思考の変化

キリスト教で最も大切な教えとは

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キリスト教の教え、それは聖書です。そして、その聖書にはとても多くの大切な教えが書かれています。どれが一番大切な教えなのか、人には決められないようなことですが、それも聖書にはきちんと書かれているのです。

マルコによる福音書12章28-34節

ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。 29イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。 30心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 31第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。 32そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。 33また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。 34イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。

1、主なる神を愛せよ

聖書には、沢山の教えがあるのに、なぜ「主なる神を愛せよ」という戒めが一番大切なのでしょうか。

 

十戒の教えの中にも、書かれていないことです。

キリスト教を信じるわたしたちにとっては、とても理解できる言葉で、納得しやすいですが、他の宗教、特に多神教などのひとからすれば、皮肉を言われ兼ねません。

何が悪いのか?と思うかもしれませんが、多神教を信じる人なら、主なる神とは、唯一の神だけを愛せよと捉えて、寛容さがないと言い出すわけです。

十戒には、1、わたしの他に神があってはならない。2、偶像を作ってはならない。3、神の名をみだりに唱えてはならない。

という教えがあります。

 

これらを多神教の方や無神論者が聞くと、どうしても良く聞こえないのです。

 

その理由は、多神教は、ご都合主義だからです。一見、神を崇めているかのように思える多神教ですが、人間の都合のいい解釈ができるように、多くの神々を作っていくのです。そうすれば、自分たちの利権を都合のいい解釈で守ることができるからです。

ご利益宗教などと言われることもよくあります。

 

ですが、キリスト教は、ご利益宗教には、含まれません。ユダヤ教やイスラム教もそうですが、唯一の神様を固定された聖書の教えを守って、伝え続けるので、そこに人間の都合が入り込むことが圧倒的に少なくなるからです。

それでもカトリックなどのように、無理やり自分たちの都合のいい教えを続けるものもいるので、完全にとは言いませんが、固定されているということは、都合のいい解釈が、しずらないことを意味するのです。

 

無神論者は、多神教の方たちよりも、さらにご都合主義です。

 

基準がないので、何とでも言えるのです。例え、桃太郎の話をしても、「桃太郎はなんてひどい奴なんだ」とさえ言い始めます。

 

正しいことを言っても、言葉を裏返して、何とでも言えるのです。

 

ですが、ここで、注意しなければいけない事実があります。そのような何とでも解釈できる無神論者たちが、疑問をぶつけてきても、驚くべきことに、キリスト教は、答えていくのです。

 

圧倒的にキリスト教徒たちは、不利なのが解かるでしょうか?聖書という固定されたものや唯一の神様という固定されたものがあるので、都合のいい教えなど出来ないにもかかわらず、多くの質問に答えられている事実は、どちらが本物なのかの証明になってしまっているのです。

 

何とでも言える人は、何とでも言えるので、そんな人の言葉は、何の意味もありません。ですが、何とでも都合よく言えず、固定されているのに、つじつまが合うことを言う人の言葉には、意味が隠されているのです。

 

なぜイエスキリストが正当だと言えるのかと言えば、イエスキリストは、ユダヤ教徒だったからです。

どのパリサイ人、神学に精通していたユダヤ教徒よりも、旧約聖書を学んで、理解し、それを実践していったのです。

旧約聖書に書かれていた預言どおりの人生をイエス様は生きて実行されたのです。

 

ご自分の命さえも取られることを知って、子羊のように何も言わずに、十字架刑にイエス様は臨まれました。

 

当時のユダヤ教徒たちは、自分たちの利権を守るために、ありもしない罪をイエス様にかけて、無理やり罪人として十字架刑にかけました。

当時のユダヤ教徒もご都合主義だったということです。このように、人間を中心に物事を考えたり、人間を中心にした道徳観は、腐敗していきます。

 

 

多神教とはまさにそれなのですね。

 

都合のいい逃げ道を作るために、多くの神々を作って、多くの教えを教えていき、自分たちの利権、地位や名誉を守ろうとするのです。

無神論者もそうですが、結局、神ではなく、人間をみているのです。

 

あれも悪い、これも悪いと文句ばかり言っている人は、人間ばかりをみて、事実をみようとしないのです。

 

当たり前のことを理解していないのです。

 

当たり前のこととは、人は悪を選ぶことができるという事実です。

 

悪も選べる人間に、なぜ執着するのでしょうか?嘘も言えますし、悪をすることもできるのが人間です。そんな人間を中心に考えても、堂々巡りになるだけです。

 

 

右の道が正しいのか、左の道が正しいのかを永遠と考えているようなものです。

 

人間をみれば、何も答えなど出るわけがないのです。多くの歴史学者の間違えもそれに当たります。

 

彼らは、心から人間が一番上だと信じて、どこまでいっても、人間のご都合主義だと思い込んでいるのです。彼らの心の奥は、荒んでいます。荒むしかありません。きちんと考えれば考えるほど、意味のないということを理解してしまうからです。

 

日本の正義だろうとアメリカの正義だろうと、イギリスの正義だろうと、その国の都合によって善悪を決定していくのが、この世界だと思い込むからです。

それは、人間をみすぎているからです。

 

人間は一番上ではありません。自然災害で何もできずにいのちを奪われることもあります。どれだけ人間が嫌がろうと、太陽は1つです。どれだけ嫌がろうと、あなたの親は、あなたの親なのです。

 

人間がすべてを作っているわけがありません。人間の力を超えたものが、あきらかにこの世には存在しているから、人間は生存できているのです。

 

 

そうです。

 

 

神様を第一にすること以外に、この世には、意味など消え失せてしまうということです。

 

 

聖書は、あらゆる教えで、そのことを教え続けています。

 

「まず第一に、神の国とその義とを追い求めなさい」という言葉も、「主を知ることは、知識のはじめである」という言葉も、第一は神様という言葉に要約されているのです。

 

人間をどれだけみても、答えなんてありません。盗みをすることもできれば、犯罪をすることもできる人間に、一体何の正義や愛があるというのでしょうか?

 

一時は愛を示しても、いつ裏切るのか分かりません。

 

善悪を知って、どちらも選ぶことができる人間に、答えを見出そうとしても、答えなどないのです。

 

 

それらはソロモンの教えた「空」であり、むなしいだけなのです。

 

 

ですが、神様は違います。実であり、事実であり、誰も否定できない事実そのものなのです。神様は愛であり、善でしかないのです。

 

「正義」という漢字がありますが、本来、正義という漢字は、人間に使われるべきものではありません。

 

「正」は、「一」と「止まる」に分けられます。一つに止まると書いて、「正」です。

 

そして、「義」という漢字は、「我」の上に、「主」、「我」の上に「王」、「我」の上に「羊」と書かれた、三位一体の神様が表された漢字なのです。

 

「正義」という漢字は、聖書の神様、三位一体の神様の義こそが、唯一の正しい固定された義であるという意味なのです。

 

漢字の中に隠された聖書物語>>

 

聖書の教える愛や正義は、人間を中心にした、人間の語る愛や正義のことではありません。人間が手出しできない「事実」、世界の法則であり、起きているそのもののことを言っているのです。

 

そして、人間は、その愛や正義を自分の上、我の上に、置いて、従うことが大切なのです。

 

多くの人は、我の下に愛や正義を置いて、自分の中から愛や正義を導き出そうとしますが、人間をみたら、そんなものがないことは、考えれば考えるほど、解かるのです。

 

どれだけ人間をみても、むなしくなるだけです。

 

その絶望に、ひきしがれて、諦めてしまうひとがいますが、人をみずに、人の手出しできない事実をみれば、この世界がどれほど、天国のように素晴らしい法則で、常に守られ続けているのか理解できるのです。

 

「主なる神を愛する」という教えは、すべてを説明してしまっているということです。

 

多神教の神のことでもなければ、無神論者のような人間のご都合主義のことでもありません。生であり、本質であり、いのちなのです。

なぜ、本物のクリスチャンは、絶望の中にあっても、希望を持てるのでしょうか。

 

それは、希望は無くならないことを知っているからです。神様は、無くならないのです。どれだけわたしたちが、悪をしても、どれだけわたしたちが、嘘をついても、事実は変わらないのです。悪をすればするほど、自分に悪が返ってくるだけなのです。

 

 

2、愛は世界を救う

愛は地球を救うという24時間テレビの嘘の詐欺ような言葉と一緒にしてほしくはありませんが、愛は、絶大な威力を発揮します。

 

ローマ帝国は、多神教でした。今の日本の認識と同じように、多神教にすることで、政治という利権を増していく方法を取っていたのです。

 

では、なぜ、多神教だったローマ帝国は、一神教のキリスト教を受け入れてしまったのでしょうか?

 

しかも、ローマ帝国は、原始キリスト教を捕まえては殺していったようなキリスト教を邪魔な存在とさえ考えていたほどでした。

 

 

なぜ、迫害もしたようなローマ帝国が、キリスト教を国教にまでしていったのでしょうか?

 

 

聖書の教えから生まれた憲法によって、世界中に「人権」が理解され、現代人は、当たり前のように人権を持って生活し、表向きにしろ、平和に安全に生きていられます。

 

人権を理解しているので、例え、無神論者であろうと、犯罪を否定できるほどに高められているのです。

 

無神論者の問題点>>

 

ですが、人権が無かった時代は、今の現代人では、想像もできないほどの出来事が、行われていたのです。

 

わたしは以前、車で走っていたら、2台の車が、細い道に、無造作に置かれていたのを不思議に思って、何だろう?と思って、みたら、ひとりの男性が、もうひとりの男性の胸倉を掴んで、壁に押し付けるように、一方的に、殴りつけているのを見たことがあります。

事情は分かりませんが、たぶん、前の車に急いでいて、後ろからプレッシャーをかけ続けて、相手をキレさせたとか、そんなところだと思われます。

 

その時は、衝撃を受けました。普段、大の大人が、本気で、殴りあっている場面など、みないからです。

 

このようなことでも、衝撃を受けるほど、今の日本は、平和だということです。

 

外に出ても、誰も殺し合いをしていません。

 

しかし、人権が無かった時代は、侍が、民を切り捨てるという行為さえもあったり、一方的に上の人間が、下の人間を力でねじ伏せて、有無も言わせず、悪を行った時代もあったのです。

 

男性ふたりの殴り合いに、わたしは、入って止めることもしませんでした。知り合いが運転をしていたということもありますが、当時の日本でも、斬り捨てごめんをみても、知らぬ存ぜぬをするしかなかった時代もあったのです。

 

世界は、さらに残酷な歴史を持っていて、現代人では、信じられないということも行われ続けてきました。

 

この話から、「人権」という固定された認識が、どれほど大切なのか解かるでしょうか。

 

多神教時代のローマ帝国にも、人権はありませんでした。正義とは何かということを追い求める哲学的な考えはあっても、明確に固定されるものではなかったのです。

 

ローマ市民でもそうであったのなら、ローマの属国は、尚更、固定された価値観はなく、悪であっても正義だと認識していた民族や集団がいたのです。

 

ローマ帝国は、そのような集団も連合にいれるために、宗教の自由や文化の自由など、あらゆる権利を寛容に受け入れて、属国になるようにドアを広く開けていたということです。

 

ですが、これらは、一見良い事のように思えますが、後が苦しくなるのです。

 

言葉も、民族も、価値観も違うので、それぞれに正義がなく、何でもありの状態で、連合など安定して、作れないのです。平和や安泰とは程遠く、常に反乱や裏切りを受けて、ローマは疲弊し続けていたのです。

 

そこに、キリスト教の意義を見出したのです。愛や正義、あらゆる物事を固定されている教えが、平和と安泰をもたらしたのです。

 

言葉や民族が違えど、人々の脳に固定された価値観をプログラミングすることで、反乱は、悪。裏切りは、悪。嘘は悪だという認識を全体が把握することで、圧倒的に、あらゆる問題を解決できてしまったのです。

 

わたしたち現代の日本人が、他人と殴り合いを毎日しないように、頭の中に入っているプログラミングが共通して、固定されていることで、安泰を手に入れたのです。

 

ですから、王族貴族も次々とローマカトリックの下に下って行き、カトリックの下で、王を認められるといった、構図になっていったのです。

 

王族貴族でさえも、カトリックには逆ららえなくなっていったのです。

 

裏切りや悪が、常にあった大陸に、組織を圧倒的に安定させたキリスト教の教えは、絶大な力を持っていたのです。

 

 

それから、1000年以上も経って、今では世界中の人々が、キリスト教徒ではなくても、聖書の恩恵の上に毎日の平和を享受して、あらゆる科学や学問が発展していくことができました。

 

とは言え、まだまだ、途中の段階です。

 

表向きは、人権をうたってはいても、それは表だけの話であって、裏では、ご都合主義がまかりとおり、お世辞にも、法治国家とは言えないのが、この日本ですし、韓国も中国も、アメリカもほとんどの国は、みせかけでしかありません。

 

イスラーム圏内の国々は、かなり法治国家と言える世界を作り上げています。それは、キリスト教よりも、さらに固定されたイスラム教の教えがあるからです。キリスト教は神道と似ていて、三位一体の神様の教えですが、イスラム教は、まったくの1つの神様を拝み、固定された教えを牧師なども排除して、コーランを読み続けているからです。

 

人のご都合主義の考え方を極力排除しようという政策が、とてもうまくいっているというわけです。

 

ですが、表向きだけにしろ、人権があることは、素晴らしいことです。上の人間は、人権を無視しますが、民たちは、人権があると信じて実行し続けるからです。

 

オウムやあらゆる戦争などもそうですが、一部の悪意ある人間たちによって、多くの人々が、まるで畜生のように、命を奪われてきました。

 

知らないのは民だけだったのです。

 

騙されていた信者さんや、民たちは、心から正しいと考えて、生きていたのです。

 

 

この民の共通した正義の大切さが、増せば増すほど、上の人間も正義を無視できなくなります。悪をすれば、民が黙ってはいられなくなるからです。

 

絶大な権力を持った残忍な権力者たちが、その他大勢の小さな力の集合によって追い詰められてきたのは、人間の歴史をみれば、分かります。

 

上の人間は、下の人間を人間だとみないように、無視したくても、それは現実では無理なのです。

 

現在、悪魔宗教が世界を統一し、支配していますが、悪魔宗教は、善も悪もすべて理解しています。愛や正義を理解しながらも、それでも悪魔を選んでいるのです。

 

善悪を超えて、悪を取る人間たちです。

 

彼らのやっていることは、何も知らない民からみれば、善意で、まるで聖人のようにみえますが、そうではないのです。

 

道徳も、愛や正義も、利用するために、利用しているだけで、彼らにとっては、使い捨てのクーポンのようなものです。今の都合には適しているから愛や正義を利用しているだけです。

 

 

民まで、こちら側の思考の人間、無神論などが増えれあ増えるほど、彼らは悪を堂々と行うことができるのです。

9・11同時多発テロの真実>>

パレスチナ問題の真実>>

 

ですが、言い換えれば、彼らは愛や正義を利用しなければ、組織を運営などできないという事実があることです。

 

どんな悪い組織も、善を利用せずに、悪だけをするなどできないのです。それは悪魔でさえできないのです。

 

愛は、世界を救うというものは、決して大げさなものではなく、とても小さな一人一人の認識が、より明確になることで、一人一人が、愛や正義の意義を見出し、悪をゆるさなくなります。そうすれば、上の人間も悪が出来なくなっていくのです。

 

裏でも悪が出来なくなっていけば、本当の内容のある憲法をわたしたちは、手に入れることができるようになるのです。

 

今は、政治家や王族の上に、悪魔宗教、多国籍企業という商人が、のさばっています。憲法も彼らには行使できません。政治などは彼らの操り人形でしかありません。それほどの権力を持っているのに、その権力に、憲法が適応されていないのです。

 

恐ろしいことですね。

 

悪魔宗教の目的>>

 

いずれ、彼らは彼らの蒔いた悪の種を自分たちで刈り取らなければいけなくなります。そして、彼らに改心する猶予を与えるのも、愛のおかげです。

 

これを失えば、彼らは追い詰められて終わるだけです。

 

神を信じるものなら理解できても、神を信じないものたちは、彼らをゆるしません。感情論で裁いていくことでしょう。自分たちで作り出したものによって、自分たちの最後の灯を消されてしまうのです。

 

神様は、カナン人を400年間も守り続け、雨を降らせ、空気を与え続けてきました。今の悪魔宗教よりも残酷な統治をしていたにもかかわらず、400年、彼らの選択を見守られたのです。

 

どれほどの忍耐なのか、測り知れません。

 

知らないから怒りも湧かないのが、人間ですが、神様はすべてご存知なのです。現在、悪魔宗教を生かし続けているのも、同じです。神様にとって、悪人も、クリスチャンも変わらず、愛する子どもなのです。

ひとりでも救われることを望まれ、自ら破滅する道をとってほしくないのですね。私利私欲で、一見、勝利しているかのように見える彼らですが、自分で自分を傷つけている可哀想なひとたちなのすね。

 

彼らの家族も、悪魔宗教同士でいのちを奪われたりもしているのです。ひとときも安心できない恐怖が日々続いていることでしょう。彼らが手を下した人々の魂が、アベルのように叫んで、彼らに訴え続けているようです。

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