キリスト教の教えでは、主イエスキリストは、神様です。
イスラームは、唯一の神様だけを神だとして、イエスキリストはマホメットなどと同じ、預言者という人間だといい、神様は1つであると主張しますが、キリスト教は、3つで1つの神様を信じています。
この世界そのものである神様、そして、個体の体を持った主イエスキリスト、3つ目は聖霊様です。
3つで、ひとつの神様だという教えが、キリスト教なのです。
ですが、聖書を読むと、イエス様は、神様に祈りをささげています。自分の望みや願いを口にして祈られています。
このことについて、人は、混乱してしまうのです。
イエス様が神様なら、自分に祈っているようなもので、祈る必要があるのか?
イエス様の言葉を読むと、どうみても別人格の相手、神様に祈っているとしか思えないというものです。
聖書には、神はその一人子を与えるほどに世を愛されたと書かれています。神様は父であって、イエス様が子であるのなら、父と子は、別人格なので、同じ神様ではないのではないか?
これらのことは、どう解釈していくべきなのでしょうか。
1、神様は人間を尊重される
多神教や一神教を批判するような方たちは、たまに誤解しているのは、聖書の神は、独裁的な神だと思い込んでいることです。
他の神々はもちろん、認めない。そして、人間も下であって、独裁的な命令をしてくるというものです。
ですが、きちんと聖書を読めば分かるとおり、聖書の神様は、とても人間の自由意志や存在を尊重されます。
例えば、滅ぼしなさいといわれたカナン人という民族も、400年間、神様は彼らに時間を与えました。現代人がカナン人たちのしていることをみたら、殺到するほどのことをしていたカナン人でさえも、400年間も時間を与えられたのです。
世の中をみてみれば、犯罪者やさらに恐ろしい連続殺人犯というものがいたり、悪魔宗教などをしているひとたちもいますが、それらを「実行する」ということは、彼らは生かされているのです。
存在しているわけです。
長い目でみれば、彼らは滅びますが、短期的な目でみれば、悪が存在して、正義をないがしろにしているかのようにさえ、見えてくるほどです。
このように、神様は、悪人にさえ、雨を降らされて、守られているのです。
聖書には、神々がひとつのところに集まって会議を行うといった歌のような詩のような内容が書かれています。
これをその箇所だけ、そのまま読めば、聖書の神は、他の神々がいることを認めているのではないのか?といった考えになる人がいますが、そうではありません。
神様は、人が空想上で作り出した存在しないものも、存在すると信じる人間たちがいることをご存知で、また、そんな人間たちの自由意志も尊重されているのです。
もし、神様が、独裁的で、人間を頭から否定して、善だけを行うのなら、悪をした瞬間に、その人は滅びるという世界にしてしまえばいいのです。
ですが、聖書の神様は、「殺してはいけない」と人間に教えられました。
人間に「殺してはいけない」と教えるということは、殺すことも可能な世界であるということです。
本当に、神様が独裁的な方なら、教える必要などありません。はじめから、殺せない世界にしておけばいいわけです。
律法を教えているということは、神様は、人を極限まで尊重し、彼らの考え方も理解したうえで、裁きや許可を下されているということです。
人間は、宇宙人という存在もしないものや原人という架空の存在さえも信じ込めます。自分たちの手で造った木や石の神々も、神だと信じ込めます。
そして、それらの神々の指示で、戦争や政治の決定を下しているという錯覚さえも、作り出せるのです。
人間は、存在しないものを存在していると錯覚できる、偶像思想を選び信じるということさえもできることを聖書の神様は理解されているのですね。
聖書の神様は、空想や架空のものを否定されます。それらは存在しない非現実的なもので、この世に存在しない「人間の思い込み」だと教え続けられました。
ですが、その思い込めるような人間たちがいることは、否定されないのです。
だから、教えるのです。人は思い込めず、現実だけを見れるのなら、なぜ教える必要などあるのでしょうか。
偶像はいけないよと教える必要などないはずですが、実際は、存在しないものも、存在すると考えたり、存在しているものを存在していないと思い込むことができるということを神様は、否定されないので、聖書などで、律法を教え、偶像を否定されるのです。
どうして、ここまで人間の自由意志を尊重していただけるのか?と思えるほど、神様はとても人間を尊重されているのです。
神様は、人間の自由意志を尊重されている中に、自分の子であり、ご自分を世に遣わされたのです。それを前提に置きながら、イエス様と天の神様の関係を振り返ってみましょう。
2、イエス様はご自身が神だということは言えなかった
1、でも話した通り、神様は、人間の自由意志をものすごく尊重されています。
空想さえも信じ込める人間の自由意志さえも、尊重されるほどです。
その世界の中に、イエス様を遣わされたのです。
イエス様が生まれ育った時代と背景は、唯一の神様を信じるという、とても熱心なユダヤ教の世界のひとりの人間という立場で、生まれてこられました。
この世界そのもの、川も海も空も星も、ありとあらゆる万物が、神様の体の一部であり、この世界そのものが、神様であるという信仰を持っていたのが、ユダヤ教だったのです。
とても日本の神道と似ている発想で、神様の形を人間が固定できないので、神道も、仏教などに習合させられていないところは、きちんと、神様を形としては祭りません。絵などでも神様を描くこともしません。
そんな熱心なユダヤ教の中で、ひとりの人間が、「自分は神だ」と宣言したら、それだけで、道端に落ちている大きな石で、殴り殺されるほどでした。
人間は、体があり、不完全ゆえに、神ではありえないというものが、その時代のユダヤ教の常識だったのです。
節分で、鬼に豆を投げるように、ユダヤ人たちは、熱心ゆえに、聖書を冒涜したものを石を投げては殺していて、それもゆるされる時代だったのです。
イエス様は、神様ですから、石を投げることが出来ないようにも、もちろん出来たわけですが、無理やり神様が、法則を無視して、強引に力をみせるやり方で、本当の正義を人々に押し付けるということをするのなら、とっくの昔にやっています。
イエス様は、人間の自由意志を尊重され続け、無理やり人々に正義を押し付けるという行為はされなかったのです。
ある時は、そんな熱心なユダヤ教徒たちに、殺されそうになって、逃げる場面さえも聖書には書かれているほどです。
イエス様は神様ですから、当然、人間の自由意志を無視して、無理やり本当の正義を見せつけることはできました。ですが、イエス様は、そのようなことは、死ぬまでほとんどされなかったのです。
あらゆる奇跡を起こすという行為も、言うならば、無理やり正義を見せつける行為でもあります。ですから、イエス様は、奇跡ばかりを実行するという生涯をおくられませんでした。
奇跡をみて信じた人たちの多くは、その後信仰を失ったと聖書には書かれています。
神様が固定され創世記の時代からお造りになった偉大なる法則さえも無視した奇跡だけをみて、信じるひとは、不思議なことばかりを望んで、まるで麻薬を求め続けて、毎日は麻薬を打てないのであきらめたような人たちと同じです。例えが少し変ですが、奇跡ばかりを追い求める人は、犯罪的な要素が少しあるということです。普段味わえないスリルを味わいたいと願うような人です。
普段わたしたちが生きているその環境こそが、すでに奇跡であり、信じられないことなのですが、それ以上のことをしょっちゅう神様がされていたら、この世はすぐに滅びます。法則など関係がなくなるからです。
モーセやダビデ、聖書の有名な神を信じる人物たちでさえも、法則を無視したような奇跡をみたのは、数度だけです。
その多くの人生で目にしていたのは、普通の世界であり、生活です。120年の中の数回の奇跡ばかりを追い求めているのなら、その人は、偶像をみたいと望んでいるような人なのです。
イエス様は、奇跡を多く行いました。ですが、それらを強調されることはありませんでした。むしろ、自然体の生活を望み、教えられました。
そして、人間の自由意志を尊重しているがゆえに、イエス様はその足で逃げられ、ご自分を神だという発言を言われませんでしたし、言うことが出来なかったのです。
自分が神だという発言をすれば、ユダヤ人は、イエス様を十字架刑ではないところで殺そうとするからです。大義名分を与えてしまうのですね。
だからこそ、ご自分を神だとははっきりとは言われず、遠回しでわたしは神だという言葉を弟子たちに伝えたのですが、弟子たちも、イエス様は一体何者なのかが、分からずに、付き従っていただけだったのです。
預言者なのか?御使いなのか、神なのか、あらゆる奇跡や世界を的確に説明されるイエス様を判断できずに、そのまま十字架刑まで流れ込んでいってしまうのです。
それほどの時代に、イエス様は、置かれていたので、ご自分を神だということを言われなかったのですね。
もちろん、また奇跡で、無理やり強引に本当の正義を突きつけることも出来たでしょう。ですが、それをする意味などないのです。
目の前の小さな悪を倒すことが、イエス様の目的ではありませんでした。過去・現在・未来にかけて、すべての悪を消し去ることが目的だったからです。
そのキーになるのが、人間で、また人間の自由意志によって、この世界に悪を消していくという、ひとりひとりの選択に枠を設けられ、また残されたのです。
わたしたちは、自分が生きている目の前の問題をどうにかしようと小さい思考で、善悪を判断してしまいますが、神様は、過去・現在・未来のすべての世界を同時に理解された大きな枠の中の善悪、すべての悪の大本を見られるのです。
「悪の葉に斧を向ける人間は多いが、悪の根に斧を向ける人間はすくない」という言葉があります。
人が蟻をみて、真剣に怒りをぶつけられないように、神様は小さい人間に真剣に怒りをぶつけられはしないのです。
人間の目や蟻の目からは、問題だとしていても、神様の目からすれば、それらは悪の葉であって、悪の根ではないのです。
イエス様は、ご自分が十字架刑で、殺されるということさえも、小さいと考え、理解していたからこそ、すべての悪を倒すために、十字架刑にかかることを預言どおりに、実行されたのです。
その為には、十字架刑に架かる前に、ユダヤ人から石で殺されることになってはいけません。
人間の自由意志を尊重しながらも、預言通りに生涯を送られたのが、イエスキリストなのです。
こんなことが出来るのは、人間には不可能です。
モーセでもダビデでも、ソロモンでも、出来ないことをイエス様はされたのです。
権力を持っていれば、無理やり預言通りにすることは、可能だったかもしれません。ですが、イエス様はほとんど一般庶民になっていたマリアとヨセフの子でした。権力があるはずもありません。
一般人と変わらない小さい権利のまま、預言通りの人生を送られたことが、イエス様や原始キリスト教が正しいという証拠になったのです。
こんなことが出来るのは、神様以外にありえません。
ですが、イエス様はハッキリとはご自分が神だということを言われませんでした。だから、弟子さえも、イエス様が何者なのか分からなかったのです。
3、天の父
イエス様は、天の父である神様に祈りをささげます。
なぜ、同じ3つで1つの神様なのに、天の父に祈りを捧げるのでしょうか?
偉大なる世界である神様は、ユダヤ教やイスラームなどが信じる唯一の神様であることは、キリスト教は否定しません。
ですが、その神様も3つの性質であることが、聖書には書かれているのです。
創世記には、「園を歩かれる神」と足のある神様の存在が書かれています。
わたしたち人間も、3つで1つの存在です。
わたしたちの体は、わたしたちであることを否定する人は、少ないと思います。自分の手を自分の想うように動かせることで、自分を把握することもできます。
ですが、わたしたちは、体だけあれば、生きていけるという存在ではありません。地球という環境や宇宙、あらゆる世界がなければ、わたしたちは存続できないのです。
また、脳に電気信号を送るにも、一体何が、電気信号を送ると指示しているのでしょうか。人間はただの電気信号だけの存在ではないのです。
霊によって判断され、体として電気信号がながれ、体を動かすのです。
このように、人間は、3つで1つの存在です。
3つで1つなのに、人間は、自然や世界に感謝します。
イエス様もまた同じなのですね。
創世記には、人は、我々と同じように造られたと書かれています。3つで1つ、イエス様を型として、人間は造られたのです。
イエス様に似せられて造られたのです。
人間が自然に感謝するように、イエス様も自然に感謝し、その偉大なる世界を天の父として、その世界があってはじめて存在する体は、子であるとも言えるのです。
人間がひとり死んだとしても、世界は残りますが、世界が滅んでしまえば、人間は誰一人生きてはいけません。
世界は、父であり、わたしたちは、子のような存在なのですね。
そして、それはイエス様も同じだということです。
ですから、イエス様は、人間の自由意志を尊重されながらも、遠回しでご自分が神であることを証明され、不可能を実行されたのです。
イエス様と天の父は別々のようであって、3つで1つなのです。
Aさんが、長生きできるように、体をいたわり、自分の体に感謝の言葉をいうことは、はたから見ると変なものにもみえますが、理解できないわけでもありません。
自分の体をいたわっているだけです。体にも感謝しているのです。自分で自分に感謝しているという変な状況かもしれませんが、意外と大切だったりもします。
イエス様は、感謝をもって天の父に祈りをささげ、また、天の父とともに3つで1つの神として、預言を成就するという奇跡を証拠を提示して、歴史に刻み込まれたのですね。