないと思い始めます。

自分にすら価値を見出せない人が、他人に価値を見出せるわけもありません。

 

事実を論理的に考えれば、偶然、存在しているわけがないのですが、学校宗教団体でそのような嘘を堂々と教えられると、それをまともに信じ込んでしまうのです。

神がいるという発想が、まったく理解できずに、生きることになります。

 

神がいることは、誰にも否定できない事実であり、人間として生まれたのなら、必ず意味が存在しているのですが、その発想さえも、見いだせずに、自分勝手な空想を膨らませていくのです。

全知全能の神様がいる証拠>>

目にみえる単純な紙切れのお金に価値があると信じたり、あらゆる偶像を信じ込んでいきますが、どれも満たされることはありません。偶像だからです。

偶像とは何なのか>>

そして、結局死んだら無だという嘘も信じていくことになります。

 

死んだら無だなんて、現実をみたら、単純には考えられないのですが、それさえも信じ込んでしまうのです。

現実をみれば、この世界は、もの凄く美しくまるで天国のような環境で、信じられないほど、綺麗な設計図にそって、わたしたちは、美しい体で生まれてきているのです。こんなものが、偶然できると考えるほど、わたしは頭はおかしくありません。100人いれば、ほとんど100%五体満足に体があり、外に出れば、ほとんど100%綺麗なバランスの人間ばかりなのが、現実なのです。もし、この世界が偶然なら、ぐちゃぐちゃな体にぐちゃぐちゃな顔、法則もなければ、生き物もいないはずなのです。

それでも偶然を信じ込んでしまうのは、小さいころから宗教団体で脳にプログラミングを埋め込まれるからです。

ですから、自殺もすれば、無差別殺人などの凶悪犯罪に走る人も出てきてしまうのです。

 

突き詰めれば、無神論は、犯罪や自殺につながるのです。何の正義もなければ、愛もありません。

本当の愛とは何なのか>>

 

人間中心の民主主義など存在しません。人間を中心にするのなら、犯罪者の正義も認めなければ民主主義とは言えないからです。差別です。

一体だれの正義を基準にするんだ?という話になるのです。

世界の憲法は、神の基で造られているからこそ、犯罪を悪だとして、裁き、否定できるのです。その中で生まれ育って平和が保たれているだけで、すべての人が無神論者になったらどうなるでしょうか。

恐ろしいですね。

悪魔宗教はさらに恐ろしいですが、無神論は悪魔宗教の弟子みたいなもので、もの凄く近くの思想なのです。

人の意識を歪曲させた嘘で惑わし、信じ込ませようとしますが、騙されてはいけないのですね。

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