世界の法則

聖書は多神教を認めているのか

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聖書を読むと単純な一神教の教えではないということが分かってきます。

 

例えば、聖書には

 

詩篇82篇1節

神は神の会議のなかに立たれる。神は神々のなかで、さばきを行われる。

 

このような内容が聖書には書かれています。

これだけを見るのなら、聖書は、神々の存在を認め、その中心にいるのが聖書の神だといった内容にもみえます。

 

創世記1章26・27節

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

 

人は、神様の形に似せて造られたという教えは、有名です。ですが、この時、「われわれのかたちに」という言い方がされています。

ひとりの神ではなく、神は複数いるのか?と悩んでしまったりします。

 

このように、聖書を読むと、実は多神教のようにみえてしまうようなところがあり、人はこれを読むと混乱してしまいます。

果たして、聖書は、多神教を認めているのでしょうか。

1、神は神々のなかで、さばきを行われる

神様とは唯一の神様のことです。

他に神という存在はいません。

 

ですが、人間は、存在しないもの、偶像さえも信じることが出来てしまいます。

偶像とは何なのか>>

 

人は、想像力という能力を持っているので、その想像力の中で、存在しないものをあたかもいるかのように、思い込めるのです。

 

ドラえもんというアニメのキャラクターは、存在しませんが、長い間、日本人の代表的なアニメとして、存在し続けています。

このキャラクターは、存在しません。ですが、人の心の中、想像力の中では、ドラえもんはいるのです。

 

この世界を創られ、人間を造られた神様は、ひとりです。

 

その神様以外に現実では、神は存在しません。

 

ですが、人間の想像の中では、多くの神々を作り出し、それらが本当にいると思い込めるのです。

聖書の神様は、人間に想像力を与えているという事実を否定しません。

 

ですから、多くの神々を作り出していることも理解されています。

だからこそ、神々という言葉を聖書はよく使われるのです。

 

聖書を読めば分かるように、それらの人間の想像の中だけにいる神々は、空想であり、偶像だと聖書は教えています。

木や石で人間が作った神々は、人間以下の能力しかなく、話すことも、動くことも出来ません。

 

人間が作った神々を神だと人間は錯覚はできるのですが、現実は、それらは神ではないと聖書はきちんと教えているのです。

 

 

人間は、自分たちの都合のいい神々を作り出しては、その神々に権威をつけて、戦争や政治に関与し続けてきました。

多くの偽物の神々が、政治にかかわって、会議を開く人間たちが実際にいたのです。

 

現在の日本の政治も同じです。

 

現在の日本の与党や中心になっている自民党や公明党などは、宗教です。

政治と宗教は、切り離すことなどできないのです。

 

そして、その政治をカルト系が牛耳るのか、それとも本当の神が牛耳るのかで、人々の苦しみが変わって来るのですね。

 

今もそうですが、昔はもっと神々の権力は強く、恐ろしい決定さえも、簡単にしてしまうほどだったのです。

 

ですが、その中にあっても、この世界を創られた本当の神様を無視はできないのです。

 

それが神々の中で、さばかれると書かれている内容なのですね。

 

どれだけ人間が空想をしても、現実は変わりません。神様の法則は存在し、それに逆らっては悪魔宗教だとしても、存続できないのです。

 

多神教と一神教はどちらが正しいのか>>

2、われわれのかたちに

人間を造られた時、神様は、われわれのかたちに似せて造ろうと言われました。

 

この時、神はひとりではないのではないか?と思われるかもしれませんが、そうではありません。

 

イスラム教などは、完全な一神教の教えですが、聖書はそう教えてはいません。

本当の神様とは、3つで1つの神様なのです。

 

この世界である神様、イスラム教もユダヤ教もこの神様だけを神様だと教えています。

 

ですが、聖書は、きちんと読み説くと3つで1つの神様を表しているのです。

 

世界の神様、聖霊様、そして、足のある園を歩かれる神様です。

 

創世記3章8-10節

彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 9主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。 10彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

 

この足がある神様のことを「主」として教え続けてきたのが聖書なのです。

 

この神様こそが、主イエスキリストだったのですね。

 

人は、イエス様のかたちに似せて造られ、想像力・良心・自由意志などを与えられ、造られたのです。

 

わたしたち人間も3つで1つの存在です。わたしたちは、体が無ければ存在しているとは言えません。そして、その体を存続できるのは、世界があるからです。また、体を動かすためには、脳に電気信号を流さなければいけません。その電気信号を的確に流しているスイッチのようなものは、何なのでしょうか?

 

それが霊だと言われているのです。

 

3つそろってはじめて、人間は、人間として生きていけるのです。

 

わたしたちは、ひとりですが、3つで1つの存在なのですね。

 

そして、神様も同じで、3つで1つの神様なのです。

 

人間は、なぜ殺してはいけないのか、それは神様のかたちに似せて造られた存在だからです。人を殺すということは、神様を傷つけることになるのです。もちろん、自殺も神様を傷つけることになるのです。

 

神様の存在なしに、人は善悪を判断することはできません。木や石で造られたものも神だと思い込めるのが人間なので、悪さえも善だと思い込めるのです。そんな人間を基準になどできないのです。

 

神を信じているひとたちは、犯罪者を否定することができますが、神を信じないひとたちは、どこまでいっても、同じ人間同士の言い合いなだけで、どちらが正しいなど言えないのです。

 

聖書は、現実と一致している内容です。あらゆる教えが論理的です。

その聖書は、3つで1つの神様であることを教えています。完全な1つの神様だけということではないのです。

 

だからといって聖書が多神教であるわけでもありません。3つの要素を持っていますが、どれも1つの神様であって、その神様以外には、神という現実的な存在は、この世界にはないのです。

3、万軍の主

聖書は、さまざまな言い方で、神様を言い表します。

その中でも、少し勘違いされるのが、「万軍の主」という言い方の神様の表す言葉です。

 

八百万の神と日本ではいいますが、八百万の神々とはあまり言いません。

 

神はひとりであって、万軍を従える唯一の神様という意味なのです。

 

「ヤ」とは唯一の神様を表す音です。

 

世界を表す神様のことを「ヤ・ヤー」というのですね。

そして、3つで1つの神様のことを「ヤハウェイ」と複数形でいい表すのです。

 

 

万軍の主という言い方は、神々の存在があるかのように思われる人も中にはいるかもしれませんが、それは違います。

社長は会社にひとりですが、社員が多くいます。と言っているようなものです。

 

この世界の組織形態は、みなピラミッド型になっています。多くのものが大量にあって、結局最後は、1つに絞られていきます。

 

多神教と呼ばれる宗教も、多くは人間のように失敗する神々で、完全なる神というものは、3つで1つの神様なのです。

 

結局、多神教も一神教になってしまうのです。

 

1つの会社に、多くの社長がいたら、どうなるでしょうか?その会社は潰れてしまいます。

みんなが同じリーダーなら、そのグループは成立しないのです。

 

 

家族も、両親が100人いるなんて人はいませんから、父親と母親がいて、父親が一番上で、それを支える母親がいて、はじめて成立します。

 

そして、こどもたちがピラミッド型に増えていくことが正常です。

 

ピラミッド型が逆になってしまい少子高齢化になったら、世の中成り立たなくなるのです。

 

 

万軍の軍を率いる唯一の神様、八百万の軍を率いる神様、それが聖書の教えなのです。

 

 

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