思考の変化

なぜ人を殺してはいけないのか

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「人を殺してはいけない」それは、現代人なら当たり前の常識です。

 

ですが、それは現代だから常識になっているだけで、人間の歴史では、人を殺すどころか、人を食料として食べていた時代もあったのです。

その時代では、人を食べない文化のほうが少なかったほどです。

 

相棒という有名なドラマがありますが、その相棒シーズン13の15・16話の議題が、「なぜ人を殺してはいけないのか」というものでした。

 

ドラマ相棒では、「そんなことに明確な答えなどない!」という結論で終わってしまいます。

 

 

無神論者がいきつく先は、答えがないで終わってしまいます。答えがあるはずはないと心から信じ込むのです。

 

現代のクリスチャンは、大きくわけて、2つの宗教を信じています。

 

1つは、聖書の宗教。そして、2つ目は、学校宗教団体が教え続けた宗教です。

 

 

ですから、神様が本当にいることを明確に理解せずに、教会に行っている人も多くいるはずです。

全知全能の神様が確実に存在しているという証拠>>

2つの宗教の板挟みになって、生きているので、頭が混乱した状態になり、深くものごとを考える能力が欠如してしまっている人もいるでしょう。

 

 

難しい言葉を並べることが深いことではありません。それらはただの誤魔化しです。

 

難しい言葉や難しい祈りが出来る人が素晴らしいと人間は、よく思い込みますが、意味のないことを並べても、意味がないものが生まれるだけで、むしろ、世の中に混乱を広げているだけなのです。

 

2つの文化を見比べることができるクリスチャンは、世の中の矛盾に気づきやすい環境にあります。

 

 

釈迦が、バラモンに疑問を持てたように、吉田松陰が日本に疑問が持てたように、違う文化や情報を持てば、両方を見比べることができるようになるのです。

 

どちらが正しいと言っている以前に、見比べることができるということは、強みなのです。

 

 

ですが、無神論者は、強烈に1つの宗教だけしかみないので、見比べることができないのです。

 

そして、有るものも無いと心から信じ込んでいるので、根本的に、無意味な思想が、脳をマインドコントロールされ、汚染されてしまっているのです。

洗脳の真実>>

 

有るものも無いと心から信じてしまっている思想で、「人を殺してはいけない理由」を考えても、答えなどがないという答えしか出てこないのです。

 

ですが、明確に言っておきます。

 

「人を殺してはいけない理由」は、明確に存在し、「人を殺してもいい」と考える人間を明確に否定できるのです。

 

そして、人間の歴史は、2つの考え方が常に対立してきたとも言えます。

①人を殺してはいけない

②人を殺してもいい

 

この2つが、戦い続けてきて、そして、現在は、①の人を殺してはいけないという勢力が、勝利して、それが常識となっているので、そのことを考えることもしないのです。

 

あなたは、明確に人を殺してはいけない理由を述べることができるでしょうか。

 

今回は、「なぜ人を殺してはいけないのか」についてです。

1、人は、なぜ言葉を使えるのか

進化論宗教の考え方では、人が言葉を使えていることは、説明できません。

進化論の正体 嘘と真実>>

人間の脳は、動物とは作りが違います。大脳が大きく物事を論理的に、把握して、多くの変化をすぐに実行できるのです。

 

このような生き物は、たった1つの種族。人間だけにしか備わっていません。

 

 

どこに行っても人間が、世界を支配しています。

 

そのことを否定するひとは、現代ではいないでしょう。

 

 

ですが、それほどの能力と脳を持っている人間であっても、小さい頃に、親や育ててくれる人たちが、言葉を話しているから身に付くのです。

 

ネグレクトという虐待があります。育てる大人が、こどもを放置するものです。ただ、食べ物だけを与えて、部屋に閉じ込めるというさらに上の虐待をする人も、世界には存在します。

 

そうすると、生まれてからずっと、言葉を知らずに育ってしまい、脳も固定されてしまうのです。

 

 

わたしたちが、母国語以外を理解できるのは、母国語が小さい頃から脳に自然なマインドコントロールによって、植え付けられるからです。

そうすると、生活の中で、脳の言語中枢が発達し、言葉を使う土台が育っていくのです。

 

ですが、先ほど話したような虐待などの環境で育ち、母国語さえも育たないで成長してしまうと、言葉が使えなくなってしまうのです。虐待の環境から解放された後も、まわりがどれだけ言葉を教えようとしても、多くて100単語ほどしか覚えられないのです。

 

「おはよう」で1つの単語だとしたら、どれだけ少ないのか分かるでしょうか。

 

注目したいのは、それらの子たちは、人間だということです。

 

人間の脳を持っていても、言葉を使う環境になければ、言葉は使えなくなるという事実が存在するということです。

 

 

 

進化論という宗教は、おもしろいことに、お猿さんが、人間の古い親、ご先祖だと意味不明なことをいい続けています。

 

お猿さんは、言葉を使いませんね。

 

流調に、しゃべっているお猿さんをSF映画以外にみたことがあるでしょうか。

 

猿の惑星のようなお猿さんをみたことがあるでしょうか。

 

 

あんなお猿さんはいませんね。

 

 

では、どこかの時点で、奇跡的に、お猿さんから人間が進化して、生まれたとしましょう。その子は、お猿さんと違う脳を持っています。

その子は、言葉を流調に使うように育つでしょうか?

 

いいえ、育ちません。いくら人間の脳があっても、育てる人が、言葉を使わなければ、言葉はみにつかないのです。

 

親がお猿さんだという進化論という偽の学問がどれだけ空想を言っても、現実には、人間は多彩な言葉を利用しているので、現実とはまるで一致していないのです。お猿さんから進化して、言葉を使いはじめるのは、不可能だという証拠です。

 

 

どこの日本人のこどもが、誰にも教わらずに、フランス語を話すのでしょうか。

日本語で育った子は、日本語を話すのであって、フランス語を突然話はじめる子などいないのです。どれだけ優れた脳を持っていても、環境がなければ、結局それをいかしきれないのです。

 

IQが高ければいいという単純なものではないのです。

 

では、なぜ現代の人間は、多種多様な言葉を利用し続けているのでしょうか?

 

環境がなければ、言葉は使えなくなるという事実があるのなら、なぜこのような多彩な言葉を持っているのでしょう。

 

2、この世界は、言葉によって創られている

 

わたしたち人間が使う言葉は、口で話、文字を読み書きして、利用するものです。

 

この言葉は、一体いつ人間は、突然手に入れるようになったのでしょう。

 

これは、はじめに、多種多様な言葉を利用できる偉大な存在がいるという証拠でもあるのです。

 

 

この世界の物は、何かが存在し、その何かで次の物が生み出されています。子がいたら、親が上にいるといったように、さかのぼっていくと、結局、「はじめから”有る”」という存在につきあたります。

 

それが、エネルギーという人もいれば、宇宙だと言う人もいれば、様々ですが、「はじめから”有る”」という存在があるので、この世界が存在しているのです。

 

 

では、その世界は、意思もないエネルギーや物質から生まれたのでしょうか?

 

 

あなたのまわりに、あらゆる人間が作り出した人工物があるでしょう。

 

車・家・机・ペン・テレビ・コップ・扉・ありとあらゆる人工物がまわりに存在しています。

 

 

では、その中の1つどれでもいいですが、それらが意味のあるものを勝手に生み出したところを見たことがあるでしょうか?

 

 

テレビが自分勝手に、自分が観たいチャンネルを切り替えたことがあるでしょうか。

 

 

テレビが勝手に何かを目の前に、物質を生み出したりするでしょうか。

 

 

不思議なことは、目の前に、大量に存在します。

 

なぜ太陽(恒星)はあるのでしょうか。

 

太陽のようなエネルギーを発した存在があること自体、なぜ都合よく存在しているのでしょうか。

 

 

物やエネルギーから世界が造られたといっているひとたちは、「現実を無視しすぎるのです」。現実では不可能なことを言っているのです。

彼らは自分たちの思想を無理やり現実を無視して、自分たちの都合のいいものを取り上げて、誤魔化しているだけなのです。

冷静に、目の前の現象を素直の気持ちで論理的にみれば、彼らの言っていることがありえないことは分かるはずです。

 

この世界は、信じられないほど、人間に都合のいいように造られすぎていて、それが現実に、存在しているので、あなたは、今、この記事を読めているのです。

 

あなたの存在は、都合がよすぎるという現実が存在しているのです。

 

 

空気1つにしろ、水にしろ、ものすごく人間の都合のいい世界が、広がりすぎています。

 

1つ1つが、絶妙なバランスでつなぎ合わさっていて、大量の法則によって、調和しているのです。

 

 

これらが、「偶然?」

 

そんな嘘を本当に信じるのでしょうか。

 

 

テレビが偶然に出来るなんて、簡単な話ではありません。人間は人間を造ることができないほど、人間はものすごく高性能な存在なのに、それらが、さらに偶然存在するわけがないのです。

 

 

この世界は、ありとあらゆる法則「言葉」によって、形作られ、人間の多彩な言葉なんて、小さなことではなく、信じられないほど、精密で、繊細で、偉大すぎる言葉によって、造られているのです。

 

 

「はじめから”有る”」という存在は、意思を持っていなければ、このような都合のいい世界など、存在しているはずがないのです。

 

 

ほかっておいたら、勝手にテレビが出来たというよりも、進化論は、不可能なことを堂々と言い続けているのです。

 

 

この世界を素直にみれば、神様の存在は誰にも否定できないのです。

 

 

その神様が、壮大な宇宙を法則によって創られ、壮大な地球の自然界を創られ、1つ1つに言葉というプログラミング、法則を打ち込んで、ものすごくバランスのよすぎる絶妙な現実を造り出しているので、わたしたちが今、存在しているのです。

 

わたしやあなたが、どれだけ嫌がろうと、これに逆らうことはできません。

 

これらの神様が創られた法則を無視すれば、1秒たりとも生きてはいられないのです。

 

死ぬ死なない、殺す。殺さない。以前の話なのです。

 

 

わたしやあなたが、いつどのように死ぬのかは、分かりません。ですが、すでにわたしたちが、存在していることは、あなた自身が認めるところでしょう。

 

そして、10分後、死のうとも、存在していた事実が存在するのです。

生きていない人は、死ぬことも出来ないのです。

 

なぜ、生まれ、存在しうることが出来たのか。それは全知全能の神が、全能の力を使って、すでにこの世界を創られたからです。

 

 

その神様は、アダムを造ったからです。

 

アダムが生まれなければ、わたしたちは、存在しなかったのです。

 

 

わたしの曾おばあちゃんは、こどもを産まない女性として、夫から離婚させられました。こどもを産めない女はいらないと捨てられたかのようです。

ですが、その後、再婚して、5人ものこどもを産みました。

 

その5人からまたこどもが生まれ、わたしに続いていくのです。

 

わたしからみたら、「よくぞ曾おばあちゃんと離婚してくださいました!」というところです。

 

もし、曾おばあちゃんが、そこで離婚してくれなければ、わたしは存在していなかったのです。

 

 

人は、その脳にある情報、プログラミングによって、価値観を良くも悪くも植え込まれ、マインドコントロールされ、悪いことを悪いことだと思い込みやすいです。そして、無神論者なら、無だと心から信じ込んでいるので、絶望が心の奥を支配しています。

 

ですが、現実は違います。無ではありません。無ではまったく説明できない世界が万物で証明され、存在し続けているからです。

 

わたしたちが、悪いと思えるようなところを沢山かいくぐって、世界は、神様に守れ、続いているのです。

 

1秒たりとも、あなたを守らないことはありません。あなたが、次の瞬間死んでも、あなたが存在したという奇跡を与えた事実は変わらないのです。

 

 

世界をこれほどまでに、素晴らしい法則で、造られた神様は、言いました。

3、神様が殺してはならないと教えた

人間がどう考え、どう思うのかなんて、小さな話ではありません。

 

人間が、どう想おうが、それはすでに、神様があなたの生命を守られているから、想うことができるのです。

 

 

1次的な事実を無視して、2次的な事実をいらく語っても、意味はないのです。

 

 

わたしやあなたが、どう想おうと、それでも地球は回っています。

 

 

その地球がなぜか絶妙に回っているから、わたしたちは、文句もいえれば、死ぬことを恐怖することさえ出来るのです。

 

 

死んだ人や存在しないひとは、恐怖することもできないからです。

 

人間がどれだけ、「自分たちは無だ!」と言っても、現実は、無ではありません。

 

 

あなたは存在しているのです。

 

信じられないほどの奇跡の積み重ねによって、わたしたちは、今存在しているのです。

 

 

そこに、わたしやあなたの考えは、関係ありません。

 

 

わたしやあなたの考えは、二次的なものでしかないからです。

 

 

生きているという一次的なことがなければ、どう考えるという二次的なことは出来ないのです。

 

 

一次的な、膨大な奇跡を無視して、多くの人間は、自分の考えが一番だと信じ込みます。ご都合主義の思想に入り込むのです。

 

 

自分がどう考えるかが、大切だと思い込むのです。

 

 

その考えの中に、これら膨大な奇跡を無視した、悪魔のような思想の持主も生まれます。

 

それが、「人を殺してもいい」という思想の人間です。

 

 

現実を無視し、否定し、破壊し、壊し、嘘や捏造、悪という破壊を生み出していくのです。

 

 

神様は、ご自分の姿に似せて、人間を造られました。なので、人間だけが、知能が高く、それ以外の動物は、人間の支配の下に存在し続けているのです。

 

 

この世界は、神様の子である人間のために用意されたかのように、世界は人間の都合のいいように創られすぎています。

 

そして、人間を信じられないほどの「言葉・情報・法則」によって、造られ、その人間に、神様は、言葉を与えられました。

 

 

人間は、はじめからすべてを理解している意思のある全知全能の神様から、偉大な言葉をもらったのです。

 

 

これは、聖書だけの言い伝えではありません。世界中の宗教が、同じ内容を伝えてきました。

 

 

神が人間にあらゆる情報、言葉を与えたという教えです。

 

 

はじめの人間、アダムが、神様から言葉を授かったので、そこから、人間は、多種多様な言葉を使える言語中枢の基礎を育てることに成功したのです。

 

 

その言葉を脳に入れられたアダムが、こどもたちに、言葉をまた教えていったのです。

 

 

人間が生きていく上で、必要なすべてを必要なだけ、与え、さらに素晴らしい言葉を与えられたのです。

 

人間は、このすべてを与えられた神様に、変わらず一緒に平和に生きるのか、それとも、その神様に逆らって、現実を無視して、世界を破壊し続けるのかの大きな枠の2択があるのです。

 

神様なしには、人間には、意味などなくなります。

 

ですから、どれだけ「なぜ人を殺してはいけないのか?」と考えても、答えなど出てきません。

 

 

人には、善悪を理解した時から、愛もなければ、正義もないのです。

 

本当の愛とは何か>>

 

神様なしでは、すべてがむなしくなるだけです。どれだけテレビをつけても、人間がいなければ、テレビはむなしいように、神様なしでは、人間には、意味がなくなるのです。ただの物質になってしまうのです。

 

すべての生きる意味をもった神様が、「人を殺してはならない」と人間に教えられました。

 

人の考えという小さなことではなく、世界そのものの意味と人間の存在の意味をもった神様が、人を殺してはいけないと命令されたので、人は、人を殺してはいけないのです。人の存在すべて、全身全霊をもって人は殺してはいけないのです。

 

人間がどう考えようが、関係ありません。事実は事実だからです。

 

そして、人を殺してもいいと考えたカナン人などの悪魔宗教と、人間は戦い続けてきました。

 

そのおかげで、人を殺すこと=悪だと認識できているのです。

 

4、いつから人を殺してはいけない常識が固定されたのか

人を殺してはいけないという神様の教えを信じたひとたちによって、人を殺してもいいという勢力は、滅ぼされ、それらは悪魔宗教として、闇へと落とされました。

 

ですが、長い間、その両者は、対立しながらも、そのどちらも容認するようなハイブリットのような思想が、長らく世界を支配し続けました。

 

 

というのも、土地の領主や支配者層が、人間の価値を決定していたからです。

 

 

それまでは、人は、領主や王族・貴族の所有物でしかなかったのです。

 

 

日本でも似たようなものでした。理不尽な支配者層の決定によって、多くの誠実な人々が殺されていきました。

 

 

そのようなハイブリットの思想の支配者層に、打撃を与えたのは、フランス革命でした。

 

 

このフランス革命は、ほとんど裏で悪魔宗教が手を引いていました。ですが、それらの思想は、プロテスタントによって支配者層たちに疑問、抗議を訴え続けてきたことからはじまるのです。

 

それらを悪魔宗教が利用したのです。

 

フランス革命が広まり、支配者層を縛る「憲法」を人は手に入れたのです。

 

人は、王であろうと神様の法を破れば、裁かれるという、権力者に対して発動できる憲法を聖書から手にれることができたのです。

 

 

日本でも、聖書の価値観が広がり、明治維新が興され、憲法を手に入れることができるようになりました。

 

 

日本は、聖書の教えから生まれた様々な文化を大量に受け入れて、今では、聖書の文化で生きていない日本人など、ほとんどいません。

 

その聖書には、「人を殺してはいけない」という教えがあり、それらが世界中の標準となったので、現代人は、人を殺す=悪だと自然と認識しているのです。

 

 

その基礎を知らないので、なぜ人を殺してはいけないのかを明確に、示すことができず、ただ信じているだけで、人を殺してもいいという正義を持った、現代でいう犯罪者たちを毛嫌いしているだけなのです。

 

もし、神を信じないで、犯罪者をただの偏見だけで、嫌っているのなら、その犯罪者と同じレベルでしかありません。

 

犯罪者の趣味趣向と、その人の趣味趣向の言い合いをしているだけだからです。

 

 

人が、どれだけ言い合いをしても、言い合いが出来ているということは、存在しているから出来るのです。存在している事実を守り続けられている神様が、殺してはならないと教えたので、犯罪者を明確に否定できるようになるのです。

 

神様を信じていない人は、犯罪者を否定することなど出来ないのです。

 

憲法がどこから生まれたのかも知らずに、人を殺してはいけないという環境の中で育ったので、ただ殺すことを否定しているだけになってしまうのです。

 

人がどう考えるという小さな話ではないのです。存在している事実を明らかにして、否定しているのです。

 

 

この聖書の常識が世界中に広がる前までは、カニバリズムという人が人を食べる文化が大量に広がっていました。

カナンニズムである、カニバリズムは、動物を食べるように、人間を食べ、家族であっても食べていた民族もありました。

 

白人は、肌の色や目の色だけで、彼らを人間だとみなかったのではないのです。同じ人間だとはみたくなかったのですね。

 

中国でも、朝鮮でも、インドやアフリカ、アメリカ大陸、オーストラリア、どこにいっても、カニバリズムが行われ、多くのこどもたちが、神という名の悪魔などに捧げられ、それらが正義となっていたのです。

 

人を殺すことが正義であり、焼き肉店で肉を食べるように、純粋に人間を食べていたのは、ほんの200年ほど前のことだったのです。

 

 

日本は、本物のユダヤ人の民族だったので、日本諸島に大陸から入ってきてから、日本列島に住んでいたカニバリズムをしていた原住民たちを奴隷にすることもなく、すべて滅ぼしたのです。白人は、奴隷にして生かしましたが、日本人は滅ぼしたのです。生口というものはあっても、奴隷にさえしなかったのです。

 

ですが、そのおかげで、人間が正義を決定するのではなく、神道の神様、聖書の神様の教えによって愛や正義が固定され、平和が長く続いたのです。

 

日本は、カニバリズムの文化は、驚くほどありません。それは、カニバリズムをしてきた民族と戦い続けてきたイスラエル人だからです。

 

本物のユダヤ人とは、日本人>>

 

日本の歴史がなぜか2000年前からすっぽり抜けてしまっているのもそのためです。

 

聖書の預言がことごとく当たるので、聖書の預言を恐れて、自分たちがイスラエル人であることを隠しはじめたのです。

 

 

このように、人を基準にすれば、愛や正義など存在せず、虚構にしかすぎなくなるのです。人を殺してはいけない理由さえも、明言することも出来なくなってしまうのです。

 

人は、その存在すべてで、人を殺してはいけないのですね。

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